2009.11.08

8-206 老人神学を考える 1


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回書いた小田垣雅也氏は祖父ネットより十歳ぐらい年上の人で、なかなかユーモアのあるトボケた老人である、と書いた。祖父ネットの再開を祝して友人からもメールが入ったが、ここのところ神と天主問題に熱くなっていたので安心した、と書いてあった。神天主問題は本質的には中国の問題である。中国語の聖書は、神版と天主版の二つが現実の市場で売られており、そこから問題は熱くなる。この熱さは当面さめることはない。

なぜならいわば西洋思想の「かみ」のようなものを、東洋語の「かみ」に訳せるものなのであるかどうか、だれも分からないのが現状である。逆に東洋思想が西洋用語で訳せるとも思えない。この辺りの微妙な問題は、多少語学が分かってくると起きる必然である。それ故に中国語聖書こそ、実に正直な表現を採用しているということである。二種類の聖書、それはまさに一国二制度に通じている神業である。ただ、ここでは今のところ一休み。いや、これ以上は深く考察が出来ないであろう。浅学のなせる業である。

ところで、小田垣雅也氏のことである。

彼の本がこれほど私の脳裏を直撃したには、もちろん理由がある。祖父ネットはたびたび書いているように明治学院の出身である。戦後の日本は、連合占領軍の主力アメリカの統治下にあった。そのなかでキリスト教は息を吹き返した。日中戦争から太平洋戦争で終わる昭和の戦争期間、その全行程でキリスト教はひどい目に遭っている。それがミッションスクールの経営にも深く影響している、ということは当然のことである。簡単に言えば戦後、ミッションスクールである明治学院も、その長い逼塞期間を抜け出たのである。

当然クリスチャンは張り切ったであろう。それが教育現場で実行された。その期間に、見事なキリスト教教育を受けたのが祖父ネットである。何せ10年間も教育を受けたのであり、時期が時期であるから、キリスト教界がただならない理想に燃えた時、といっていいのではないか。現に中学生の頃は、そのプロジェクトに「理想教育」と言う名前が付けられていた。明治学院の10年間以外にも、前後で深くキリスト教に関わっている。

そのプロセスを少し説明しよう。まず中学校の時の教科書にブルナーの「我らの信仰」があり、高校のときには「カルヴァンの人間論」に触れた。それを読んでは線を引っ張って、やたら考えたが、もちろんよくは分からない。大学は社会学科だから思想系の本をよく読んだ。中国語をやり始めたのもその頃である。そんな自分の読書傾向をまとめて見ると、結局素人の読書である。が、その一式をきっちりとまとめて説明してくれたのが、小田垣雅也氏の本ということである。

ほぼ一ヶ月、なるほどなるほどこれだったのか、と思いながら読んで充実した時間を過ごしていた。

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2009.11.07

8-205 キリスト教の神は天主と直すべし その62


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

きっちり一ヶ月、「現代のキリスト教」小田垣雅也著(講談社学術文庫)を早朝に(11/7)読み終わった。祖父ネットがあまりにも書かれないので、ある友人が祖父ネットに異変があったのではないかと心配してくれた。いかにも、人間には異変がつきものであるが。

その異変と言えば、アメリカ本国の軍事基地で異変があったことはすでにご承知であろう。あれはアメリカ自身の身内の異変であり、人間内部の崩壊現象であろう。容疑者は精神科医、アメリカ人ではあるがヨルダン系の米人だという。バージニア州で生まれた人でニダル・マリク・ハサンという人、いわゆるアメリカ的な名前でない名前を聞くと、何とも複雑でつらい気持ちになる。

人間にとって問題というのは二つある。一つは自分に取っての外部問題、もう一つは内部問題である。どちらも問題が生じる「場」である。この内外の問題をキリスト教の神学で捉え、その調整を計ろうとするのがキリスト教の歴史であるとも言える。ところで小田垣雅也氏の本を読み終わって、ここでタイトルに長く使った「神」「天主」問題は、どちらでもよいという気持ちになった。確かに小田垣氏を読みながら神の方がいい場合も少なくない。それでも天主の方がキリスト教的には分かりやすいという場面も多くあったが、結局はどちらでもよいと思うようになった。

そこで次回からは「神天主問題」から離れようと思っている。

それにしても、小田垣氏の本は面白かった。自分のように忙しく会社を経営していたものは、そうそうキリスト教神学の流れを理解する時間は与えられていない。それでも内村鑑三の本を読み続け、それで経営実務を乗り切ったので、キリスト教的にはかなりの知識は持っていたつもりである。実は内村鑑三は神学が嫌いである。彼はどちらかと言うと実務的で実際的な信仰者であって、その点が内村の魅力なのである。例えば彼には「成功の秘訣」なる文章があり、それで成功しているのが軽井沢の星野温泉である。そこには内村鑑三記念館もあり、今も健在である。内村の実務的な信仰が生きたものになっている。そこで内村信仰が無教会であるのは、彼の信仰を成り立たせる為に、結局教会的西洋的伝統から独立している必要があった。日本には日本の事情があるのは当然で、日本社会のキリスト教活動家にとって、西洋伝統は邪魔な時代であった。当時のキリスト者には国家の運命を背負っているという使命感が強かったのである。

しかし今さら言うまでもないことであるが、時代は完全にグローバルになった。そこに現れたのが地球規模の人間である。これが今の問題であり、内村以後すなはち明治大正昭和初期時代を越えている今のキリスト教の流れを、小田垣雅也氏は「現代のキリスト教」として解説したのである。

だから実に面白い。祖父ネットよりほぼ十歳ぐらい上の人で、なかなかユーモアのあるトボケた老人である。ただ残念ながら本は絶版であるし、たぶん普通の人では歯が立たないであろう。かなりのキリスト教プロである祖父ネットでも、読み抜くのに一ヶ月を要した。

まずこの辺りから祖父ネットを再開したい。祖父ネットにもいくらかのファンはいるものであると確認でき、うれしくなった時でもあった。

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2009.10.06

8-204 キリスト教の神は天主と直すべし その61

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

みずき教会という教会がブログにある。
http://homepage3.nifty.com/mizukichurch/
主催者は小田垣雅也さんという人で、わたしが今読んでいる本としては「現代のキリスト教」がある。講談社学術文庫1254から出ている。祖父ネットの推薦教会としては聖公会がよいが、小田垣さんのブログ教会もなかなか面白い。

特にご紹介したい。

(祖父ネットはこの本を読みつつあり、読み終わるまで書きませんのでお知らせいたします。flag


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2009.10.05

8-203 キリスト教の神は天主と直すべし その60


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回はアメリカを個人利己主義的資本主義、中国を集団主義的利己主義的社会主義と定義して書いた。今から後、この二者に闘争が起こるとハーバート大のファーガソンさんは言う。しかし、この近代の個人主義を生み出したキリスト教は、利己主義を糾弾する過激派も生じさせる。キリスト教的教条主義は潔癖集団となって、利己主義を徹底的に攻撃することになる。

社会主義が左側に高じると、集団的禁欲主義が徹底される。が、キリスト教でも同じ社会現象が起こる。宗教改革はロマンチックな福音主義だとばかり思っていたら、大間違い。多くの過激派を生み出した。そのヒステリックな集団行動は、正統プロテスタントやカトリックから粛正されて、歴史の闇に消えたと言う。

しかし、まったく記録がない訳でもない。その一つが「千年王国の惨劇/ミュンスター再洗礼派王国目撃録」という本になっている。2002年平凡社から出版された。記録したのはハインリヒ・グレッシュベックというひとで、1535年の実録である。宗教改革が1517年であるから、その派生的事件である。ミュンスター城内に立てこもり、千年王国を実現するとしたキリスト教プロテスタントの異端である。前回書いた「宗教改革急進派」と同種の本である。

この悲惨きわまりない事件は、従来のプロテスタント福音主義のイメージを傷つける。プロテスタント教会で現在でもたびたび起こる、教会「独善牧師」の暴走食い止策など事実上はない。キリスト教の中でも組織派である正教、カトリック、聖公会と、無組織派とでもいうプロテスタントでは、キリスト教のあり方そのものが多いに違っている。そのプロテスタントの牙城がアメリカである。そのアメリカの衰退が今世紀の大問題という訳である。

明治維新以来、主にアメリカプロテスタントによって開かれた日本は、今後どのように進むのであるか。多いに注目したい。聖書の中の、神か天主かのどちらが正確な訳か、と言った問題から得るものは実に多い。

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2009.10.04

8-202 キリスト教の神は天主と直すべし その59

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回は、プロテスタントであるスイスの神学者ブルンナーさんから、中国を書いてみたいで終わった。参考図書は「キリスト教と文明」である。さらに「宗教改革急進派/ラディカル・リフォメーションの思想と行動」を使いたい。後者の本は倉塚 平氏を中心に、5人による編訳本である。前者はブルンナーさんが書いたものを、熊沢義宣氏が訳したもので、2001年「書物復権」という願いの下、岩波、紀伊国屋、勁草、東大、白水、みすず、法政、未来各出版社の肝いりで出版された。

後者は1972年、ヨルダン社から出版された古書。中に真っ赤なボールペンで、うるさい線が引かれているところを見ると、どこかの過激分子が読んだ後らしき気分が見える。何せ揺れた70年代の本である。と、こんなことを言っているうちに、たちまち二つのことが追加された。一つは、内山書店から中国の小学校一年生の教科書の入荷。二つ目は今朝(10/3)の日経新聞9面。見出しは「世界を語る・歴史から読み解く現在/帝国の衰退、波乱の芽」である。帝国とはアメリカ経済帝国(世界経済基軸)のこと、波乱の目とは、将来および現在の中国経済の大国化である。

書いた人は、ハーバート大学教授ニーアル・ファーガソン氏。1964年生まれと言う。祖父ネットが明治学院大学で中国語の勉強を始めたのが1960年、その4年後に生まれた人、感無量だ。わたしには中国経済が、現在の姿になるという、漠然とした予感がその頃すでにあった。時が過ぎ、もはや夢物語ではない。中国の問題は世界や日本を揺るがしかねない、現実の問題となった。

ブルナーさんといっても、すでに古い。20世紀彼のような心ある人は、戦争を通じヨーロッパの衰退を心配している。所詮人間のやること、人は常に前途に向かって心配ばかりしているが。その心配も今や地球規模の凄まじいことになっている。ただ、ブルンナーさんのような、あのころの真面目な神学者は、資本主義(個人的利己主義)と共産主義(集団的利己主義)の対決を心配をしている。キリスト教徒といっても、人間だから所詮すべて個人主義者である。ただその利己主義の抑制手段として有効であったものが、少し揺れ始めたと心配している。集団的利己主義の方が、有効ではないかという心配である。その成功者が今では中国という訳である。

人間の利己主義は生存の原理である。人間存在とともに古い。ただ、その抑制手段が変遷するのであるが、それは思想史的に宗教的史的に説明が可能だ。今の時代は、その個人利己心が最大の発達をした時代、という風に表現すればいいだろう。これは近代の理想とされたものである。そしていよいよ、すべては達成されたのであるが、はたと振り返ると畑(地球)の限界が視野に入り始めた。アメリカは個人利己主義の最大実現国である。一方中国は集団的利己主義を達成しようとしているという。その命題がハーバート大学ファーガソンさんの言わんとしたこと。二つの大利己主義は10年後に激突する、という恐ろしいご託宣。個人利己主義の国アメリカの衰退を原因として。

祖父ネットは、利己主義抑制をキリスト教で説明しようとしている。避けることの出来ない解決不能の利己主義を、どのようしたらよいのか。難しいことを考えているのである、老人らしく。このテーマを続けてみたい。

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2009.10.02

8-201 キリスト教の神は天主と直すべし その58


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

「ローマ字問題と中国」を書きながら、マルクスが蘇った。建国60周年記念、中国共産党の建国思想は、今や成功したと言うべきかもしれない。主体と客体、これがキーワードである。真理ということからいえば、それは客体たるものの中にこそあり、主体がいくら主張したところで、真理の実証は不可能であるという。それがマルクス主義の神髄である。

中国革命がこのように成功し、華やかなパレードを見ていると不思議な気持ちにさせられる。近代とは確かに、主体から客体への移行脱却である。あるいは客体の発見、といってもよいかもしれない。主体でしかない古代社会から、客体を引き出した人々を研究することは、楽しいことである。それは困難な哲学的営為であろう。昨日(10月2日TV)の華やかな中国を見ていると、マルクスがほほ笑んでいるように見える。これは唯物論の勝利なのであるか。マルクスは客観的真理の福音主義者なのであるか。

あの主体の国アメリカ、主体国家アメリカ、それが様々な失敗を経て疲弊し、もはや中国にすりよっている。客体の成功を見、主体(キリスト教福音主義)が敗北宣言をしたのだろうか。主体は唯物論を嫌った。すべての真理はわたしそのものである、という主張を代表したアメリカ。わたしの欲望、わたしの創意、わたしの努力、わたしの妻、わたしの夫、わたしの子供、わたしの国、わたしの学歴、わたしの作品、わたし、わたし。これらの主体主義は、21世紀を迎え本当に古くなってしまったのだろうか。

中国にわたしはないのであるか。客体としての政治組織、国家理念、経済目標、趣味や嗜好、歴史と宗教。これら錯綜する流れの中で、わたしの一票は無意味な一票なのであるか。明らかに歴史は、大きくその流れを変え始めている。

次回からはそれを、プロテスタントであるスイスの神学者、ブルンナーから書いてみたい。

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2009.09.30

8-200 キリスト教の神は天主と直すべし その57

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

「ローマ字問題と中国」を書いた。その中で梅棹忠男氏を書き、氏が「日本は世界の大勢からとりのこされていきます。」と予言したことを紹介した。怖い話である。日本は戦後、世界の経済大国に成長しそれを享受した。その時代を生きた祖父ネットには、今の後退する日本の状況が空恐ろしく感じる。

先日、フトしたことで思いついたことがある。何のこともない「.com」についてである。この「ドットコム」はたいへんなくせものである。ラテン文字がこの方式になじむことに、いまさらながら驚愕している。世界言語として、漢字はドットコムに明らかに負けている。

漢字はどうしても転換がいる。ラテン文字は転換が無用だ。この一気性をwatashi wa 推薦している。このワープロでローマ字を少し書いてみよう。naka naka omottakoto o yuuno wa mutsukashii mono de aru.shikashi soremo nare te kuruto zousamo nai. この打っていて心地よい一気打の気分を、是非味わってもらいたいものだ。昔の作家たちが原稿用紙に書いて行く気分である。もちろん、ワープロも昔に比べれば、格段に良くなっていることは認める。しかし、どうしても転換には「もどり」がつきものである。

どれほどせいかくにやっても、いっしゅんのここちよさはにはとおい。ローマ字でせっかく打ち込みながら、転換キーを押し、ときにとんでもない言葉が出るときの気分の悪さこそ、耐えねばならない今の日本語ワープロ環境である。これを日本民族は延々と続けるのであるか。あたまがおかしくならないか。健康な文章環境と言えるのだろうか。これを日本人は、一体いつまで続けるのであるか。sono ten rohmaji ni wa, modori mo tenkan mo nai. sura sura to atakamo hanasu ga gotoku, kaite shimau.

この生理的心地よさが、素晴らしいのである。もちろん妙な「tenkan」などnaiからである。

osu hiku mawasu migi hidari ue shita など。どうして家電などの操作ボタンの表示にtsukawa nai noka, watashi ni wa sappri わからない。デザインとしても美しいし、世界にtsuuyousuru、のに。

何年か前スイスに旅行した。個人旅行で、面白いことがippai atta.その一つにホテルのメニューがある。「よくいらっしゃいました。ここは世界有数のリゾート地で、美しい山に囲まれ、お客様にきっとご満足いただけると思います。」などとkaitearu. kono kotoba wa 数カ国後で書かれている。英語、スランス語などである。その中に立派な漢字かなまじり日本語で、先ほどのようにかかれていた。私はその頃からすでにローマ字論者であったから、これをローマ字で書いてくれれば、メニュー全体のデザインは統一され、きっとima ijyouni 、menyuu は utsukushiku naruと確信した。そのように書かれてこそ、日本語も国際語となる。漢字で書かれていると、いつまでたってもアジアの代表は中国になってしまう。図らずも日本は、世界に中国を宣伝しているという訳である。

中国のブランドはラテン系の人にとって、アジアと一体であり、日本の優れたブランド感覚が安い中国商品をバックアップしている。しかし、どう見ても中国商品と日本商品は異質であり、まったく違う nippon dokutoku のものと言わねばならない。それを強力に主張する時代に入ったと言うべきであろう。それにはローマ字化がsaizen de aru.英語表現はすでに古い。

日本はアジアの技術文明先行国家として、恥ずかしくない先鞭を付けた。その日本製品が世界で認知されたからこそ、今のアジアは世界で栄えることが出来る。これが日本とアジアの富の源泉である。それを得るために、明治期すべて英語と言う表現方法を使ったのは日本の英知である。しかし、それは今や西洋に埋没し、日本の独自性を失わしめることにもなった。それを打破するために、ローマ字日本語を使って、その高度で独自のブランド性を世界に訴えるのである。

せっかく養った日本の高度技術力は、漢字イメージのために「中国化」し、安物化して埋没、かつ英語のために西洋に埋没した。韓国製品と中国製品と日本製品とでは、同じterebi demmo 内容は格段に違う。それは見た目には分からない。これを訴えるのがブランドである。極端な価格競争だけが全面に出ている以上、このように差別化するしか方法がない。

銀座を席巻している西洋型ブランドショップを見れば、akirakaではないか。

結局、日本の商品が世界商品たる資格を持った今でも、日本商品は日本語を無視し続け、英語先行イメージで突き進む。始めは英語であったが今こそ日本語で、という戦術転換が必要である。ローマ字ブランドで成功した会社がある。いうまでもないが「TOYOTA」である。それでも車の室内は、osu hiku mawasu migi hidari ue shita oriru 、などと実行していない。そうしてこそ、巨額の赤字の幾分かは減少したことであろう。それでこそ本当の日本商品になり、日本のkoudo 技術力が世界ブランドとしてiji diki る。

スイス旅行の、あの頃の華やかに輝いた日本人旅行者の、omoide de aru.

下記のイメージは、あるドットコムから拾いだした。
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2009.09.21

8-199 キリスト教の神は天主と直すべし その56


主なる神(天主)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

「ローマ字問題と中国」を4回書いた。

現代中国ではローマ字教育が徹底していて、はるかに日本をしのいでいる、と書いた。それは現在の中国経済の躍進の真の原因である、などとも書いた。

その教科書の実物を、写真でご紹介しよう。下の写真は下記の順です。
① 小学一年生用副教科書の表紙
② ①の15頁、漢字にローマ字が振ってある。
③ 小学生用国語辞典
④ ③の最初の頁は「阿」A から始まる。アルファベット引き。
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8-198 キリスト教の神は天主と直すべし その55


主なる神(天主)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

ローマ字問題と中国(その四)

鐘ケ江信光編書/大学書林刊/昭和35年(1960年)4月1日第一刷/「中国語辞典」「はしがき」から、新中国語の秘密を書いている。

前回の最後に、実はまったく気がつかなかったのである、と書いた。ただ勉強不足であったにすぎないが、今回肖さんの言葉から一気に解明した。内山書店で買った本は二冊、「xiaoxuesheng zuci cidan 」と 「課外語分/小学一年級/修訂版」である。中国語を勉強していない日本人なら、始めのローマ字ラテン語表記中国語は分からない。しかし、二冊目の漢字の表題は、それが小学校一年生用課外教科書であることがわかるであろう。ただ中国語をローマ字で少し勉強をすれば、どちらもぞうさもない。中国語は外国人にも学びやすい言葉に変身している。

このことに、中国革命時の理想が生きていたのである。新中国が生まれて以来掲げられた、言語ラテン化理想は、半分実現し半分まだ実現していない。しかし、梅棹忠男氏が「日本語の将来/ローマ字表記で国際化を」NihonHousouKyoukai 刊(NHK) 2004年 の中で書いたことが(177頁)、雷鳴のように殷々と伝わって来る。「日本は1000年来の伝統をまもって、いまだに漢字にしがみついている。ローマ字化した中国語と漢字化した日本語と競争したら、勝負は明らかです。中国語は世界語、国際語になります。日本語は、漢字ゆえにひじょうなローカルな言語として世界の大勢からとりのこされていきます。」

梅棹忠男先生はもちろん知っていたのである、中国語はもはやローマ字化寸前であることを。先生は別な箇所でも書いている(176頁)。「今日、中国語がローマ字化したということはいえません。しかし、底流としてローマ字化の願望は中国のなかに流れております。わたしは、場合によったら日本よりもさきに中国の方がローマ字化するかもしれないとみております。」わたしは肖さんにその実体を見たのである。

その実証が、先述の「xiaoxuesheng zuci cidan」という表記である。このローマ字化されている表題には、すでに中国語では知られている四声表記すらない。もちろん大見出しは「小学生組詞詞典」である。要するに日本語にすれば、「小学生用国語辞典」である。この辞典の特徴で恐ろしいのは、うかつにも気がつかなかったが、「ローマ字引き」であることである。実は大人のいわば「国語辞典」も子供用の「国語辞典」も、中国の国語辞典はすべてローマ字引きである、ということである。それは日本人が使う今の中国語辞典もまったくおなじ引きかたであって、なんらかわるところがない、ということである。つまり中国語は日本語と中国語の間で、「すでに」「革命時から」国際化していたという事実である。1960年あの時の鐘ケ江信光先生の辞書も、今に通用する辞書であるということの実体である。

というのは、小学一年生用の副読本であるが、この本はまったく、ルビがローマ字であるという事実である。幼児本においてすら、幼児が自分で読む本のルビはローマ字表記、親が読み聞かせる幼児本は、ローマ字無表記である。つまり、よちよち歩きの赤ちゃんから幼稚園になったとたん、中国人はすでにローマ字化しているのである。中国がこんなにも早く世界経済に躍り出たのは、ここがポイントであった。

現代中国の飛躍は、すでに革命初期、文字ラテン化運動によって着々と準備されていた、と言うべきであろう。それに比べ日本は旧態依然、アジアにおける先行国家の地位にねそべって遅れを取り中途半端、現在のていたらくになった。その主な原因がここにあるのである。それを最近まで、まったく知らなかった自分たちのバカさ加減、「油断」という日本人の実体であった。と、いうことをおもいしらされた。すでに遅いのかもしれない。と、老人は責任を感じて書いた。

ただ幸いに、今回の選挙で民主党が勝利したのをきっかけに、新文部大臣に建白書を送る予定にしている。主なる神(天主)よ、われらが同胞をかえりみたまえ。(おわり)

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2009.09.19

8-197 キリスト教の神は天主と直すべし その54


主なる神(天主)よ、我らが同胞を顧みたまえ。

ローマ字問題と中国(その三)

鐘ケ江信光編書/大学書林刊/昭和35年(1960年)4月1日第一刷/「中国語辞典」「はしがき」は次のような書き出しである。

私(鐘ケ江信光)が、大学書林社長/佐藤義人氏から中国語辞典編纂の依頼を受けたのは、敗戦間もない昭和22年春である。世を上げて英語万能の時代になったにもかかわらず、氏は中国語辞典に着目された。そこで菲才を顧みず勇を鼓し、この難しい仕事を引き受けた。新しい時代であり、中国語学会の要望でもあったので、ほぼ十二年かかり、ここに出版できた。実に感慨深い。この12年は、中国語の歴史に一時代を画した時代でもある。大きな変化があった。中国史でも、未だかつて見られなかった大革命の完成である。私がこの仕事を始めた当初、まだ決定的な変化はない。それでも、今までの辞書の不備を補い、新しい試みを加えて仕事に取りかかった。その後、中国革命の新しい事実に直面し、遂にそれまでの原稿を破棄した。そこで企画と構想を練り直し、新たに稿を起こして完成したのである。

新しい事実の一つ目は、かつての文学書には見られなかった単語の輩出である。二つ目はローマ字による発音表記法の決定である。第三に漢字の簡略表記である。

鐘ケ江信光先生の要約は以上にするが、専門家が書いているので、こんなに簡単ではない。が、要点はこれに尽きる。もちろん、当時学生であった私たちが、このことを深く知っていた訳ではない。高校では、もちろん漢文を勉強していた。余談になるが、この高校時代の先生は、後で中国文学の世界で重鎮となる伊藤虎丸先生である。明治学院高校の教師を辞した後、多くの大学から招聘され後、東京女子大の教授となられた。とはいえ、高校生のときから、このような複雑な中国語環境を語られた訳ではない。あくまでも高校生には、「しいわく」である。

話を前に進めるために、辞書のことはこれぐらいにしたい。ともかくこの記念すべき「中国語辞書」によって、当時中国語に触れた学生は多い。この辞書で勉強し、今まで大いに中国語で活躍した人がいて、今の中国関係が構築されたことに間違いがないであろう。

ところが、これからが肖さんとの話に戻る。中国の言語的理想は、ローマ字化では後退したと思っていた。今でも漢字一辺倒である。実はローマ字化の最終段階は、漢字ローマ字表記の国字化である。それは実現していない。漢字を排するのではない。すべての言葉を表音表記であるローマ字にしようと言う、遠大なものであった。これは日本において、明治時代初期にすでに現れた理想であるが、未だ実現していないことは言うまでもない。中国おける漢字の弊害は、日本の比ではないことも言うまでもない。が、不思議なことに現在の中国を見ていると、漢字がその急激な経済発展の障害になっているという印象は薄い。

実はここに多いに秘密があった。まったく気がつかなかったのである。(続く)

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2009.09.17

8-196 キリスト教の神は天主と直すべし その53


主なる神(天主)よ、我らが同胞を顧みたまえ。

ローマ字問題と中国(そのニ)

前回は、「それを肖さんの一言から、ハッとするほどのスピードで察知した。」で終わった。その続きである。あまりにもショックだったので、翌日、急いで神田まで行った。中国専門書店内山書店を目指した。「ある」ものを買うのが目的である。それが「ある」ことは分かっている。この問題はかなり前からこだわっていて、店に入ればそれが右側の棚にある、ことも分かっていた。

目的物とは、中国の「小学校低学年の教科書」である。ところが、期待の一年生用がない。今取り寄せていると言う。

1960年、有縁ネットと祖父ネットは、明治学院大学に入学した。二人とも明治学院高校で一緒であったが、おたがいの顔は知らなかった。彼は経済学部で中国語を第一外国語とし、私は文学部でそれを第二外国語としていた。部活動は中国語研究会。部長がリムーランさん、スゲー中国服の似合う美人で、二人とも彼女に勧誘された。スパッと太ももまで開いたスリットに、目を廻しての入部である。こんな話をするは、今後の話が堅くなるからである。その前に、話を少し柔らかくしたかった。ショックを和らげるためでもある。いよいよ本格的な中国語の勉強も始まり、奨められて初めて「中国語辞典」を買った。

鐘ケ江信光編書 大学書林刊 昭和35年(1960年)4月1日第一刷発行 の「中国語辞典」である。当時買ったものはすでに壊れてしまってない。今手元にある辞書は新品で、二三年前わざわざ買った。発行から50年近くも経過しながらも、大学書林さんの倉庫に残っていた。その辞書は1960年に出版された記念すべき辞書であったが、当時その事情は知らなかった。鐘ケ江さんが「はしがき」を書いたのが3月1日、発行がその一ヶ月後である。それがまさに新学期と重なっている。

このわざわざ買って手元に置いたことには、深い理由がある。鐘ケ江先生が辞書冒頭に書いた「はしがき」では、中国が中国語のローマ字化という理想に燃えた時であった、と書いてある。中国革命の神髄を、私たちは自分で使う辞書で経験したのである。文盲をなくし、中国のすべての国民が、文字を簡単に学べるようにするという革命思想である。

次回はその要約を書いてみたい。(続く)

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2009.09.15

8-195 キリスト教の神は天主と直すべし その52

主なる神(天主)よ、我らが同胞を顧みたまえ。

ローマ字問題と中国(その一)

今日の冒頭の祈りは、いかにも大げさに聞こえるかもしれない。明治の思想家内村鑑三が言うのなら、読者も納得するかもしれないが、一介のどこの馬の骨とも知れない老人が、なにを大げさなという声が聞こえる。しかし、これは大げさではない。

先日、ある若い中国の方と食事をする機会を得た。肖という人で、秀才である。もう一人の古くからの友人と一緒に、湖南料理を食べに行ったのである。最近、新宿歌舞伎町など行ったこともない。まして夜の新宿など、とんとご無沙汰の老人である。肖さんの前で、自分のことを老人と言うと、彼はそれを止めてくれる。祖父ネットは老人ではありません、などと励ましてくれるのであるが、彼は25歳、私は67歳である。どうひいき目に見ても、老人ではないというわけにはいかない。まして彼はこのブログのことは承知で、流暢で美しい日本語を話す祖父ネットの読者でもある。

彼自身も湖南省の人で、劉少奇さんの生家は近いという。言うまでもないが、毛沢東氏は湖南省最大の英傑である。まさに湖南省こそ、歴史に名を残す人を多く輩出する省でもある。ひょっとすると彼も、歴史に関わる傑物であるやも知れず、私の知り合いのIT企業で生き生きと成果を上げている。その彼と、何度も話し合っている漢日ローマ字問題が話題になった。すでに5、6時間、時を忘れて話しているとき、フト彼が漏らしたことが祖父ネットのショックとなった。中国のローマ字国字問題である。

ローマ字問題は、このブログでもたびたび取り上げ、日本の言語事情は国際的に見て大きな問題がある、と警告をしてきた。現在ではすでに絶版の「日本語の将来」梅棹忠夫/編著を再度読み始めていた。というのは、明治学院大学で10月から卒業生勉強会があり、研究対象の冒頭が「ヘボン」であるからである。ヘボンと言えばローマ字で、改めて「日本語の将来」を再読したのである。

読んでいて、本当に深刻になる。梅棹忠夫氏については言うまでもない。ウィキペディアにあるので、ぜひ知ってもらいたい、日本の文化人類学のパイオニア、文化勲章受章者でもある。しかし、何せ先生も老人で、その上勉強のし過ぎで目がご不自由、活躍がスローダウンするのはやむを得ない。その後を引き継げる人を知らないので、ローマ字問題の論客を失う日本の将来が危ぶまれる、と言ったのである。

このテーマはしばらく続けるつもりである。キリスト教で「神」というも、また「天主」と言ったとしても、その元は中国にあることは前にも書いた。中国で訳された聖書を参考に、日本の聖書は訳されて今日に至った。そのお陰で、日本は明治期以後「西洋文明」なるものをアジアで先行できた。あまりうまく行き過ぎたので、アジアで迷惑をかけ、反省して今日に至った。アジアではローマ字問題も日本が先行している。それに比べ、中国のローマ字は、毛沢東革命によって出来た現政権の下で始まる。しかし驚くべきことに、今では日本をはるかにしのぎ、恐るべき成功にいたっている。中国で成功しているのは経済ばかりではない、言語においてももはや中国は、日本を追い越し国際的成功をおさめていたのである。

それを肖さんの一言から、ハッとするほどのスピードで察知した。(続く)

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2009.09.14

8-194 キリスト教の神は天主と直すべし その51


主なる神(天主)よ、今日も我を守りたまえ。

「ヘブライの神/旧約聖書における一神格の肖像」B.ラング 著 加藤久美子 訳 教文館刊を読み終わった。その最後の頁にある言葉である。要約すると次のようになる。旧約聖書は、おおむね紀元前500年ごろ集成された。その事業はヒルキヤという祭司が、国家神ヤハウェの排他的崇拝を目的として、伝統的であった多神教的ヘブライ宗教を抑圧することによって行われた、と説明されている。

ユダヤ教から派生したキリスト教の神は、一神であると言われる。祖父ネットも、このキリスト教の「一神」を探すのに苦労をした。子供のころ長野県から赤坂に移り住み、誘われて渋谷の教会学校に行く。小学校の三年生のときで、赤坂見附から銀座線に乗りトンネルを出ると渋谷、という遊園地的気分が、田舎の子供にとっては印象的であった。田舎とは長野県北部、コスモス街道で有名な佐久市である。以来キリスト教で、学校も明治学院で10年、高校生で洗礼を受けて、今でもこのようにキリスト教漬けである。

一番苦労をしたのは、この「一神」を探すこと。日本の宗教状況で「神」と言えば、神道の神々に決まっている。佐久市の村は権現堂と言った。権現を辞書でみると、仏菩薩が衆生を救うために、日本の神に姿をかえて、この世に現れること、などとある。大阪で生まれたが、産院は聖公会の経営で祖父と母が会の信者、というのは後で知る。ただし、嫁さんは精神とも純粋な日本人、結婚式は先方の希望で神式である。佐久市の権現堂はまったくの米作地域、そこに聖公会の病院などあろう訳もない。つまり生まれて一年目、大阪からいきなり佐久市に移り住んでいた、という訳である。戦争中の話で、もちろん自分のせいではない。

ともあれ、ミッションスクールである明治学院の10年にしても、学生の身にして「一神さがし」は容易な業ではなかった。洗礼は受けたが、明確に一神を認識したからではない。私の人生は一生かかって、一神と出会うことが目的のような人生であった。それを徹底的に明確にしてくれたのが、「ヘブライの神」である。

読み終わりホッとしている。肩の荷が降りた気分、または肩の力が抜けたとでも言うのであろう。宗教というのは、常識的には多神的に出発する。世界中がそうのようになっているようだ。その中でまがりなりにも「一神」となったキリスト教は、いわば宗教の発展形態である、と言い切っていいのだろう。イスラム教なども含め、一神教は世界史に深い影響をあたえた。ところが日本は、言うまでもないがキリスト教なども加わり、いっそう多神教的である。この日本文化の多神教的伝統のもとでは、キリスト教徒は苦労が絶えない。それは「一神」探しの苦労に尽きる。

肩の荷が降りたと言ったのは、一神教の代表のようなユダヤ教にしても、始めは多神教的であったことを知ったことである。かくして、さらなる宗教の旅はまだまだ続く。

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2009.09.05

8-193 キリスト教の神は天主と直すべし その50

天主よ、我らの罪を許したまえ。

宗教と言うものは必ず、どこかで終末をいう。人は死ぬものであるから、死の恐怖から逃れることが出来ない。死には三つある。世の中の終末、他人の死、そして自分の死である。どの死も恐ろしいのであるが、通常経験するのは他人の死である。老人になると自分の死が現実のものになる。ところが、死が身近になると、意外とその恐怖が薄れる。それは頭脳の感覚が、低下して行くからであろう。認知症の最高の到達点は、死の恐怖からの卒業である。

老人が意外に宗教から離れるのは、様々な恐怖から、感覚的に遠ざかるからであろう。「どうせ」という気が働き始めたら、老人の兆候である。幸福な老人とは、いつまでも新鮮に、死の恐怖を持てる人である。ところで、その新鮮な死の恐怖を、聖書から久しぶりに味わった。その恐怖の一節とは、ヨハネの手紙一2章18節「子供たちよ、終わりの時が来ています。」である。簡単な英語であるから、書いてみよう。

My children , the end is near ! である。その後はその理由が続き、さらに so we
know that the end is near.となっている。

専門的な解説書を読まなければ、深いことは分からない。2000年ほども前、多分発祥したばかりのキリスト教を迫害するものが現れたので、このように書かれたのであろう。それにしても、この時代はまだローマ帝国の時代であるのか、どのような時代背景であったのだろうか。が、これは自分なりに今読んでも、迫力がある。宗教はこの迫力によって、人々に迫り、キリスト教も尚今日信者を絶やすことはない。

しかし、この言葉の今日的な価値が下がらないのは、残念である。地球温暖化や核兵器、感染症、食料問題、貧困、犯罪、紛争など、一向に収まることのない恐怖要素は、数えきれない。その中でも地球温暖化は誠に恐ろしい。実際に恐ろしいのは、核兵器の保有なのであろう。が、目に見える形では北極海の氷解が一番。先日、国連事務総長が訪れて、「怖い」と言ったのをTVで聞いたとき、実際怖いと感じた。

キリスト教徒的に言えば、「神(天主)守りたまえ、我らが罪に因りてなるもの、許されたし」と、祈りたくなる。自分は已に老人であり、死が近づいている。この死に対する、新鮮な気持を持ち続けたいが、あまりにも刺激的な今日この頃である。

キリスト教徒の祈りは、時にのんきでいいと言われるが、普通の人は祈らないのであろうか。人類もだいぶボケたのではないか。

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2009.09.04

8-192 キリスト教の神は天主と直すべし その49

天主にこころから感謝し、秋収穫の時の豊穣を祈るばかり。

「ヘブライの神」教文館刊を読み続けている。B.ラング氏が書き、加藤久美子氏が訳するもの。旧約聖書の一神格は、いかにして彫像されていったか、が主題のようである。祖父ネットの、最も興味あること。やはり人類は、神々から神に、そして天主に至ったのである。そこにドグマとは別な、考古学的な照明をあてても、唯一の神が浮かび上がってくる。その見事なプロセスを書いている。

それが今朝、ユダヤ教美術に至った。新鮮な発見である。ユダヤ教の中で、唯一の装飾美術と説明されている「扉のぶどう図」には感動する。それも昨夜、大学でスペイン語の教師をする隣人が、フト立派なぶどうを二房も持ってきてくれた後だから、余計感動した。

彼をある公演に誘っていた。題は「光のスペイン/Stella splendens /日本に渡来したすべてのスペイン人宣教師に捧ぐ」である。

聖ヤコブが眠り、ザビエルが船出する、ガリシア語でマリアは讃えられ、モンセラートの岩は屹立し、黒い聖母が愛を溢れさせ、喜びに満ちて人々は歩き続け、トレド大聖堂に楽器が鳴り響く、とある。隣人はまさに、日本有数のガリシア語の専門家。ところが彼は当日、抜けられない用事や会議までもあると言う。観に行けないとは、誠に残念至極。

持参してくれたぶどうたるや、誠に見事なもの。それが、ユダヤ教神殿の扉に刻された、唯一のユダヤ教美術装飾、とは。つまり装飾を排除したユダヤ教も、周縁文化でもある収穫神の表象から影響を受けているという。

神とは無理なく考えれば、神々であり、自然であるもの、人々の素朴な願いに他ならない、という常識が胸に落ちる。

合唱/Laudesi Tokyo 合唱隊
独唱、楽器、と説明してある。9月26日土曜日午後3時、日本基督教団東京山手教会(渋谷)、入場料3000円。予約0422−32−6074(杉本ゆり)、当日券は3,500円である。

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2009.09.03

8-191 キリスト教の神は天主と直すべし その48

天主にこころから感謝して、さらに積年の罪を許されるよう祈るばかり。

民主党の政策が見え始め、自民党の混乱が伝えられる。人間負けた時が一番大事である。世のため人のために働いているのならば、自信を持って再建に当たるべきである。それよりも何より、昨日は週刊文春(総選挙特大号9月10日号)を買って読んだ。が、それが一番ショックだった。

原因は記事の目玉、「立花 隆」の凋落である。

彼と私は同年。こちらが若くてうろうろしている頃、彼は田中角栄を糾弾し、一国の総理をその座から引きずりおろした。いわゆる金権体質をすっぱ抜いた、若き俊英のジャーナリストである。多くの人がそれを歓迎し、文春はでかいビルを建てることになった。あまりにもすばらしい天与の業績は、文字通り彼のものである。

この際彼の記事が、文春の冒頭を飾るのは当然である。しかし、年月は惨いことをする。期待して読んだその彼の記事は、単に年寄りの愚痴に過ぎない。人間ここまで落ちるのであるか。誠に年はとりたくない。

彼によって、壊されて行った自民党を支えるものは、党であるがゆえに、今も健在であるはずだ。しかし彼は一人、彼一人が老いれば、だれもその凋落を止めることが出来ない。彼はこの記事を最後に、ジャーナリストをやめるべきである。しかし、文芸春秋社は社会にいっそう必要である。老いた彼を重要視し、だれ一人だめだと言えないなら、会社そのものが凋落する。社会の新鮮な風であるべき役割も、終わらねばならない。そうならないように祈りながら、書いてみた。

その点聖書は長きに渡り、今も変わらず、神(天主)の意志を人類に伝える。その天主の意志を持ってすれば、人は誤ることはない。ジャーナリストとは、聖書にある一種の予言者である。社会に清新の風を送る人。老いることはやむを得ない。だから引き下がること、若き人を引き立てることが肝心だ。記事の場所をすでに占有すべきではない。

自民党もジャーナリストも、新しい時を迎えた。若い人は果敢に進むべし、人類のために日本人も活躍する時代が、本当に来たのである。賢者がスイスから帰国した。その活躍を祈りつつ、老人の感想を書いた。

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2009.09.01

8-190 キリスト教の神は天主と直すべし その47


選挙後の出来事で、老人にとって際立ったのは、一つは民主党の予算編成の全面見直宣言と、心斎橋そどうデパート本店閉鎖のニュースである。

有名デパートの閉鎖は、池袋で味わった。池袋三越がまさか、閉鎖になるとは夢にも思っていなかった。自分の商売の拠点が池袋であり、家も近かったからよく利用した。本店と同じライオンの像が玄関にあり、そこはよく待ち合わせの場所として使った。このブログの右サイドに紹介している人気ブログ、有縁ネットともよくそこを利用した。

有縁ネットいう中国ネットは、そこで生まれたと言っても良いかもしれない。それが、どうか。自民党も結党以来の凋落であり、一部には消滅説すらある。日本も今後、二大政党政治を理想としているが、一方がこのような状態では、一体どうなるやら心配である。自民党も頑張らねば、今までの政治的実績をすべてむなしくしてしまう。何も自民党だからと言って、悪いことばかりをしてきた訳ではない。沢山の良いことをしている。

それはそれとして、世の中が変わったのである。先ず自民党で造り上げた予算編成の見直しなど、その冴えたるものの一つである。これなどは明治維新に匹敵する。この見直しが明治維新とまったく違うのは、それが民意で行われた、という点である。

言うまでもないが、明治維新は市民革命ではない。しかし、今回の革命は市民革命である。もちろんそれがバラ色である、などとのんきなことを言うつもりはない。どんなことも努力と忍耐でしかない。と、老人らしいことを言うことを許してもらいたい。

ところで昨日も書いたが、明治維新を知る素晴らしい資料が出版された。時代が変わったのを機会に、ぜひ一読をお勧めする。下記の文章は出版社の文章を少し加工して書いた。

「ヘボン在日書簡全集」教文館刊(9月25日発売予定)
《岡部 一興 編、高谷 道男・有地 美子 訳》

ヘボン式ローマ字で有名な宣教師ヘボンの手紙。ヘボンは1859(安政6)年横浜に上陸。派遣元はアメリカ長老教会本部。そこに送った手紙の集大成である。

医療・教育・聖書翻訳(現在の聖書の原型)・日本初の和英辞典『和英語林集成』、宣教、日本の文化・風土・風習が書かれている。維新の日本を知る超一級史料。これらの先進文明情報により、日本の現代社会の基礎が築かれた、と言ってよいと思う。 【A5判/560頁/定価7560円】[ISBN 978-4-7642-7301-6 C0016]

新たな時代を迎えたわけだから、冷静に行く末を考えるときに必要な本である。

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2009.08.31

8-189 キリスト教の神は天主と直すべし その46


選挙。希望通りの結果になった。

1960年から堅持した左翼、やっと実現したのである。これで、祖父ネットの役目も事実上は終わった。もう一つ、1960年に始めたことに中国研究がある。今日の中国を見ていると、あの時の予想通りである。

そしてもう一つ加えると。教文館さんが素晴らしい本を出版された。メール宣伝が来たので、それを貼付けておく。

ヘボン在日書簡全集

《岡部 一興 編、高谷 道男・有地 美子 訳》(9月25日発売予定)

ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボン。1859年の来日以降、彼が派遣元であるアメリカ長老教会本部に送ったすべての書簡を収録。医療・教育・聖書翻訳・日本初となる和英辞典『和英語林集成』の編纂といった多彩な宣教活動から、日本の文化・風土・風習までを克明に書き記した、開国当時の日本を知る第一級の史料。

※1959年にヘボン来日100年を記念して岩波書店から出版された高谷道男編訳『ヘボン書簡集』には121篇が収録されていたが、今回、それ以後新たに発見された在日中の書簡等94篇と、帰国後、ヘボン夫妻が日本の牧師や友人に宛てて書いた手紙20篇を翻訳。今日入手できるすべての書簡を収録したことで、宣教師ヘボンの全貌が明らかになる。

【A5判/560頁/定価7560円】[ISBN 978-4-7642-7301-6 C0016]

祖父ネットとしては後、残っているテーマは、ヘボンさんに関係する「神」と「天主」問題一つになった。教文館さんがタイムリーに、見事な本を出された。心から感謝している。

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2009.08.30

8-188 キリスト教の神は天主と直すべし その45


選挙、一体どのような結果になるか。

昨夜は、日経新聞8月29日夕刊の七面掲載記事について書いた。キリスト教ブログ、祖父ネットにとっては見過ごせない。その見出は、「『地獄に落ちる』と献金要求/米教会に賠償命令」である。

ヨーロッパ中世においては、献金とは税金のことではなかったか。納税についての記事は聖書にもある。日本の税金は米であったようだ。建前は5対5らしいが、実際は7対3だったようだ。

むごい話である。治安と称して、米を必要以上に搾り取る方法は、今でもあまり変わりがない。治安のさえたるものが、今は国際治安と国内治安に分類できる。そのための経費たるや、なければどれほど生活にゆとりができるのであるか。想像もできない。

思うに人類は、どれほどの悪を行うのであるか。金も名声もある者が、麻薬に手を出す。それを国民に蔓延させないための経費を、子育て経費にしたら、どれほど素晴らしい若者が出来るだろうか。献金でだまされたと言うが、地獄に行くと予想できるだけの当人の人生の背景は、昨日の新聞には書かれていない。

結局のところ、人という不思議なものを理解することは不可能である。などと思いながら、老人の一票は、いかなる効果を発揮するのであるか。分からないが、よかれと思って投票をしたい。

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2009.08.29

8-187 キリスト教の神は天主と直すべし その44

選挙前日、少し雲行きが怪しい。

そんな時、日経新聞8月29日夕刊七面記事に、キリスト教ブログ、祖父ネットにとって見過ごせない記事が載った。その見出し、「『地獄に落ちる』と献金要求/米教会に賠償命令」。

ここにある「米教会」というのは、何の意味か、日経さんに問いたい。つまりアメリカの教会、という意味か。それともアメリカにある教会で日本に支部を持つ教会、などと言う意味か。それではアメリカの教会とは、何か。それはアメリカにある教会、という意味か。それがなぜ、日本に信者がいるのであるか。だまされたのは日本人である。

記事を最後まで読むと、その教会、実は日本人がアメリカで創った教会であるという。カリフォルニアに住む日本人らが設立した、とある。「ら」と言うから複数の人間がいるようだ。献金をした日本の信者の献金額は、約6800万円。随分と高い地獄行き切符になった。これはキリスト教の教会であるか。教会というのは、どれもみんなキリスト教なのであるか。

東京地裁は28日、宗教法人「セイント オブ グローリー教会」の日本側担当者に約7800万円の賠償金命令を出した、という。ところで、教会の名前であるが、その真ん中にある「オブ」と言う字は、なにを意味するのか。伝統的教会では見かけない「送りがな」である。「なになにーーーの」であるが、そんな教会があるのだろうか。カトリック、正教、プロテスタント、聖公会など、に。セイントとは聖、グローリーとは栄光であるが、それをオブで結んだのである。が、文法上結びつくのだろうか。訳すとどのような教会名になるのか、見当もつかない。

なんと他愛無い。嘘の英語で、本当の教会と思い込んだ女性も悲劇であるが、気をつけたいものである。あまりにも腹が立ったので、急いで書いた。

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8-186 キリスト教の神は天主と直すべし その43

朝を迎え天主に深く感謝している。

そんな素晴らしい朝であるが、心の中は暗い。自分のことではない。世間様のことである。失業率 5.7 % 。自分としては幸い、現役で失業したことはない。学校浪人の経験もない。誠に学校の成績は不良で、あまり勉強などしなかったが、なんとか抜けてきた。就職浪人の経験もない。就職し総務の時代、失業保険などの社会保険、税金を滞納したことがある。滞納すると会社に赤紙がくる。立派な利息を付けて必死に払った経験がある。

失業保険をもらったことがない。健康保険は多いに使った。払った分と使った分、バランスが取れていただろうか、考えたこともない。今は国民健康保険である。自分の持病のことを考えると、多分受け取りの方が多い。経営者になってからは、社会保険の半分は会社負担であることを知った。会社はボーナスを義務的に、世間並みに支払うことを毎回要求された。給料は経営者の自分のことはさておき、毎年上げるべきだとされ、頑張った。年功序列が常識の時代である。

どうしてそうなったのか、深くは分からない。たびたび危機が来た。生活の中で一番つらかったのは、新婚のときの石油ショック。この石油(sekiyu)という言葉、音で打つと、どうしても「せっ」と詰まって発音する。「せきゆ」と一字一字きる必要があるが、「ゆ」がくせ者だ。意外と難しい言葉だ。ワープロで打ちにくい。

この「せきゆ」に手こずった。地下鉄の照明が消されるなど、目立って世間が暗くなった。それでも会社は潰れなかった。必死に働いた。総務が収まって、営業にも手を染めた。主に東北の港沿いを這いずり回った、夜行や車に乗って。教会にも毎週通った。考えてみれば健気である。断っておくが土曜日は休みではない。それが半ドンになって、午後は開放される。その時のうれしさは表現できない。何せ日曜日は教会に行っていたから、休みと言うものがなかった。その中の土曜半ドンである。

半ドンとは、休みの太鼓の音のこと、ドーーンという音で、開放されたので、半ドンなのであろう。城につめる武士の習わしから転用されたのであろう。昔の武士もうれしかったに違いない。ただ登城の合図でもあった。

だから、高い失業率はつらい。見ていられない。暗い、なやましい。飯が食えない、などということのつらさを知らないが、それがいやで必死に働いた。人様より少しはうまい飯を食うためには、人以上に働かねばならない、という時代だった。だから選挙に行こう。苦しい時は聖書を読もう。行動することだ。立ち止まってはいけない。

祖父ネットには、今はそれしか言えない。

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2009.08.28

8-185 キリスト教の神は天主と直すべし その42


朝を迎え天主に深く感謝する。

美しく秋らしい朝である。選挙がまじかに迫ったので、今週の週刊誌が気になって買った。この選挙区も話題になっている。民主党の勢いは代わらないと言うものの油断があり、自民党の巻き返しもしたたかであると書かれている。記事はともかく祖父ネットとしては、一度政権を交代し、国民がいつも新鮮な政府を作れる体制が出来てほしいと思っている。長期安定政権の方がいいのか、交代制がいいのか、だれにも分かるものではない。

ただ、戦前は政党政治があまりにも多党化し、軍部につけ入れられた貴重な経験がある。この危険はどの国にも存在するのが、政治であろう。アメリカには、ないのであるか。想像するも恐ろしいことであるが、理想的にばかり考えても、思うようには行かない。ともあれ実行し、クーデターのない理想の国家を創り、世界に認めてもらえれば幸いなことである。まだまだ、日本は政治的に言えば、世界的信用はない。円は世界的通貨ではない。

話を宗教に戻すと、その週刊誌に、私にとって面白いことが載っていた。タイトルは「新/家の履歴書 156」である。今回は福島孝徳(読みが今ひとつ不安だ)という人が主人公だ。彼は1942年生まれ、私の一つ下である。風前の灯火にも見える麻生総理大臣が一つ上、私が真ん中、言うまでもないが太平洋戦争開始の時である。

彼の名前に注目した、「孝徳」さん。やはり孝行の「孝」を使った人を知っているが、この字を使う人に頭のいい人が多い。戦争中であるにもかかわらず「勝」を使わないなど、親の高い「人格」が読み取れる。「襲治」(Suuji)という人を知っている。戦争末期に生まれた人で、親が「空襲」を治めたい一心でつけた名前だ。

ともあれ、氏は東大医学部出身の、世界でも有名な脳外科医。その先生が言った言葉「最後は神に祈るんですーー」。その「神」とは神道の神である。ともかく面白い、ぜひお奨めする。

週刊文春9月3日号。それを読めば、人生を深く味わうことが出来る。350円は安い。取材構成は大西展子さん、いい仕事をしてくださったものである。

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2009.08.27

8-184 キリスト教の神は天主と直すべし その41

イギリスのキリスト教史は、紀元200年程度から始まる、ということを知った。

ローマ帝国の勢力が、イギリスにまで及んだからである。これをウィキペディアで知ったのであるが、検索ワードは「聖公会」である。ここから進んで、ヘンリー八世やシェークスピアにまで至り、後は切りなく広がって行く。プロテスタント長老派(日本キリスト教団)で長く過ごしたから、キリスト教の知識や教義、礼拝の形式生活習慣は、おおむねアメリカ的である。

アメリカは比較的新しい国だと言うが、たしかにキリスト教の歴史をイギリス史と比較して見ると、イギリスが世紀200年というのだから、確かに新しい。しかし、私のキリスト教は、アメリカ史的視点であったから、イギリスのキリスト教史も比較的新しいのかと思っていた。イギリスのピューリタンがメイフラワー号でアメリカに渡り、出来たのがアメリカであるぐらいの知識でしか、イギリスのキリスト教史を見ていなかった。大いに間違っていたのである。

キリスト教史の古いところでは、やはりエルサレム、ローマ、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)などが、その主要ルートだというぐらいの知識であった。それが初期キリスト教時代を形作るもの、だとばかりと思っていた。まさか紀元200年、時をそれほど違わないで、イギリスのキリスト教史も始まっていたのである。それはもちろんイギリス史の始まりでもある。

日本の歴史は紀元500年ぐらいから、識字的に書かれる。識字的というのは意識的と同じ意味で、国として一つのまとまった記述をしうる歴史ということである。もちろん考古学的に言えば、さらに深いものになろう。

ともあれ、ここ三年ほど聖公会の教会に行くようになり、イギリス史の面白さに目覚めた。これで少しヨーロッパが理解できるかもしれない。西洋を理解しようとする時、西ヨーロッパ、東ヨーロッパというカテゴリーがある。西はカトリック的、東は正教的に理解するのが常道だろう。が、東ローマ帝国という、当時では主役が活躍する正教史の方が、ロシアという大国だけが際立つ分、分かりやすいのかもしれない。繁栄する西ヨーロッパ史は、政治的には取り残されたローマ、というストレスの上に成り立つ。だから、人間苦労をする方がいいことは、これもまた人生と同じなのであろう。そこに当初から、ひそかにイギリス史が加わって来ることは知らなかったから、まったくうかつである。

練馬ガブリエル教会に出席できたことを、心から感謝している。

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2009.08.26

8-183 キリスト教の神は天主と直すべし その40

秋になってきた。

季節の確実な変わり目は、暑い夏に少し飽いた老人には有り難い。昨日も生き、今日もまた生きるか。倦怠はない。起きてすぐ祈りをする。今日も神(天主)守りたまえと祈る。

選挙戦もあと数日、先日駅前で偶然、投票しようと思っていた人の演説を聴いた。追い上げる当選圏内の人である。六叉路の一角に車から降りて、演説が始まった。聴衆はわたしが一人、皆急がしそうに通り過ぎて行く。車はひっきりなしに通る。その内、数人が立ち止待って聞いていた。道と橋しかないその場所は、立ち止まるところが少ない。その少ない一角の木陰で、老人は一切を聞いた。

演説が終わった。私は駅へ向かうつもりであったが、しばらく様子を観ていた。すると彼女がすたすたと私のところに来て、握手をしてくれた。たおやかなお嬢さんの手であった。頼もしい正義派の改革者である。

60年安保反対運動をして以来、右に投票をした記憶は一二度だけ。経営者でもありオーナーで、会社をやっていたことがある。その時も左スタンスを批判された。しかし、会社と言っても零細企業である。別にだれはばかることもなく、左を公言していた。会社は退職し若い人に売ってしまったが、今も生き残っている。

長年抱いた政治の夢が、今回実現する。1960年は18歳か。あれからおおむね50年が過ぎた。

青春の思いは、あと数日で実現する。日本にとって本当の戦後が始まるのである。気を引き締めてやってもらいたい。彼女なら実行できると希望をもった。

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2009.08.24

8-182 キリスト教の神は天主と直すべし その39


老人になっても、まだまだ教えられることは多い。

先日、教会に行くとき、少し時間ができたので、いつものようにあるギャラリーに寄った。オーナーが水を撒いている。魅力的で小さなギャラリーは、都会のオアシスである。並べられた芸術作品は、いつでもどれも力作である。さっと観てから、教会の夕拝に間に合うように行くのが、祖父ネットの趣味。

そんな中でも、時々は雑談もする。顔なじみになったので、宗教の話や家系の話になった。近くに小堀遠州の墓を守るお寺があるので、ご紹介してみた。オーナーは芸術家でもある。日本を代表する建築家小堀遠州は特別の人であろうし、茶人でもある。そんなことからメールを交換することになった。お寺の住所を書いて送ったのである。

いつもの祖父ネットらしいお話は、これから。

ちょっと失礼とは思うのであるが、そのまま差し支えない範囲で、そのメールの一部をコーピーしてみよう。

「今夜の NHK教育で、近江のアメリカ人の建築家の設計した家は
昔の我が家の様で(それほど立派ではなかったのですが)
懐かしく見ました。彼はキリスト教の宣教師から,建築家になったとか。
心安らぐ家々は、本当に素敵でしたが,ご覧になったかな?と思いますが。」

この一言であるが、宗教の霊的なやり取りを感じる。

これを書いているパソコンの脇に、ある本がある。「失敗者の自叙伝」初版昭和45年、近江兄弟社刊 という本である。作者は一柳米来留という人、元アメリカ人の日本人。帰化しているアメリカ人である。アメリカ人である名前は「William Merrell Vories」、有名なメンソレターム(ある事情から最近はメンタームという)を作った人。

祖父ネットが勉強した明治学院の、現存する礼拝堂の設計者、当人もそこで結婚式を挙げている。その脇には島崎藤村の碑もある。ギャラリーのオーナーのメールにある「昔の我が家」とは、ヴォーリスさんの設計した家である。実はヴォーリスさんのことは詳しい。

いつもの単なる偶然であるが、祖父ネット流に言えば、天主の采配である。感謝この上もない。こんど住んでいたという住宅のお話を、ゆっくりとお聞きしたいと思っている。

このようなことを天主に感謝という。

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2009.08.22

8-181 キリスト教の神は天主と直すべし その38

主の恵みによって、今日も朝を迎えた。

昨日の冒頭の言葉は「天主」、今日は「主」である。キリスト教徒にとって、こういった言い回しは、「主」が多い。天主と表現する人は少ない。それより、「神」のお恵みにより今日も朝を迎えた、といういい方が一番多い。

8−180では、自分の名前から自分というものが、いかに弱いものであるかを説明しようと思っていた。「巳、已に、己」という漢字を並べてみると、この「mi」という名に使われる関連の漢字は判別しにくい。子供が覚えるために、命名者の祖父は「Mi wa takaku、 sudeni nakaba ni narinure do 、 Onore o hikuu suru wa yoshinari」と教えてくれた。この教訓を含んだ「漢字の読み方の歌」の中には、文語調関西調が混じっている。祖父は関西の人、四国で明治21年に生まれた。わたしが初孫で、聖公会の信者でもあった。

こういった歌をわざわざ教えてくれたのは、「mi」が書きにくく、判別しがたい漢字である、ということであろう。

意味は「己に勝つこと」である。わたしの「mi」は、巳年の巳ではなく、己(おのれ)という字を巳(み)と読ませる。謄本はそうなっている。ただし、昔は謄本も人が書いたから、やはり曖昧になりがちだ。現在の謄本はワープロだから、「mi」は「己」となっている。「カツ」という字に「克」を当てられた人もいる。ただ、アメリカと戦争でも始めようなどという時、「勝」にしたのだろう。

己に勝つことは容易なことではない。それを見越したネーミングは、見事に成功した。信仰にすがる人間になった。旧約聖書によれば、蛇がエバをだまし、アダムに禁断の木の実を食べさせる。ここから意味をとれば、「巳年、へびどし」つまり「hebi」に勝つ、誘惑に勝つ、という意味にも取れる。これもクリスチャンらしい命名である。ただし、戦争はアメリカに負けた。

子供のころから名前の漢字書きには手こずったが、感謝している。見事に自分に相応しい名前である。

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2009.08.20

8-180 キリスト教の神は天主と直すべし その37

天主の恵みによって、今日も朝を迎えた。

祖父ネットのキリスト教信仰は、特に篤いというものではない。だからといって、薄いとも言えない。が、なにせ小学校から日曜日には教会学校に通い、今に至るまでキリスト教にこだわっている。自分で言うのもおかしいのであるが、その宗教的忍耐力は見上げたものである。

しかし、この宗教的スタミナは、強いから持続したのではない。持続したのは弱いからである。祖父ネットの名前は「Katsumi」であるが、親からいただいたこの名前を、今は大いに気に入っている。この名前こそ、自分の弱さを説明するのに、もってこいの名前である。

子供のころ、いよいよ小学校にでも入るかという時、漢字と出会うことになった。ここで自分の「mi」の字が、いかに書きにくい字であるかを経験する。要するにそれは、「巳」と言う字に似た字が、三つあるからであり、書く時に字が安定しないからである。

今ではワープロがこのように普及しているから、あまり問題はないが、その分、役所などは結構うるさくなった。それは「みどしのみですか」とか「おのれですか」などという。これで二つであるが、もう一つある、それが「すでに」という読みである。

二三年前、中国行った。その時インフルエンザ流行の後で、交通機関は随分と神経質であった。フト、バスの運転席の脇に、この車両はすでに消毒済みです、という意味の言葉が書いてあった。この「sudeni」を見つけた時は、特にうれしかった。「已に」という「mi」の字に似たこの言葉を、日本ではそう見かけるものではない。本などを読んでいて、時々フト見つけることはあるが、まずない。

と、こんな調子で漢字に、生まれて初めて接したのが、信州の当時は片田舎の小学校である。今では近くに新幹線も止まるから、片田舎ということではないにしても、ローカルという言葉はその分ピッタリくる。浅間山の見える美しいところである。

ところで、冒頭に書いた日曜学校の場所は、東京である。小学校3年のとき上京した。場所は赤坂、華やかな場所だなどと言うまでもないが、TBSの近く。この大移動は田舎育ちの子供にとって、恐ろしく刺激的であった。当時はまだそこは料亭が山ほどあった。

時に已(sudeni)に、自分の名前「己」は正確に書けていたと思うのであるが、定かではない。

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2009.08.19

8-179 キリスト教の神は天主と直すべし その36

老人の朝は早い、とよく言われる。

祖父ネットも5時に起きる。起きて空を見るのは、人生の楽しみだ。少し秋の気配が感じられる。ベッドの脇に朝日が入るようになった。冬になると豊かな太陽が入る。

ベッドは道と川の脇にある。大雨になると凄まじい勢いの川が、轟音を発する。龍となって建物を揺るがす。1時間に100ミリ程度が、この川の防衛限界として設計されている。最近では日本でも、この限界の記録的な雨が報じられることがある。地球温暖化が原因であるが、それにしても地球極点の氷解は、恐ろしい風景である。ときどきニュースになる。

自己の崩壊と、人類最適地球環境の崩壊を見つめる日々であるが、どちらの崩壊が先か。なにも地球が消える話ではない。人間存在が脅かされる話である。地球の生命は何億年、宇宙の生命はそれをはるかに越えている。太陽の何億倍のエネルギーを有するブラックホールがある、と言われる。ウィキペディアで読んだ。用語はまるっきり分からないが、宇宙の膨大な仕組みに、はたして天主がいるのだろうか。

それにしても、ブラックホールという最新科学の用語も難解であるなら、天主というキリスト教用語も難解である。現代人は宗教で解するものも難解になり、科学の最新用語も難解である。どちらにしても難解に違いない人間生命について、古人(inishie-bito)の深い洞察と伝統を尊重するのが、宗教。最新の用語、思想を用い、宇宙の秘密に迫るのが科学である。

はたしてどちらが、自己の生命にとって有益であるか。それにしても今朝も、このように一編のブログを仕上げたので、「ヘブライの神/旧約聖書における一神格の肖像」B.ラング著、加藤久美子訳教文館刊を読むか。ほぼ半分を読み終わっている。読み終わってから、古人をここに書いてみたい。

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8-178 キリスト教の神は天主と直すべし その35


以上の題で35回書いてきた。

書きながら、日本語として一般化した「神」という字が、いまさら「天主」になる訳もないという、あきらめの心境である。せめて、自分が聖書を読むとき、はたまた神学書でも、天主と読み替えて読む程度。

それにしても、今では「神学」という訳語になったセオロジーを、ヘボンさんは「神理論」と訳した。名訳だ。だから、あまたあるキリスト教の書物を読むとき、「神」や「神学」と言うより、「天主」や「神理学」に読み替える。

このように、天主や神にこだわるのは、キリスト教の信仰を少しでも多くの人に知らしめたい、という気持からである。老人だから大人しく本でも読んで、静かに死んでいけばいい、と思うこともある。しかし、ともあれブログを書いて、ここまで達したのである。ブログに書かなければ、こんなことを思いつかなかっただろう。ただし、キリスト教の信仰の対象を、「神」といい「天主」というも、別にその内容が変わるわけではない。神学も同じである。

老人になりきってみると、つくずく天主の加護や恵み、永遠の生命罪の赦しなど、何とも頼もしいことと、気ずく。老人である自己が、限りなく弱体化していくからであろう。キリスト教は弱者の宗教である。

人にとって、宗教は堅固な外周である。いわば砦だ。ただ、衰退する中心部にある自己が消滅せんとする時、外周は中心から乖離するばかり、とも感じられる。弱体化がますます現実化する老人とは、なるほどこういったものか。とすれば、減少しつつある円の中心にある自己は、天主の恵みの実体が中にあるはずだ。これによってしか、自己と天主の乖離は防げない。キリスト教の救いは、あくまでも収縮する自己の内部になければならない。

これは宇宙創成と言われるビッグバンと、一致するのだろうか。すなわち収縮する宇宙である。生命の秘密は、宇宙のメカニズムと深い関係があるように思える。消えつつある自己の小なる生命も、その大なる宇宙の一部であるからであろう。

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2009.08.17

8-177 キリスト教の神は天主と直すべし その34

明治時代にヘボンさんが訳した聖書の、「神」に関し書き続けている。その「神」に連動し、「神学」という訳についても気になり始めた、と書いた。

聖書を日本語に訳す時、ヘボンさんは東洋語のなかで、特に日本語は中国語の影響が強いことを知っての来日である。日本語であるから、ゴッドの先行中国語訳「天帝」「天主」という言葉が、日本語に存在するかどうか調べたと思う。しかし、特に「天皇」を全面に押し出して、徳川政権に替える政治情勢は流動的である。天皇と天帝、天主では微妙すぎて、少しまずいと思ったのかもしれない。彼は自分たちの、複雑なアメリカ史を熟知した人であるから、そう簡単に日本の政治が安定するとは思っていない。そこで、「神」を選んだのか、どうか。

これは当時の、キリスト教宣教師全般の意識であって、政治情勢に配慮しながら宣教したに違いない。切支丹時代に、非常な目にあったカトリックは、特に慎重であったと思う。正教はロシアから渡来して、北海道を足がかりとする。北海道から政治の中心地「東京」を観察していたのであろう。

明治維新を中心に、キリスト教諸派の動きを学ぶことは、実に面白い。それは日本史を中心とする、世界史の面白さに通じるからである。今だにその面白さは減じることはないばかりか、ますます興を加えてとどまることを知らない。

そんな中、ヘボンさんが創った明治学院で、卒業生を中心にした勉強会が行われる。今年のテーマは「ヘボン、島崎、賀川」という三人の人物を取り上げる。祖父ネットはすでに申し込んだ。講座は全11回、9月26日に開催され、12月19日までの土曜日を当てて行われる。

多分、講座後の祖父ネットは、一層面白いことが書けると思う。そこで、ついでに余計を書くと、祖父ネットが高校生で洗礼を受けたときの介添人は、山本良次さんという長老である。彼の父上は、ヘボンさんと一緒に働いた人。また、高校の時の国語の先生は、島崎藤村を構内で直に見たことのある人。また、賀川豊彦が亡くなった年に、祖父ネットは大学に入った。だから、三人とも祖父ネットにはさほど古い人ではない。が、当人が大いに古くなったことは認めざるを得ない。

明治学院で10年に渡り教育を受けると、祖父ネットのような人間も、たまには出来るのである。成績はいたって悪い方であったが、それは宗教などに興味を持ったからだと、今は心から感謝している。

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2009.08.16

8-176 キリスト教の神は天主と直すべし その33


キリスト教のゴッドが、日本語で「神」と訳され、それが世界の言語界でも、日本語のそれは「神」であると一般化した。

ヘボンさんたちキリスト教プロ天スタント宣教師たちによって、訳されたのである。カトリックの訳「天主」が出遅れたのは、切支丹弾圧の経験が、古くから正確にバチカンローマに伝えられていたからである。そのため、再びそのような経験を繰り返さないために、カトリックは慎重に、日本の革命(明治維新)の様子を眺めていたのであろう。

ロシアにあった正教は、どうしていたのであろう。ニコライさんは聖書を訳すとき、やはり漢文の分かる日本人学者を雇っている。中国語の先行聖書を参考にしたのだろうか。正教には正教の立派な日本語訳聖書がある。ただしそれも、「神」となっている。ヘボンさんたちプロテスタントの先行聖書を、参考にしたに違いない。

昔々、大昔、大和朝廷の中に漢字がもたらされ、政治や行政機構に中国式が入り込んだとき、「仏」ももたらされた。神々の世界に「仏」という漢字で、新たな宗教が入ってきたとき、どのような混乱と困惑があったのだろうか。

大和言葉には字はない。その世界に侵入した漢字なのであるが、「仏」はもともと日本にない概念である。発祥はインドである。それが中国に渡り日本に入って来た。日本人の「かみがみ」は、どのように反応したのか、考えるのは興味のあることである。それもただ入ってきたのではない、「仏」という漢字とともに来たのである。まったくの新語を理解するのに、なにがあったのか。聖徳太子一族は絶滅されたと言うが。

ヘボンさんは、ヘボン式ローマ字の考案者でもある。それを使って彼はいち早く、日本語のローマ字化を世界に発信した。そのため、外国語の世界地図などで日本の地名を書くと、すべてヘボン式である。今さら訂正のしようもない。そのあと、日本式訓令式など、日本人が発音しやすいローマ字が、日本人の手で考案されたが、世界には通用しない。そうこうするうちに現代になって、ワープロや携帯電話ができた。もはやなに式であろうと、ローマ字入力は重宝されている。祖父ネットなどは、ヘボンさんの創った学校の生徒だったから、すべてローマ字入力であるが、もちろんヘボン式である。

そのように特に宗教では、一番大切な崇拝対象を外国語で定めるのは容易ではない。先行的なものを、一種の習慣としてならされていくのであろう。その代表が「神」である。それで聖書を読むのも、習慣にするといいと言う人がいる。なるほど宗教とは習慣の一種であろう。西洋ではキリスト教が長い伝統の下で、習慣として定着し形を変えつつ今日ある。

それならば日本における習慣は、まず「神々」であり、次に「仏」であろう。キリスト教の神が習慣になっているのは、クリスマスである。クリスマスは、キリスト教の「神」(天主)の誕生日のお祝いの日である。しかし、習慣ではあるが、あまり宗教的ではない。宗教を習慣にすると、惰性と言う危険もない訳ではない。どちらがいいのか、それは各自の問題であろう。

日本の宗教のメニューは、新興宗教も含め今やで出そろった。が、キリスト教の「神」は、一神教をよく表す「天主」と言い習わした方が、今の祖父ネットにはぴったりとくるのであるが。

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2009.08.15

8-175 キリスト教の神は天主と直すべし その32

キリスト教における日本語としての「神」を決定的にしたのは、ヘボンさんたち明治初期の、プロテスタント宣教師たちである。それ以前、1600年前後の切支丹宣教師は、自分たちのいわゆる今で言う「神」を、「神」と訳せず(訳さず)に原語主義を通した。だから切支丹になった日本人は、「原語」(例えばデウスなど)でキリスト教の「神」を信じた。

このような原語使用で生じる宗教的精神的な問題を、今まで取り上げた書物を知らない。当時の信仰生活を表すのは小説が一番であるが、どの小説も、原語使用による精神生活を書いていない。すべて日本語で訳した「神」で書いている。切支丹大名などは、落款をローマ字で作った人も少なくない。いわゆるキリスト教式の名前さえもらっている。千葉の国立民族博物館には、ローマ字書きの実物が陳列されている。それなどを見ると、日本の武士が、よくここまでやったものであると感心する。しかし、それは当然のごとく不幸な結果になった。

切支丹は迫害され、ことごとく闇に葬られた。しかし、それによって日本の伝統文化は守られ、また継続されたのであろう。迫害は凄惨を極めたが、日本人も必死だったに違いない。当時の人に、原語で受け入れられたキリスト教の「神」は、原語ゆえに、日本の神々や仏と決して習合することはなかった。

先年、和歌山県の新宮市を尋ねた。ちょっとした知り合いがいる。その知り合いは、明治時代の大逆事件に関係した人が親戚にいる。事件では、仏教徒も検挙され刑死している。クリスチャンでは、大石誠之助が有名で、その大石の縁辺である。その中の一人が神々派である。彼が「今さら他国の神様でもないだろうに」と言ったとき、確かにと思わず同意した。新宮には、そんな有無を言わせない雰囲気がある。

祖父ネットも今なら、いえいえキリスト教が「神」と言わず、「天主」と言えば、少しは混乱が防げますと答える。が、まさかキリスト教の「神」が「天主」になり得るなどと、その時は夢にも思っていなかった。いわゆるキリスト教で言う「神」は、日本語や中国語韓国語とも、複数存在することを知らなかった。

その上、一神教であると言われるキリスト教ですら、昔々大昔、その発展の当初においては神話であり、さらに神々である、ということをある本から最近知った。

ラング氏が書き、加藤久美子氏が訳した「ヘブライの神」教文館刊である。今読み続けている。当然と言えば、あまりにも当然の話であるが、ただここまで実証的に書いた書物はめずらしい。力作である。

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2009.08.11

8-174 キリスト教の神は天主と直すべし その31


ヘボンさんが、今では言葉として定着した「神学」を、「神理学」と正確に訳したのは、おおむね150年前である。

明治期日本の聖書を翻訳したのも、主にヘボンさんたちプロテスタントの宣教師である。明治維新以後、いち早くできたその聖書によって、今の「神」は「神」に定まってしまった。中国語の先行聖書を参考に、日本語聖書を翻訳した時、そこに神が「天帝」とも訳されていることを、彼らは知っていたのである。中国では、「ゴッド」翻訳問題が紛糾したにも関わらず、日本では一切問題にされなかった。プロテスタントの宣教師を中心にした翻訳委員会であり、カトリックも正教も参加していないからである。当時ではそれは当然のことであった。

忘れてならないのは、当時は三者ともバラバラで、歴史的事情で反目していたということである。一冊の聖書を共同で訳す、などと考えてもいない時代である。もちろん自分達の聖書翻訳をするために、他派で訳された聖書を密かに参考にしたに違いない。

カトリックには浦上天主堂など、「神」を「天主」と呼ぶ習わしが古くからある。今の中国語聖書にも二種類の訳、「天帝」版聖書と「神」版聖書が現実に存在する。キリスト教専門店である教文館はもちろん、総合店であるジュンク堂さんでも置いてある。今、祖父ネットの手元にもある。もちろんすでに書いたように、カトリックには素晴らしい文語体の天主版聖書がある。

こんなことを勉強し考えていると、「神学」という言葉が急に気に入らなくなった。セオロジーはその英語である。が、どう見ても「神学」とは訳せない。セオロジーはセオリーの派生語ではないか。そうだとすれば、セオリーとは論理のことであるから、教義学ではないか。神学というと、偉そうな感じがする。何か特別な神の学問なのか、と錯覚を起こす。神の学とは随分と高邁であるが、あり得ない学問対象ではないか。もちろん論理学は学問である。だから、神をまたは天主を論理的に扱うことは問題がない。ただ、我々常識人が学問というとき、それは経済学、医学、天文学、建築学、生物学などであるが、この中に神学を入れる訳にはいかない。

ヘボンさんはこのことを十分に知っていた。その証拠が、彼がセオロジーを訳した「神理学」が正確であるからである。彼は彼の作った本格的な和英辞典「和英語林集成」第3版1886年(明治19年)講談社文庫版に、次のように書いた。

Shinrigaku シンリガク 神理学 n. Theorogy, divinity.

セオロジーとは、まさに今の「神学」のことである。ここで問題は俄然大きくなる。だれが一体、ヘボンさんが正確に訳したセオロジーの「理」の字を捨てて、大げさに「神学」としたのであるか。ゴッドを神としたなら、素直に神理学とすべきであり、天主としたならば、教義学と受けるべきであろう。なぜこうならなかったのであるか。

この実体とは一体なになのであるか、今は調べる何の手ももっていない。しかし、いつか解明する。

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2009.08.06

8-173 キリスト教の神は天主と直すべし その30

ホテルからスイスアイガー山を観る朝は美しかった、という思い出がある。

そのスイスに、聖書翻訳者ヘボンさんも旅をしたのである。明治初期日本で聖書を訳し、日本と言う異文化と接触しながら、疲れた体を癒しに行ったようだ。祖父ネットもスイスから帰り、書物からそれを知った。ヘボンさんが創った明治学院の高校生の頃、近くの書店である本を買った。

「カルヴァンの人間論」である。T.F.トーランスという人が書いた本で、1957年(昭和32年)泉田 栄氏の翻訳で教文館から出版された。定価280円のその本を今ももっている。原文は「CALVIN'S DOCTRINE OF MAN」1949 London

そうはいっても古い話なので、始めにもっていたものは古書店に出した。どうしてもまた想いがつのり、改めて古書店から購入していたのである。その冒頭のカルヴァンの言葉は、次のようなものである。

「人間の真の自己認識は、人間の神認識の反映である。」

老人になった祖父ネットが書けば、さしずめ「人間の真の自己認識は、人間の天主認識の反映である。」となる。書店で本を買うか買うまいか迷っているとき、横から顔をのぞかせた同級生がいる。今カメラマンの永谷氏である。「なにを読んでいるの」「これ」「うーん」。それがきっかけで買った。

この本が一生、わたしを支配した。冒頭の言葉が「わたし」を決定したのである。その言葉をたよりに生きてきた。人間とはそういった存在である、と何となく決めてしまった。実に何度も読んだ。祖父ネットは本に書き込みをする。その時からの癖で、今だになおらない。書き込みの多い厄介な本を、ただで引き受けてくれるのが池袋の「往来座」である。余計を書くと、そのご主人の祖父が、明治学院構内のヘボン像の作者であるから、嘘のような話と言うべきであろう。往来座にふらりとよったのは、会社が近かったからに過ぎない。


で、スイスに行った。カルヴァンの教会をどうしても見たかったのである。そのついでにアイガーを観た。その北壁は、登山紀行に興味のあったものにとって、深いロマンがある。厳しいアイガー山の偉容は、まさに宗教改革者カルヴァンの精神と一致するように思えた。

そのスイスから今朝メールが入った。8−172でご紹介した「ヘブライの神」の訳者加藤久美子氏からである。スイスで祖父ネットを見たのである。

天主のなされようは、わたしにとってまさに言葉がない。天主こそ、私たち人間の決定者である、ということしかここでは言いようがない。主の栄光、とよく聖公会ではいう。

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2009.08.05

8-172 キリスト教の神は天主と直すべし その29

このような興味のさなか、ピッタリの書物が今日出版された。

B.ラングという方が書き、加藤久美子氏が訳している。出版したのは教文館、早速入手した。題は「ヘブライの神/旧約聖書に於ける神格の肖像」である。この場合の「神」であるが、天主問題をここまで考えていると、この本の大意は理解できるように思えた。加藤氏の解説を先ず読み、その結果分かったことがある。その大事な一つは、旧約聖書の理解には、ユダヤ教の経典としての理解と、キリスト教の経典としての理解の二つがある、ということである。

この本で加藤氏が訳した「神」は、祖父ネット流に言えば、ユダヤ教の旧約聖書の神である。それを一言で言えば、ヘブライの神は「神」であり、キリスト教の神は「天主」であるということである。または神から天主へ、つまりユダヤ教からキリスト教へ、という宗教上の歴史を背負っている、ということをラング氏は書く。だから、何でもかんでも神を天主と書けば良いという訳ではない、と言うことを教えられる。

ラング氏はドイツ人である。著書は始めドイツ語で出版され、次に自ら英語で書き出版されたようだ。ラング氏がドイツ語と英語を良くすること、また加藤氏が同じくドイツ語と英語を良くする、ということが解説から理解できる。多分ラング氏が英語でこれを書いたとき、神は「ゴッド」なのであろう。それを加藤氏は当然「神」と訳したのである。

しかし、それがキリスト教の「神」に至ったとき、それは「天主」と訳した方が、祖父ネットとしては内容が明確になる。単に祖父ネットの主張である。著書の264頁から始まる「第二の神になるキリスト」で、それは示唆されている。

これからじっくりと読んでいきたい。ラング氏は1946年生まれ、加藤氏はさらに若い。加藤氏の先生がラング氏で、ラング氏は祖父ネットより若い。実を言うと、加藤氏は祖父ネットのヘブライ語の先生である。それで彼女がどれほどの才媛であるか、祖父ネットがよく知るのである。ただし今回の出版に就いては、教文館のメール広告で偶然知った。

ここで最後に、単純化を恐れずに書くと、ユダヤ教で神が形成される実体は多神教的であり、キリスト教として完成する一神教が、いわば「天主」だと言うことである。つまりどちらにしても、社会学的に理解されうる「神」ということであるが、特に信仰的に見ても問題はないと思う。むしろ社会学的理解の上に立った、冷静な「神」理解が成り立つということを論じている。

ヘボンたちプロテスタント宣教師が、明治初期「ゴッド」を「神」と訳して150年、「神」は普通名詞になった。それが意味するところのものを、この本は解き明かしている。

ユダヤ人は激しい興亡史の中で、人を救うという複数の「神々」と出会いながら、唯一神たる神を見出し、それがキリスト教を生み出す素地になった。日本人は穏やかな孤島の中で、「神々」を守り通した。そういった日本人の歴史に、いよいよ本物の「神」ないし「神々」を、考えざるを得ない時代がやってきたのではないか。

世界が激しくさらに接触する時、指針を示す書と言ってよいと思う。

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2009.08.04

8-171 キリスト教の神は天主と直すべし その28


前回170で、神に替わる「天主」版聖書をご紹介した。

祖父ネットが好き勝手に、こんなことを言っていると思っておられる方もいるだろうが、そうではない。この「天主」版聖書を発見した時はうれしかった。国会図書館で確認し、ネット検索で神戸の古書店にあるのを発見した。少々高かったが、証拠としても必要であったし、手元に置いておきたかった。旧約聖書だけであるが、四冊ワンセットの力作である。

この聖書の発見には幾つかのルートがある。

その一つは韓国語には神が二種類あり、中国語には二種類の聖書すらある、という発見である。初めそのことを知ったとき、一種のだらしなさを感じた。しかし調べていくうちに、神には二種類または複数の翻訳語があってこそ、その問題をまじめに考えている証拠であるということが分かった。

西洋語の最も重要な言葉、英語で言えばゴッド、これを東洋語に訳すのにそう簡単である訳がない。明治維新以来、「ゴッド」は神と訳されて150年がすぎて主流となったが、もうそろそろ再考する時期なのではないか。

もう一つの決定的なルートは、柊 源一(Hirgi)氏の「吉支丹文学論集」(教文館2009年刊)で、直接天主版聖書を教えられたことである。そこに柊氏が吉支丹時代の聖書の訳と、現代語訳としての天主版聖書(光明社)を比較して書いていたのである。題名は「吉支丹文献に現れた『天主』なる語をめぐってーー明版の天主教書との交渉ーー」(87頁から。)である。

ぜひ日本のクリスチャンの方々が、神に替わり、「天主」という呼称を使用する正しい信仰の下で、日本神道の神を、キリスト教の神から解放して上げるよう願って止まない。

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2009.08.03

8-170 キリスト教の神は天主と直すべし その27


いよいよ「天主」版聖書をご紹介する時が来た。

ともあれ書いてみたい。美しい文語体で ひらがな がふってあるが、ここでは始めにひらがなで読み、その後で原文を書いてみたい。今では「神」としか書かれない聖書にも、「天主」と訳されたものがあった、ということがこれで分かってもらえばいいのである。またそれを現在形で表現し神を天主と読み替えたとしても、別に奇異ではないのである。

創世記第一章
1 はじめに天主あめつちを造り給えり。
2 その地はいまだ形なく、空しくして、やみおおわだの上にありき。しかして天主の御霊水の上をまい動きましつつありき。
3 ここにおいて天主のたまいけるは、「光なれよ」と。すなわち光り成りぬ。
4 しかして天主は光を好しとみ給えり。かくて天主は光とやみとを分ち給いぬ。

以上の原文は下記の通り。

創世記第一章
1 元始に天主天地を創造り給えり。
2 その地はいまだ定形なく、空漠しくして、暗黒洪淵の面上にありき。しかして天主の御霊水の上を旋い動きましつつありき。
3 ここにおいて天主日いけるは、「光明成れよ」と。すなわち光明成りぬ。
4 しかして天主は光明を好しと観給えり。かくて天主は光明と暗黒とを分ち給いぬ。

実際の聖書では、以上が一体で読みやすく、日本語の格調も味わえる。が、このワープロではうまく行くとも思えないので、今のところ試みない。

聖書は昭和29年(1954年)、札幌にある光明社から発行された。この頃から、聖書の文語体を口語体に直す機運が高まるから、多分「天主」も文語体的表現として廃れていったのであろう。

しかし、「天主」が単に、文語体的表現であるとかカトリック的であるとか、という風には祖父ネットには思えない。ますます天主を多用し、神や天主を二つとも適宜使いながら、日本人の信仰生活を神道的表現から分離し、キリスト教的本質に至らしめたいものであると考えている。


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2009.08.02

8-169 キリスト教の神は天主と直すべし その26

キリスト教徒の仲間と、コーヒーを飲む機会があった。

久しぶりのことで、同じ信仰を持ったもの同志は腹を割って話せるとはいえ、実際にはなかなかそうもいかないものである。しかし、今回の仲間は傑物で、一ヶ月ほど前パイプオルガン独奏会を開いた人だ。その気宇は壮大で、パイプオルガンの立派さとマッチして、素晴らしい演奏ぶりであった。いささかの神経では、5000万はするパイプオルガンなど弾けるものではない。設置された礼拝堂は天井が高く、プロテスタントのものとも思えない。その舞台で2時間の演奏をこなしたのである。

話は音楽から教会の現状に移り、現状に深く影響した150年前の誤訳「神」の話になった。驚いたことに、韓国語の「かみ」に当たる語が二つあるということを、その友人が言い出した時である。知っている人はそういるものではない。祖父ネットも最近知ったばかりである。それを受けて中国語でも二つです、と訴えた。ヘー、ということになったが、さらに日本語は一つですね、いや二つありますと。その一つが「天主」であると。

日本語でキリスト教の「神」は、一つしかないと思っている人は多い。神を天主と書いてある旧約聖書もあるのだが、今は知る人も少ない。聖書すらありますと話すと、ええ嘘でしょう、ということになった。いえ本当です、ただしカトリックの聖書ですが。

そのカトリック聖書も、いつか今のように共同訳で「神」になってしまった。なぜでしょう。そうですね、多分ーーーー。切支丹時代の悲惨な事件が影響しているのでしょうと、普段推定していることを話した。

そこで仲間には次の資料を渡そうと思っている。
一、神が天主になっている旧約聖書の「創世記」冒頭のコピー
二、前島潔著の「日本に於ける基督教用語「神」に就いて」、立教図書館からコピー
三、「『ゴッド』は神か天帝か」 柳父 章著 岩波現代文庫

実際若いクリスチャンなどにも、ぜひ分かってもらいたいと思っている。日本に於ける150年間のキリスト教の「神」理解は、沢山の悲劇を生んだのではないか。欧米ではこの区分はないはずだ。カトリック、プロテスタントとも、英語ならばすべて「ゴッド」であろう。西洋語を東洋語に訳す時の、最大難関と言ってよいと思う。

キリスト教界ではやっと「神」に統一できたのに、今さらと言うかもしれないが、わたしは「天主」の方が正しいと思っている。ブログのお陰で、このように主張できる。もしブログがなっかたとしたら、このような素人主張など、一切無視されたであろう。

時代は変わったのである。信仰が民衆に取り戻されたのである。


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2009.08.01

8-168 キリスト教の神は天主と直すべし その25


耐震偽装事件で、官公庁の検査にこそ問題ありとした訴訟は、訴えた側の完全敗訴に終ったらしい。今朝のネットニュースで見た。偽装者側が官公庁の手抜きとして、50億近くの賠償金を要求していたのである。

その件に関し、前回に登場してもらった友人とさらに話した。彼は建築構造設計家である。新興宗教の信者でもある彼は、その合理主義的頭脳と神秘主義的頭脳がどう同居しているのか、わたしの興味のあるところであった。彼によれば日本の耐震基準というものには、さしたる基準はなく、建築基準法の基本精神である「国民の生命財産の保持」(同法第一条)以外の科学的根拠などない、というのである。

建築物と地震との関係はいたって複雑で、まるで神と人間との関係に似ている。最後はそこまで話が行った。お互いに宗教に興味があるからであろう。

ただ、話はここからである。

この神と人間というところの「神」であるが、祖父ネットは「天主」と読み替えている。つまり祖父ネットでは天主と人間の関係、と言っているのである。友人は「神と人間の関係」と言い、わたしは「天主と人間の関係」という。この違いは明らかで、彼は日本の神を言い、わたしはキリスト教の言う天地創造者を言うのである。彼の神は「あるもの」であり、本居宣長のいう「かみらしきもの」である。わたしはまったく違って、天地の創造者この宇宙の第一原因者をいうのである。

こういった彼との違いが明確になったのは最近である。長い間、彼とは建築や宗教で議論を繰り返したが、宗教では噛み合なかった。業界を同じくしていたから、日々の飯のための話は合っても、宗教の話だけはいつも未解決のまま今日至った。それがわたしだけ年金受給者になり、日々の飯の心配は基本的にはなくなった。彼はまだ建築商売にこだわっているが、くたびれたとつくずく言う。

そこで久しぶりに宗教の議論をしたのである。こちらはお陰さまで「神」を整理していたからであろう、彼と宗教の話をしても、「彼の神」と混合しなかった。それはクザーヌスを読む事を奨め、表題の神を天主と読み替えて読むと、キリスト教が分かるよ、と言ったのがきっかけである。本は「神を観ることについて」であり、岩波文庫版八巻和彦訳である。彼は素直に、今の複雑なある仕事が終わったらぜひ読んでみたい、読んだらお電話します、ということになった。

耐震事件以来、建築設計家たちの仕事がやたらに増えて、相対的にお金の問題は一層厳しくなった、という愚痴を聞きながらその日は別れた。

聖俗半々の面白い一日になった。

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2009.07.31

8-167 キリスト教の神は天主と直すべし その24

8−144−23で表題のテーマを一応終わり、それを実行するために、内村鑑三の教文館版「一日一生」を利用していた。しかしここに来て、少し考え方を変えた。表記の問題はあまりにもスケールが大きいため、内村にばかりとどまっていることはできない、と思うようになった。

現在のキリスト教の書物は、「神」という字を使っている。だからこの言葉の悪影響は量り知れない。その重大性を解き明かしていくには、一冊の本にばかりこだわることはできない。

先日、古い友人にあった。彼はある新興宗教に長く関係している。その宗教団体は、一言で言えば神秘主義である。日本の神を中心にキリスト教の神も使い、「神」を宣教している。このように日本の神とキリスト教の神を一緒にし、神だから同じものでありなどと教理を単純化し、簡単に説明する宗教団体が幾つも日本にはある。「神」だから同じである、という言い方は実に乱暴である。しかし、「神」という言葉を使う以上、そういったことが起こるのはやむを得ない。どちらが正しいのかということなど、本質的に何の根拠もある訳がない。憲法の宗教の自由の下に、そういった宗教法人など簡単に組織できる。その際、最も利用しやすいのが「神」である。

ところがここで主張しているように、キリスト教の「神」に当たるのもが「天主」であるとすれば、キリスト教は他の宗教と分離できる。神ではなく天主であるから、同じものを指し示す訳ではない。神と訳されてもそれは当然同じではないが、神を天主とすればそれがより明瞭になる。キリスト教とは、日本の神とまったく別な考え方なのである。別に複雑ではない。言葉一つで、こうも簡単なものかと、実行してみて分かるのである。現に古い聖書であるが、いわゆる今ではすべて神と訳されている「神」を、「天主」と訳している旧約聖書が現存する。わたしの手元にある。

聖書は翻訳されたものであるということを、忘れてはならないと思う。「神」と言うその翻訳語が間違っているのである。

友人をその神秘主義から離すために、岩波文庫の「神を観ることについて」という本を渡した。読むかどうか分からないが。書いた人はキリスト教中世哲学者のクザーヌスである。本を渡す時、その本の「神」を「天主」に読み替えて読んでもらいたい、と言って渡した。訳した人は八巻和彦氏で、クザーヌスを書いて彼の右に出るものはいない。祖父ネットより若い人である。その彼すら「神」なのであるが、それを「天主を観ることについて」と替えると、八巻氏の言うことが一層明瞭になる。もちろん氏の頭の中の「神」は日本の神ではない。神を普通名詞として使っているのではない。

彼の頭の中の神はキリスト教の神であって、日本で言う神ではないことは当然のことである。しかし普通の人にはそれが理解できない。題名からフト手にすることはあっても、読み始めれば放棄するであろう。日本人が期待したようには話が展開しないから理解できないと思う。キリスト教信仰に依ってこそ分かる書物であるのは、それが神理解の違いに基づいているからである。彼の本は「天主」と読み替えてこそ全部理解できる。信仰とは別であるが、考え方としては理解できる。

キリスト教の神は天地の創造者、すべての第一原因者として理解してこそ、初めて理解できる神である。だから天主と訳した方が適切である、と言っているのである。

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2009.07.29

8-166 天主と書く「一日一生」 27


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月27日(本文33頁) 

☆ 聖書の引用箇所/テモテヘの手紙二第四章三節〜五節
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。

そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

☆ 内村鑑三の解説
宗教というものは人類と天主との間の関係を明らかにするものであって、これを世に伝えることは人類を最も幸福な地位に立ち返らせるものだから、この教理を世に伝えることは、実に善の善であって、博愛事業のうちこの事業に勝るものは他にはない。伝道は仁人君子の職(つとめ)であり、これに勝る業を私たち自らの思想中に見出すことはできない。

今伝道をもって人類を天主に立ち返らせる事業とすれば、その区域は実に広くかつ大なるものである。

言語によって教理を説明するのはもちろんその方法の一つである。けれども説教または筆硯(ひっけん)の業によって伝道事業の大部分または全部とみなすのは、大いなる誤謬といわざるをえない。伝道の要はすべての方法をもってすべての人を天主に立ち返らせることにある。

★祖父ネットの解題
この箇所を現代人である祖父ネットが読むと、二つの感想を得ることができる。

一つは聖書の冒頭にある言葉、すなわち「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。」というところである。現代キリスト教の問題を言い当てて妙であるが、2000年前に発された言葉とはいえ、あまりにもピッタリである。しかしどのようなものであれ、出発時の斬新な思想もいずれは陳腐化する、という経験上の理由であると思えば、さもあらんということである。

二つ目は、聖書のその箇所を読んだ内村の内心である。この箇所は彼の言葉にしては意外と切れが悪い。それに長くくどい。これは彼の心の中に、いささかの波が立っていることを表している。内村が無教会を宣言したとき、それが「健全な教え」であるかどうか、フト迷ったのであろう。

いかに無教会という考えが、幅の広い深い個人の実存に根ざすものであるか、ということを知らない彼ではない。健全であるかどうか、教会という深い西洋伝統を乗り切る、日本人内村鑑三のサムライ精神は一歩たじろいだのであろう。

伝統キリスト教のもつ重圧な歴史を、彼は十分に知った上で、刀を一気に振り下ろしたのである。一刀両断と言う言葉が、一番この際適切であろう。ここに教会の覚醒はなる。これにより今、教会人は深く反省し、また共に歩く道を見出したのである。

教会人は常にこの言葉の持つ意味を忘れてはならない。

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2009.07.28

8-165 天主と書く「一日一生」 26

内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月26日(本文32頁) 

☆ 聖書の引用箇所/箴言第三章十九節〜二十二節(注、箴言は旧約聖書にあります)
主の知恵によって地の基は据えられ、主の英知によって天は設けられた。主の知恵によって深淵は分かたれ、雲は滴って露を置く。わが子よ、力と慎重さを保って、見失うことのないようにせよ。そうすれば、あなたは魂に命を得、首には優雅な飾りを得るであろう。

☆ 内村鑑三の解説
詩人テニスンの最も注意した問題は、霊魂不滅未来存在の問題であったと言う。故グラッドストーン氏、またこの問題に彼の終生の思考を注ぎ、死に瀕した時、バトラーの『アナロジー』に評注を加え、彼の豊富な観察と思考の結果を世に遺(のこ)して逝(い)った。

政治家であれ、文学者であれ、あるいは商売人であれ、職工であれ、常にこの世以上の一問題を彼の脳中に蓄えておくことは、彼の品格を高め、彼の悟性を明らかにし、彼に俗界の汚気に触れる憂いをなくすために必要である。

★祖父ネットの解題
昨日(2009年、平成21年7月27日)の日本経済新聞夕刊トップに、驚くべき記事が載った。「2時間映像720本分1秒で伝送/光ファイバー容量世界最大/KDDIなど3年後めど」。

今でも十分な性的有害情報が、別に問題もなく世界的に見られる時代である。記事のようになると、性的有害情報とは有害情報ではなくて、平凡情報としてだれも見向きもしない時代になる、ということを意味するのだろうか。我々の興味が性にあるということを、だれも否定できない。

昔も今も性は聖である。生命を創りだし、伝え、伴侶を得る主な目的である。それは優美であり、個人的であり、秘密的であり、密室的である。が、インターネットはそれを商売に利用する。商売となれば、人の最も興味のあるものを利用するのが常道である。ただそれが性に関わる場合、過剰として人の魂をいためることが多い。どのように悪い影響があるかということは、論ずる必要はないだろう。だれ一人として、その誘惑から逃れられない。

映像はこのように悪用されるが、映像が絶対に送れないものがある、「天主」である。ローマ教皇庁システィナ礼拝堂に描かれた「アダムの創造」は、1510年ミケランジェロの作であり、芸術品として至高である。そこに「天主」が描かれている。しかし、それをネット上でいくら見ても、また現場で実際にを観ても、実際の「天主」を見ている訳ではない。絵のモチーフとして描くべきものではなかった、と言ってよいであろう。

「天主」とは見えないものであり、映像として送ることができない世界で唯一の、人間にとって最も貴重なものであるということが、一層分かる時代に入ったのであろう。

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2009.07.27

8-164 天主と書く「一日一生」 25


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月25日(本文31頁) 

☆ 聖書の引用箇所/マタイによる福音書第五章十四節〜十六節
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置くものはいない。燭台の上におく。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

☆ 内村鑑三の解説
イエスの弟子は世の光である。文明の先導者である。知識の開発者である。霊光の供給者である。このことについて疑いを抱く者はない。世のいわゆるキリスト教に迷信がない訳ではない。いわゆるキリスト教会なる者が頑迷無智の巣窟(そうくつ)と化したことは幾回もある。

けれども過去千九百年間の人類の歴史において、イエスの弟子が光明の松明(たいまつ、字句異動)を把持者(もちて)であったことは、どのような人であっても疑おうと思ってもできなかったところである。我は世の光なりとイエスは言われた。そして信者はイエスに代わって世を照らす者である。

もちろんイエスのように自ら光を放つことはできないとはいえ、各自の信仰の量に従って彼の光を反射するのである。

★祖父ネットの解題
この箇所ほど内村の文章や聖書が、時代に合っていない箇所はないと思うようになった。青年の頃ここを読んで、随分発奮した記憶があるが。

しかし、今や時すぎて老人となり、いかにこの箇所が自分に相応しくないか理解できる。イエスの光の反射などゼロに近い。ゼロが正確であるが、近ければその量にしたがってという、内村の文章としては正確となるが。その上に大容量の情報社会は、キリスト教会やクリスチャンがいかに不快な行動をしているか、またそうしてきたかについて、一層詳しく知らせてくれる。むしろ人はすべて罪人である、というメッセージの方がはるかに説得力がある。

しかし何事にも両面があるように、キリスト教徒が聖書にあるがごときものであったことは確かであろう。同時にこの道徳的な文言は、歴史の中で生き生きと活動したことも事実である。

はたして人の未来はどのような展開をするのであろう。善と悪、この永遠のテーマは今も我々を直撃している。

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2009.07.26

8-163 天主と書く「一日一生」 24

内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月24日(本文30頁) 

☆ 聖書の引用箇所/ヨハネによる福音書第十四章十六節〜十八節
わたしは父にお願いしよう。

父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。

この霊があなたがたとともにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたのところに戻って来る。

☆ 内村鑑三の解説
私たちがキリスト信者となったというのは、洗礼を受けてキリスト教会に入ったということではない。また私たちの知能をもってキリスト教の教理を理解したということでもない。私たちがクリスチャンになったということは、私たちがある「聖者」を友としてもつようになったということである。しかも単にある古い記録において、ある理想の人を発見したというのではない。

今活けるある聖(きよ)い友人を発見してその伴うところとなったということである。すなわち私たちは大いなるパラクレートスすなわち「側(そば)にある者」を得たということである。

寂莫(せきばく)の世にあって孤独の生涯を送るのをやめて、大なる「訓慰師(なぐさめるもの)」を平常の友としてもつようになったということである。


★祖父ネットの解題
内村鑑三の言葉のエッセンス集たるこの「一日一生」であるから、これぞ内村という言葉が多い中にあって、この箇所は彼の信仰の特徴をよく表している。それは「無教会」という思想である。明治時代十分な情報もないままキリスト教に接した人たちには、キリスト教と教会の関係を切り離して考えることは不可能であった。また西洋とキリスト教を切り離すことも大変難しかった。

その中にあって天与の秀才は苦しんだあげく、それぞれを見事に切り分けて考えることに成功した。苦しみは砂を噛むようなものであったが、日本思想史の財産となった。それでもイエス•キリストと教会と西洋を切り離して考えることは、今でも難しい。

ミッションスクールで学ぶもよし、クリスチャン家庭もよい、教会の門をくぐるのもよい、欧米に学ぶもよいと思う。ただ大切なことは自分とイエス、自分と天主、天主とイエスとの関係がはっきりしてこないことにはキリスト教は理解できない。

こういった実存的な事を、明確にあの時代に確立したのが内村である。無教会とは決して欧米の産物ではなく、日本が広く言えばアジアが、世界のキリスト教に誇ることができるものである。

これで世界のキリスト教は完成したのである。伝統的教会もよし、またそれに拮抗する実存的無数者のキリスト教もあるとしたのである。伝統的教会の桎梏たる経済問題を克服し、もともと無経費の、天主やイエスの愛を示したのである。

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2009.07.25

8-162 天主と書く「一日一生」 23

内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月23日(本文29頁) 

☆ 聖書の引用箇所/出エジプト記第四章10節〜十二節
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ、私はもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕(しもべ)にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。まったく私は口が重く、舌の重いものなのです。」主は彼にいわれた。「一体、だれが口をきけないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なる私ではないか。さあ、行くがよい。この私があなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

☆ 内村鑑三の解説
憂えることはない、汝朴訥(なんじぼくとつ)な青年よ。汝は常に秀才怜悧(れいり)の人に愚者として疎んじられ、汝が世事に長じていないことをもって不用人物とみなされることがある。しかも、全能なる天主はかえって汝のようなものを求め、汝に人間の思想の達しえないような知恵と希望と喜悦とをもたせようとなさる。言うのをやめよ、汝俊才怜悧の青年よ、我は人を統御する才があり、我は世の風潮を観察する卓見があるから、我は伝道師となって教会を組織し教理を伝播しようと。

汝はよろしく伝道師となる念を棄てて他の事業につくべきである。

★祖父ネットの解題
この文章は、明治時代の空気のようなものを感じさせる。日本でキリスト教が生き生きとしていた時代。様々な事業を興し、人々に喜ばれた時代。その時代が去り、今や物質全盛時代となった。純朴は消え、人々は早くから精度の高い情報に接する。

それなのに、たった一つの情報だけ、どこを探してもないものがある。「天主」である。あらゆるものが見えるのに、これだけは見えない。今からはやる動画ネットでも見るができない。古代人はこの「天主」と語ることができた。何とうらやましいことか。単に錯覚であろうか。あらゆるものが見える時代に、たった一つだけ、永遠に人には見えないものがある。

信仰が成り立つ所以である。信仰とは唯一見えないものを信じることに尽きる。

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2009.07.24

8-161 天主と書く「一日一生」 22


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月22日(本文28頁) 

☆ 聖書の引用箇所/フィリピの信徒への手紙第三章八節
そればかりか、私たちの主イエス•キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。

☆ 内村鑑三の解説
病むもよい、私はただ天主の聖意(みこころ)を知りたいと欲する。貧するもよい、私はただ天主の聖意を知りたいと欲する。人に憎まれるもよい。私はただ天主の聖意を知りたいと欲する。

私の不幸の極みは天主の聖意を知りえないことにある。私は疾病を恐れず、孤独を恐れず、私はただ天主に捨てられてその聖意が私に伝えられなくなることを恐れる。天主よ、願わくは私にいかなる患苦(なやみ)の臨むことがあろうとも、あなたと私との間に霊の交通が絶えないことを。

★祖父ネットの解題
内村の生涯から言って、この聖書の言葉に彼がいかに励まされたかが理解できる。明治初期キリスト教を受容して、日本人として苦労した人の一人である彼の苦労を偲ぶことができる。現在にそれを置き換えるなら、苦労の局面は違っているにしても、人生の苦労という点に関しては何らだれもいつも変わりはない。むしろだれもキリストからはなれ、人間の英知にのみ頼る時代であればあるほど、信仰をもち続ける苦労は並大抵ではない。

人は前に進んでさらなる苦労を得、後ろに下がって苦労の跡を確認するのである。それは主から離れたことが原因である、とキリスト教は説明する。いかなる時代になろうとも、キリスト教のこの人間存在の基本理解と、救済理解の説明は今後とも変わることはないと思う。

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2009.07.23

8-160 天主と書く「一日一生」 21


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月21日(本文27頁) 

☆ 聖書の引用箇所/イザヤ書第四十三章十五節〜十七節
わたしは主、あなたたちの聖なる天主、イスラエルの創造主、あなたたちの王。主はこういわれる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。

☆ 内村鑑三の解説
奇跡とはなんであるかというと、奇跡とは天主の事跡であるというまででございます。すなわち人を造り宇宙を造られた天主がなさる業であるというのであります。

人間には奇跡はできるものではありません(特別な天主の援助を得るのでなければ)。なぜならば彼自身の位置が自然界の一部分であるだけでなく、彼は彼の堕落によって彼の能力(ちから)の大部分を失いましたからであります。

私たちは元来天然以上の者でありましたけれども、私たちが天主を離れて自己に頼りだしましてから、私たちは天然の奴隷(どれい)となり下がった者でございます。しかし、天主は己の造った天然を自由にすることができます。

天主が宇宙の運行を早めようが、遅らせようが、それは時計師が時計の針を自由にするのと同然で、何も驚くに足らないことであります。(座談)

★祖父ネットの解題
この言葉は座談から記録されたようである。文章語ではないから、誰かが記録していたのであろう。

内容は旧約聖書の故事を知らないと理解しにくいが、要はすべて天主を信じて生きていきなさい、という意味に受け取ってよいと思う。座談の現場では勿論「かみ」と言ったのであろう。天主の方が意味は取りやすいと思うのであるが、直接内村から「天主」という言葉を聞いたと仮定すると、少し恐ろしいような気もしないではない。「かみ」という表現は「天主」に比べ意味を広くとれるから、その座談会の雰囲気を少しは和らげられたと想像している。

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8-159 天主と書く「一日一生」 20

内村鑑三「一日一生」から

(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は、著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし、そこに引用されている日本聖書協会の新共同訳聖書には、著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月20日(本文26頁) 

☆ 聖書の引用箇所/ローマの信徒への手紙第九章一節〜三節
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も精霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり内による同胞のためならば、キリストから離され、天主から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

☆ 内村鑑三の解説
宗教家は愛国者でなければならない。博愛主義に則(のっと)ると称して、国家の存立すべき理由を解せず、国家の威厳を犠牲にして、外国の宣教師の命(めい)にただ従うようなことは、これは今だ宗教の大義を解していないのである。

真正の宗教家は皆ことごとく愛国家であった。国のためにならない宗教などは、邪教として排してよい。もし天使の形を装(よそ)おう者が降(くだ)ってわたしに一宗教を授けようとし、わたしに告げて「わたしはあなたに宗教を授与しよう。あなたの愛国心を捨て去ってこれを受けよ」と言ったとする。

わたしはその時、彼に向かって言うだろう。「わたしはあなたの宗教を必要としない。わたしはむしろ我が国を守って無宗教家として死のう。わたしの胸中に燃える一片の愛国心、わたしはこれに換わるべき者があるのを知らない。わたしはあなたに用はない。去って再びわたしに来るな」と。

★祖父ネットの解題
新聞などで、アメリカ大統領の演説などを英文で見ながら、同時に翻訳文を見ると、「ゴッド」という原文を日本語で訳さない傾向がある。これは悪い傾向である。ゴッドはゴッドとして、明確に書くべきである。同時にゴッドは日本語で「神」ではなく「天主」と訳してこそ、アメリカ大統領の依って立つ気持ちが明確に伝わる。

それが国民を思う大統領であり、いかに国民を守るかということに帰結することである。人類的である「天主」と、狭い「愛国」との間で苦しむ、ということになるのは言うまでもない。

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2009.07.16

8-158 天主と書く「一日一生」 19

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月19日(本文25頁) 

☆ 聖書の引用箇所/申命記第5章32、33節
あなたたちは、あなたたちの天主、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの天主、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きながらえることができる。

☆ 内村鑑三の解説
聖書にいうところの「天にいますあなたがたの父が完全であるようにあなたがたも完全であるべきである」(マタ五•48)とは天主の絶対的完全を達すべきだというのではなく、天主が天主として完全であるように人も人として完全であるべきだというのである。

完全な馬とは人のように物を言い、人のように思惟する馬をいうのではなくて、馬が馬としての用を完全になすものをいうのである。

したがって人に罪があるというのは、人が人としての完全を欠くということである。キリスト教が義人は一人もいないというのは、このことをいうのである。天主が私を責めるのは、私が雨を降らすことができず、日を輝かせることができないためではなくて、私は人を愛すべきなのに人を憎むからである、私は怒ってはならないのに怒るからである。

☆祖父ネットの解題
この箇所は文句なく分かりやすい。始めはなにを言うのかな、とおもっていると、いやごく普通のことが言われている。こういった人間観の切り口のようなものが、内村の魅力となっている。

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2009.07.15

8-157 天主と書く「一日一生」 18


内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月18日(本文24頁) 

☆ 聖書の引用箇所/イザヤ書第40章28節から31節
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます天主、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れたものに力を与え、勢いを失っているものに大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望をおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って登る。歩いても疲れない。

☆ 内村鑑三の解説
思想はすべて実現してその終末に達するものである。

人はその思想の実現を見て、彼はすでに彼の最終期に達したのである。常に若くあろうと願えば、常に実現できない思想を抱かなくてはならない。青年は夢想する人である。夢想がつき利害を知覚するようになって彼は老物と化したのである。常にインポシブル(不可能)を計画する人、常に大改革を望む人、常に詩人的で夢想する人、常に利害の念に疎い人、常に危険を感じない人、これが青年であり、壮者である。

すでにポシブル(可能)を計画し、すでに温和主義を主張し、すでに散文的で実務に着目し、利害の念に鋭く、脚下に注意するものは、その齢(よわい)を重ねたのが幾回であるかを問わず、彼は老物であってすでに廃棄物である。

☆祖父ネットの解題
老物、廃棄物という言葉は祖父ネットに痛い。こうあらんということはすでにないが、目指すものが時々ボケることもある。その目指すもとは「永遠の命」「罪の赦し」である。

それに尽きる、これしかない、と思うのであるが、それをすべての人に伝えるのが、至難の理想であるが。

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2009.07.11

8-156 天主と書く「一日一生」 17


内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月17日(本文23頁) 

☆ 聖書の引用箇所/エレミヤ書15章10節、11節
ああ、わたしは災いだ。

わが母よ、どうしてわたしを生んだのか、国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに、だれもがわたしを呪う。

主よ、わたしは敵対する者のためにも、幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか。

☆ 内村鑑三の解説

私はかつてエレミヤと共に嘆いて言った、ああ私は禍いである、人は皆私と争い、私を攻め、皆私を詛(のろ)うと。けれども今になって私は感謝して言う、ああ私は福(さいわ)いである、人は皆私と争い、私を攻め、私の詛ったので私は天主に結ばれてその救済にあずかることができたと。

人に捨てられるのは天主に拾われることであった。

人に憎まれるのは天主に愛されることであった。

人に絶たれるのは天主に結ばれることであった。

今に至って思う。私の生涯にあったことで最も幸福であったことは世に侮られ、嫌われ、辱められ、斥けられることであったということを。

☆祖父ネットの解題

この箇所は内村鑑三の一生涯を、ある意味で徹底的に表現している。

内村の全著作を読んでみると、その生涯を追体験できるが、普通全部は読めない。その著作は膨大である。しかし、彼の著作のすべてを読まなくても、この箇所だけで十分である、と言ってしまうのは心配であるが、ある意味で当たっている。

彼は幕末に一人のサムライの子として生まれ、その後キリスト教信仰を受け入れた。その生涯はまさにサムライの子らしく、闘いの一生であった。もし彼が16世紀の切支丹であったとしたら、当然のごとく鼻をそがれ、耳をきられ、逆さにつり下げられ、最後には火あぶりにあって死んでいた人物である。

彼は近代の迫害を経験したクリスチャンであった。その信仰のエッセンスがここにあり、すべての人は実は、天主の下で生きることができるというメッセージなのである。あまりにもそれは、現代社会が造り上げる幸福観と異なるので、とても信じることができないだろう。

しかし、真に人間を生かすものは、創造者天主の愛であることがここに書かれている。苦しむときにこそ人は、天主の下で真の人間となる。

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2009.07.10

8-155 「我らの信仰」 その6(最終回)

天下の誤訳「神」を、「天主」にすべきであると主張している。

その目的を果たすために、ブルンナーさんの古い本(1935年刊)、「我らの信仰」を利用した。キリスト教と言う信仰を成り立たせている根本の思想は、それが西洋思想であるということと、本来的にはなんの関係もない。キリスト教が欧米から来たと言われる技術「文明」とセットで解釈されるところに、日本のキリスト教の悲劇がある。その悲劇の根本的な理由が、その崇拝対象に「神」という言葉が当てられたことである。

今ではキリスト教関係のあらゆる本は「神」で満ちており、神があたかも普通名詞のように使われている。普通名詞であるということは、それが世界の人々の共通の「なにか」として「ある」という意味であるが、そんなものは「存在」しない、といっても過言ではない。

キリスト教は文明とは本質的に関係がない。ブルンナーさんは戦後に書いた「キリスト教と文明」
( Christianity and Civilization 白水社刊 2001年 新装復刊版 )の中で、それを端的に説明している。その一部を書いてみよう。ただし、神を天主と書き替えて書きます。

「いずれにしても、天主の国というのは文明の領域をまったく超越している現実なのです。その内実は〈終末のもの〉、つまり、究極的で絶対的なもの、完全なもの、真に天主的なもの、あらゆる人間的な相対性とは区別されるものなのです。

この天主の国の福音は、文化的な価値や社会制度などにいっさいふれることなく(注、聖書において)、そのもっとも深い秘義においてもたれる人間の天主との関係と、もっとも人格的で親密な意味での人間関係に関心をもっています。

しかし、この天主の国の教えは、イエスの教えのすべてであり、最後的なものであって、そこにはそれ以外のなにものも、芸術とか、教育とか、科学とか、社会的政治的な秩序とかいった大切ではあるが、一時的で世俗的ないっさいのものを入れる余地はまったくありません。

それでは、だれもこのイエスの福音から、キリスト教的な真理の基準をえようとするものにとって、何かキリスト教文明論のようなものを企てることなど、いったいどうしてできるのでしょうか。」

以上ですが、つまりこういった、いわばキリスト教の根本的な理念というものを説明するときに、あたかも日本で言われる「神」を、キリスト教の普通名詞として使うこと自体、非常に危険きわまりないことであるということが分かると思います。

ぜひ今からでも遅くないのわけですから、あらゆるキリスト教文章で「神」を「天主」に書き替えてもらいたいと思うのである。
(終わり)

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2009.07.07

8-154 「我らの信仰」 その5

8−150にあるブルンナーさんの「未来」の続きです。

○ エミールブルンナー「我らの信仰」/32編「未来」(213ページ)から

しかしなお、それにもかわらず、この新しいと表現される救いは、古い罪を引きずっています。それは古い罪の中から非常に激しい闘いを経て、やっと現れてくるものです。キリスト者の新しい生活は「罪に覆われた古い人」を通じて発現します。

私たちは確かに天主と交わりをなすものですが、それは罪の古い人を通してでしかありません。私たちは自分たちの不完全を嘆きます。私どもはいつも古い人をまといながら生き、新しい人生を支配している腐敗に悩まされ続けます。私たちは完全を渇望しながら、自分たちが死ななければならないことを知っています。この死こそまさしく古い人に対する、すなわち私どもが今なお引きずり歩いている、古い本質すなわち罪である、と言っていいでしょう。

天主の国は今だ実現しません。故に、私たちは将来を待ち望みます。天主の到来を待ち望みます。もし未来への眺望がないとすれば、ただ二つのことが残るだけです。すなわち、将来とは単なる幻想、もしくは絶望です。

しかし、信仰は未来に向かって開かれている窓です。その「窓」こそ聖書に記録された、現在も生きているとされる天主の姿、イエス キリストなのです。キリストにおいて、私どもに約束された悦ばしい内容であります。それが聖書が福音書と名付けられた理由です。

○ 祖父ネットの解説

読み返してみるとかなり書き替えている。人間の言葉は時代の影響を受ける。聖書もそれを免れないが、時代が変わっても聖書が言わんとしていることは、はっきりしている。とくに「神」を「天主」に書き替えると、ますますはっきりする。それを信じるのがキリスト教徒である。この言葉の採用によって、日本の宗教で「神」「仏」「天主」とを分けることができる。

どれが「正しい」などということは今さら言うべきことではない。人間を救うという目的の宗教は、これで十分そろったと言えるであろう。宗教は人類史の大きな柱である。
(続く)

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2009.07.06

8-153 「我らの信仰」 その4

8−150にあるブルンナーさんの文章、「未来」の続きである。

と、いいながら昨日、面白いことをネットで発見した。「動画」である。
ブルンナーさんと少しテーマがずれるが、「ブログ」自身の動画のことである。ここ祖父ネットは最近ご存知のように、日本語の最大誤訳「神、天主」翻訳問題を書いている。それがいかに深い問題であるかを洞察しているが、穿つこといまいち力不足を感じる。その非力を補う方法があることを発見した、「動画」である。

フトしたことから、動画検索を覚えた。

動画とはもともと金儲け主義のエロ動画、だとばかり思っていた。たしかに世界には驚くべき有害高度な性動画があって、人々の目を楽しませている。それは当然、経済効果が十分見込める商売なのであるが、まともなものではない。度を超していて、年寄りには体によろしくないし、若者には刺激が強すぎて、なにおかいわんや、である。論評困難、とても非才老人の出る幕ではない。

ところが、動画には悪いことばかりも無い。

むしろ素晴らしい利用方法もあった。いま祖父ネットというブログには、動画を貼付けることができると思われる。実験していないので詳しくはわからない。先述のエロネットのことで、自分で動画を利用することは興味が無かった。しかし、確かに説得しようとすることについて書き、さらに動画を簡単に添付できるとするなら、これほど分かりやすいものは無い。もはやそういった時代なのであるか。文章と動画の組み合わせである。文章と写真の時代がさらに進んだ。

で、動画検索「浦上天主堂」と実験してみると、次のような結果があった。

http://www.youtube.com/v/J41G_KsNuiY.swf&autoplay=1

まさか「天主」という言葉が動画でヒットするとは、思ってもみなかった。ところが、見ていただければ分かることであるが、驚くべきことに、いいですね「天主」堂の鐘の音は。
 
つまり、「天主」という言葉は、まだまだ健在であるということを発見したのである。とすれば、「浦上神堂」と言ってしまうと、おおよそ、そぐわない表現であることが分かる。ということから、いかに神が誤訳であるか分かってもらえると思う。

聖書にある翻訳語「神」を、各自が「天主」に読み替えてこそ、本当のキリスト教に達することができる。祖父ネットもいよいよ動画を利用する時期に来たのか、少し研究してみたい。
(続く)

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2009.07.05

8-152 「我らの信仰」 その3


8−150にあるブルンナーさんの文章、「未来」の続きである。

○ エミールブルンナー「我らの信仰」/32編「未来」(212ページ)から

すなわちいったいどうして、こうしたことが起こるのであるか、またどこからこの知識を得るのであるか、という疑問です。この二つの疑問にはただ一つの答えだけがあるだけです。

それはイエス キリストです。これは聖書において知り得ることです。ヨハネの手紙1/1章2節に書いていることは次のようなことです。「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのですーーーー」。私たちはこの聖書によって、イエス キリストを知ることになりました。わたしたちは、イエス キリストを知り、それが真実であると信じました。私たちは、それが実際に起こったことであると信じました。

それは、すでに天主が来られておられるということを意味します。ヨハネ福音書1章14節は「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」( The Word became a human being . and , full of grace and truth , lived among us . )

イエス キリストは現実の歴史です。

この新しい歴史によって、この世界が失っていた天主の生命、愛が、私どもの罪の赦しとともに新たに取り戻されました。このイエスによって、人は再び天主と相見え、一切を超越した天主の平安を得、天主と人間の新しい生活が生まれたと、聖書は語ります。

救い主であるキリストを首(かしら)とし、人類を枝とするキリストの団体、キリストによって聖められた人々の愛の交わりが、歴史の中に現れたのです。この天主から生まれた新しい生は限りなく、かつ偉大なもの、貴いものであります。この歓喜、力、意志、相互関係、確実な信仰は、キリストによって刷新され創造されました。古い世と自己はことごとく過ぎ去り、すべてが新しくなった、ということを意味しているのです。
(続く)

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2009.07.04

8-151 「我らの信仰」 その2


ブルンナーさんのこの「我らの信仰」が書かれたのは、1935年である。

その年は言うまでもなく、昭和10年である。祖父ネットが生まれたのが昭和16年、1941年である。随分古い話である。この「未来」と名付けられた文章を読んでいると、当時の社会状況が彼をしてこのような文章を書かせたのであると、言えないこともない。

その年の前後、ヒットラーが総統に就任しているし、イタリアがエチオピアに侵入した。すでに満州事変が起こっており、日本の傀儡政権である満州国も成立している。太平洋戦争とネーミングされた戦争は、1941年である、などと言うこともないだろう。それを全体で言えば、第二次世界大戦と名付けられる戦争は、1939年ドイツがポーランドに侵入したことを始めとしている。

何と激しく世界は動いたことか。それが昭和の初めにアメリカで勃発した世界大不況の高らかなラッパの吹奏から、人類史未曾有の悲劇が始まったのである。だからブルンナーさんが聖書をこのように読んだとしても、決して不思議ではない。

ウィキペディアによれば、ブルンナーさんは1889年(明治22年)の生まれである。さすればこの「我らの信仰」が書かれた1935年は、彼が46歳の成熟期の働き盛りである。肉体的な衰えからマイナーな考え方に捉えられる年齢ではない。やはり世界のただならない情勢が、彼の思想に深く影響したことは間違いない。

しかし、ブルンナーさんのこの文章は、私には決して古く感じない。彼がこれを書いた時の背景はともかく、あまりに今にも通用すると思うので、自分としては不気味なのである。

戦後、あの惨禍を乗り越えて高度成長し、世界の経済大国に仲間入りした日本の今の状況は、むろん当時と逆である。いちいち言うまでもないが、日本人は天主の力を借りずに人間自身で英知を傾け、ここまでやってこられたのであると。これは人間性の勝利である、といっても過言でないような気がする。本来ならブルンナーさんの「我らの信仰」で言われた未来の姿など、「改善」を可能にした人間性の前で、敗退したというべきであろう。キリスト教のこのような非現実的な信仰は、あくまでもあのような深刻な事態であったからこそ、人々の共感を得たのであると、言い切る人もいておかしくはない。

確かに、今ではキリスト教は西洋でも後退していると言われている。日本でも信者の数は延びないままである。それに反し、厳しい政治的現実を背負っている韓国では、驚くほどのクリスチャンがいる。キリスト教は、本当に厳しい現実の中だけに通用する宗教なのであるか。これが祖父ネットのテーマである。

ブルンナーさんの文章が生きることは、すでに無いのであるか。私の受けたキリスト教教育は、もはや不必要な、打ち捨てられるべき無駄な教育であったのであるか。古い本を前に、古い人間が自問自答しているのである。
(続く)

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2009.07.03

8-150 「我らの信仰」 その1


今から50年ほど前、明治学院の中学校のとき、エミール ブルンナーさんの「我らの信仰」が教科書だった。その経緯は8−149に書いた。原題は、
Emil Brunner / Unser Glaube/
Eine christiche Unterweisung / Gotthelf Vesiag/ Bern=Leipzig/ 、
新教出版社さんで刊行したものである。手元のものは1958年版で教科書版第6版となっている。
その一部を「神」から「天主」に書き替えてご紹介します。

「未来について」(210ページから) エミール ブルンナー

キリスト教信仰は「天主は来られます」ということを言う点で、ほかのあらゆる宗教と違っています。

旧約聖書でもそれは同じです。また新約聖書で「悔い改めなさい、天主は近づいておられます」とマルコによる福音書第一章が書き、聖書の最後の文章も「アーメン、主イエスよ、来てください」です。未来の天主の支配の告知が、福音です。そして、それは来るに違いない、それが永遠の完成である、というのがキリスト教の信仰です。

今日一番多く失われているものは、希望です。

この希望の喪失は、人々が、天主がやってこられると言うことを信じない、あらゆるところで起きています。天主が来られるということを知らない場合、人々は次のように考えます。世の中は結局、こうしたものだ、我々は現在のままの状態を続けるだけで、ほかに方法がない、と。人々も確かに希望を持っています。しかし、進歩や発展によってもたらされる「改善」を望んでいるに過ぎません。人々は、人間の「健全な心」、またそれと同様の「人類の核心にある善なる力」に希望をかけています。

しかしそれは、本来何も望んでいないのと同じです。

もし私たちが、人間固有の蓄積だけを頼みとし、また能力だけを頼みとするだけであるなら、私たちは滅亡するでしょう。私たちの進歩発展また進化発達は、死および罪と呼ばれている腐敗と堕落から、私たちを救い出すことはできません。私たちが私たちのうちにあるもの、また世界の中にあるもののみを頼りにしていますと、一切は結局破滅するほかはないでしょう。

聖書は私たちに語ります。

「それは違う、われわれはそのようなものに望をつないでいない」と語ります。この世界は「閉ざされた」ものではなく、それは天主に向かって開かれているものです。あなたは閉ざされていない、天主に向かって開かれている、天主があなた自身を開かれるのです。

あたかも解放者が、捕囚の憂き目に遭って憔悴し切っている人々を、再び光明の世界に連れ出すために、城塞の奥深くにある牢獄を打ち破り、その扉を開くように、天主があなたの心の扉を開かれるのです。天主がこの世界に、その扉を打ち破って入ってこられるのです。腐敗堕落し破滅の淵にある被造物のところへ、天主がそれを再び善美な状態に回復するために、またそれを完成するために来られるのです。

天主があなたを救うために、あなたのもとに来られるのです。

私たちがこのことを聞く時、二つの疑問が残ります。
(続く)

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2009.07.02

8-149 ブルンナーさんを書く

明治学院の中学校のとき、ブルナーさんの書いた「我らの信仰」が教科書だった。

勿論、当時よく分かる訳ではないが読んだ。ブルンナーさんについては、ウィキペディアを見てから読まれるとよいと思うので、どのような人であるかは書かない。その本を今でももっている。そして、時々読む。最近、「神」を「天主」に読み替える運動を始めたばかりなので、その線にそって書いてみたい。

ドイツ語は分からないが、ローマ字日記を十年ほどつけているから、読むのにそれほど苦にならない。本では表題の次のページに出典が書いてある。Emil Brunner / Unser Glaube/
Eine christiche Unterweisung / Gotthelf Vesiag/ Bern=Leipzig/
となっていて、次のページにブルンナーさんの文章が英文で書いてある。英文タイプをそのままを印刷してある。

出版したのは新教出版社さん。 現在手元にあるのは1958年版で、古書で購入した。教科書版第6版とあるから、かなりの数が出版されたようだ。あらためて読んでみると、内容はキリスト教を理解する上で、今だ有効である。中学校の教科書だからブルンナーさんも、余りこむつかしい表現をしない。平明で分かりやすい。祖父ネットが日本語の神を、天主に書き替えた方がいい、と主張している例として使うには絶好である。

古い本だから言葉を当時より読みやすくすし、一部をご紹介したい。本は絶版である。国会図書館には保存されているので、気になる方はそこで確認されたい。翻訳の翻訳である。ごく一部しかできないが、キリスト教とはこれ、と分かる文章にしたい。「神」を「天主」に書き替えるので、とてもよく理解できるはずである。

ついでに言うと、祖父ネットは「神学」という言葉が嫌いである。英語でセオロジーであるが、セオスというギリシャ語が、新約聖書の今翻訳されている言葉「神」にあたり、そこから派生したのがセオロジーなのであろう。セオスが日本語で神と訳され、そのまま「神学」などと言われてしまったが、悪い訳である。明治初期の聖書翻訳時、中国語聖書の神をそのまま採用したのである。セオスには他に「天帝」「天主」などの訳があったのにも関わらず。

もし天主と訳されていれば「天主学」なのであるが、これでもしっくりしない。あくまでもロジック(論理)として、信仰を論理的に言い表そうと努めたものだ。学問的近代的な科学とは、まったく違うものである。それが教義学とされずに、「神学」と訳されたために、キリスト教の汗の結晶が台無しになった。

神の学とは、大げさに表現されすぎた感がある。信仰とは心の問題で、科学を連想させる近代客観主義とは相容れるものではない。つれて神学校などというのもやめるべきである。教義学校であろう。宗教なのであるから教義に過ぎない。信じる信じないは、各自の問題で、客観的真理などというものとは別である。それを分かりやすくするために、祖父ネットは聖書の神を、天主に読み替えて読んでいる。

祖父ネットの「神、天主書換運動」の主眼点を述べた。

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2009.07.01

8-148 人間の罪について その三

「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)の最終回としたい。

建築というものが、いかに人間と深く関係しているか、このごろよく理解できる。本にはジュンク堂トークに出席する、駒見宗信さんのコメントがある。彼が「新建築」と言う建築雑誌の記者のとき、村野先生に質問をしたことが書いてある。先生は建築家なのだから、そこらの建築家と違い自由に設計できるのではありませんか、と問う。それに答えた先生の解答は意外。いや99%、お客様の意向にそって設計しています。自由なのは1%です、と。駒見さんはそのとき赤面したとあるが、確かに意表をついている。

文字通りではないにしても、超一流の建築家の答えとして一流だ。建築は勿論社会に必要なものである。それゆえ、どこかそれに関わる人は一種の不遜がある。そういう建築家をよく見る立場にあったから、建築家でない自分には多いに不満があった。日本が高度成長時代、謙虚でない建築家がいかに多かったことか。いやというほど見た。

そんなところから、建物は人間の罪を顕してしまう。街はその建築で溢れているが、どれもこれも少なくとも傲慢の臭いを免れない。制作の内部事情を知らない人にはこれが分からない。が、内部にいるものにはそれが当然分かる。どんなことにも内輪の話はある。しかし、建築の話はスケールが大きいから、あきれることが山ほどある。それをここで「人間の罪」と言った。

人間の罪とは利己主義であり、それ以外ではない。その利己主義が表面に現れるものとして、建築ほどストレートなものは他にない。よく自分はその辺りのことを、建築家に向かっていったものである。飛行機なら落ちますね、と。しかし、いささかの失敗ぐらいなら、建築は落ちないで傲然と建つ。これが怖い。

クリスチャンでもあった村野先生の作品にはそれが少ない。世間はよく知っていた。その先生に文化勲章が当然のように贈られたのである。村野藤吾は寡黙な建築家と言われていた。その内面の披瀝が今回の本の内容である。ぜひ一読をお勧めする。

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2009.06.30

8-147 人間の罪について その二

「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)の続きである。

この本を知ったのはネットである。いつものようにネットで遊んでいて、フト目に入った。若々しい美しいお嬢さんと、「村野藤吾」の名前が目に入った。それは本の宣伝で、前回書いた関係から早速ジュンク堂に行った。内容から言っても、一般書でもいいと思うのであるが、カテゴリーとしては「建築」。ジュンク堂では技術系の本は7階であったか、要するに上の階である。人があまり入らない階、とでも言った方がよいかもしれない。

それでも棚に五六冊はある。上の階にしてはジュンク堂さんでも力が入っている。その熱の入れようには、多少あたりがついていた。7月11日、ジュンク・連続トークセッションで村野先生を取り上げる予定になっていたのである。勿論、参加をすでに申し込んでいて、楽しみにしていた。それと本とが連続しているとは、そのときまったく予想していない。

本を買って読んだ。読んで懐かしいことや、自分のつたない経験が走馬灯のように頭をよぎった。日本を代表する建築家と、しがない祖父ネットでは繋がりようもないのであるが、そこは業界を同じくすること、「先生」も同じ悩みを持っていた、と知った。そこで、書き始めたのである。書くために本をもう一度よく確認した。書いているここは、しゃれたある喫茶店、英語で意味不明なモダン音楽を聴きながら、マックで書いている。

確認していくと、本の編集に関わった駒見宗信さんが、トークセッションの主役の一人であることが分かった。なんと、うれしいかぎり。年を取って、こういう幸せに会えるのである。会場の片隅で、黙ってコーヒーを飲みながら、今でも通用する建築家の生き様を、聞いてみたいと思っている。
(続く)

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8-146 人間の罪について

「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)という本を読んだ。

村野藤吾さんについてはウィキペディアにある有名な人である。さん、と言っていいか迷うのであるが、ここ祖父ネットではすべての人を、粗方そういった呼び方にしている。内村鑑三だけはそれができない。村野さんもそのような範疇の人で、さん付けはやめた方がしっくりと来る人である。が、ここではやはり、さん、と言わせてもらいたい。

私にとって村野さんという人は、二つの顔をもった人である。有名な建築家という顔、もう一つは私の祖父の友人でもあると言うものである。祖父が他界したとき、村野さんが弔辞を読んで下さった。祖父は少し彼より年上で、ともに大阪の建築設計業界で、先輩と後輩という位置づけであったらしい。弔辞は記録が残っていて、その中で祖父に先立たれたので、今度は自分が何かと乾杯の音頭をとらねばならないことになった、寂しいことである、と書いている。祖父の例としてではないが、そのことが本の中にも出てくる。村野さんは名実ともに建築設計業界の顔であった。

先生は日本を代表する建築家である。

今度は村野藤吾さんを「先生」と呼びたくなる。それは、祖父ネットもその業界で飯を食ったからである。飯を食った、といっても祖父ネットは建築家ではない。その業界の片隅で、それなりに呻吟していたに過ぎない。祖父からの流れを自然に引き継いだ職業で、だからこそそれなりに、本の内容は手に取るように分かる。分かりすぎて、どう言ってよいのやら、しばし考えながら書いている。

書くことはいっぱいあるが、先ず表題のことが頭に登った。なぜこのような表題になるのか。それは村野藤吾という建築家の思想には、いかにも日本的なすべての文化が詰まっているからである。深刻な表題はそれに相応しいと思えたことで、詳しくおいおい書いていきたい。

著書はあまりないと言われている。その一部は読んだことがあるが、今度の本は設計図でいえば鳥瞰図で、「村野藤吾」の人格をあらゆる角度からパースペクティブに表現している。その意味で、孫である写真家の村野敦子さんの編集は見事である。身内の甘えを乗り越えて、冷静な判断ができている。流石、写真家として認められた人であり、それでこそ村野藤吾さんの孫として、恥ずかしくない存在である。本に掲載されているモノクロの敦子氏の作品も、見事なものである。

ブログは一編を長く書けない。このあたりが限界であるので、さらに続けたいと思う。

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2009.06.29

8-145 天主と書く「一日一生」 16

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月16日(本文22頁) 

☆聖書の引用箇所/ヨハネの手紙一第三章、一、二節
御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが天主の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今すでに天主の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

☆内村鑑三の解説
信者は今なお救いの途中にあるのである。天主は彼にあって善い工(わざ)を始められて、これをイエス•キリストの日に完全(まっとう)なさるのである。(フィリ一•6)そうであるために私たちは今完全になれないといってあえて悲しむ必要はない。私たちは今は罪の身をもって罪の世にあるのである。私たちの外も汚(けが)れ私たちの内もまた汚れて、今や完全を求めても得られないものである。

そしてこういう状態であるために「聖霊が初めて結んだ実をもっている私たち自ら心の中に欺いて(天主の)子となること、すなわち私たちの体の救われることを待つ」(ロマ八•23)のである。そしてこの待望は空望(くうぼう)として終わらないのである。

その実現するときは必ず来るのである。キリストの再臨は単に彼の再臨にとどまらないのである。信者の救いの完成(まっと)うされるのもまたその時である。
(注、フィリとかロマとかあるのは、聖書の各書巻の略です。出典を意味します。)

☆祖父ネットの解題
「聖霊が初めて結んだ実をもっている私たち自ら心の中に欺いて(天主の)子となること、すなわち私たちの体の救われることを待つ」(ロマ八•23)、というこの聖書引用文の中で、「心の中に欺いて」がよく理解できないが、聖書本文は「心の中でうめきながら」である。それはそれでおいておきたい。

それにしても、イエスの再臨を言う内村のこの高い信仰は、当時かなり批判された。しかし今にして思えば、それが再臨を高唱できた最後の時かもしれない。ただ時が流れてますます「私たちの外も汚(けが)れ私たちの内もまた汚れて、今や完全を求めても得られない」に帰結している。主よ我らを憐れみたまえ。

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2009.06.28

8-144 キリスト教の神は天主と直すべし その23

日本語におけるキリスト教の最大用語「神」に付いて書いてきた。

祖父ネットの考えでは、表題に書いてある通りの意識で出発した。そして前島潔さんに遭遇し、しばし挫折した。しかしお陰で、ギリシャ語のセオスには達したのである。そこでこの問題はこれでやめようと思う。むしろ「天主」に固執し、「神」と書かれている既存の膨大なキリスト教関係書物を、「天主」という言葉に換えて、こつこつと解説して見るつもりである。

それは日本の神と明確に分離し、あらゆる日本人にキリスト教の信仰を開くものである。日本の神とは違うということを明確に示し、明確な信仰対象を示すことであると思っている。
(終り)

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8-143 キリスト教の神は天主と直すべし その22


ともあれ、少し考え、気持ちを立て直す必要を感じる、と前回は書いた。

少し時間が経過してみると、少し落ち着いてきた。前島潔さんの意図がいかなるものであれ、日本語聖書翻訳語の「神」について書いてくれたことは確かである。考えてみれば昔々、中国から漢字が伝えられ、字のない日本に字が生まれた。そして「神」という字もその時、日本の宗教に当てられたのである。次に切支丹。彼らは自分の神に日本語の「神」を使わなかった。さらに明治維新。宣教師は日本語の神に、中国生まれの神を当てて、自分たちの神を表した。以来、日本語の「神」にキリストの神が加わって、その幅が広がったと言えよう。

「和訳聖書の最も重要な原典と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる中国語訳聖書は、「神」を採用していた。殆どの日本語訳聖書はこの流れを汲み、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。」これはウィキペディアの「神」からコピーしたものである。いささか手前味噌で言えば、「ほぼ問題にせずに、こんにちに至るまで云々」という言葉に、これは問題である、と受け取れないでもない。

ともあれ、明治維新以後に日本語になったキリスト教の「神」は、中国出身である。日本語に訳された聖書は、中国語に訳されものを参考にしたのである。昔々、中国から伝えられた「神」という漢字が、おおむね1500年経過した後で、お出迎えしたという図式になる。

(続ける)

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2009.06.26

8-142 キリスト教の神は天主と直すべし その21


こともあろうに、「神、天帝、天主」問題を扱った人が、「大日本帝国の本質と使命」を書いた人であることが分かった。

国会図書館から戻り、コピーを読んだ。途中で吐き気がした。赦せない文章である。それでも表題が書かれている聖書の一句に、救われた思いがした。昭和12年の聖書引用は文語文、「これ皆一つとならん為なり」となっている。

しかし、このヨハネによる福音書第17章21節はこんなに短くはない。かなり長い節である。その節の全文や17章の全体、またこの福音書をすべて読めば、そこに引用された問題とはまったく関係のないことであることが分かる。ただ自分に都合の良い部分を、勝手に引用しただけである。自分に都合の良いこととは、「大東亜共栄圏」を持ち上げることであるばかりではない、全世界を「家族主義」という理想で貫くという、馬鹿げたことを言う為に利用したのである。

彼の理屈は誠に単純で、日本で生まれた古代の大和政権を理想化して書く。戦前よく利用された説である。日本の古代社会で、ある一家を率いた長(今の天皇家)が、複数の家族を吸収しつつ次第に大きくなり政権を樹立。その政権は一度も簒奪されず、今に一系として継続している。このような国は世界にはない。このような家族の典型が残る国の理想を世界に広めたい、と言う論法である。

その上でキリスト教では、創造者がまず家族として一対の男女を創り家庭を営ませたのであるから、家族主義は世界の理想であり、神の意志であるともいう。世界の他の国の歴史といえば、政体を簒奪し、常にその家族的結合を破壊する罪の存在であり、世界は日本に学ぶべきである。満州への侵略も、乱れた中国の政権を整理し、家族主義を実現する為であって、云々と延々と続くのであるが、これでは読んでいられない。

こういった積極的で幼稚な侵略思想を、当時のクリスチャンが公言していたということが、あまりにもショックであった。このことをもはや書き続ける気持ちを失ってしまったが、残念なのは「神、天主、天帝」問題もやめざるを得ない、と思い始めたことである。

日本の聖書で翻訳語「神」選択の理由を、前島さんも探求した。彼はその歴史的経過を詳述したのであるが、それはそれで優れている。しかし、それがこのような思想の持ち主では、彼を参考にする気持ちが失せる。日本語聖書の翻訳語である「神」選択は、所詮英米の宣教師等がやったこと、と言わしめる「意図」が別にある。

「神」という語が、いかに日本のキリスト教に悪影響を与えたかと言う、起点において祖父ネットと同じように見える問題意識も、内容はまったく道を異にする。祖父ネットはそのこと自体を考えることをやめようかとさえ思っている。

ともあれ少し考えてから、気持ちを立て直す必要を感じる。
(一応はまだ続ける、と書いておきたい)

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2009.06.25

8-141 キリスト教の神は天主と直すべし その20

前回は「前島 潔」さんには、今の世の中が受け入れられない大きな欠点があることを発見した、と書いた。

国会図書館へ。そしてコピーをとり電車の中で読み、家に帰って読み、非常につらい思いをすることになった。過去の亡霊が顔を出したのである。読んだ以上私の中に入り込まれた、これを追い出すのは、私の何を使ったらよいのだろうか。論文は「大日本帝国の本質と使命」である。こういった題名は勿論今ははやらないにしても、「日本の使命」ぐらいは言う人はいる。しかしいくら問題が大きいと言ったところで、その本質や〈大〉日本と言った表現は見当たらない。しかし、昭和12年に書かれたこの本は大真面目に、しかもクリスチャンがここまで書いていたのである。

簡単に言って、この本は読まない方がいいだろう。第一にマイクロフイルムというものは読みにくいし、全文をコピーしたわけであるが、1200円もかかり、その上読むと吐き気がするほど凄まじく高邁な内容である。今朝のネットニュースに「FF11は、魔物がはびこる中世の世界で、自ら主人公となって敵と戦う ゲーム。」にはまる青年の話が出ていたが、老年のネット好きも、昔の魔の世界と出会ってしまったようだ。はまった青年が大いなる時間の無駄であったと、発言している。

キリスト教は日中、太平洋戦争を通じて常に平和を訴えて苦しんでいた、と今の今まで思っていたのである。世の中の隅にいて平和を唱えて嫌がられていた、と伝えられていたように思う。内村鑑三の日露戦争反対論は有名である。内村のように骨太にはいかないまでも、太平洋戦争に消極的に反対し、一部の人は官憲の監視の下に生活していたのである、と思っていた。所詮少数者であり、敵国の宗教であるから、目立った反戦運動もしない冴えない話として伝え聞いていた。それがかわいいホッかぶりの、精一杯スタンスであったと思っていた。だまって、ひたすら生きていたクリスチャンは、戦争の大いなる被害者で、戦後アメリカ軍の進駐と同時に一気に花開いた、ぐらいに考えていたのである。

それが違っていたのである。それがまたこともあろうに、「神天帝天主」問題を扱った人であるから、祖父ネットにはショックが大きい。
(続く)

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2009.06.24

8-140 キリスト教の神は天主と直すべし その19

前回は「前島 潔」さんが「上帝」「神」「天主」を解説しているので、それを書いてみたい、と書いた。

ところが気を取り直して、できれば全文を現代語訳してご紹介したい、と思うようになった。昭和13年の文章を見ながら、いきなりワープロを打ち、現代語訳をしてもうまく行くはずもないのでノートに原稿を作り、それからワープロで清書するというやり方がいいと思った。

いつまで続くとも分からないが、三四日かかって少し目鼻がついた。原文を見ながらノートに現代文を書いていく。その内、文章に「神」を原語主義で書く案が出てきた。新約聖書はギリシャ語であるから、ギリシャ語を使うというアイデアである。ところが自分はギリシャ語に触れたことがない。しかしことがここまで来たのである、放っておけるわけもなく早速ジュンク堂さんに行った。日本語英語ギリシャ語辞典を期待したのである。

ところがあるのはギリシャ語英語辞典、ゴッドを引いてギリシャ語セオスを確認したいだけである。それでも仕方がないからやむを得ず、一番安い辞書「Greek-English DICTIONARY of the New Testament」を購入した。あとはギリシャ語の棚に並んでいる本から、ジュンク堂さんには申し訳ないのであるが、ゴッドがセオスであることを確認すれば済むことである。

ギリシャ語のセオスというのは、日本語の「背を押す」に通じている。背中を押される感じでギリシャ語セオスを探すと、何となくゴッドはセオスと読めるものがある。多分間違いないと思い、買った本を近くの喫茶室でゆっくりと確認した。つまり買ったばかりのギリシャ語辞典で、英語のセオスを確認したのである。「God」とあったからコーヒーのうまいことこの上ない。

しかしそうは問屋が卸さなかった。さらに書き進んで最後の結語に至ってから、前島 潔さんには世の中が受け入れられない大きな欠点があることを発見したのである。
(続く)

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2009.06.20

8-139 キリスト教の神は天主と直すべし その18


祖父ネットは「キリスト教の神という翻訳語」は、大誤訳であると主張している。

そこで前島 潔さんという方が、昭和13年に書いた書物を見に立教大学図書館を訪ねた。現役の頃の職場は池袋だったから、何度か構内に入ったこともある。しかし、図書館は初めて。閲覧許可書をもっていよいよ前島さんの本と出会う瞬間である。

本、「日本に於ける基督教用語『神』に就いて」を受け取り、風格のある閲覧室の椅子に座った。そこは立教が築地居留地にあった頃のもので、一言で素晴らしい。ともあれ本の内容である項目をまずご紹介したい。(注、原文にある国名は中国とする)

一、問題の重要性
二、日本語「神」の意義
三、聖書に於ける神の意義
四、中国天主教(注、カトリック)伝道史上に於ける用語問題
五、中国新教(注、プロテスタント)伝道史上に於ける用語問題
六、日本基督教史上に於ける神の用語
七、結語

前島さんはその結語で、「神」という語は、日本人が決めたのではなく、外国人宣教師が決めたことで、日本の長い神道伝統と紛らわしい、と書く。キリスト教の方でこの言葉を替えるべきである、と主張している。もっとも昭和13年という時代は日米戦の直前である。英米を相手に戦うと言う気分が横溢しているときの言葉であるから、割り引いて聞く必要がある。が、それでも大筋は間違っていない。

実は前島さんがこの文章を書いた経緯に、別の人が「キリストのみ神である」(昭和10年)と主張し、その本が発禁処分になったという事件がある。「キリストのみ神である」とは、明治憲法で信教の自由があり、信仰的な発言としては当然であるにしても、あの時代に文章となればそれは、ということになったらしい。国家の方も軽く受け流せない時代と言うべきであろう。

ところが70年近くも経過した現在、同じ主張すなわち「キリストのみ神である」などと言ってみたところで、だーれも相手にする人はいない。相手にする人もいないということになれば、だれも言わないわけであり、むしろ各自が信じる道でいいじゃない、ということになってしまった。ところでこのようなことを考えているうちに面白いことを思いついた。

イスラム教のコーランを日本語訳にすると、アッラーは神と訳すのであるが、然らば英語にしたときはゴッドと訳すのかどうか、という疑問である。早速ジュンク堂でコーランの英語版があるかどうか調べるか、などと思っている。祖父ネットの予想では、ゴッドではなくアッラーという原語を用いていると想像している。

それがなぜ日本語では「神」と訳されるのであろう。もしそう訳されていたら、おかしな話である。次回は前島 潔さんが「上帝」「神」「天主」を解説しているので、それを書いてみたい。
(続く)

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2009.06.17

8-138 キリスト教の神は天主と直すべし その17

中国語聖書では上帝版神版として、別々の聖書が今でも市販されているから驚いたと以前書いた。

柳父 章さんの名著「『ゴッド』は神か上帝か」で、2001年4月、文庫版を出版するに付いて、「岩波書店編集部の林 建朗さんのおかげで、ふたたび(注、絶版のこの本が)世に出ることになって、これで安心してあのお墓(注、先生は事前に作っている)にもはいれるかな、という思いである。」と語っている。この本が世に深く影響のあることを期待しておられる。

その中から祖父ネットのテーマも生まれたのであるが、さらに一層スリリングな展開を見せた。本には「前島 潔」さんという人が紹介されている。前島さんという人を知らないので、国会図書館で検索した。と、どうも立教大学に関係した人のように思える。目当ての本は見当たらない。そこで立教大学の図書館を検索してみると、柳父さんが紹介した本がある。早速、近くの図書館にお世話になって、立教大学図書館宛「紹介状交付申込書」を出してもらった。それが早くも受領され、あす立教大学に行くつもりである。

目的の本は「日本に於ける基督教用語「神」に就いて」である。出版が1938年と言うから、祖父ネットの生まれる少し前。

さらに近くの図書館には「歴史をかえた誤訳」(新潮文庫)という本があった。題名が祖父ネットのテーマに近い。調べるとそれはばりばりの現役本で、早速買った。作者鳥飼玖美子さんは立教大学の教授でもある。推理小説のようにスリルとサスペンスに富み、小説「天使と悪魔」より面白い。現実の社会の中で、言語による異文化遭遇が様々に展開する様は、あまりにも身近に感じられる。

祖父ネットにしてみれば「神という言葉の翻訳問題」は、その中でもまれに見る大誤訳問題であると主張している。
(続く)

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8-137 キリスト教の神は天主と直すべし その16


前回は小説「天使と悪魔」から同性結婚という、とんでもない問題にまで言及した。

久しぶりに神田のキリスト教老舗古書店「友愛書房」を訪ねた、と書いた。入手したものは二冊、「中国語聖書翻訳史」と「英和•和英語彙」である。前者はテーマにズバリの本で、著者は都田恒太郎さん、教文館から1974年に発行された。もう一冊は1830年のもので、メドハーストさんという人が書いたものの復刻版である。1830年と言えばおおむね180年前。そうでしょう180年前ですね確か、その英和和英の語彙集である。

ここで取り上げている英語で言うゴッドの、「神」という翻訳語は、明治初期ヘボンさんたちアメリカ系の宣教師等によって完成したものである、ともすでに書いた。明治元年は1868年で語彙集ができたのは、その前ということになる。ここから話は面倒になる。まずヘボンさんはこの語彙集を参考にしたと言う話がある。その上、メドハーストという人は前にも何度も紹介している柳父 章さんの本、「『ゴッド』は神か上帝か」によれば、神派ではなく上帝派なのである。

で、それなのにメドハーストさんが作ったと言われる語彙集では、「A god  Ka-mi カミ」 となっているから話がややこしい。こうなると素人では歯が立たないが、柳父さんの本(岩波現代文庫、学術56)の120ページを少し書いてみよう。

「委員会(注、中国語聖書翻訳委員会)の意見は二つに分かれた。
委員長メドハーストは『上帝』を主張し、ミルンなど多数を占めるイギリスの宣教師がこれに同調した。これに対し、ブリッジマンは『神』を主張した。両者の意見は遂に折り合わず、God と Spirit の訳語だけを白く残した草稿をまとめて、1850年、会議を終え、以後、両者は別々の中国語訳聖書を出版した。」

その別々の聖書が今でも、中国語聖書上帝版神版として市販されているから驚いた、と以前書いた。ともあれ21世紀の現在でも、決着はついていないということになる。ところが日本語の聖書では、完全にすべて「神」であって、さしたる論争も世間に伝わらないまま、これが天下の誤訳であるとここで主張しているのである。
(続く)

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2009.06.16

8-136 キリスト教の神は天主と直すべし その15

小説と映画「天使と悪魔」はこの程度にしたい。

「天使と悪魔」は表題の翻訳問題と大きく関わった。自分としてはゴッドの訳を神よりも天主としてくれたなら、一段と素晴らしいと思っている。小説の内容となっている教会と社会との問題は、祖父ネットの場合個人信仰的傾向が強いので、教会の社会的公式的見解はあまり気にならない。

先日もアメリカの同性結婚が問題になっていた。州は比較的それを認可するが、連邦政府は反対であるという報道である。同性結婚が法律上も認められる土壌として、キリスト教の信者の数が減少しているからであるとも報道された。

確かに結婚は法律上の問題であるが、好きな者同士が一緒に生活をすることに何ら問題を感じない。わざわざ結婚と言う手続きを要求する人たちの気持ちが理解できない。法律は法律で、自由な恋愛は恋愛である。キリスト教で結婚は男女一対でなければならないと聖書に書いてあるから、同性結婚には反対であるというキリスト教信者も多いらしい。結婚は社会的な活動である。古い時代の結婚観として、常識的に聖書にも書かれたに過ぎないと思うのであるが。

キリスト教の聖書にそう書いてあるから、同性結婚には反対であるというのであれば、その手の禁止話は聖書には山ほどある。とても今の法律がそれに合致しているとは思えない。同性同志が性的関係を結ぶのは忌むべきことである、とも書いてある。それは聖書的には罪であるというが、これなども聖書に山ほどある古代社会倫理問題の一部に過ぎない。2000年も前にさかのぼる書物が、どうして超保守的でないことがあろう。

人間の罪など数え上げれば切りのないほどある。神経症になるほどの罪的状況に、現在も過去も未来もあることは言うまでもない。それよりも何よりも、非文明的であると考えられる古代社会で、人間の「罪と救い愛」などの優れた教えを説いたイエスを大切にしたい。それを大切に思い、教会は歴史上教権を確立した。近代に至ってさらに個人的レベルまで発展させたのである。

しかし完成した教会教権はもはや下降し始めた。それは個人の信仰が本格的に上昇してきた証拠である。慶賀すべきことであり悲しむべきことではない。いわばキリスト教の社会性の後退と個人的発展の相克である。キリスト教信仰が後退したのではない。さらに進んだという言い方は好きではないが、変容するのはやむを得ない。

究極の信仰とは個人の決断に関わることである。教会に関わる数の信者などというものではない。教会が崩壊すると言っているのではない。教会と言う社会的歴史的機関は、個人化する信仰の傾向と向き合うことになる。

結婚も同じで古い結婚観も、社会的という意味で言えば廃れるとは思えない。そこに同性性交と言う通常の性的関係のダブーを打ち破る結婚観も、あるいは法律的な認知を受ける可能性はある。同性性行為の社会的認知であろうが、私にはそのような性の傾向はない。

もはや老人の枯れた体には関係のない問題である。元気な体の人たちの性的嗜好問題と割り切っている。肉欲ばかりではなく愛である、という主張は無視できない。

小説「天使と悪魔」からとんでもない問題に言及したのであるが、そろそろ本題に戻ることとしたい。昨日は本題にさらなる参考図書を入手するために、神田古書街のキリスト教老舗古書店「友愛書房」を訪ねた。

入手した参考図書のお陰で、問題は一段と深まったと言える。
(続く)

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2009.06.14

8-135 キリスト教の神は天主と直すべし その14

前回はかなり難しいことを書いたと思う。

自分では分かるのであるが、それでも「か」「も」などの言葉をさっき追加した。この二つの言葉で文章の全体はガラリと様相を変えるほどである。時間をおいて読み、推敲することがいかに大切であるかがわかる。少し書くピッチに時間をおいたのは、他でもない映画「天使と悪魔」を観に行ったからである。近くの映画館で上映日があと数日しか残っておらず、小説「天使と悪魔」はやっと下巻に至たり、どうしてもパンテオンを大画面で見たくなった。

ローマに行った時パンテオンを見る機会がなかった。ローマ帝国がまだキリスト教化していない時、パンテオンが帝国治下の多神教の神殿であると小説で知り、いても立ってもいられなくなって映画館に行った。まえにこの映画は見ない、小説で済ますと書いた。多分この映画は評判にはならない、と推定していた。あにはからんや観客は10人ほど、もっとも平日の昼頃のことで客層は限られる。しかし映画を見終わって観てよかったと思っている。小説の方がはるかによいと思うが、大画面で観る現場の雰囲気は棄てがたい。

先ほども言ったことであるが、パンテオンがローマ多神教の神殿であるということは知らなかった。なるほどと思いウィキペヂィアで調べてみて、ますますここで書くことの意味を感じた。小説は下巻冒頭であるが、ゆっくりと思索を深めている。映画と小説、おなじ作品を別な表現方法でみられるとは有り難いことである。それも科学と宗教という最も先端的なことを考えるには、むしろ必要なことであったと今さらながら感謝している。

感謝しているがゆえだろうか思索が深まる。その分思索は苦しいことこの上ない。科学も大変であるが、人間そのものを全体で扱う宗教もそれに増して苦しいということがよくわかる。まして「神」「天主」翻訳論に関わってここまで深く書くと。自分としては読む時に、小説「天使と悪魔」の「神」の部分を「天主」と自由に読み替えるのである。

もし翻訳者越前敏弥さんと話せたら、「天主」と書くのはいかにも正鵠を射るようであるが、今の日本人には無理ではないだろうかという解答であろう。誠に英文原書と照らしてみても、名訳であるだけに残念であると言わざるをえない。

ところでこれを機会に改めてガリレオの「新科学対話」岩波文庫を読んでみたが、まったく歯が立たない。世界を変えたと言われる本であり1638年に書かれたのであるが、この本を読めないことにより、ガリレオは現代人の私をはるかにしのぐ数学的天才であると感じる。科学はここから驚くべき発展を遂げたのは言うまでもないが、文学的に見れば「人間問題」はそれをはるかに越えて、ますます理解の難易度を上げているように思う。

人間存在は想像以上に難問である。宇宙の大を理解する以上であると感じている。
(続く)

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2009.06.10

8-134 キリスト教の神は天主と直すべし その13

これを奇禍として聖書翻訳事業をもう一度「原点」に戻してやり直すいいチャンスである、と前回書いた。

しかし、ここまでこの問題を突き詰めるとかなり専門的である。前回ある大学の倒産に関してトマス アクィナスを書いた。キリスト教では最も専門的な中世の人物であるが、学校倒産と関わったために書きやすくなった。

書き続けるために以下の二冊を参考にしたい。一冊は「神は多くの名前をもつ」ジョン ヒック著 岩波書店 1986年、もう一冊はカール バルト著 「教会教義学『神論』1/1」 新教出版社 1978年 である。ヒックさんは以前にも書いた。バルト(さん、と呼べない)はあまりにも難解で本音で言えば専門家でも読めない。祖父ネットは学生時代から挑戦しているが、完全読破は一度もなくすべて氷山の一角読み、である。

しかしこの難解本も神を天主として読めば読みやすい。神と書かれるとどうしても一般的な、世界のどこにでもおられる自然的「神」かと思ってしまう。しかし、神を天主として読めば、それが単にキリスト教の信仰対象に過ぎないから、特に難しい読み物ではない。キリスト教の信仰対象は先ず創造者であり、それはイエスの父である。そう分って読みさえすれば、本の内容が分からないということはない。

それを一般的に自然的「神」で読むと大間違いを起こす。天主を論理化する西洋人にとって天主はいつも単一絶対の存在である。それに比べ我々の精神風土はいつも自然的複数神である世界。それが日本語の正しい意味の「神」である。だから日本の「神」は日本のそれにのみ通用するのであって、それ以外に神を使うべきではない。「りんご」という物であれば世界は同一のものを指せる。だが観念に過ぎないもので特に宗教対象は、どうしても同一の何者かを作ることはできない。概念というのがそれである。その概念がいつの間にか、翻訳語だけで同一と言う錯覚を創りだした。翻訳語一つでこれほど悪影響を与えたものはない。

西洋人は東洋人に複数神を示される立場にある。あたかもそれは自分の信じるゴッド(デウス)が、「あそこにもある」といった観念を創りだす。しかし東洋人の私たちからすれば、西洋のそれも始めから複数神の一つである以上、それはあそこに「いる、ある」に過ぎない。その意味でヒックさんという西洋人(彼はイギリス人)の視点からすると、「神は多くの名前をもつ」という観念を生み出す。「神」は彼にとって同じものなのである。そこに彼らの悩みがあったようだ。私たちにはそれは始めから別なものであって、神は神である。天主は天主である。

キリスト教の視点とはキリスト教信仰の視点である。では、複数神が常識の土壌でキリスト教信仰を受領したものはどのような結果になるか。あるいは受容にはどのような苦労が伴うか。であるが、祖父ネットのように「くどく」なるのは避けがたい仕儀。なかなか、むつかしそうな、ことを考えざるをえない。内村鑑三はそれがいいと言ったのであるが。

そこを説明してから進まねばならない。が、ヘボンさんがキリスト教のそれを「神」にしたために、混乱は深まるばかりであった。もうつかれはてて、宗教はご、め、ん、というのが現状である。始めから神を「天主」としていれば極端に信者が少数で篤い人が多いか、極端に多い信者という現象を生み出した可能性がある。どちらにしても「天主」という言葉には、1549年以来のザビエル切支丹の伝統が生きているのである。

キリスト教の神が近代日本語でも「天主」であれば、いくつもの名前などはない。キリスト教の神はヘブライ語から各国語に訳され訳され、今日の日本語の「神」に至ったのである。ユダヤ教と言う一神教であるキリスト天主教は、多神教のローマ帝国の神々ギリシャの神々などと遭遇し、どのような言語的変遷をたどったのであろうか。

これを天主創造絶対唯一論という視点を使って厳密にたどった場合、はたして日本語で訳されている「神」と似た現象がたくさんあるのではないか。ぜひこの問題に関し、英才の出現を待ち望む。それを生きている間に読んでみたいものであるが。ヘブライ語の我が師加藤先生か、わが友人のスペイン語の浅香先生にでもぜひお願いしたいものである。

相当の言語的研究者でなければ、この問題の学問的な解明は不可能であろう。祖父ネットはすべて雑談である。(続く)

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2009.06.08

8-133 キリスト教の神は天主と直すべし その12

ここもっぱら「神」を「天主」と書いている。

と、そんな時普通の日本人ならあまり着目しないことが新聞の片隅に載った。ので、早速書いている。日経新聞2009年(平成21年)6月7日(日曜日)第35面右端下。この記事の下は広告と言った場所。その左側は死亡記事である場所。その記事も一種のそれである。

大学の存続が問われて久しい。少子高齢化のなかで経営の危ない学校があるとは聞いていた。それがまさか、祖父ネットの意識に登る学校であるとは思いもよらなかった。始め記事を見た時おかしな名前の学校である、こういった名前はキリスト教系かな、ぐらいであった。まさか、が続くのであるが、この名前がまさかあの有名な「トマス•アクィナス」から来ているなどと想像もできなかったのである。

トマス•アクィナスには超有名な著書「神学大全」がある。西洋を造り上げたと言う本である。この神学という翻訳言葉が気に入らない。この神学を教義学(教義学大全)とすべきであって、などとここさかんに頭の中が騒がしかった。ぼちぼちそういったことをここ祖父ネットに書く時期が来たと思っていた。その矢先、である。

始めは英知大学とネーミングされて出発した学校であるという。「英知」が「エッチ(変態)」と揶揄されるところから「聖トマス大学」となったという。いかにもややこしい話である。人間はエッチであり英知でもあるが、当方に取ってはどうでもいいことも、なぜか問題視されたようだ。しかし名前を変えたところで事態が改善されなかったようで、会社でいえば倒産となった。それが記事の内容である。

こうなると天から声がして「神」だろうと「天主」だろうと、オレの名前などどうでもいいよ、という声が聞こえないでもない。話が祖父ネットにとってはあらぬ方向に拡散してしまいそうで注意したいのであるが、気を取り直して倒産学校の話に戻したい。要するに珍しことにカトリック系の学校の倒産なのである。戦後特に評判の良いいわゆるミッション系の学校であるが、いよいよキリスト教の不人気も学校経営にまで及んできたか、というのがテーマである。

最近ではネットの記事で新聞記事を補えるという有り難い時代である。トマス•アクィナスの名前を拝借したと言うことも、またその学校の歴史や学科内容などもすべてネット情報である。たちまちおおむねその全貌を理解できる。だからその記事によって「キリスト教全体の人気の凋落」、という位置づけが整理されたのである。神天主翻訳問題は本質的にはこの問題と深く関係していると思っている。

なぜ「神」などと言う日本伝統の宗教言語を、最も大切な要の言葉に使用したのであるか。せっかく苦労して「天主」版聖書を作りながら、共同訳聖書で「神」にしてしまったのか。この一見なんでもないことが、実は大きく関わっていると私には思えるのである。

これを奇禍として、聖書翻訳事業をもう一度「原点」に戻してやり直すいいチャンスなのではないか。
(続く)

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2009.06.06

8-132 キリスト教の神は天主と直すべし その11


「神」を「天主」と書いていると、必然的に「切支丹迫害史」を読みたくなる。

旧約聖書で「天主」版聖書を見つけ、すでに手元にある。それはカトリックの聖書だと思う。中国語の聖書も「神」版と「上帝」版があり手元にある。その原型はプロテスタントによってアヘン戦争のころ翻訳された。

神仏が混合した歴史を持つ日本、今ではキリスト教の神と神道のそれが字面が同じのため、意識が明晰を欠くことがある。同じ「用語の使用」でおこるもので明治以来続いる。精神問題がますます難しくなる時代。難しすぎて科学に興味を持が、今度はその無味乾燥にあきてしまう。一例に過ぎないが「天使と悪魔」という小説の「神」は、創造者という位置づけであると理解しなければ面白くない。分かって読めば面白く読める小説も、やおよろずの神が頭にあるとテーマがぶれ小説の面白さは半減する。

特に文庫版(上)127ページの記述で説明しよう。

最もこの手の例は数限りなくこの小説にはある。「神、ブッダ、理力、ヤハウェイ、特異点」となっているが分かるだろうか。冒頭の神は原文でゴッド。が、キリスト教の神であるのは創造者で、それを如実に顕す天主と訳すべきだ。そうすることによって小説が言わんとすることは明確になる。信仰の問題ではない。論理の問題だ。

本文の「神」と「ヤハウェイ」はキリスト教では同じ信仰対象である。片方は新約聖書的表現で、もう一方は旧約聖書で言われている「神」である。現在の日本語聖書では「神」としてすべて同じ。作者が同じものをわざわざ別に書いたのは、「ヤハウェイ」をユダヤ教の神として分けたかったのか。どちらも一神教である以上おなじ「天主」である。英語でもなにか疑問があるのだろうか。本場言語から二つも出てきて、訳者は頭をひねったことだろう。

言うまでもないが、小説の舞台である欧米に多神の「神」はない。キリスト教が入る前の原住民は、多神的状況であったと思はれる。が、ヨーロッパ移住民に原住宗教は一切撲滅された。その結果欧米では神と科学は一対一の対極にある、論理的には考えやすい。キリスト教はユーラシア大陸の西部地域で原住の多神教を撲滅した。それが西洋である。神学とはセオロジーであり、論理学である。日本語で「神学」などと言うからおかしくなる。神学者は論理学者であり、天主である第一原因者を原点に論理を展開する論理学者である。

このために欧米人でアジア(東部)を目指す人は今も多い。その東部のドンズまりが極東日本という国だ。多神的無神的なものが太古から見事に残っている希有な美しい国ジパング。アメリカで精神問題が前面に出るのは、それが一対一理論で分かりやすいからだ。その一対一が小説にあるように先鋭化する。テロ問題もこれが一因である。多神教無神論的なものに逃れたくなるのだろう。宗教は日本では「わからない」で無視、それが宗教を長続きさせる。しぶとい。ただそこからはスリリングな小説は生まれない。

では我々日本の多神教的状況がいいのではないかという声が聞こえる。しかしそれは問題が違う。精神的問題ほど重要なものはない。漠然と解決する問題ではない。難しくとも精神問題はおざなりにできない。科学が発達すればするほど精神問題は大きくなり解決を求める。

現代社会ではこれが問題であると認識する必要がある。科学はますます発達する。日本はそれに貢献する。さすればますます精神問題を考えなければならなくなる。多神教もこれに答えなければならない。しかし答えようがない。答えないだろう。ポンと拍手一つ、それで問題が解決された気がするのが日本人である。そして科学技術にのめり込む。

しかし、地球規模で精神を考える必要がある。環境問題と変わらない。問題は日々逼迫している。拍手一つで解決できるものではない。いやポンの方がいいのかもしれないが。宗教者は答えるべきだ。社会的責任である。(続く)


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2009.06.04

8-131 キリスト教の神は天主と直すべし その10

「天使と悪魔」と言う映画は観ないことにした。

映画は観ない代わりにジュンク堂書店で英語の原書を購入した。最後の在庫の一冊であると言う原書を買ったのは、翻訳された日本語に気になる箇所が何カ所も出てくるからである。

「天使と悪魔」という本は実に宗教書と言ってよい。映画はアクションやセクシーで溢れていると思うのであるが、年寄りにはあまり観たくない残酷な場面が映像で強調されていると思う。そういった場面よりも本をじっくり読んだ方がいいのである。まだ本の導入部を読んだに過ぎないが、どうも宗教と科学がテーマのようだ。こういったテーマは日本ではあまり通常先鋭的なことにならない。なぜなら日本の宗教ではそれほど宗教と科学が対立しないように思う。

今や日本では科学が圧倒的に優先的で宗教はあまり問題ではない。いや宗教など問題外だと思われている。仏教徒や神道の信者があわせて2億人もいると言う馬鹿げた統計を政府の公式統計書で書く国である。もともと、では信者であるということを確認する方法はいったい何か。何も厳密に統計を取ってはいないというのが現状である。

かなり前2億人という数に驚いて文化庁に電話で問い合わせたことがある。するとお正月の参拝数などを神社が勝手に数えてそれをそれぞれ報告書に書くらしい。仏教の方は忘れてしまったが、徳川時代の檀家制度が今も習慣として生きていて、たいていはどこかの寺に自分の家は属しているというのが常識であろう。檀家制度は切支丹取締を目的にして時の政権である徳川家が考えだした恐ろしく強烈な大衆支配の封建制度である。島国型支配形態の典型である。

もちろん封建制であれば本人の宗教心が個人の人格的選択によったものではないということを今さら言うまでもないが、こと葬式に関しては今でも人間の弱みにつけんだ宗教商売と言えるであろう。このことは誰しもよく知っている話であるが弱みは弱み、宗教が生き残っているのはこの葬式の一点にあると言っても過言ではない。

もちろん葬式をバカにしてはいない。むしろ尊重している。仏教が葬式宗教であるなどと揶揄されるのであるが、それなら人間は勝手に葬式を個人でやってもやらなくてもいいのであるからそうすればいいのであるが、もちろんそれをする人など皆無と言ってよいであろう。必ずどこかの宗教に依頼する。自分の確たる宗教心など大半ないにもかかわらずである。

宗教葬式をしなかった勇気ある人を知っている。自分の骨を太平洋に散骨してロマンチックに人生を終わった人を身近に知っているが、アメリカ人ではライシャワーさんもそうしたそうだ。先生(大学教授、大使など歴任)の葬式のことはよくわからないが彼はキリスト教の宣教師を父とした人である。が明確にキリスト教徒ではないと思う。くどくど書いたのはつまり日本では宗教は科学と対立するほど先鋭的ではないと書くためである。

しかし、西洋ではそうではない。それが「天使と悪魔」の主要テーマであるが、翻訳本や映画に字幕がすべて「神」になっていたのでは、小説の神髄である内容はいまいち届かない恨みがある。この映画はアクション以外は日本人の好みに決して合わないであろう。

実際前回のダビンチコードほど人気はないように思える。(続く)


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2009.06.03

8-130 キリスト教の神は天主と直すべし その9

「神」がすべて「天主」と書かれた日本語聖書を発見した。

のであるが、それは旧約聖書のみであったので新約聖書にはないか探しに国会図書館に行った。しかし、残念であるが当たりを付けた聖書は「神」版であった。

本がカウンターに出てくる間少し資料を渉猟してみた。その棚は資料編で以前からよく見るのであるが微妙に変化している。大まかに言って仏教神道のものは一層充実しキリスト教のものは後退している。キリスト教の資料編は本の体裁としても非常に貧しく、年を追って仏教神道はますます立派な装丁となって増加している。これなどは日本では当然であるが、充実したものに囲まれて置かれている場所もいわばメインを追われているのはキリスト教である。ますます見栄えが悪い。かつてはキリスト教も宗教の棚でかっこうよくメインにあった。

これなどはキリスト教の衰退を顕しているが、新たな出版がないのであろう。それを新たにする経済的基盤が崩壊しているのである。キリスト教徒はこの国においてまともに数えると1%程度、それに比べ人口の数ほどいる仏教徒や神道信者はそれぞれ1億人である。つまり2億人いると言うのが文化庁の正式な宗教統計である。これでは勝負にならないことなど言うまでもない。

資料の棚が一向にふえないキリスト教から「天主」版新約聖書を探す作業はこれくらいにしたい。資料は他にもあるかもしれないが資料を探すのが目的ではない。旧約聖書のみとはいえ日本語で「天主」版を入手すらできたのであるから思想を考えるものとしてはこれで十分である。神戸の古書店からそれはわが手元に届いた、昨日のことである。

いま映画が上映されている「ダビンチコード」の第二弾「天使と悪魔」について書いてみたい。様々な情報から映画を観たいと思っていた。ただ以前の「ダビンチコード」では映画よりも読みの方が面白かったので今度も先ず読みを先行させた。映画は後にする。その読みを始めたのであるが実に面白い。家内など一気に読み終えた。今度は私が始めたが、私には数ページでやはり理屈がある。祖父ネットなりにいうとまさに「神」か「天主」かに関係が大有りである。

小説の中は「神」で満ちあふれているが、その神を頭の中で「天主」と読み替えて読んでいる。肝心な箇所はわざわざ「天主」と書き込んで読んでいる。この方式をぜひ試みてもらいたいものだ。小説の味は何倍にもなって刺身に醤油をかけて食する以上の効果があること間違いない。すべてこの調子で特に小説などはキリスト教の「神」に関しては「天主」として読むことをお奨めする。

無味乾燥であった西洋小説はこれで生き返るであろう。キリスト教の神は「天主」であって日本語の「神」ではない。神は広い意味のそれであり、天主はキリスト教のそれである。(さらに続く)

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2009.06.02

8-129 キリスト教の神は天主と直すべし その八


「神」がすべて「天主」と書かれた日本語聖書を発見した。

のであるが、それはさらにまだありそうな雰囲気である。ネット検索では講談社の出版物が今も入手可能のようだ。ただ現物は国会図書館にはあるものの中身を見ない限りそれが「天主」版聖書であるかどうか分からない。はやる気持ちを抑えているが、早晩確認したい。

となれば「神」版聖書と「天帝」版聖書があるのは中国語聖書ばかりではない、ということである。神が天帝であるか天主であるかはこの際問題ではない。ともかくユダヤキリスト教の神が日本語で神と訳されたために、日本の神と概念が曖昧になってしまった、と書いたのはライシャワーさんである。

ところがそれが立派に天主版聖書が存在するから話は一層ややこしくなる。中国語聖書でもその選択を巡って今だにやかましい議論がつづいているらしいことは有縁ネットさんが調べた通りである。しかしライシャワーさんが「神」と訳されたということを指摘したこと自体に問題があるわけはない。それは天主ではなく神という用語があらゆるものに使われているのが現状であるからである。神学神父神殿などキリスト教の主要用語は「神」で満ちあふれている。

その上もちろん日本ではそれに該当するものは現代ではすべて「神」であって、昨夜の2チャンネルTV「名探偵モンク6」トニー•シャルーブ主演ももちろん神と訳されるから天主訳を理解した上で聞くと実に奇妙に聞こえる。

まったくあの番組は毎回名作であって今回は特に宗教に絡んだ詐欺事件を扱った。奇跡と称する水をあるカラクリを使って仕組んだ殺人者がいる。それで教会から信者近所の住民ホームレスの人たちまで巻き込んでの大捕り物になる。のであるがそのゴッドの訳はすべて今まで通り「神」である。しかしあの信仰の対象は「天主」であって「神」ではない。天主と訳されてこそアメリカ文化を肌で感じることができる。実によくできたドラマで徹底的に宗教的なドラマである。最後の場面では普段から悩み多いムンク刑事が、すでに解決していてインチキ水であると分かっていてその水を飲む光景などはアメリカそのものの今の姿であろう。それも信仰の対象を天主と訳されてこそ明確になる。

と、かく問題が複雑になったが、これがこの問題の面白いところであろう。(さらに続く)

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2009.06.01

8-128 キリスト教の神は天主と直すべし その七

8−124で柊 源一(Hiragi Genichi)さんの本(教文館刊)を発見したと書いた。


あればそれでいいのである、と前回は書いた。くり返しになるが、前回に至ったには理由がある。ライシャワーさんである。かつての日本通のアメリカ大使、すでに過去の人で時間が過ぎたのであるとも書いた。そのライシャワーさんを思い出させたのは唐さんである。治療を受けながら「唐」という名前に捉えられていた。いつか聞くチャンスを狙っていたが、治療を受けながらでは簡単ではない。膝の痛いことこれまた格別なことで老人になったら特に気をつけなければならない。今度は二度目、徹底的に治療していただくことに決めた。当然ながら中国について話したいことは山ほどある。

治療の効果があって唐先生と話す余裕ができた。「ところで先生の唐とは中国の唐でしょうか。」とか言う会話から先生は「遣唐使の唐です」となった話はすでに書いた。遣唐使から円仁の話へ。伊勢神宮へ。で、ライシャワーさんの「ライシャワーの日本史」再読へ。これで「天主」版聖書に出会うことができたのである。

ライシャワーさんは日本史の第一部「伝統的な日本」33ページ以下で次のように書く。黒丸は祖父ネットがふる。

●氏姓制度時代の信仰と神事もまた、日本における宗教の主流の一つとしてつづいてきた。この信仰には、始めは名前がついていなかったが、やがて仏教と区別するために神道(神の道)と呼ばれるようになった。礼拝の対象は、天照大神や氏族の祖先、そのほかの神々ばかりでなく、はるかに広範なものにまで及び、豊穣、自然の驚異や神秘なども信仰された。滝、険しい岩山、神秘的な洞窟、巨大な樹木、奇妙な形をした石、異常な人物なども畏敬の念を起こさせたようである。このような礼拝の対象が「神」と呼ばれる。

(注、ここが祖父ネットの注目したところ)
●「神」は ”God” と英訳されるので紛らわしいのだが、明らかに、ユダヤ•キリスト教でいう「神」(ゴッド)の概念とまったく異なったものである。

● 神道のこの素朴な神の考え方を心に留めておけば、近代における天皇の神格化や、「お国のために」死んでいった兵士のことを理解しようとするときに役立つだろう。

ライシャワーさんのこの「ゴッド」を発見したとき私の心は万軍の味方を得たような気持ちになった。発見に至るさらなる紆余曲折はあるにしても、かなり前に読んだとき特に注意をしていたことではなかった。

日本語の「天主」版旧約聖書の発見である。

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2009.05.31

8-127 キリスト教の神は天主と直すべし その六

8−124で柊 源一(Hiragi Genichi)さんの本(教文館刊)を発見したと書いた。

久しぶりに有楽町線永田町の長い階段を登ってみた。右膝を痛めること二回、ヘミングウェイの「老人と海」英文の冒頭を思い出しながらゆっくりと登った。He was an old man who fished alone in a skiff in the Gulf Stream 。唐さんのお陰でだいぶ膝もよくなった。

以前はここをすいすいと登り降りした。国立国会図書館へ。昔本当に若いとき、親しい先輩がよく通っていたのを何かまぶしい感じで見ていた。その先輩こそ明治時代のあの「大逆事件」に連なる人の血を持った人、だったと晩節で知った。彼はもうこの世の人ではない。

その国会図書館は今は庭だ。若い人にそこがいかに優れたところか、いかに利用しやすいか、いかにたのしいところか、と説く身になった。「老人と海」をまた思い出す。主人公は最後にライオンの夢を見る。若いころアフリカでライオン狩りをしたことを、思い出す場面だ。The old man was dreaming
about the lions. 小説はこれで終わる。

高校生のとき明治学院で習ったまま自分の身に付いた。I am an old man. で、登りきった。もう慣れたものである。検索して申込み、待っている間コーヒーでも飲もうと地下に降りた。残念、土曜の午後はすでに閉まっている。もっていった柊さんの本を読んで待った。待つこと三十分もかからないで出ていますと電光掲示板が知らせる。四冊を積むとかなり高い。それをもっていつものなじみの部屋に行った。

創世記第一章第一篇。「かみ」が天地を創造する場面。まぎれもなく「かみ」は「天主」である。はやる気持ちを抑え返却カウンターにそれを返した。

あればそれでいいのである。

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2009.05.30

8-126 キリスト教の神は天主と直すべし その五

8−124で柊 源一(hiragi genichi)さんの本(教文館刊)を発見したと書いた。

氏はその中の「日本文化史における切支丹文学の意義」で「聖書の邦訳」を取り上げる。私の目は引きつけられた。切支丹の時代「かみ」はどのように訳されたのか。言い切ってしまえば「デウス」である。苦しい航海を乗り切って日本人に「創造者」と「救済者」を伝えようとした彼らは、彼らの言葉しか日本ではその言葉に当たるものを発見できなかった。つまるところ日本では全く新しい「かみ」であったと言ってよいであろう。今「神」となっているキリスト教の「それ」は、全く異質な観念をもっていたと言ってよいであろう。

鉄砲は「物」である。しかしここで言う「そのもの」は物質ではない。物質であるならばわかりやすい。鉄砲が日本の歴史を書き替えようとする時代、もう一つの「もの」は観念である故に徹底的に撲滅されていく。それはそれを受容した人間それをもたらした人間を火あぶりにして撲滅すると言う方法がとられた。その故にここに文学が生じたのである。と、柊さんは言うのであろう。

しかしそれは撲滅できなかった。鉄砲は正常に伝わり最後には強大な火器に発展し日清日露日中太平洋戦争に人々を駆り立てた。そして多くの人々が苦しみ死んでいった。そして今も核拡散に悩み抜いている。

文学のそれはかろうじて生き残った。「デウス」は「かしこきもの」となりそして「かみ」(ひらがな聖書)と訳されさらに「神」になった。様々な変遷を経てこの言葉は生き残る。この言葉が人一人殺したことはない。柊さんは文中で1954年(昭和29年)に発行された光明社の旧約聖書と切支丹時代の聖書一部翻訳部分とが酷似している事実を取り上げる。その比較文章の中に私が「天主」と言う言葉を見出したとき初めて何とも言えない感動に満たされた。今日にでも国会図書館にあるその本を閲覧して、もし「神」がすべて「天主」になっていたらそれは日本における現代聖書の唯一「天主」表現の聖書なのである。

戦国時代から「デウス」でしか表現されなかった「天主」、現代で聖書から消された「天主」ははたしてよみがえるのだろうか。(続く)

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2009.05.29

8-125 キリスト教の神は天主と直すべし その四

GMの倒産が確定したようだ。

破産法を申請するとき新生を視野に入れたある方法が検討され始めたというが、もはや6月1日もごくわずか。老人に取って実に悲しい出来事である。華やかな「アメ車」(アメリカの車のこと)をよく知っている年代である。

一度だけアメ車らしいアメ車に乗せてもらったことがある。いや書くのはやめよう。もはや何の意味もない古い話だ。それより表題について絶好の資料が見つかったのであるから、寄り道はやめよう。精神の古い話をした方がいい。いや古い話ではない。古いが新しい、新しく新生する信仰の話である。日本人の魂の救いに関するもので別に経費が必要ではない。ただ言葉を整えさえすれば、長年の傷口を癒すことができるものだ。混乱と錯綜という債務と債権をすっきりと解決する。早く替えてもらいたいとヘボンさんの霊が語りかけるような気がする。

ただ問題はもちろん簡単ではない。(続く)

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2009.05.28

8-124 キリスト教の神は天主と直すべし その三


久しぶりに四谷の日本冷凍空調学会を訪ねた。

まだイグナチオ教会が立て直される前のころよく通ったところである。そこの機関誌「冷凍」の創刊が確か大正15年であったと思う。私が建築設計会社の経営者であった時代、お客様に冷凍事業をもっぱらとする会社が多かったからである。自然と足が向いて必要でよく訪問した。

そこに事務を取り仕切る美しいお嬢さんがいて快く資料を閲覧させてくれた。それがきっかけで「中川嘉兵衛」と出会うことになる。中川は日本の氷業の元祖である。ヘボンさんから氷の有用を学び日本の氷業や冷凍の先駆者となった。おおむね近代社会の業務の先駆けの多い横浜では有名である。氷業や冷凍などはあまりにも当たり前になってしまったから今では話題にならない。どこで食事をしようと外食には必ず氷の入った水がついている。それを見るたびに私は「中川嘉兵衛」を思い出す。洗礼を受けクリスチャンになった人である。

しかしそれを知ったのは経営者として晩節のころで、それまでは全く知らなかった。会社における自分の役割も先が見えてきたので、それまでの会社の歴史をまとめておきたいと思っていた矢先「冷凍」誌に出会った。それをきっかけに「ある冷蔵倉庫物語」を書いた。CDにして国会図書館におさめ、最近学会にもっていった次第。

「冷凍」誌は現在も発展をとげ、高度な科学雑誌となっている。文学部の私は全くチンプンカンプンであるが縁ができたお陰で会員の末席を汚している。そこに「サロン」という枠があるから載せてもらえるかもしれない。

学会によって懐かしい方にも挨拶をしその帰り道、四谷の聖三木図書館というイグナチオ教会付属図書館でキリシタンの聖書系を調べるつもりであった。もちろん表題の問題を一層深めるためである。その道すがら二軒あるカトリック書店によった。そこで日本におけるカトリックの聖書翻訳事情に連なる本をついでに探してみたのである。「神」を「天主」とする翻訳はカトリックに特有であるからである。

じっくりとすみからすみまで見ていった。そして、、、それが、、なんと、あった。

それも教文館版で発行者は今の社長である渡部 満さん。2009年5月の発行、まさにできたてのホヤホヤである。その本の「あとがき」には「渡部社長に世話になった」と書いてあるから渡部 満さんをあらためて見直してしまった。最近、氏と会ってある本の出版を促していたからである。本の題名とは「切利支丹文学論集」柊 源一著(Hiragi Genichi)、その中の67ページから「切利支丹文献に現れた『天主』なる語をめぐって/明版の天主教書との交渉」。題名中の明版とは中国の「明」(min)の時代のことである。

ここに極まった、まさに天主の采配、と思いページをめくるのももどかしく一気に読んだ。(続く)

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2009.05.27

8-123 キリスト教の神は天主と直すべし その二

このテーマは予想以上に重い。

実はこのテーマを追うには多くの確実な資料がさらに必要になる。そのためブログよりも本を書くつもりで逐一確実に追い込む方が結果はいいと思うようになった。完成したら教文館さんにでももっていけばあるいは出版にまでこぎ着けるかもしれない。題は「『神』という誤訳」である。

神という言葉が日本語聖書で定着し今の我々の信仰生活の元になっている。この言葉は明治維新以後の近代社会で最も日本社会に害を与えた翻訳語である。と、まで思うようになった。

端的な例を挙げればきりがないが、聖公会の式文の一部をご紹介しよう。これはプロテスタント教会の多くで使われている定型の信仰告白である。聖公会は歴史上旧派新派の中間派と言われるがこの式文はプロテスタントでよく使われる。カトリックや正教のことは実はあまりよく知らない。それはすべて日本では「神」であるがこれを「天主」に書き替えてみよう。たちまちキリスト教の信仰の対象が明確になる。

聖公会祈祷書から

信徒信経
わたしは、天地の造り主、全能の父である天主を信じます。また、その独り子、主イエス•キリストを信じます。主は聖霊によって宿り、おとめマリヤから生まれ、ポンテ•オピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられ、死んで葬られ、よみに降り、三日目に死人のうちからよみがえり、天に昇られました。そして全能の父である天主の右に座しておられます。そこから主は生きている人と死んだ人とを審くためにこられます。
また、聖霊を信じます。聖なる公会、聖徒の交わり、罪の赦し、体のよみがえり、永遠の命を信じます。アーメン

以上の言葉は精選されたキリスト教信仰である。キリスト教のすべてはどの国であろうとこの信仰である。ここで「神」は「天主」に書き替えられている。このように率直に読んでもらえば日本のキリスト教伝統が16世紀以降いかに深いものであるかわかってもらえるのではないか。16世紀のキリシタンには「神」という翻訳語は日本にはない。それを整理して当時から使われた「天主」としたのであるが、いたって至当であると思うのである。(続く)


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2009.05.24

8-122 キリスト教の神は天主と直すべし その一

ここのところ主にこのテーマを追っている。

追求すればするほどこの問題は重大だと思うようになった。先日もあるきっかけから久しぶりにライシャワーさんの本に触れることになった。知り合いに唐さんという人がいて、唐さんと言う名字は中国では日本の鈴木さんという名前のように多くあると知った。そんな話から遣唐使の話になり仏教の話に展開しそして「円仁」(ennin)の話になった。

ライシャワーさんが円仁について書いている本を読んだ経験があり大切に取っておいたからである。その本を新たに買って唐さんに献呈することにした。唐さんがライシャワーさんを知らない年代でありライシャワーさんを知ってもらうのは大変うれしいことであるからである。ライシャワーさんのことは今時ウィキペヂィア百科事典にある。有名な人であるが時代が過ぎたのである。

本の名前は「円仁/唐代中国への旅『入唐求法巡礼行記』の研究」である。講談社学術文庫1379番で今でも売っている名作である。あるいはかたい本なので売れないで在庫しているのかもしれない。この本は隅から隅まで読んだ。遠い昔の遣唐使時代が彷彿とする。そのついでにさらにライシャワーさんのもう一冊の本「ライシャワーの日本史」も本箱から引っ張りだした。この本も同じ講談社学術文庫で1500番さすがのジュンク堂も在庫はなく注文となった。これもそろえて唐さんに献呈するつもりである。

読んでいて唐という人のプロフィールが少しイメージされたと思う。余計なことは書けないが唐さんの祖父は中国の人である。ただ祖父の奥さんつまり祖母は日本人であるところから特に私には深い印象になった。その唐さんの興味と言えば「伊勢神宮」であるという。その伊勢神宮のルーツを知りたいのだそうだ。伊勢神宮に旅をしてみたい、ということになった。そうですか、伊勢神宮のルーツですか、で、ライシャワーさんの日本史を思い出したのである。たしか先生の本に書いてあるような記憶があった。

唐さんの話はここまでである。まだたくさん書いてみたいのであるが、いずれ機会があるだろう。この唐さんとの出会いからライシャワーさんの日本史を私も読み返したのであるが。それが表題問題で問題は一層深刻なものになった。実はライシャワーさんの日本史については英語版ももっている。原書であるがこれも本箱から引っ張りだして読んだのは日本語版から神社の歴史を読んだ結果だ。そこには伝統宗教たる神道の発生や中国朝鮮との関係等、日本の古代宗教の記述が簡潔明瞭明確に述べられてある。そこに表題の「かみ」問題も書かれている。それを英語版でも確かめてみて一気に憂鬱になった。思っていた以上にこの問題は深刻である。

あまりにも深刻な問題である。(続く)

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2009.05.23

8-121 天主と書く「一日一生」 15


内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

1月15日(本文21頁) 

☆聖書の引用箇所/コロサイの信徒への手紙第3章2−4節
上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストとともに天主のうちに隠されているのです。あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストとともに栄光に包まれて現れるでしょう。

☆内村鑑三の解説
信者は天のことを念って地のことを念ってはならない。その理由は何かといえば、彼は地に対してはすでに死んだ者であって、その命はキリストとともに天主に隠されているからである。しかし永久に蔵れているのではない。キリストがその栄光の復活体をもって顕われるときに、私たちも彼と共に栄光のうちに顕われるのである。そのことを念って彼は地にある肢体の欲、すなわち汚あい、邪情、貪婪(donran)等にその思念(omoi)いを濁してはならない。天と未来をもつ信者は、地と現世とにとらわれて低い卑しい生涯を送ってはならないとの意である。

予言をもって高い思想と清い生涯とを奨めた貴い言葉である。

☆祖父ネットの解題
この倫理的に高い言葉に反発したある有名な作家は内村が三回結婚しているという事実を指摘してキリスト教に反発した。後に彼は心中をする。また内村の愛弟子の一人であったこれも有名な作家は最後に軽井沢で美貌の編集者と心中をする。

この肢体の主体的な欲というどうすることもできない問題を人間はいつもひっ抱えながら恥ずかしき人生を送るのである。ひっ抱えることが恥ずかしいことか当たり前なことかを判断するのは実に難しい。こんなことを言うまでもなく人はますますこの事実に気がつかされる。自分も他人もこの問題を避けて通れない。

自由な資本主義思想に彩られた経済活動はこの欲動を基礎にしていると今さら言うまでもない。繁栄と崩壊はそれで起こるのはだれもが認めるところ。それが共産主義であるなら多少は欲動のセーブが何かとできるかなと思うのであるがそれは今のところ政治的に失敗したのが歴史の事実である。それではどうすればいいのであるか。だれも答えを出せないでいる。このまま人類はこの大問題をひっ抱えたたまま歴史の闇を突っ走るのであるか。

い出よ大思想家といいたがこれは内村もい出よ大文学者と嘆いたところである。それでも神を天主に読み替えて読むと我々が頼るべきところが一歩でも明確になる。天主にすべてを委ねて静かに普通に暮らすのが一番よいのである。内村は明治の人時代の空気全体が倫理的であることを信じられた時代であることを忘れてはならない。

時代は変わるのであるが天主のまなざしは変わることはない。慈父慈母という言葉もある。大丈夫すべてはお見通しであるというのが多少とも慰めになる。最も人間であればいつも慈父慈母ではない。鬼父鬼母になる人もいる。しかし天主にあってはそのようなことはない。それを信じるのが信仰である。天主は人ではない。

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2009.05.22

8-120 永井荷風

前回は図らずも永井荷風に触れてしまった。

ので、その続きを書きたくなった。何度も書いている。荷風さんの墓は雑司ヶ谷霊園にある。会社に近かったので霊園のそばに床屋を定めその床屋で散髪をするたびに墓参りをした。霊園にはラフカディオハーンも入っている。

夏目、荷風、ハーンを自分なりに分けると知の夏目、情の荷風、霊のハーンというようになる。どれも草葉の陰であるが近代の草分けである。私には知情意に霊を加えて考えたい。知情意霊である。人とはこの四つであるとばかりは言えないが、四つはあると言ってよいのではないか。人格の構成要素として重要なものであろう。

だれにでも多かれ少なかれある。人間の恐ろしいところである。くわばらくわばら。

荷風はクリスチャンを拒んだ人。母上が江戸期儒教の家の人、その母上がこともあろうにクリスチャンになる。彼は家と断絶する。その面白さが何とも言えない。なかなかの家系で大学教授や牧師などもいたようだ。ますます彼は親戚と遠ざかる。あげく市川で一人ひっそりと死ぬ。血を吐き孤独死を遂げる。その写真が新聞にでたのが私が幼少の頃妙に頭にある。

成人して荷風病になった。茗荷谷の生家の場所を尋ね、彼が書いた江戸をうろついた。最後には墓参りが趣味になった。水をかけしきびを供える。そんな趣味が無教会のクリスチャンの趣味になった。

知情意霊それが複雑に絡むのが人間である。大いに迷うのがいいのである。色色幻幻今朝の風はなまあたたかい。夏か。

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2009.05.21

8-119 裁判員制度今日スタート

私はこの制度に賛成である。戦後の民主主義をアメリカから教わった年齢。その上クリスチャン、全員参加の大衆主義が信条である。

ある民放の昼番組、早速特集をやっている。韓国は日本に先立つとしてその実例が放映された。黙ってみていて愕然とした。被告は41歳「その年まで性の経験がない。神学校時代の仲間に聞いてくれればわかる」と発言。神学生と聞いて愕然としたのである。事件はある女性の顔面を殴打し強姦したというもの。結果は有罪の懲役4年。

ここまではまだ我慢していたが、報道はここから異常を報じる。被告が判決を不服として号泣しだだをこねる姿が映る。信じられない光景である。往生際の悪いクリスチャンそのうえ神学校の卒業生、さすれば職業は、いったい何か。教会関係者か、と考えてしまう。はなはだしく不快だ。

キリスト教の禁欲主義がわからないではない。神学校で何を勉強したのかしらないが、イエス様のなんのと、きれいごとで過ごしたのであろう。ともあれ韓国のキリスト教も創造者「天主」という考えがないのではないか。地場育ちの「かみ」観念でキリスト教を拡散させたのではないか。アウグスティヌスの女好きは有名である。イエスは天主でありその一人子で救い主である、という特別なことをイエスの潔癖行為から真似でもしたのであろう。馬鹿げた話である。

私が裁判員であれば有罪ばかりではない懲役は10年以上。ともかく裁判員制度に賛成である。参加しなければ腹が収まらない。こういった被告は市民がびしばしと罰することを期待している。

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8-118 言葉はなぜ失われるのであるか

大井 玄(Ooi Gen)さんの「『痴呆老人』は何を見ているか」を読んでいると書いた。

読み進むたびに母の介護で自分の経験したことが薄紙を剥がすように眼前に明確になる。今朝、快晴の空のように。先生は認知症のプロセスについて説明する。だれにでも起こる認知の低下、それにつれて起こる表現能力の低下、コトバの喪失という順序、その恐怖。

私は言葉を失った母を抱きしめることにした。終末の頃だった。心から気持ちを込めて母を抱きしめた。母は真面目だったから多分親父にしか抱きしめられていない。子供のころの父母を除いては。近くに「のぞみ」ちゃんという二歳児がいる。よくそのおなかをこちょこちょぺちゃぺちゃしてやる。へそがかわいい。時に抱きしめる。隣のクリスチャンのお子さんだ。それとはまた違った感じで。

母は大人になった息子などに抱きしめられた経験などない。車いすになって抱きかかえたことは年がら年中。なのに抱きしめることはなかった。だからであろう、びっくりしている。それを見て今度は息子の私がびっくりする。

アリセプト剤を服用するが痴呆ではない(のではないか)とフト思う、わかっているではないか。大井先生はアメリカじこみの超合理主義的医師として日本で勤務を始める。認知症との出会いは長野県佐久平、私の故郷だと前回も書いた。浅間の見える素晴らしいところだ。戦争中は二三回、目の前で大爆発した。

「ある時、着物姿の認知症の老女がぽつねんと薄暗い小部屋に座っている姿があまりに哀れで、思わず彼女の横に座り肩を抱きしめました。」と先生は書く。それまで佐久平で老人に接し先生自身が無力感という心身症に襲われている。アメリカじこみの超高度な「直す医療」が終末老人の現実の前で崩壊。佐久病院を辞めるつもりであったという。それが。

先生は1935年(昭和10)生まれ東大医学部を卒業後ハーバート大の大学院を修了したひとだ。アメリカの老人問題は「かくかくしかじか」と先生は書く。そのぞっとするほど冷酷な現実。当のアメリカ人自身が一番恐れているのはその終末医療であると言う。

キリスト教に養われた自由な個人、プロテスタントが生み出した妙薬、これがアメリカを創り冷酷な現実も創る現実を書いている。これはさらに深く考える必要が祖父ネットにはある。

「情と知」というこの深い問題は宗教の問題でもある。「アトム的自己」(自立の思想)、キリスト教で言えば情の旧教(正教とカトリック)と知の新教(プロテスタント)をどう統合するかという問題であり、中間派である聖公会の大問題である。

日本では夏目漱石が近代小説で早速考えたことであるが。夏目もロンドンで心身症になったことは有名である。墓は近くの雑司ヶ谷霊園にある。久しぶりに墓参りでもするか。いやそれより永井荷風もそれに近いから、そちらではないか。これを書くと長くなるのでまた。


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2009.05.19

8-117 映画「ブッシュ」を観て  その二


表題の映画を見た。封切り初日に機会を得て感謝している、で始めた「その一」はかなりのアクセス数があった。

で、今度は大井 玄(Ooi Gen)さんの「『痴呆老人』は何を見ているか」について。ある親しい人から薦められた本である。早速ジュンク堂を調べると在庫数20冊(今日現在)。買って読み始めた。

実際のことを言ってかなり深刻な本である。大井さんは淡々と書(描いて)いておられるが、人間の運命を描く(書く)こと聖書のごとく。映画「ブッシュ」にはアメリカ文化や日本文化を比較する鍵のようなものがある。実は大井さんの本も同じだ。

「老人」問題。ブッシュさんを描いた映画も老人問題が顔を出す。彼の父上であるやはり大統領ブッシュさんのことだ。しかし特別なことではない。アメリカならよく見られる親子関係だ。

父上の年老いて引退したブッシュさんが静かに外を見ながらさながらあきらめの心境である。複雑な世界に関係し無力な自分(人間)を見出すシーンだ。息子の大統領も同じ目に遭っている。大井さんの老人問題もそれに近い、いや全く同じシーンだ。どうすることもできない老いの問題をアメリカ文化日本文化の視点から分析する。複雑な世界の政治問題と避けて通れない老人問題がリンクしてくる。

場所は佐久平、長野県にあって新幹線の停車駅である。そこで始めて大井さんは老人医療と向き合う。アメリカで8年を過ごして後のことである。私はそこ佐久平が故郷、シーンは一挙に展開する。

人とはなにか。答えは聖書にあると私は考える。大井さんの本も聖書もぜひ一読されたい。最も聖書の一読は難しい、気にしないでぽつぽつ読むしかない。しかし大井さんの本は短いものであるにもかかわらず、内容は深く、ぽつぽつ考えながら読むことになる。それほど深くなかなかサットは読めない。

しかしぜひ読まれるといい。心からお勧めしたい。

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2009.05.18

8-116 バロックについて

うるさいバロック音楽を早朝の6時に聴いている。NHKFMで。哀愁と喧噪の形式バロック。

この形式はヨーロッパのどこかで現物の建築を見ないと本当のところはわからない。キリスト教の歴史を少しと建築への興味とをもって現物の前に立つとあっという間に理解できる。本で読んでも話を聞いても一向に理解できない。

建築史などはよほどうまく書いていると思うのであるが、だめだ。もともと建築史をデザインの面から学ぶのは容易ではない。相当の専門的知識がいる。建築をもっぱらとする人たちもなかなか理解できない。それを音楽で聞いている。

あのうるささ、神経症的哀愁感、馬鹿でかい建造物はどうして創造されたのか。宗教改革である。早く起きて働け、天主(神)のために。お前の堕落で天主(神)はひどい目に遭っているぞ。どうした、早く起きないか、起きて畑に行き一日中さぼるでない。貴族はもちろん僧侶は何をしている。僧院はお前等の安住の地ではない。どうした、プロテスタントが来るぞ。お前等を殺しに。

武具を備えよ。槍を研げ、起きろバカども。

ともかく音楽も建造物もすさまじい不安とエネルギーに満ちている。それがバロックだ。

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2009.05.17

8-115 映画「ブッシュ」を観て

表題の映画を見た。封切り初日に機会を得て感謝している。

帰り際にアンケートの依頼を受けた。最後に職業を聞かれた。はじめて公式に「画家」と称した。本当は宗教家と言いたかったのであるが、それはやめた。そのアンケートで自分もクリスチャンなのでとても参考になったといった。アンケートを担当する若者が驚いていた。驚かれた自分が今度は驚いてしまった。確かに日本でクリスチャンなどこのような場所でしかお目にかかれないだろう。評判の悪いアメリカ大統領とキリスト教の関係は有名である。それを観に私のようなへそ曲がりキリスト教徒も現れるのである。

普通の映画である。

ケネディ大統領のような人間的な感動的場面がないからだろう空席が目立つ。世評というものはこういったものである。ブッシュは何を言われようと普通のアメリカ人である。アメリカのすべてがある。その中でもキリスト教は際立っている。イラクに侵略する時も先制攻撃と言う日本から受けたアメリカの古傷を忘れていない。攻撃を受けたので反撃の目標として定めたのがイラクである。

まるで西部劇だというが、それがアメリカである。アメリカは西部劇の国で日本が武士の国である。日本で喜ばれるドラマは武士のそれで私もよく観る。最近ではNHK土曜のチャンバラ劇「陽炎の辻」がいい。あの殺陣と筋立てスピードや男女の色気潔癖感には心打たれる。必ず観ている。

目標がイラクであったことの複雑性はかなり深く書かれている。間違った情報で侵攻したと描かれているがそれで終わっていない。やられた側のフセインは「なに石油を狙っている」と言ったと言うが当たっている。アメリカはやられた仕返しを十分に考えたのである。そこはただでは起きない商売の国で仇を返しながらしっかりと借りは返してもらっている。それをとぼけてアメリカ人ブッシュが実行したのである。不人気を覚悟いかにもキリスト教的だ。

日本では本音で政治家に清廉潔白を期待する。これでなかなか日本人もしぶといが日本では負けると腹を切る。腹を切らせると場面は悲惨ではやらない。よく自殺する。そこでNHKでは始めから清廉潔白、女にも手を出さない男を演じさせないと視聴率が上がらない。これが日本という国で本音を加工する演出技術がうまい。文化である。

アメリカは別だ。女の描き方自体が日本と全く違っている。女はあくまでもエバであって男に従属している。それがアメリカの基本的なキリスト教精神で建国以来の全体的な精神構造だ。しっかりと真面目に働き、しっかりと稼ぎ、それを次世代に繋げる。そうやって新たな国や伝統家系そして地域や学校などを創って来た。そこにキリスト教が作用している。資本主義の妙薬である自由が随所に顔を出す。その妙薬を調合したのがキリスト教プロテスタントだ。

大統領が執務室で重大会議や決断をする。どのような決断にしても最後は天主(かみ)に「祈ろうアーメン」という。日本人はこれを軽く形式と見るが、違う。本音だ。本気で祈っている。それをいかにもとぼけて描いているが、本根だ。

世の中は矛盾に満ちている。その矛盾の頂点があの祈りによって収束する。人間の限界をわきまえた日本で言う便法「しょうがねーよ」だ。哲学的にいえば諦観。

そういった世界のどこにでもある逼塞した人間ドラマを真面目に描いている。私は100点であるとアンケートに答えた。

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2009.05.16

8-114 エミール ブルンナーについて その三

(ブルンナーさんの著書「我らの信仰」から、神を天主に書き換えて一部をご紹介しています。)

「天主は存在するのであるか、それとも存在しないのか、どちらなのか、もともとからどうもわたしは不思議でならぬが、いったい天主は存在するのであるか?」

祖父ネット解題
これが今から50年ほど前の明治学院中学校で実際に使われた教科書の導入部冒頭である。最も天主でなく神と書かれているのであるが。前回も少し書いているのでこの辺りが冒頭部分であるというのが正確であろう。どちらにしてもかなりシビアーな問いかけである。

秀才と鈍才とを分ける最大のポイントは生徒の予習と復習である。そのどちらかでもやれば成績はおおむね上位を確保し、両方を遺漏なくやれば秀才になれる。もっとも今でも一流の受験校のやり方は伝統的に教科書は無視である。教科書は配布された段階で自宅でほぼ一週間を掛けて読み切ってしまうことが原則である。学校ではそれに増す教科を与える。簡単にいえば1年や2年はすでに前に進んでいる理由がこれに過ぎない。

私は鈍才中の鈍才であり教科書など読み切ったことはないが、もちろん予習や復習など皆無に近い。それでは高い月謝を払って何をしていたのかと言えば、学校に行っていたのであるが。それでも大いに得るところがあったと思っている。いわば一般の文部省教科書は普通に予習も復習もせず過ごしたのであるがブルンナーさんのこの本はよく読んだ。何度も健気に繰り返し読んだがさっぱりわからなかった。今から考えると酷な話であってブルンナーさんは創造神の存在を考えているが、読んでいる方の日本の生徒は「かみ」を考えて読んでいる。

これでは書いている方も読んでいる方も一向に具体的な成果を得ることは難しい。よほど考えないとこの教科書の効果はほとんどないと言ってよいであろう。私のように頭の悪いものがたまに引っかかって50年も前の教科書をさらに復習している次第であるし同窓生で熱心なクリスチャンであるという人にあったことがない。ほとんど仏教徒であってお寺の墓の中にいる人もすでにかなりいる。文句を言っているのではない。ブルンナーさんが悪いのでもそれを採用した明治学院が悪いのでもない。「神」と訳されてしまったことに問題があったのである。最も明治学院を創ったヘボンさんが「神」と訳したのであるが。

もしそれが神でなく天主でありそれは創造者であると説明されていれば大いに反発されたに違いない。しかし確実に3割の生徒がクリスチャンとして救われている。そうでないからアメリカのように馬鹿げた崩壊を世界にまき散らさないで済んでいるという声も聞こえるが。どちらにしても「地の塩」は少数者に過ぎないが文字通りその少数者こそ「地の塩」である。欧米にはこういった「地の塩」的で確実なクリスチャンがいるのである。だからこそ人間崩壊も世界崩壊もこの程度で済んでいると言うべきであろう。

手前味噌で申し訳ないが、神を天主に今からでも遅くないから書き替えてくれさえすれば日本にも本当の「地の塩」者が増加することであろうと淡い期待を抱いているのであるが。

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2009.05.15

8-113 エミール ブルンナーについて その二

前回ご紹介した「我らの信仰」から神を天主に書き換えて一部をご紹介したい。

全編は35項目に渡るものであるが、その冒頭が「神は存在するか」である。読み替えると「天主は存在するか」になる。この根本的と思える問いは欧米では普通の問いである。が、日本のような多神教世界で発せられたのではない。この問いが発せられた環境は単一神宗教の土壌である。我々日本人の言う「かみ」に対してでないことに注意が必要である。

この問いで有名なものはトマス•アクィナスである。この時の「神」も創造神であり祖父ネットが書き替えている「天主」に該当するものである。わたしたち日本人が普通に言う自然的多神的「かみ」ではない。ブルンナーさんの問いも創造神すなわち天主と訳すべ神である。

この問いの根本的なことがわからないまま「中学生」は冒頭から混乱させられる。わたしたち多神的環境の人にとって難しい問いである。その基本が不明なままいったい読み分けられるのであるか。日本人がこの問いを受ける時の頭の中は多神的環境であるなどということを言うも愚かである。

それもこれも神を天主とせずに見過ごして来たキリスト教界の責任である。カトリックは天主教と言われ浦上天主堂とも称するのに惜しいことである。キリスト教を天主教と言うと何かとカトリックだけを連想させるのでプロテスタントが拒否し、聖書が神と訳された時そのまにしてしまったカトリックの側にも大きな歴史的責任がある。

最近になって共同で聖書を翻訳しようと言うときにももはや一切問題にされなかった。ヘボンさんはいまだに浮かばれない。

ともあれはじめてみよう。

「天主は存在するか」(エミール ブルンナー著「我らの信仰」新教出版社 豊沢登訳 昭和33年第6刷 教科書版から)(注、この本は当時のミッションスクールの生徒の使用を意識してか仮名文字が多用されている。考え方は大変よろしいのであるが、今のワープロはすぐ漢字に変換するのでそのまま漢字を使用したい。ローマ字論者がなさけないことであるが。)

(本文)
「天主は存(あ)るのであるか?」もし人々が、もの好きの詮索でこう訊ねたとしますならば、わたしたちはかたく沈黙することによって答えるより他にありません。あのギリシャの賢人に、物好きな人たちが天主について訊ねたとき、かの賢人が全く頑固に沈黙していたように。」

(祖父ネット解題)
ここでいうギリシャの賢人とは多分ソクラテスのことであろう。またここでソクラテスに質問した人の頭の中は天地の始めを創造したもの「神」すなはち「天主」はいるのか、という質問であると思う。神の中の神とも言うべきものであろう。ともあれ天地を創造したものはいるのかという質問であろうと思う。ギリシャでもその地盤は多神であることをは言うまでもないが。」

長くなるので今回はこれまで。

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2009.05.14

8-112 エミール ブルンナーについて その一

ブルンナーさんについて書く時が来たかという感慨を持つ。

ブルンナーさんのことについてはウィキペディアパソコン百科事典で見てもらえばわかる。書くことになぜ感慨を覚えるかと言えば、ブルンナーさんが明治学院中学校の時の教科書だったからである。ジューネーブを通りかかったときがある。その地に墓があると後で知って参らなかったことを残念に思ったほどだ。

今は墓のことについてはそうでもない。自分も入る準備をしているから、人の墓に参ってもさほどの感慨はない。そういうことに感激するのは若い証拠である。しかし彼が書いた教科書は今だ私に新鮮な感覚を与えてくれる。戦後の宗教学校の高い理想を象徴する出来事であろう。今ではブルンナーさんのような有名な神学者の本を教科書に使うのだろうか。使っているとすれば明治学院も見上げたものである。どうせ文部省の指導要領に従って、大人しくやっているというのが現状ではないか。

ともあれ「教科書」であった。

断っておきたいのであるが祖父ネットは「神学」という言葉が嫌いである。「神」を「天主」に読み替えて祖父ネットを書いているからますます嫌いになる。前にも書いているが本場の西洋の英語で言えば Theology であるが、なぜこれがわざわざ「『神』『学』」なのか。theology というのはもう一つ一般的な言葉 theory が元ではないのか。詳しいことは知らないが theory とは我々に親しいところのセオリーであろう。セオリーとは論理ではないか。単に論理の学ではないのか。それがなぜ「神」学なのであるか。仮にキリスト教でいうそれを「神」と呼ぶにしても神に学など成り立つのであるか。論理なら成り立つ。論理を建てることは別に問題はない。論理それ自体が「学」になることは認めるが「神」本体がいわば学の対象物として成立するものであるか。神本体を学で追求するものであるか。宇宙を対象とする理論物理学と同等なのであるか。

実は有名な「神」学者だと言われたブルナーさんであるが、その教科書の始めの頃でこのことに少し触れている。冒頭の命題は「神は存在するか」である。祖父ネットとしては「天主は存在するか」に翻訳をしなおしてもらいたいものだと思っている。が、彼はその中でこの問題に触れ「神はなにも学問の対象ではありません。」とはっきり発言している。学問の対象でないものを対象として堂々と扱う人を日本では神学者と言うからおかしいのである。向こうで彼はセオロジストとでも言うのだろうか。深くは知らない。

彼は自分が「有名な神学者」と紹介されることを本当に日本語を理解した後で聞いたら赤面するだろう。いえいえ私はそういうものではありませんキリスト教の論理学者ですと言うに違いない。最も基本的なことでこんなにも誤解がある。西洋と東洋での理解の差は深すぎると余計なことも思ったりする。

ともあれ中学校の教科書とは「我らの信仰」という表題である。1935年までに書かれその後何度も改訂されたものだ。日本では1949年が初版であると思う。新教出版社からでたものであるがこの教科書を使ってここしばらく理屈をこねてみたい。

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2009.05.13

8-111 サザエさん その二

(8-105の続きです。)
矢内原忠雄といっても若い人は知らないであろう。

あれほど有名な人ももはや口にする人は少ない。矢内原忠雄さんを知らなくても「さざえさん」なら知っているか、な。今の国民的知名度ではサザエさんは筆頭の人で矢内原忠雄さんは下位の人というところであろう。

しかしかたい方の筆頭の矢内原さんと柔らかい方の筆頭のサザエさんと関係があると書くと面白い話になる。サザエさんと言ってもサザエさんはマンガの主人公であると言わなくてもいいがその作者の長谷川町子さんのことである。長谷川さんの自叙伝マンガ本が我が家に古くからあると前回書いた。かみさんが買って読んでいたのである。その本をじっくり読んだ。関係を知ってびっくりして腰が抜けた。老人の腰抜けはみっともないが整骨院に通うはめになった。

別に矢内原さんの伝記を持っている。

みすず書房から1998年にでたもので息子の伊作さんが書いた。大冊で先生の風格はこの本で完結している。矢内原さんが旧制の第一高等学校生徒のとき内村鑑三のところに弟子入りする。その時の話が前回書いたダーウィンの話とフィットしてくる。要するに秀才というのは頭のできが違うようだ。彼がキリスト教の「かみ」と聞いた時始めから創造神をイメージしたように思える。私などはどうもこへんがはっきりしなかった。つまり日本型の神理解とキリスト教的神理解が峻別できない状態が長く続いた。そればかりではない。どちらがどちらともわからず「かみ」を認識しどちらが「正しい神」かなどと悩んだ経験がある。ある観点で見れば「天主」という言葉を発見するまでしょっちゅう悩まされていたといえないこともない。

違うものを同じと解釈する方もするほうであるがそれが単純に「感じ」と「漢字」からくるのである。経験のない青年時代とはいえこういったところだけは秀才がうらやましい。

もっとも今さら秀才も鈍才もない年であるが。

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2009.05.11

8-110 ダーウィンの有神論

現代人の普通の常識ではダーウィンという人は無神論者だという。

無神進化適応論者というばかりではないその教祖として有名である。有神論が一般であった中世の欧米およびイスラム文化圏では大変な議論を呼んだことは今さら言うまでもない。我が国に入って来たのは明治維新前後であろう。近現代を造り上げる主要な思想として今でも健在である。

NHKなどは自然番組で必ずこの考え方を動物行動にわざわざ付け加え証明されもしない解釈を勝手に解説として使用するのが得意である。あまり目につくと小賢しいと思うこともしばしばで自然の自然的美しさの一部であっていいものが何となく動物といえど人間的な行動に思えて興ざめする。

わかったような解釈は小学生でもやらないようなものばかりであるが国民教育的効果というのであろう。その一方で命の尊さというものも言ってくれるからあまり効果があるとは思えない。命が生命維持のために行う弱肉強食の合理性にすべてが収束し無情な戦争さえ目的論的に考えられるという恐ろしさに気がつかないのである。

つまり進化論はあまりにも平凡であるのでもはや飽きられたいうべきであるがそれに代わる思想などないのが現実である。進化する人間は言葉と裏腹にますます自然を破壊しますます破壊的進化適応を続けているのはご存知の通りである。すなわち我々の日常行動はすべて今では進化適応で説明されている。

しかしダーウィンという人は実に真摯で立派な人である。その行動も思想もその真剣な観察眼から生まれたもので自己の従来の有神論を検討することまさに苦闘と言ってよいであろう。その苦闘の中から生まれた進化論である。が、特に日本のような科学技術において有数な国になった国民に取って今やあまりにも有害な思想である。

それには理由がある。特に難しい理由ではない。欧米やイスラム圏では今でも無神論に対する批判は鋭く現実的に科学者も肩身の狭い思いをしている。幾らキリスト教やイスラム教がその地で衰退しているとはいえその勢いや伝統、そのよって立つ思想を一夜にして覆すことは不可能である。

伝統ばかりが重しになって科学者や無神論者の足を引っ張っているわけではないがその思想的構造は至って簡単で日本では考えれないほど単純である。ここ日本で「神」「天主」などと訳し損なった「かみ」問題が絡んでいる。日本ではダーウィンの考えを「無神論」と訳してしまったために生じた混乱と誤解が今の日本の悲劇を生んでいるのである。

ダーウィンはその自伝の中で次のように言う。「ダーウィン自伝」チャールズ ダーウィン著 八杉龍一 江上生子訳 2000年ちくま学芸文庫刊 110ページから書いてみよう。ただしここでも文中で「神」と訳されたものを「天主」に置き換えて書かせてもらう。そうすることによってダーウィンの言うことが一層明確になる。ついでに言ってしまうとダーウィンは「神」と「天主」との二つの概念を峻別して語っている。前者は我々日本人が普通に言うところの「かみ」であり、もう一つはキリスト教やイスラム教でいう第一原因者としての「かみ」であり祖父ネットが「天主」と訳しているものである。

書いてみよう。
『天主(注、本文は神と訳されている)の存在への信念のもう一つの源泉は、感情にでなく理性に結びついたものだが、それは、もっとずっと重みをもつもののように、私は印象づけられている。これは遠い過去やはるかな未来までも見る能力を持つ人間を含めて、この広大で不思議な宇宙を盲目的な偶然や必然の結果として考えるのが極度に困難である、むしろ不可能であるということからの結論である。このように考えたときには、人間とある程度似た知性的な心を持った第一原因に目を向けることを余儀なくされるように感じる。この場合、私は有神論者と呼ばれてもよい。』

おわかりになるだろうか。彼が言うところの本来は天主と訳すべきものは、日本語では「神」と訳されるもの。しかし、天主であれ神であれ彼が否定したところのものは、簡単に言えば第一原因者天主説なのである。彼も言うように「余儀なくされる」ならキリスト教が言う「神」第一原因者を認めてもよいという発言である。それはわたしたち日本人が観想可能な漠然とした神の全体像ではないことは明らかである。天地創造をした神が第一原因者なのである。それを条件付きであるなら認めてもよいということであろう。最も条件とは極度に困難な場合であるが、と。

明治時代初期聖書翻訳で「それが」神と訳されてしまったために、日本語ではすべてが曖昧になった。第一原因者など科学以外に信じられる分けもないということは至って正当な常識であり、その第一原因者こそ信じるに足るものであるとするのがキリスト教やイスラム教である。

であるからこそ「天主」と訳すべきであると主張したい。俗にいえば創業者であるが。

お分かりいたいただけると期待するのである。信じるべきかどうかこれで明らかであろう。信じない方がいいかもしれない。どちらにしてもはっきりしていることである。

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2009.05.10

8-109 天主と書く「一日一生」 14

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

1月14日(本文20頁) 

☆聖書の引用箇所/コリントの信徒への手紙2第5章18〜20節
これらはすべて天主から出ることであって、天主は、キリストを通して私たちを御自分と和解させ、また、和解のために奉仕する任務をわたしたちにお授けになりました。つまり、天主はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく、和解の言葉をわたしたちにゆだねられたのです。ですから、天主がわたしたちを通して勧めておられるので、わたしたちはキリストの使者の務めを果たしています。キリストに代わってお願いします。天主と和解させていただきなさい。

☆内村鑑三の解説
罪とは天主を離れることであり、義とは天主に帰ることであることがわかって、救いとは何であるかがわかる。救いとは単に罪をさって義(ただ)しい人になることではない。こういうことはまた実際に人のなしうることではない。

救いとは天主の側より見て人を己に取り返すことである。人の側より見て背いた天主に帰ることである。そして天主と人との仲保者であるキリストの立場より見れば二者の調和を計ることである。

そして天主と人との場合においては、譲るべきは天主にではなく人にのみ存するのであるから、救いとは人を天主に和(やわら)げさせることである。人を天主に対するその元始(はじめ)の関係に引き直すことである。

☆祖父ネットの解題
難しいことをいろいろ言うよりもこういった単純な図式が一番よいと思う。

祖父ネットは信仰者としてこの説明に異論はない。最後の文章にある「人を天主に対するその元始(はじめ)の関係に引き直すことである。」という創世記の文字通りの解釈は気持がすっきりする。ダーウィンが自然を謙虚に観察し否定したものはこの創世天主の否定である。ダーウィンは一般に人々の間で常識となっている「神」を否定したのではない。

この「神」「天主」理解の峻別こそ今求められる。ダーウィンの科学者としての真摯を疑うべきではない。

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2009.05.09

8−108 ガリシアの歌 その二

8−101の続き。「スペインと日本人」(平成18年丸善刊)を改めて読み返している。

その一部に内村鑑三のことが書いてある。本は浅香氏からいただいた。内村のことは世路(せいろ)蛮太朗という方が書き、浅香先生はスペイン語の辞書を日本で最初に造り上げた「村岡 玄」という人のことを書いている。

第1編はフランシスコ ザビエルが書かれ、世路氏は5編目、浅香先生は6編目である。主文は全部で13編ある。世路氏は内村の「外国語の研究」に言及している。祖父ネットは昔わざわざ復刻版を購入した。ローマ字の有用性に目覚めたのもこの本である。大切にしている。

偶然知り合った浅香氏であるが、当時としてあまり脈絡もない関係でこんなことになるとは夢にも思って見なかった。今では尊敬する学者のご近所さんである。

宗教に関わる人間はこう言ったことをすぐ「かみさま」のせいにするが「天主」の采配でないとだれが言えるだろうか。天主の采配に違いない。

一番驚いているのは浅香氏ではないか。まさか自分が書いた本を近所の人にあげたところ、その本で取り上げられている本を持っている人がいてそれが「キリスト教徒」でそれも「内村派」などということに。

老人になるといろいろと面白いことが起こる。お陰でさまであきることがない。いただいた本をさらにじっくり読むつもり。そこにはドンキホーテの「読み方」が書いてある。ある調査で「文学として」一時は聖書を抜き世界一の座を獲得したこともあるという。ご存知のように長い小説で通読できない。私も何度も挫折している。その読み方が書いてある。「なるほど」と教えられた。再挑戦。

不思議なことにそれは聖書の読み方と一緒である。

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2009.05.07

8-107 天主と書く「一日一生」 13

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

1月13日(本文19頁) 

☆聖書の引用箇所/ローマの信徒への手紙 第7章22から23節
「内なる人」としては天主の法則を喜んでいますが、わたしの五体にはもう一つの法則があって心の法則と戦い、わたしを、五体のうちにある罪の法則のとりこにしているのが分かります。

わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。

☆内村鑑三の解説
人は罪を犯してはならないものでありながら、罪を犯すものである。彼は清浄であるべき義務と力を持ちながら、清浄ではない。彼は天使となりうる資格を備えながら、しばしば禽獣にまで下落するものである。

登っては天上の人となりうるが、降(くだ)っては地獄の餓鬼となる。無限の栄光、無限の堕落、共に彼の達しうる境遇であって、彼は彼の棲息する地球と同じく、絶頂(Zenith)絶下(Nadir)の両極点の中間に存するものである。

下るのはたやすく登るのは難しく、降れば良心の責めがあり、登るには肉欲の妨げがある。私の願うところのものこれを私は行わず、私の悪(にく)むところのものこれを私は行う。私は二個の私から成立するものであって、一個の私は他の私と常に戦いつつある。

誠(まこと)に実(まこと)にこの一生は戦争の一生である。

☆祖父ネットの解題
誠(まこと)に実(まこと)にこの一生は戦争の一生である。と、内村先生は書いた。誠に誠に、という字に「誠」と「実」の字を当て「まことに」を二度繰り返した。内村であるからこそまことにその戦いはすさまじかったのである。

内的なこの二つの戦いが収束するのは老人になって少しは性が収まってからである。しかし性が収まってもなお残るのは老との戦いである。老に至れば猜疑心が強くなりこの世に残さざるを得ない様々の獲得財産に執着する。だれであれ例外なく一生は戦争の一生である。

人間に頼って人生は破れ天主を信じて人生は勝利するのである。神と日本語で訳されたものではない天主と訳さるべきものである。天主とは創造者である。まことに信じがたいものである。キリスト教信仰とはその創造者を信じる誠に信じがたい難しい信仰である。

信仰もまた自分との戦いである。だから自分のすべてをかけて信仰を得た時の喜びはこれに勝るものがない。聖書一冊を信じるのみ。理想を言えば教派に頼らず教権に依らずただ独り聖書より得るものこれが誠の信仰である。

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2009.05.06

8-106 天主と書く「一日一生」 12

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

1月12日(本文18頁) 

☆聖書の引用箇所/詩編第27編3、4節
彼らがわたしに対して陣を敷いても、わたしの心は恐れない。わたしに向かって戦いを挑んで来ても、わたしは確信がある。一つのことを主に願い、それだけを求めよう。命ある限り、主の家に宿り、主を仰ぎ望んで喜びを得、その宮で朝を迎えることを。

☆内村鑑三の解説
産を失うもよい、願わくは天主の聖顔(みかお)を失わないことを。病に悩むもよい、願わくは天主の聖旨(みこころ)を疑わないことを。天主はわたしのすべてである。

天主を失ってわたしはわたしのすべてを失うのである。私たちに父をお示し下さい、それならば足りる。

わたしの全生涯の目的は天主を見、彼をわたしのものとすることにある。そのほかではない。


☆祖父ネットの解題
内村の信仰はここに極まったと言うべきであろう。教会でも教権でもない宗派でもない職業でもない学歴でも財産でも家族でもないのである。まして友人でもない地位でもない、それがなんで豪邸であるだろう。美しい着物でもなく健康でも若さでも名声でもない。背の高さ美顔高い年収でもない。成績優秀でもなければ美しい伴侶であるわけもない。

車でもないしゴールデンウィークでもない。美食に非ずよき職業でもない。天主はその信じがたい信仰一個で私たちにすべてを得させるのである。

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2009.05.05

8−105 サザエさん


もちろん表題は有名なマンガ本だ。

我が家にも昔から何冊かの「サザエさん」がある。子供のころ家にもあった。つまり年がら年中日本中にばらまかれていたと言っていいだろう。日曜日の午後6時半テレビでは今でも「サザエさん」がある。

そのサザエさんをじっくりと読むことになった。理由は何となくであるが、内のかみさんが好きな人で。

「サザエさんうちあけ話」これは長谷川町子さんの自叙伝である。かなり昔にかみさんが買ったのであるが、その時も読んだ記憶はある。ただ、ちょっとみ、「教会」が出て来たなとは思ったが。

しかし、今度は真剣に読み始めた。あまりにもキリスト教との関係が深い。長谷川さんのおかあさんがくせ者である。ともかくキリスト教そのもと言ってもよい。あう言った人がクリスチャンなら、キリスト教ももっと教勢が盛んであろう。クリスチャンでも滅多にいるひとではない。感激する。

その精神はまさにキリスト教そのもの。では長谷川さんはどうか。彼女はその精神を具体的に生きた人である。戦争は終わる。そのときこれ何事にもめげず、もっけの幸いと彼女は菜園労働をしているひとだ。

マンガなど実際は書きたくないが、生活もある。あの戦後のどさくさ物語は今読むと痛快である。しかし、というか、やはりというか、サザエさんマンガほど疲れる本はない。短いからつい読んでしまうのであるが、その内容はただならない。

軽く書く複雑で深刻な問題、これがサザエさんマンガの神髄であろう。あの才能で彼女がキリスト教を徹底的に書いたらきっと世界一の宗教書ができたことだろう。

ぜひクリスチャンにおすすめしたい。みならうべし。

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2009.05.04

8−104 ありのままの仏教入門

表題はある本の副題である。キリスト教の本としては意表をついている。

本題は「イエスに出会った僧侶」書いた人は松岡広和さん。ここ数日読みふけった。いのちのことば社というキリスト教出版社が出した。

読んだきっかけはある友人の紹介で松岡さんの講演を聴きにいったからである。講演の後で松岡さんの本を二冊買った。サインももらった。実に面白かった。

講演で聞いた楽しい話は前半まで、本は後半で一気に緊張する。それは仏教行事とキリスト教徒がどうつきあうかというテーマに絞られるからである。松岡さんは牧師さんである。ある教会を起こしたのであるが、表題からも分かる通り元僧侶。仏教系大学の大学院で学んだ人だ。僧侶修行も人並み以上に真面目であった。

氏の書く仏教史は分かりやすい。いままで何となく分からなかった部分が実に明快になる。

本の順番として仏教に対する理解ができた後で、現在の文化としての日本仏教の諸行事とつきあわざるをえないクリスチャンの心得が書かれている。しかしこの箇所は氏といえども限界がある。牧師である以上仏教とうまくつきあいなさいとは言うが、丁寧に避けるべしということが少なくない。

実際にはそれは無理だ。それは氏のように牧師の場合のみ他人も容認してくれることだ。それに牧師が書籍の中で適当にやりなさいとのみ言えるはずはない。しかし単純な表現で終わらないのがいいところである。

限界は松岡さんのせいではない。牧師である人がこう言った内容の本を公にする以上、避けるべきことをはっきりと言うのは常識であろう。はっきりとできないものはできないと書くしかない。で、松岡さんの薦めは一般のクリスチャンには荷が重いように感じる。

類書もきっとさしてかわらないだろう。どのように重いかは読めば理解できる。しかし祖父ネットは別に何の苦もなく先方に合わせる。キリスト教諸派のそれぞれの儀式に合わせるのとさしたる変わりはない。

数珠ご焼香仏壇位牌卒塔婆お墓参りなど敬して適当に合わせるべし、祖父ネットはそういいたい。これが松岡さんの言外の真意であると推測する。彼は狭隘な人ではない。だからこそ氏は勇気を持ってそれを真正面から明示する。仏教祭事の詳細を歴史的に説明し、その意味を語る。それだからクリスチャンとしては申し訳ないのですが、ご遠慮したいと言うべきだと言う。

牧師として限界があるにしても、普通のクリスチャンに取っては参考になる部分も多い。教団との距離をとる態度はどの宗教の一般信者にとっても大切な心得だと心得ていいのである。

一番いいのは創造者(天主)と直接自分が繋がることである。それによってすべての形式を打破できるはずだ。最後に氏もそれを語っている。苦しんだ人の結論である。

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2009.05.02

8−103 昭和の子 その二


教文館ビルは戦災にも生き残った数少ない銀座の名建築である。

そこにあるキリスト教出版社は教文館という老舗である。数ヶ月前社長を訪ねた。ある人の伝記を出版したらいかがかという勧誘をしたのである。

絵の先輩とコーヒーを飲んだ話は前回書いた。それで書くことを思いついた。伝記の人物とは「郷司浩平」さんである。牧師でありながら経済界に転じ戦後日本の経済活動に大きな足跡を残した。簡単に言ってしまえば現在の経済社会生産性本部を創った人である。

その郷司さんと教会で一緒だった。深く知ったのは自分が晩年になってからである。偉い人だとは聞き知っていたがそれほど深く知っていたわけではない。調べてみてびっくりしたのである。その時はすでに亡くなっていた。

詳しくもないがウィキペディアに書かれている。牧師から経済人になったのは、神学の勉強でアメリカにいる時世界大恐慌を見たからである。大恐慌はご存知の通り昭和の初期。

今も100年に一度の大不況と言われている。そこで参考に一番良い人であると思った次第。

キリスト教はとやかく言われることが多い。それは人の痛いところを突くからである。しかし痛いところを突くと言っても、その痛いところこそ人に取って大切なところである。人の痛いところを突く割にはクリスチャンはだらしがない、そんなものを信じるかと言われる。

クリスチャンが偉いのではない。偉くないから信じるのである。すべてこの調子。だから幾ら言っても人の失敗は終わることはない。成功しては失敗を繰り返す、もちろんクリスチャンも含めて。これが人間模様というものであろう。それ故にキリスト(救い主)の言葉は永遠である。それが聖書に書いてある。

教文館ビルにはその聖書の展示場がある。ぜひ「銀座ブラ」のついでに観てもらいたい。

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2009.05.01

8−102 昭和の子

アメリカの自動車大手が倒壊しパンデミック寸前の状況が到来した。

昭和の子にとっていささかの感想がある。生まれたのが昭和16年西暦では1941年である。1940年は紀元2600年生まれていないので分からないが、国民こぞって大々的にお祝いをしたようだ。そして翌年からの大戦争。

先輩を教文館コーヒーショップに案内していてフト気がついた。ビッコを引いている。私も先日来膝をやられてかなり長く整骨院に通っていた。やっとよくなったばかり。どうしたのですかと聞くと今回の示現会で展示を手伝いやられてしまったと。

さもあらん国立新美術館におおくは100号もある1300枚もの絵を掛ける仕事を手伝ったのである。もちろん他にもたくさんの人が参加し展示プロ集団もいる。それでも自分の絵が展示される部屋だけ手伝っても相当の絵がある。

私はまだそのとき一般出品者だから何も声がかからない。会友になったので多分来年は声がかかるだろう。それにしても同い年と言ってよい人の衰えは我が身の衰え。我が身の衰えは昭和が遠くなった証拠である。

中学生のとき先生が日本の車はサンフランシスコの坂を登れない、アメリカの車は屋根の鉄板は一枚打ち出しで坂などすいすい、と言って自国の車を軽蔑していた。戦争から生きて帰ってきた人だ。

それがこの有様世の常の姿になった。後何年かすればインドか中国の車におされて日本の車も経済の坂を転げ落ちることにならないか心配である。

おごる者は久しからずと日本人は平家物語から知るが、アメリカは聖書から知る。その聖書を置き忘れてアメリカの車はサンフランシスコの坂を登れなくなった。

教文館のビルは戦災にも生き残った数少ない銀座の名建築である。日本のキリスト教はここで頑張っている。コーヒーを飲みながらキリスト教音痴の先輩に少し宣教してしまった。迷惑だったと思う。

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2009.04.30

8−101 ガリシアの歌

浅香武和という学者がいる。

私のよく知る人である。あるとき立ち話で八戸の話題が出た。そのとき連想で「安藤昌益」のことが頭に浮かんだので話してみた。すると浅香さんが安藤を知っていたのである。そのとき以来彼に注目し始めた。ただ単純にご近所さんの人であったのであるが。

ハーバート•ノーマンまでまだ話は発展してはいないのは彼がクリスチャンではないからである。その浅香さんが本を出された。「ガリシアの歌」という本をDTP出版から編訳出版された。

スペインにあるガリシアという場所もろくにしらなかったのであるが、今はかなり分かるようになった。ガルシアと発音する癖がやっとガリシアと直せるようになった程度であるが。

スペインと言えば一時凝ったカンドウ神父が思い出される。切れ味のよい日本語の達人で日本の戦後を少なからず救った一人である。彼はバスクのひとでその近くがガリシアである。

浅香先生の本は詩の翻訳が主であまりにも素朴で美しい詩は普段の先生からは想像できない。それを訳して本にするのに十年の歳月が必要であったと言う。ただ私のような者からするとたった一つ不満がある。それは「神」と訳される部分である。

もし浅香先生が赦してくださるのならその部分を「天主」に読み替えて書いてみたいものだ。いやここで少し書いてみよう。詩の純朴至純がいやが上にもたかまるのであるが。

なんと立派な、なんと美しい
何とすがすがしい、何と純潔な
少女を緑の山に
天主は授けたのでしょう!
泣いたり、喘いだりして
歌ったり、ほほ笑んだりして、
目を覚まし、眠っていると
何と美しいでしょう!
ああ!天主様が
もし私に女の子を授けてくれれば
ああ!この世に
もはや苦悩なんかないでしょう
ああ!淑女として
私に女の子が持てれば、
私は服を着せてあげるのに、
靴を履かせてあげるのに。

(ロサリーア•カストロ•デ•ムルギーアのこの詩は19世紀中葉に創られた。本文48p49pから神を天主に読み替えて書いた)

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2009.04.28

8-100 中国語ワープロについて

お陰さまでいよいよ祖父ネット8シリーズも100回を迎えた。

通常ならばこれで気分を一新するのであるが、今回はそれをやらないで継続したい。なぜなら内村先生の「一日一生」が自分にとっていたって好調であるからだ。内村先生には申し訳ないのであるが、先生の文で「神」を「天主」に書き換えている。この書き換えが実に清々しい。

何度も言っているようにキリスト教の「神」を日本語に翻訳するときには二つの選択肢があった。しかし、それが「神」になったのであるが、そのときに聖書を翻訳した明治初期の宣教師と日本人補助者の間で選択の議論があったと書かれた文献は一切ない。二つとは「神」と「天帝」である。

この複雑な問題が翻訳時に参考にされた中国語聖書の翻訳時にあったことは文献に見られる。時代としてはアヘン戦争のころで、その二つの選択結果は驚くべきことに今も中国語聖書に影響している。同じ聖書なのに今だに神版と天帝版が堂々とある。池袋ジュンク堂や銀座教文館でも売っている。

それを最近まで知らなかった。自分ながらあきれてしまう。これでも1960年から明治学院で真剣に中国語の勉強はしていたのである。学院はヘボンさんが創業者である。そのヘボンさんは日本語聖書翻訳の立役者であることを知らない人はいない。そのヘボンさんが老いて日本を去り、故国アメリアに帰って死んだ同時刻、明治学院のヘボン館が炎上消失したことも有名である。

この炎上の解釈を口に出さないまでも何となく宣教師のアジア侵略遺恨とイメージするひとも多い。それは全く違っている。ヘボンさんはそんな小人ではない。ヘボン館は聖書翻訳事業と並ぶ彼畢生の事業「和英語林集成」の版権を、丸善に売ったお金で建てた建造物である。当時東京で最大の大きさを誇ったとも言われている。

それが彼の死と同時刻に炎上消失したということは、彼がいかに「神」を選択してしまったことを悔やんでいたかの証拠と言っていいと思う。少なくとも議論を尽くすべきであった。議論の後の選択であるならばそれもやむを得ない。しかし、その議論が行われたという痕跡がない。彼の辞書には「神」がキリスト教のそれに匹敵する唯一のものであると書いてある。日本には当時「天帝」は無かったと理解したのだろうか。彼の最初の宣教事業地は中国である。天帝版聖書を知らないわけは無い。

しかし、おおむね翻訳時から200年を経過していたキリシタン時代には「天主」という翻訳語があったと言われている。カトリックは当時原語主義を貫き多くの人が火あぶりにあう。

彼はアメリカに帰りそれを知ったのであろう。彼の老人になった時の悲壮な肖像が今も残っている。

ところで中国語のワープロはどの方法を持って打ち込むのが合理的であるか。もちろんピンイン入力法である。中国語はラテン語化(ローマ字化)できる。これで世界を救うことができる。健康で大量の消費国中国を創ることは世界の要請である。そうすれば日本語がローマ字化することなど雑作も無い。世界の冠たる製造国日本と大消費国中国のアジア連合を夢見ている。

「アジアの時代」を夢見たキリスト教徒内村鑑三の見果てぬ夢でもあるが。

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2009.04.27

8-99 中国青年からの手紙

私にとっては中国を代表する青年からの手紙を受け取った。

オーストリヤの芸術集団ジェラティンのパフォーマンス。それを小山富雄ギャラリーさんが主催した。そこにボランティアで参加したのである。何も分からずに現場に行ったのであるが、図らずも少しは役に立った。彼らの高い芸術的意図に少しは参加することができた。

芸術とは、と様々に言い表すことはできる。しかし、参加することはなかなかかなわないものだ。芸術は美と関係が深い。美の追求、とでも言うのだろうか。私も普段から絵を描く。つまり絵描きとして美に参加しているのであるが。その参加している一つの姿を最後に貼付けておく。

それを親しい人にメールで知らせた。その反応の一人が中国青年である。ここ日本にいて生きている人で、このゴールデンウイークを利用して中国に旅行すると言う。多分ご両親に会いたくなったのであろう。

その彼が祖父ネットを読んだ感想もつけてくれた。彼によれば中国語の二種類の聖書、一つは天帝版、もう一つは神版であるのは不思議に感じると。さらに神、天帝、天主と翻訳する日本語では、自分としては天帝がいいと思う、天主は少し古いと思う、と感想をくれた。

すばらしい。

感想は漢字の本場の秀才からなのでこれほどうれしいことはない。彼は英語の達人で電子ソフト家であり、日本の関連会社に勤めている。電子ソフト家はすべてラテン文字(ローマ字)を使う。その世界で生きようと思えばそうしなければ生きていけない。英語は二義的であって、一義的ではない。中国も日本もこれだからローマ字の国字化こそ求められる、とことのついでに主張して止まない。

ともあれ「にんげん」をキーワードに芸術も言語も宗教もますます接近している。


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2009.04.26

8-98 天主と書く「一日一生」 11


内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

1月11日(本文17頁) 

☆聖書の引用箇所/詩編51編 第18、19節
もしいけにえがあなたに喜ばれ、焼き尽くす捧げものが御旨にかなうのなら、わたしはそれをささげます。しかし、天主の求めるいけにえは打ち砕かれた霊。打ち砕かれ悔いる心を、あなたは侮られません。


☆内村鑑三の解説
事業とは私たちが天主に捧げる感謝の捧げものである。しかし天主は事業に勝る捧げものを私たちに要求される。すなわち砕けた心、小児のような心、ありのままの心である。

あなたは今事業を天主に捧げることはできない。だからあなたの心をささげよ。天主があなたを病ませるのは多分このためであろう。あなたはベタニヤのマルタの心を持ってキリストに仕えようと願い、「供給(もてなし)のことが多くて心いりみだれ」(ルカ10•40)たからであろう。だから天主はあなたにマリヤの心を与えようとしてあなたを働けないようにされたのである。

手に物もたで、十字架にすがる

とは、あなたが常に歌っているところであり、その深遠な意義を知るために、あなたは今働くことができないのである。


☆祖父ネットの解題
今このとき働くことができない人のために書かれた文章である。働くことがまたは働けることが当たり前と思っているときに読むとよい文章である。働くことが当然と思っている時、突然人は働けなくなることが起こる。健康を害したり景気が悪くなったりまた様々な理由でそれは起こる。しかし、その理由は至って簡単であり納得できる理由である。怖いような予言的な言葉であるが実際にはよく起こることであり、今まさに起こっている。

宗教家はこれを逆手にとるべきでない。禁じ手であるが多くの宗教家がこの禁じ手を使って布教している。

禁じ手のなかに本当の深遠な意義があるとする悲しい人間の現実が迫ってくる昨今であるが。私は老人として、あなたは失業者として、あるいは病者として。


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2009.04.24

8-97 天主と書く「一日一生」 10

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

一月十日(本文16頁) 

☆聖書の引用箇所/コリントの信徒への手紙一第二章11、12節

人のうちにある霊以外に、いったいだれが、人のことを知るでしょうか。同じように、天主の霊以外に天主のことを知るものはいません。わたしたちは、世の霊ではなく、天主からの霊を受けました。それでわたしたちは、天主から恵みとして与えられたものを知るようになったのです。

☆内村鑑三の解説
私たちはモーセ、イザヤ、エレミヤ、イエス、パウロらによって唱えられた古い旧い天主教(唯一神教)に帰らざるをえないものである。ここに元始(はじめ)に天地とその内にある万物を造られた天主がある。ここにまたインマヌエルと称(とな)えられて人類と共におられる天主がある。そして二者は二つの天主ではない。同一の天主である。宇宙を造り、その上にあり、その中に降(くだ)ってこれを保育なさる天主である。

この天主は自然神教がいうような高い所にいて、宇宙と人生とにたずさわらない無情無感の天主ではない。

そうかといって宇宙の中に閉じ込められて、天然以外に何事もなしえない天主ではない。彼は宇宙を造って宇宙よりも大きな天主である。宇宙をもって徐々に自己を顕わされる天主である。彼の意志(こころ)が人の道である。人は宇宙によって大いに天主について知ることができるが、彼の意志はこれを直接彼につき従ってはじめて知ることができる。


☆祖父ネットの解題
ここに書かれた壮大な観念は内村信仰の最大の成果である。神を天主と書くことによって宇宙大以上のものがよりいっそう明確になる。インマヌエルとあるのはイエスキリストのことであり、霊をそれに加えると「三位一体」であり、キリスト教の教義のエッセンスであることは言うまでもない。


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2009.04.23

8-96 池田満寿夫論

人生には驚くべきことがいろいろ起こる。人間にはけっして予期できないことが。天主(神)は深い采配を持って密かにすべてを備えられる。

池田満寿夫さんの小説「私小説」、その中の64ページあたりにジャン•コクトーがでる。ジャン•コクトーは久しぶりに聞く名前。昔々若かりしころ盛んに聞いた。最もここはフランスではないので最近のことはよくわからない。日本ですら「池田満寿夫」を聞かなくなった。すべては過ぎ去るのである。

平和が続くと世間が保守的になり、改革と口では言うもののおっくうがってなかなか腰を上げない、これが人間だろう。ところがあの時代、つまり池田さんが書いた時代は全く逆である。かれはコクトーの映画を高三のときに見る。「オルフェ」という映画で、詩人小説家映画作家画家であるコクトーさんが、みずから手がけた映画である。池田さんは感動してその後みずからも映画を作る。「エーゲ海に捧ぐ」であるが、その製作裏話が書かれている。

彼自身で自作自演演出という映画を自分の小説から創るのであるが、その過程で自分が主演するかどうか悩んでいる箇所。小説は芥川賞を受賞したもの。すべてイタリー人で構成され現場撮影主義を貫いたらしい。是非観てみたい。

コクトーさんは自分の映画の中で、自分の創った詩を主演したコクトーさん自身がある人に見せる。ここが池田さんを感動させた場面。

「新しい詩集ですか」
「左様新しい詩集です」

コクトーさん演ずる詩人はおもむろに詩集をひらく、と。そこには何も書いてない真っ白なページが写る。「純白の詩です」と詩人は説明する。

今ではきざでしかないが、あの時代の空気をこれほど表したものはない。世界中の悩みがこの一点に凝縮している。あの当時の世界の人の心はこの真っ白なページに象徴された。あえて真っ白、世界大戦に疲れ果て新しく世界は再出発しなければならない時。池田さんもこれにはまいったのであろう。彼が高三、私はまだ中学生か小学校高学年のころか。

今さらながら絵を描くものとしてもあの時代を生きたものとしても、つくづくいい先輩を持ったものだと思う。彼の小説のこの場面の原稿はアメリカモントリオールで書いたものである。

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2009.04.22

8-95 西脇順三郎と池田満寿夫


人生には驚くべきことがいろいろ起こる。人間にはけっして予期できないことが。天主(神)は深い采配を持って密かにすべてを備えられる。

偶然であるが熱海の池田満寿夫美術館、正確には「創作の家」を覗いたことは書いた。そこで「美の値段」を買って読み切った。示現会の会友に推挙されて、俄然絵画の世界を改めて考えていたからである。「美の値段」は絵画の価格の直接的な探索であり絵画の値段のよって立つ様々な状況をうまく整理し説明している。実に頭のいい人である。さすがに一時は世界的な評価もあった人で。

関心ついでにもう一冊と彼の「私小説」を読み始めた。サブタイトルは「わが青春の文学と性の遍歴」である。本の帯に「版画、小説、映画と多彩に活躍する著者が、確たる道を見出し得ず、鬱屈する青春の中に遊泳していた時代の〈性と文学〉へのおもいを回想し、芸術的出自を明かす好エッセイ」となっている。言葉通りと言ってよい。すでに絶版で、昭和55(1980)年に出版された。

細かいことはまだ読み切っていないので書けない。が、そのなかで西脇順三郎さんが出現したには驚いてしまった。西脇さんについてはここ祖父ネットでも前に書いた。明治学院で中国語を勉強中の遥か遠い昔小野田耕三郎さんの事務室で西脇先生をお見かけした。池田満寿夫が西脇先生と関係があったとは熱海の説明で知ってはいた。しかし、本にわざわざ書いてあるとリアリティがある。私もただお見かけしたに過ぎないが、西脇さんは有名な詩人である。その高い評価は今も変わらない。

池田さんは西脇さんの詩に深く影響されたと言う。アメリカで長く生活した人であるが、頭の中かが英語漬けの時も芭蕉の詩だけはフト浮かぶから不思議だと書いている。その中に西脇さんも入っていて、その影響は深いと彼は言う。二人はあってお互いによく話をしていたようだ。

「明治学院人物列伝」という本がある。サブタイトルは「近代日本のもうひとつの道」というもので西脇順三郎さんが出ている。明治学院は日本の学校群で言えばアウトサイダー的存在である。日本の絵画道のアウトサイダーと「近代の日本のもう一つの道」のスター詩人との出会いはまことに絶妙で味がある。

実に面白い。

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2009.04.21

8-94 天主と書く「一日一生」 9

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

一月九日(本文15頁) 

☆聖書の引用箇所/詩編第16編8、9節
わたしは絶えず主に相対しています。主は右にいまし、わたしは揺らぐことがありません。わたしの心は喜び、魂は躍ります。からだは安心して憩います。


☆内村鑑三の解説
この脆弱(よわ)い肉体、これで何をすることができるだろうか。この罪悪の社会で、これまた何をすることができるだろうか。この身に省みて、この社会により頼んでわたしたちは失望せざるを得ない。

わが扶助(たすけ)は天地(あめつち)を造られた主からくる。彼には量り知れない能力(ちから)がある。そして私はまた私の心の門戸を開いて、彼の大能をもって私を充たすことができる。彼は火と霊とをもって、天の変と地の異(い)とをもって私の業(わざ)を助ける。

私にこの内外の援助(たすけ)があるから、私は一人で全世界に当たるとしても恐れることはない。

☆祖父ネットの解題
最後の行「おそれることはない」は「ぎくの念を抱かないだろう」が正確であるが、「疑ぐ」の「ぐ」が漢字ででないので言い方を変えた。ともあれキリスト教で言う天主(神)を信じるということはこう言うことである。

今の聖書で神を主と言うのであるから、明治時代から今に至るまで「神」と訳されてしまったキリスト教の神を、今からでも遅くはないので「天主」と読み替える時期に来ているのではないか。祖父ネットはそれを恐れず社会に提案している。


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2009.04.20

8-93 池田満寿夫の美の値段

表題に書いた池田満寿夫さんの「美の値段」を読み終わった。

「池田満寿夫熱海の家」に行ったとき買った本である。家に行ったと言っても、そこは美術館でだれでも入れる。とてもきれいに清掃された芸術家の別荘と言った感じである。高台にあってちょうど東京から東海道線のトンネルを出た真上にある。玄関からは熱海市を一望できるけれど目の前にマンションがあり残念ながら海は少ししか見えない。

「美の値段」はすでに絶版である。美術館では売っていたが、本当に素晴らしい本である。多少とも美術にかかわるものにとっては誠にありがたい。私の精神を日々支えてくれる聖書の芸術版であると言ってもよい。サブタイトルに「絵画損得ウラ事情」とあるが、ウラというほどではないが真相を穿っている。聖書は「人間損得ウラ事情」とでも言えるのであるが、聖書は人間そのものの教科書であり、池田さんのものは美術に限った人間事情本である。どちらも人間事情という本質に変わりはない。

池田さんは本の最後に次のように書いた。絵画制作で苦闘した人の遺言である。

「美術品は結果的には売買される商品であるが、最終的には理想と精神をを売るものなのだ。それを忘れたなら、画商をやめて、靴下でも売りなさいと言いたくなる。美術品は金持ちをつくるために制作されているわけでも、売っているわけでもない。人間の生活空間と精神を豊かにするために、あるいは感性を増大させるために存在しているのである。その原則を忘れないでほしい。」

彼は自由と崇高な精神をもった絵画戦士であった。


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2009.04.18

8-92 天主と書く「一日一生」 8

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

一月八日 

☆聖書の引用箇所/ヨハネの手紙一第四章9節、10節
天主は、一人子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、天主の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが天主を愛したのではなく、天主がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子を遣わしになりました。ここに愛があります。

☆内村鑑三の解説
天主は愛である、したがって天主がわたしたちにお与え下さる最大の恩賜(たまもの)は愛である。天主は必ずしもわたしたちに権能(ちから)を与えてくださらない、彼はイエスにもこれをお与えにならなかった。天主はその愛子が敵にあざけられ、ののしられた時にも、彼に天より万軍を召(よ)んで、これを滅ぼす権能をお与えにならなかった。

イエスは苦しめられても、みずからへりくだって口を開かず、屠場(ほふりば)にひかれる羔(こひつじ)のように、毛をきるものの前で黙っている羊のようにその口を開かれなかった。しかし天主はそのとき著しく愛を彼に与えられた。彼に十字架の上から「父よ彼らをお赦し下さい、その為すところを知らないためです」と叫ばせた。

十字架につけられたイエスには、己を救うだけの能力さえなかった。しかし彼は天主の子であった。愛のほか、何者をも持っておられなかった弱い、援(たす)けのないものであった。

☆祖父ネットの解題
人間にとって愛とはとても難しい概念である。

なぜなら我々が生きるとき、実際は自力で生きなければならないからである。自力で生きると利己的になるのはやむを得ない。しかし、利己的であるばかりでは、また生きることは出来ない。そこで人と人とをつなぐものを愛と言ったのである。それが人間にとっていかに重要であるか、まさに天主(創造者、神)はそれをイエスによって人に与えたのである。さすれば自力でしか生きられない人間にとって必要なものが天主の愛であるということが分かる。

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8-91 池田満寿夫さんを読む

熱海に小旅行を試みた。ついでに「池田満寿夫さんの家」を訪ねた。

といっても「さん」付にするほど親しい訳ではない。それに少し年上の人ですでにこの世にいない人である。画家池田満寿夫と言われたり、版画家や小説家、あるいはエロ事師などと言う人もいたのではないか。そこは美術館でかつての彼の住まいとアトリエである。そこで彼は死んだ、63歳だった。

熱海駅に近いので時間のある人は訪ねるといい。彼の精神は清新で高いのであり、社会はある程度嫉妬と羨望を彼に投げかけた。あまりにも絵がうまく、日本のピカソと言われていたが、彼はピカソを師とすると公言していた。まねておそれず、ピカソの絵をこよなく愛していた。そこで本を買った。「美の値段」という本である。今盛んに読んでいる。

絵の値段の裏話であるが、真実をつく。私もプロの絵の世界を若いときに覗いてみていた。その後離れて少しは楽な道を選んだ。どのみちも所詮苦しいのであるが、リックサックの中身は絵の方が重い。絵画の世界のつらさは実用と関係がないことである。実用と関係のない世界で、実用的な生活を送ろうとすればそれは苦しいに決まっている。

宗教もそういったところが似ていて、ある意味では絵画より厳しいのは言うまでもない。

池田さんが世界的に有名になり、日本でも遅まきながら認めざるを得なかった。渋々絵画界は彼の才能を認めたのである。先ず世界が彼を認め、その次に自国民に認められた。どちらにしても素晴らしいものは、素晴らしい。彼のよいところは精神の自由に挑戦したところである。絵とエロは彼の道具であって、小説も書いた。たちまち芥川賞を取って世間を驚かせた。それで映画も作り監督として辣腕をふるった。

疲れたとき彼の絵を観ているといい。精神の自由とは何かが分かるはずである。池田よりピカソがもっといいのは、ピカソがその道を開いたからである。あらゆる抽象画は20世紀の厳しい現実から人間の精神を解き放った。

今は21世紀、何か創造的な絵画が生まれる時でなくてはならない。みんな必死で努力中である。

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2009.04.14

8-90 芸術と宗教と社会


「ジェラティン」ボランティアへの参加は、表題の問題を考えるよい機会になった。

国立新美術館の示現会展も13日で終わった。自分では考えられない意外な展開があったが、「ジェラティン」への参加も同じような興奮を与えてくれた。絵画が芸術として苦しむ姿は当然である。人間の行為としての芸術には常に発展があるのであろう。発展という言葉が使われるが、人間というものはいつも一定のところにとどまっていられない性質がある。それが現在形としての人間全般の姿である。芸術もその影響下にあるのであろう。仏教ではそれを「無」と教えて、発展といい変化というも「無」のなかに生成消滅するに過ぎないと教える。

キリスト教では天主(神)の創造が語られ、そこには明確なメッセージがある。つまり宇宙創造の目的である。しかしそこに特別な発展的な思想は本来ない。発展とは楽園を追われた人間が必然的に持つであろう至って人間的な観念に過ぎない、と教える。楽園とは満ち足りた発展しない時空のことである。

仏教は時空を無と捉え、キリスト教では創造された場所として捉える。ともに人間の時空把握の優れた解釈である。私はキリスト教徒であるが、「ジェラティン」が行った芸術に参加できたことは、この異種の考え方に芸術的表現を与えた行為に参加したということを意味した。龍安寺に模した庭を小山ギャラリーに創り、庭に人間を岩の代わりに据えるパフォーマンスは素晴らしい発想である。性的な表現も含まれはするが、芸術が性と切り離せないのは人間を表そうとすると生ずる必然の結果である。

「ジェラティン」はオーストリアのウィーンの人たちだ。シュテンファン教会の壮麗な伽藍は彼らの育ったところである。別に教会の前に立たなくてもウィーンそのものがある意味では憂っとをしい圧倒的な歴史の人間抑圧表現と成っている。クリムトがそういった圧倒される人間を表現し人々の共感を得た時のように、「ジェラティン」という芸術家たちは逼塞観を撥ね除けようとする。新しい表現を求めてさまよい歩く姿は崇高である。

それは社会と少なからず対立することに成る。人間は秩序でなければ成らず、社会は少なくとも慎ましくあってもらいたいというのであろう。しかし、秩序は今や変わりつつある。21世紀は始まったばかりであるが、なにか恐ろしい予感がないではない。この予感は科学の異常な発達、環境のかぎりない破壊、核兵器の無限の拡散など挙げると切りがない予感である。

どのように解釈することがわたしたちにとって正いのかいまだだれにも分からない。それらを一向に制御出来そうにない予感である。「ジェラティン」の芸術活動はその局面をよく表す勇気ある芸術家たちであるといえよう。(8−87に「ジェラティン」の関連記事があります)

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2009.04.13

8-89 天主と書く「一日一生」 7

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会のものを使い、『神』を『天主』に読み替えています。)

一月七日 

☆聖書の引用箇所/テサロニケの信徒への手紙一第一章三節、四節

あなたがたが信仰によって働き、愛のために労苦し、また、私達の主イエス•キリストに対する、希望を持って忍耐していることを、わたしたちは絶えず父である天主の御前で心に留めているのです。天主に愛されている兄弟たち、あなたがたが天主から選ばれたことを、わたしたちは知っています。

☆内村鑑三の解説

信とは天主の誠信を信じる信である。
望とは復活と永生と来つつある天主の王国とを望む望である。
愛とは十字架に釘(つ)けられ、死んで甦(よみが)えったキリストにおいて顕(あら)われた天主の愛である。
世に勝つ者はこの三つのものである。

☆祖父ネットの解題

内村がここで「世に勝つ者」と書いたのは、人とは「世に負ける者」であると書いたと同じである。

無理をすることはない、人は世に負けるのである。それでは世とは何か。説明は不要であろう。わたしたちが生きる毎日のこの世は、決してわたしたちの理想の世ではない。わたしたちの理想の世は私達の心の中にはある。しかし、現実の世はかくの通りである。

信がいかにわたしたちにとって必要なものであるかがこれで分かる。わたしたちが圧倒される大自然の壮麗な美しさといえども、わたしたちにもし信がなければその本当の美しさには達しないであろう。信さえあれば道路辺の小さな花にさえその荘厳を見ることができる。

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2009.04.12

8-88 天主と書く「一日一生」 6


内村鑑三「一日一生」から(教文館版によって)

一月六日 

☆聖書の引用箇所/コロサイの信徒への手紙第一章13節、14節
御父は、わたしたちを闇の力から救い出して、その愛する御子の支配下に移してくださいました。わたしたちは、この御子によって、贖(あがな)い、すなわち罪の赦しを得ているのです。

☆内村鑑三の解説
キリスト教化されようと望んでキリストに来た者は、必ず彼を棄てることになるだろう。新しい思想を得たいと望み、また広い交際に入ろうと望んで来た者も、また彼を棄てることになるだろう。
その罪を贖(あがな)われその霊魂を救われようと望んで来た者だけが、よく永久に彼とともにとどまることが出来るだろう。
あるいは審美的に、あるいは哲学的に、あるいは交際的にキリストを求める者はついに彼と離れざるをえない。
世のいわゆる求道者は深くこの点に注意する必要がある。

☆祖父ネットの解題
内村の活躍した明治時代、キリスト教は文明開化の華でもあった。しかし、それはうたかたの夢に過ぎず、しばらくすると人々はキリスト教から去っていった。戦後、駐留軍とともにまた復興したキリスト教は世に流行するところとなった。しかし軍隊が去り残ったのは立派な病院と学校のみで、キリスト教を利用はすれど、日本人が一向ににその信仰に達することはない。しかし、それでいいのである。
キリスト教が国民の半数にも達すると言う韓国では、もはやキリスト教は信用を失いつつある。キリスト教のように始めから教祖が十字架につく宗教が、人々に人気のある理由はない。それでいいのである。それだからいいのである。人はまじめなことを避ける傾向がある。それで当然である。
信じるとはまさにまじめなすさまじい行為に過ぎない。なんといわれようとも。

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2009.04.11

8-87 アーティストのたたかい

公募絵画展、第62回示現会の開催中である。13日まで。

何人かの知り合いが、国立新美術館に足を運んでくれたようだ。そんな中、祖父ネットはアート最前線を経験しようとトミオ コヤマ アートギャラリーを覗いてみた。小山ギャラリーは画商最前線である。NHKでも取り上げられたが、機会がなく今度が初めて。機会とは、ギャラリーがボランティアを募集していたからである。どうせ飾り付けの手伝いかなにか、かと。

ボランティアの中身は書かない。

終わって半蔵門線清澄白河駅から渋谷に出、副都心線に乗って帰った。ただ、それだけであるが、そのとき行き交う人々が不思議と奴隷に見えた。雑踏の中に不機嫌そうに動き回って、何かに憑かれたように、すさまじく動き回っている人々。

アーティストとはウイーンの「ジェラティン」。ネットで検索可能だ。作品の一部をそこから引いて貼付けておきたい。テーマは言われているわけではないが、あのとき開放された私の精神が見た光景が、奴隷の光景である。Gpa0902s
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2009.04.08

8-86 天主と書く「一日一生」 5


内村鑑三「一日一生」から(教文館版によって)

一月五日 

☆聖書の引用箇所/エレミヤ書第17章5節〜8節
主はこう言われる。呪われよ、人間に信頼し、肉なるものを頼みとし、その心が主を離れ去っている人は。彼は荒れ地の裸の木。恵みの雨を見ることはなく、人の住めない不毛の地、炎暑の荒れ野を住まいとする。祝福されよ、主に信頼する人は、主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り、暑さが襲うのを見ることがなく、その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない。

☆内村鑑三の解説
善とは天主であるとするならば、悪とはもちろん天主を離れることを言う。盗む、殺す、姦淫するのは、天主を離れた結果であり罪そのものではない。私が人を殺すときに国法が私を罰するのは、私の犯した殺人罪そのもののためではなく、私が天主を捨てたためである。天主が私と共にあり、私が天主とともにある時、私は罪を犯そうとしても犯せないだけでなく、罪という観念は私に存在しない。私が不完全で、私が他人を賎しみ、私が欲情のために使役させられる、私が傲慢で、私が人を愛せないのは、皆ことごとく私が天主を離れたためである。従って私がもし天主に帰るならば、私は善人となれるのである。罪から免れる道はただこの一途だけである。


☆祖父ネットの解題
解説は不要であると思う。こう言った強い考え方を「信仰」というのであろう。

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2009.04.05

8-85 天主と書く「一日一生」 4


内村鑑三「一日一生」から(教文館版によって)

一月四日 

☆聖書の引用箇所/イザヤ書第11章1、2節

エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根から一つの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊。思慮と勇気の霊。主を知り、畏れ敬う霊。

☆内村鑑三の解説

百万の軍勢が辺塞(へんさい)を守り、シーザーの宮殿では弦声高く、勇士らが恩賞を誇っていた時、主はその子をベツレヘムの丘の上、牛や羊が、桶中に食物を探しているところにお降(くだ)しになって、人類救済の道を開かれた。革新が世に臨(のぞ)むのは常にこうである。

世が挙(こぞ)ってこれを帝王と軍隊とに待ち望むときに、天主は貧児を茅屋(ぼうおく)の下に降して、世に新世紀を開かれた。

今や再び革新の声が高い。私達は当方の博士にならい、私達の救い主を求めるためにローマに行かずにベツレヘムに詣(いた)らせよ。

☆祖父ネットの解題

大昔、ローマ帝国が繁栄を極めた時、イエスはその辺境に生まれた。自分の国が失われ、民族は世界に散った。第二次世界大戦の後、再び国は創られたが、紛争が絶えないのは周知のことである。しかし、イエスに始まるキリスト教は、そのローマの国教と成り、世界史に深く影響を与えた。彼は一兵とてもたず、刃一つ動かさなかったにもかかわらず。彼は天主の愛を人々に知らせたのである。天主は人類を憐れみ、自ら人となってこの世に来た。天主の変わることのない愛は、今も我々の上にあって揺るぎがない。

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2009.04.04

8-84 天主と書く「一日一生」 3


内村鑑三「一日一生」から(教文館版によって)

一月三日 

☆聖書の引用箇所/イザヤ書第11章6、9節

狼は子羊とともに宿り、豹は子やぎとともにふす。子牛は若い獅子とともにそだち、小さい子供がそれをみちびく、わたしの聖なる山においては、何者も害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる。
 
☆内村鑑三の解説

めぐみの露、富士山頂にくだり、したたってその麓をうるおし、あふれて東西の二流となり、その西のものは海を渡り、長白山(ちょうはくざん)を洗い、崑倫山(こんろんざん)を侵し、天山、ヒマラヤの麓に灌漑(みずそそぎ)ユダの曠野(あれの)にいたってつきた。

その東のものは大洋を横断し、ロッキーの麓に黄金崇拝の火を滅し、ミシシッピー、ハドソンの岸に天主の宮をきよめ、大西洋の水に合してきえた。

アルプスの嶺はこれを見て曙の星とともに声を放って謡(うた)い、サハラの砂漠は喜んでサフランの花のように咲き、こうして水が大洋を覆うように主を知る知識は全地にみち、この世の王国は化してキリストの王国となった。私は眠りより覚め、独り大声で呼んで言う、「アーメン、どうか聖旨(みこころ)が天になるように地にも成らせよ」と。

☆祖父ネットの解題

上は内村先生が描いた当時の地球のすがたである。明治開港から150年が経過したと言う。

言うまでもなく、地に満ちた蜂の大群が消えたという話が、日本でもアメリカでもある。言うこともあるまい、天主の愛を信ずるしかないのである。引いて天空より見る地球は、なんと美しいことか。我々の罪は、なんと深いことか。

天主我らを憐れみたまえ。

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2009.04.03

8-83 天主と書く「一日一生」 2

内村鑑三「一日一生」から(教文館版を参考にして)

一月二日 

☆聖書の引用箇所/創世記1章26節、27節

 天主は言われた。「我々にかたどり、我々に似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地をはうものすべてを支配させよう。」天主はご自分にかたどって人を創造された。天主にかたどって創造された。男と女に創造された。

☆内村鑑三の解説

「天主はその像(かたち)にしたがって人を造られた」と。また「真正(まこと)の宮は人である」と。また「あなたがたは天主の宮であって天主の霊が自分たちの内に住んでいる」と。それならば人の体躯(からだ)は宇宙にかたどって造られたものか。そして宇宙がもし天主の体であって、人がもし宇宙にかたどって造られたならば、人は彼の外形においてもまた天主の像(かたち)を現わすものではないのか。

天主よ願わくは私のこの気ままなる想を許されよ。私はあなたを人類視しようとするものではない。私は人をあなたが与えられた適当の高位にまで引き上げようとするのである。人は彼自身の肉体を見るとき常に卑賤の念をもって見、これを獣類のそれに比べ、単に肉塊であると称し、それがいかに貴重でありいかに聖なものであるかを知らないのである。

彼は彼の体を汚す時に、天主の像を汚すものであることを知らないのである。聖なるかな聖なるかな万軍の主エホバよ。わたしたちの体は実にあなたの像にかたどられて造られた聖なる宮であるのではないか。

☆祖父ネットの解題

文中の「宮」は原文で神殿、聖なるものは神聖となっている。「神」を「天主」に替えると、このように「神」という漢字の熟語も変化せざるを得ない。

内容については言うまでもない。わたしたちの肉体が科学的に探求され、医学的によく治療されるに及んで、私達はますます自分の肉体を軽んじる。一番いけないのは自分ばかりではなく、他者の肉体も軽んじることである。性愛は快楽ばかりが強調され、聖なる肉体は文字通り性なる肉体となった。聖も性も、ともに天主が与えてく下さった唯一無二ものである故に、尊いのであるが。

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2009.04.02

8-82 国立新美術館示現会展で

昭和23年から始まった示現会展も62回目となった。

入選し第7室目に飾られたのであるが、少し驚いた。ずっと絵は描いていたが、老人の自分を励ますために公募展に再挑戦していたのである。若い時はまさに挑戦、30歳まで頑張りすぎてお金を使い果たした。生活者に目覚めて、公募展から引き上げた。それまで4回入選した。1回は自由美術展、3回は示現会展である。

絵はつらい作業である。しかし、その魅力は大きい。最近「岸田劉生」を調べている。昔、子供の頃に世話になった床屋さんのご主人が劉生好きで、店に飾ってあった。勿論印刷物であるが。それにしても、理由が分からない。そこに修行に来ていた中村さんが、絵を描きたいと言って飛び出してしまった。お前の所為だと、ご主人に怒られた経験がある。その彼も、今や勝浦で立派な床屋さんだ。絵は相変わらず描いているらしいが。なぜ勝浦の立派な自然を描かないのか、さっぱり分からない。彼は人間を描く。

それにしても7室というのはよろしくない。なにせ30年も空けてしまったから、あまり高い位置では恥ずかしいのである。興奮したので早々に外に出、コーヒーを飲みながら気を鎮めた。その足で出品者懇親会に出席した。有楽町の東京会館である。その前少し時間があるので、近くの画廊を覗いた。いい具合にユトリロが一枚あった。近くでつくずく眺めたのであるが、おかしな画家である。

この人は本当の画家である、と思い込んでいる。ともかく常識では考えれない線と面である。自分であれば完全にしっかりと描く手すりの一つ一つなど、実に無造作である。しっかり描こうという意識すら感じない。そういった絵であることは、よく知られているが、これがいい、のであるが。いわば納豆の味のようなもので、始めに食べる外人は顔をしかめるが、その内にうまいと言い出す、あれである。

懇親会は500人ほど集まる。大げさに言えば全国から絵好きが集まるのである。ここ三回ほど出席しているから、立食の食べ方も少し慣れた。始めの頃はあっという間に食卓は食べ尽くされるから、今はなるべくすいているところを狙って、さっさとおなかを満たす。あとは、服装顔つき態度物腰を観察するのである。

絵好きの大集団など滅多に見られるものではない。女はいい尻をしているし、男はなかなかくせ者が多い。

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2009.04.01

8-81 天主と書く「一日一生」 1

内村鑑三先生の「一日一生」は、現在教文館さんで出版している。

かなり根強く人気のある本である。勿論、内村先生は明治の人であるが、分かりやすい日本語で書かれている。それをさらに一層読みやすく編集されたのが教文館さんである。文中は当然「神」であるが、「天主」に読み替えてご紹介したい。神、天帝、天主の件については、すでにかなり書いた。経緯はそれを読んでもらいたい。

先生は一日を365回に分け、一日一回のペースで読めるように工夫している。何につけ非常に厳しい我々の人生であるが、きっと励まされると思う。先生は初めに聖書を紹介し、解説に入る。そのような形式を365回継続している。では第一回目から。

一月一日

初めに、天主(神)は天地を創造された。(創世記第一章1)

「初めに、天主は天地を創造された」、この一節にキリスト信者の宇宙観と人生観との全部がある。宇宙は大であるといっても、これはもと天主によって造られたもの、だから天主がこれを変更し、または改造し、またある場合においてはその運行を中止し、またこれを早めうるのはもちろんである。

すべて天主の造った宇宙である、したがってこれはわが父の園であって私がその内に住んで恐怖はない。私が我が国を去って他国に行っても、天主は必ずそこにある。私がこの地球を去って木星または水星に至っても、彼は必ずそこにある。彼はオリオン星にある、プレヤデス星にある。そして遠くこの宇宙を離れ他の宇宙に至っても、わが父はまたそこにある。

天主と和し天主の子となり、宇宙は美(うる)わしい楽園となるのである。私がそこに彼の偉業をたたえ、口に彼の栄光を唱えながら、死の睡眠(ねむり)につけば、彼は再び彼の聖手(みて)に私を受け、私に新しい天地と新しいエルサレムにおいて永久に彼の聖名(みな)を称(とな)えさせてくださる。

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8-80 天主と訳す聖書 12

ヨハネによる福音書で、神を天主に書き換えることを始めたのであるが、当然これ以上は出来ない。

聖書にも翻訳事業にともなう著作権があるからである。聖書は「天主」の言葉であって、すべての人間に与えられたものである。しかし残念なことに、その言葉を一冊の聖書とするには膨大な労力がいる。

この労力はコストであって、人間に必要な経費である。そこから逃れることは出来ない。その経費を応分に負担することは当然のことであって、聖書は書店で買ってもらう必要がある。その意味で、日本聖書協会さんの著作権のある現在の聖書から、「神」を「天主」に書き換えることはこれ以上は出来ない。ギリシャ語を勉強し、そこから翻訳するのであれば書くことは出来る。しかし、聖書の旧約聖書はヘブライ語であり、一層困難であり私には不可能である。

それこそ昔、本来ユダヤ教の聖典(今でも)である旧約聖書(キリスト教的呼び名)を、キリスト教側が一式の聖書とした。その際、キリスト教側はユダヤ教側に、黙って断りもなく実行したのである。これは著作権の侵害ではないか。と、思うのであるが、なかなか面白いことである。

残念であるが、ともあれ興味のある人は聖書を書店で購入し、自分で「神」を「天主」に読み替えて読まれることをお薦めする。聖書が一層濃密に自分に迫ってくると確信する。勿論、聖書の一部をこのようなブログに引用することは許されている。社会的誠実さの範囲を逸脱しない範囲で、適宜「天主」聖書は書くことにしたい。それを実行する適切な書物がある。内村鑑三の「一日一生」である。

祖父ネットは、内村鑑三を二十年以上読み続けた。その内村の著者物は著作権がすでに無い。それなら、内村先生には申し訳ないのであるが、書き換えることは可能である。そこで、次回からはそれを試みることにする。著作物は岩波版の全集を参考に、教文館版の「一日一生」を使いたい。

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2009.03.31

8-79 天主と訳す聖書 11

(ヨハネによる福音書、前ページより続く)(文章の頭の数字は「節」のことです)
3 万物は言葉によってなった。なったもので、言葉によらずなったものは何一つなかった。4言葉のうちに命があった。命は人間を照らす光であった。5光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった。6天主から使わされた一人の人がいた。その名はヨハネである。

7彼は証をするために来た。光について証をするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。8彼は光ではなく、光について証をするために来た。9その光は、まことの光で、世に来てすべての人を照らすのである。10言葉は世にあった。世は彼によってなったが、世は言葉を認めなかった。11言葉は、自分の民のところに来たが、民は受け入れなかった。12しかし、言葉は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。

13この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく、天主によって生まれたのである。14言葉は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の一人子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

15ヨハネは、この方について証をし、声を張り上げていった。「『私の後から来られる方は、私より優れている。私よりも先におられたからである』と私が言ったのは、この方のことである。」16わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、さらに恵みを受けた。17律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス•キリストを通して現れたからである。18いまだかつて、天主を見たものはいない。父のふところにいる一人子である天主、この方が天主を示されたのである。

★(祖父ネット注解)
祖父ネットが注解できるとは思っていない。が、自己解釈はしていいと思う。

この18節は難しい。これを英語では。No one has ever seen God. The only Son, who is the same as God and is at the Father's side , he has made him known.

さて、日本語と英語と、はたして同じように理解できるものなのか。ギリシャ語原文は、どう書かれているか知りたくなる。

日本語では「ふところ」となっているところ、英語では「サイド」。神を天主に読み替えた方が、三位一体論理が生み出される下地として、天主とイエスの位置関係に現実感がでる。「ふところ」は、神が連続して使われた場合書かれる両者の位置関係の訳かどうか、よくわからない。

「サイド」か「ふところ」か、随分違うと思うのであるが。

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2009.03.30

8-78 天主と訳す聖書 10

いよいよ、聖書の「神」を「天主」と書き換えて書く時期が来た。

長いイントロになってしまったが、それだけ問題が伝統的であるということであろう。神と天主では、日本語で書かれたあらゆるキリスト教書籍に問題を起こすだろう。しかし事態はもっと深刻である。

それは哲学との関係で起こる。哲学は信仰と直接の関係がない。哲学は哲学である。この哲学では、神を天主と書き換えることは出来ないと思う。「イエス様」という言い方は信仰的で、「神様」という表現も同じだ。哲学では絶対に「さま」付けは起こらない表現である。この表現一つで、哲学と宗教がまったく違うものであるということが分かる。

これを教えてくれたのは、明学大図書館の○○さんである。

さすがに長い間、ヘボンさんの「和英語林集成」の研究をした人である。哲学では神を天主と置き換えることができない。ゆえに、聖書も置き換えられないと言うのなら、せめて祖父ネットでやってみよう。出版では決して出来ないことである。これがブログ文化の華であると豪語しよう。哲学が宗教を規定する、というのは思い込みに過ぎない。として、欧米言語ではどうなっているのか、次のテーマが見えたような気がする。

参考図書は以下のものを用い、聖書の「神」を「天主」に置き換えることを「ヨハネによる福音書」で実行してみたい。
(1)中国語聖書上帝版および神版/連合聖経公会(香港)発行
(2)日本聖書協会発行/和文新共同訳、英文TEV新約聖書(和英対照聖書)

聖書
ヨハネによる福音書

言葉が肉となった
第一章
1はじめに言葉があった。言葉は天主とともにあった。言葉は天主であった。2この言葉は、はじめに天主とともにあった。

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8-77 天主と訳す聖書 9

前回、大筋で中国語聖書から日本語聖書への道筋を書いた。

今度は、日本語聖書から韓国語聖書へのそれはどうか。「国際聖書フォーラム2006講義録」日本聖書協会編 を手に入れた。中国語聖書から日本語聖書への影響を書いた本はある。が、日本語聖書から韓国語聖書への影響を書いた本は、今のところ見当たらない。講義録はあくまで序論。ぜひ日韓どちらかの人が、しっかり一冊の本にしてもらいたいものである。

先日、ヘボン辞書の件で、明学大図書館を尋ねた。ヘボンさんの「和英語林集成」のイントロを読んで、自分の英語では心もとないので、正確な日本語訳が読みたいと思い電話したのである。電話口では簡単に「ない」という。やり取りをするうち、昔から知っている○○さんが電話口に出、翻訳がない理由はある程度分かった。

質問をしたかったのは、イントロの次の箇所である。

『According to Japanese history, the first teacher of Chinese was ATOGI (阿屠○), a son
of the King of Corea, who came on an Embassy to the Court of Japan in the 15th year
of the Emperor OJIN , about A.D 286 . 』(祖父ネット注、文中の○は、このアップルワードワープロでは検出できないので、やむを得ず○とした)

これによれば、日本に漢字を伝えたのは韓国の人である。明確に氏名も書いてある。しかし、この話は普通我々日本人になじみが