2009.12.18

8-224 ある青年との会話から


民主党政権に代わって、何かと新しい問題が真剣に提起されている。

1960年安保闘争に学生として参加していた。その安保も沖縄基地移転問題を通し、何かと話題になる。なるほど「密約」があったと言うが、それに関するうわさはデモ隊の中に流れていた。それが運動の推進力でもあった。

自民党政権が戦後初めて後退し、日本人らしい真面目な議論が出来るようになった。それまで日本の政治とは、アメリカ極東政策の一戦略部分に過ぎない。資本主義対社会主義という基本問題があり、その選択を巡って世界は分裂していた。人間の手を信じたソ連邦が崩壊し、神の手たる資本主義が勝利をおさめた。今にして思えばあまりにもあっけない幕切れである。

自由と不自由を選択せざるを得ない人間の不条理を語ることは、あまりにも大きすぎる。社会主義は人間のコントロールであり、資本主義は神のコントロールである。この図式を若いときに考えたのであるが、人生経験が乏しいときはよくわからなかった。ここに帰結するこの図式を、ある青年との会話で思いついた。アメリカの崩壊ということを。人間の手にしろ神の手にしろ、経済をコントロールすることは難しい。そこでこれを数学的に考えるという方法を考えついたのが、最近亡くなったアメリカの経済学者である。

なるほどそれは、ノーベル賞を受賞するほど斬新であった。第三の道の発見である。しかし、それほど現実は簡単ではなかった。数学的方法にコンピューターを使い、自由資本主義的に夜中まで経済にアクセスした結果、強欲資本主義は崩壊した。経済が人間の数学能力を超えて暴走し、自由に儲けることばかりを考えアメリカ経済は崩壊、さらなる危険が内在している。

アメリカはピューリタンの国である。その結果、アメリカの精神は唯一キリスト教である。そのキリスト教を信じる人たちが減少し、アメリカは無宗教国家である。証明することはできないが、アメリカが崩壊しつつあるというのは、この一つしかないアメリカの「はどめ」が崩壊している、ということである。人間の手、神の手、数学の手、そのどの手でもない宗教意識の欠如が、アメリカの崩壊の真の原因である。

その点、日本は幸せである。日本の精神状況はご存知のとおり多数である。神道、仏教、儒教、武士道など、数えるとすぐ浮かぶ優れた精神が多数存在する。これに代わるものがアメリカにはない。アメリカを創る時、たった一つヨーロッパから持ち込んだ大切な宝物キリスト教、それをアメリカは棄てた。

精神のないところに、なにものも存在しない。それゆえにこそ、世界の基軸は東洋に移動する。欧米がキリスト教を棄て始めたときに、すでに西洋の崩壊は始まっていた。世界の危機は、精神が多数存在する東洋が救うことになる。これが東洋の今後の発展である。精神のないところに経済発展もない。

言うまでもないが、味のない食物など人間は食べることができない。


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2009.12.17

8-223 内村鑑三の言葉から


聖書はなぜ神の言葉であるかというと、もちろんその中に神でなければとうてい語ることの出来ないことが書いてあるからである。その文章の優劣は私たちの論ずるところではない。

歴史的事実の錯誤のような、科学的証明の不足のようなものは、神のみ旨のなんであるかを示すときにはさほど大切な事柄ではない。私たちは人生に関し、宇宙に関する神の真理を知りたいと願うものである。そうして聖書は最も明白に私たちの要求するこの説明を与えてくれるのである。すなわち聖書の完全であるのはその辞句文章の外形にあるのではなく、これを一徹する神の聖旨に存するのである。聖書が神の言葉であるというのは、その中に神の心が満ちあふれているからである。
(教文館刊「一日一生から」)

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8-222 ああアメリカ

豊穣のおまえに

貧しさが襲う

あれほど豊かな国が

滅びる

世界は混乱し

あげくの果てに戦う

どう考えても

このシナリオから抜け出せない

houjyou no omaeni

mazushisa ga osou

arehodo yutaka na kuni ga

horobiru

sekai wa konran shi

ageku no hate ni tatakau

dou kangae temo

kono shinari o kara nukedase nai


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8-221 祈り


やることがなくなったら

神に祈ればよい

祈りに終わりはない

祈ればいつか眠くなる

眠れれば

生き延びられる

yarukoto ga nakunattara

Kami ni inoreba yoi

inori ni owari wa nai

inoreba itsuka nemukunaru

nemureba

ikinobi rareru

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2009.12.14

8-220 フェミニスト神学について 1

「老人神学を考える」から、ついにここに来てしまった。

老人たる自分の自分なりの神学を考えようと思っていたのである。が、それが「解放の神学」の一線上にあるものとして、自分はあまりにも男性的な発想から抜けきれないことを発見させられた。書いてくるうちにフェミニスト神学に触れたのであるが、結局フィオレンツア氏に取り込まれた。

「彼女を記念して」(In Memory of Her)という聖書からとったこの奇妙な表題は、分かればこれほど魅力的なものはない。先ず本の扉を開くと、女性たるフィオレンツア氏がにっこりと笑っている。それは見開いて左側の頁にあり、右側の頁にはこの奇妙な表題のもととなった聖書の箇所が訳されている。マルコ14/9からとられている日本語訳は、実は日本聖書協会の聖書訳と少し違っている。

その箇所を書いてみよう。聖書は和英対訳。和文は新共同訳、英文はTEVである。TEVというのは深くは知らない。すこし聖書に疎い人に言うと、いわゆる英文聖書と言うものも実はさまざまあり、その中の一つというぐらいのことでいいと思う。先ず日本訳で。「はっきり言っておく、世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人がしたことも記念して語り伝えられるであろう」、である。ここにある「この人がしたこと」とは、約2000年前の出来事である。

では、英語訳。「Now , I assure you that wherever the gospel is preached all over
the world, what she has done will be told in memory of her 」である。日本訳と英訳の違いがどこにあるか分かるだろうか。英語訳で「she」は、日本訳は「人」。で、フィオレンツア氏の本に書いてある訳は「福音が宣べ伝えられる所では、全世界のどこでも、彼女がしたことは語られるであろう、彼女を記念して。」となる。

英訳は「彼女」、日本訳は「人」、フィオレンツア訳は「彼女」、ということになる。どうしてこうなっているのであろう。では原文のギリシャ語はということになるのであるが、これは祖父ネットでは分からない。つまりこういったことが、聖書訳には起こる。訳す方はそれでもいっぱしの理屈があるには違いないが、この複雑なニュアンスは避けられないようだ。

ここにフィオレンツア氏は鋭く切り込んだ。「人」か「彼女」か。つまり女なのか、人なのか。E.S.フィオレンツア著「彼女を記念して」山口里子訳 日本基督教出版局 1990年刊 は、今オンデマンド本1万円弱で注文できる。古書でも値が下がっていない人気本である。

副題は「フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築」である。
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2009.12.12

8-219 教会法について 2 

その経緯は鮮明に思い出せる。(続く)で、前回は終わった。

そうやって会社的私法のようなものを創ったのであるが、これが社員の一生を縛り付けた、と言う経験もした。ところで教会法であるが、これはいったいどのような意味を持つのであろう。第一にそういった規則のようなものは現代教会にあるのだろうか。それは信者にどのような時点で示されるのだろうか。

「洗礼」と言う儀式は、キリスト教に対する信仰を公式に表明する儀式であろう。私は「キリスト教徒」である、と世間に表明することであり、「神(天主)」の前にその信仰を告白することであろう。そうやって教会の人になるのであるが、その時いわゆる信者は「教会規則」という、いわゆる教会法を示されるのであろうか。昔若い時「株式会社日活」という会社に就職をした。社会一年生である。確か入社してからだと思うが、私が小さな会社で創り上げたような会社規則を渡された経験がある。その経験が私にその規則を創らしめたのである。ただし、若い私にはそれが意味することを当初、まったく理解できなかった。

今は年金を受給する身分であるが、その日活の始めの社会保険が生きて今の私を支えている。その規則にあった社会保険の意味は、自分の会社を経営するときも心がけて加入し、その支払には心血を注いだ。先年騒がれた年金虚偽記載や漏れなどない。というように会社の規則は実に明確である。これが曲がりなりにも社会の基本であることは言うまでもない。

ところでそういった規則であるが、教会法という規則は現代社会の中でどのような作用をするのであろう。信者になにを期待し、どのような義務を課するのであろう。ヨーロッパ中世社会では、この「教会法」は明確に機能したと印象される。その手の本をしっかり読んだことがないので分からないが、ともかく生まれると幼児洗礼を受けねばならず、受ければ献金することを求められるから(人頭税か)、一生ヨーロッパに生きるとなれば、その桎梏からは逃れられないといった印象である。このいわば因習を打破したのがルターであろう。ルターの疑問は、そういった全体的なカトリック(普遍)支配のトリックに迫った運動だったのではないか。では現代の教会諸規則である教会法は何を期待し、どのように機能するのであろう。

と、まーこんなことを考えるに至った。しかし、残念でもあり当たり前なことであるが、現実問題としては信者にとって、現代教会法などと言うものは何の意味も持っていない。明らかに信仰は個人化し、出入り自由である教会はルター思想の勝利と言うものであろう。教会がどのような規則を創っても、信者には何の関係もない。この「自由」の発想と現実が現代教会を支えているのである。いまだに社会主義のきらいなキリスト教国の本質的な国家観でもある。

日本にはどうもその本当の「自由」思想が希薄なような気がする。それは私がキリスト教徒であり、そのような自由を経験するものであるからなのか。ともあれ日本の政治動向に社会主義の臭いがする、とアメリカが言い始めたのは、そういった社会的感性の基本の歴史的違いからきているのであろう。

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2009.12.10

8-218 教会法について 1 

日本のキリスト教における「教会法」というような存在が問題にされることはほとんどない。教会法という言葉が出るのは、中世カトリック社会にあってのことで、歴史の中の一里塚的発想でしかない、と思っていた。

それが突然表面に現れたのは、教会(聖公会)の洗礼や堅信という問題を巡って、私の早とちりからそうなったのである。ただでも忙しい教会の司祭たちを、一瞬であっても巻き込んでしまったのであるが、申し訳ないことをしたと思っている。

ただそうはいっても、こういった問題が一般信者の中でほとんど問題にされないのは、日本のキリスト教伝統の底が浅いからであろう。大変であったが、この問題を考えるきっかけが与えられた。少しフェミニスト神学のフィオレンツア氏には悪いけれど、ここその問題を書いてみたい。

いったい教会法などと言うから話が堅くなるが、いわば教会規則のようなものであると思えばよい。昔現役の頃、会社を経営していたのであるが、私が入社した頃は小さい会社で規則などほとんどなかった。あるのは株式会社になったばかりであったから、いわば商法にもとずく会社設立の時に必要とされたものがあったに過ぎない。そんなことで在社中、会社に必要な二つの規則を自分が作成するという経験ができた。その会社は理工学部の出身者で構成された建築の設計事務所であったから、戦前からある会社であるがもともとそういったものはなかった。規則がないからと言って、それが問題になる話ではない。戦前は株式会社ではないし、事業を行うにしても、官庁に一級建築士事務所登録など必要のない時代の発祥である。

成文規則尽くめの現代ではよく誤解されることに、そういった規則のない会社は会社ではないような軽蔑があるがそれは誤解である。もともと人間集団には自然成立的規則がある。親密な友人集団に暗黙の規則はあるが、明文化されたものがないのが一般的である。どんな社会集団にも慣習法と呼ばれる立派なものがあり、人々はそういった広い意味の文化を利用して生活している。

その慣習法に従って会社は運営されていた。しかし戦後日本社会の価値観が変化し、人々の「思い」を統制する文化が変化すると、新しい規則や慣習が求められる。戦前の慣習を失った日本に、混乱が生じたのである。明確にという表現できるような時代意識も、まだ生まれていない。そんなときに、日本国憲法が民主憲法に書き替えられると、少しは国民の価値観に一定の枠が出来始めた。その影響の下で小さな会社も株式会社になり、資本家と労働者という意識も生まれる。その労働者を統制する、いわば明文化された社内規則のようなものが必要になったのである。

そんな状況で結局、私が二つの柱になる規則を作成した。一つは社内規則、もう一つは会計原則である。その二つは見事に機能して、木の葉のような小さな会社も、株式会社として今も生き残って活動している。社内規則を創ったときはもちろん何かを参考にしたのであるが、それは思い出せない。ただ普通、零細企業にあっては、あまり会計原則までは創らない時代である。それを創ったのであるが、その経緯は鮮明に思い出せる。(続く)

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2009.12.09

8-217 内村鑑三の一日一生 

内村鑑三は「一日一生」(教文館刊)で、一年の一日一日を大切な一生にたとえ、先ず聖書の言葉を掲げて後、それを彼なりに365回にわけて解説している。その激しい信仰ぶりは、とても余人の及ぶところではない。キリスト教信仰は16世紀の宗教改革以来、かぎりなく教会の教権からはなれはじめ、個人の信仰に帰することになる。最終的にはこれによって、キリスト教は組織体制としては崩壊するのである。しかし、そこにこそ本当のイエスが見える。これが無教会の信仰で、それを日本で実行したのが内村鑑三である。

しばらく内村から離れて教会通いをしていたが、再び一人だけの孤独の信仰に戻ることにする。聖書をなんやかんやと詮索せず、神の言葉として信じて一日一日を歩くことにしたい。内村の12月9日の言葉を下記に掲げたい。

〈12月9日〉
使徒言行録第二章23、24節(新約聖書から)
このイエスを神は、お定めになった計画により、あらかじめご存知のうえで、あなたがたに引き渡されたのですが、あなたがたは律法を知らないものたちの手を借りて、十字架につけて殺してしまったのです。しかし、神はこのイエスを死の苦しみから開放して、復活させられました。イエスが死に支配されたままでおられるなどということは、ありえなかったからです。

〈内村鑑三の解説から〉
しかしながら見よ、一婦人のイエスの復活を告げるものがあった。逃げ去った彼の弟子たちは再びエルサレムに帰ってきた。ここにこの世の理論を持ってしてはとうてい解くことの出来ない不思議な大運動が始まった。そして半百年を経ないのにイエスを殺したものはことごとく滅ぼされて、殺されたイエスの福音は全地に宣伝されるようになった。

イエスの生涯は失敗に終わった、しかしその終局は死ではなくて死の反対の生であった。イエスは世に棄てられた、しかしイエスは世を棄てずに徐々にこれを自己(おのれ)にお収めになりつつある。

現世にあっては大失敗、後世にあっては大成功、世に憎まれて世に勝つ。これが聖書が私たちに教えるイエスの生涯の貴い教訓である。

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2009.12.05

8-216 老人神学を考える 11

主なる天主(神)よ、我らをかえりみたまえ。

神と人とのキリスト教的接合点を知識的に解決することは、もちろん容易ではない。人の行為と意図か、神(天主)の意図と行為か。現代人にとっての古代社会から呼びかけて来るこの難題は、だから「イエス」その人(神)から出発するのであろう。笠原氏とフィオレンツア氏が、私の中で結びつく。次回はそれを少し書いてみよう。などと書いた上で、さらにフィオレンツア氏を読んでいるが、ともかく一頁一頁半端ではない。

やっと142頁/482頁まで読み進んだが、はたしてこの山に登れるのだろうか。キリスト教古代教父時代の記述の中に、「オリゲネス」が出てきた。私が持っている別の本に、オリゲネスが書いたものがある。「諸原理について」と題されるもので、創文社キリスト教古典叢書として1993年、上智大学神学部が出版した。その中の印象的な箇所。オリゲネスが学校で教えたとき、その中に女生徒がいる。そこで彼は禁欲の精神から、自らの男根を切除したと伝えられている。

またその本には、初期キリスト教を一生懸命造り上げた人たちの苦労が書いてある。凄まじいローマ帝国の迫害の下で、キリスト教初期形成期は着々と前進する。が、そこに特に女性を抑圧し、男性支配的であると言った意識や構造があったとは思えない。まして彼の学問を経済的に支えたのは、ある富裕な女性であるとも書かれている。

ここで笠原芳光氏が「イエス逆説の生涯」の中で書いた、「イエスの発心の原因や契機には、父親の早逝と母親との不和(76頁)」、があると書いた箇所を思い出す。このような、現代ではいわばこのような通俗的な理解はますます避けられない。が、どうしても古代社会にはあった清新な宗教精神は、今では結局人間的な日常劇場になってしまう。内村鑑三は明治時代のキリスト教宗教家であるが、彼は神学と文学が嫌いであると書く。古きに帰り、古きを尋ね、古きに学ぶことこそ大切であると。が、非知識社会と知識社会では、こうも大きく違いが出ることはますます避けられない。この社会の分岐点を、おおむね400年ほど前にさかのぼると考えれば、これも人類史であろう。アダムとエバが「知恵」を得て楽園を追われる旧約聖書創世記を彷彿させる。

フィオレンツア氏はその知識をもって、女性史観からキリスト教2000年を見通した。さすれば今までの2000年間こそ、男性史観で創られた偏ったキリスト教である、という。それであるがゆえに、まだキリスト教の希望も人類の希望も残る。女性史観からのキリスト教再構築である。これが、逼塞した地球環境と軍拡競争までも救わんとする、フィオレンツア氏の遠大な知的計画であろう。

ところで、アメリカの映画監督ムーア氏が来日した。彼とのインタビューが昨夜NHKから放映された。その中でアメリカは1%の富裕層が支配し、その他の95%が貧困に陥っていると言うことを知った。もちろん単純極論であるが、言い得て妙なところがある。アメリカで逼塞したキリスト教プロテスタント精神は、もはや機能していない。共産主義という対抗思想を、現実の世界政治から追い出して思想的に勝利したアメリカは自縄自縛となった。そしておそろしいことに、自己崩壊を始めたのである。まさにフィオレンツア氏のいう男性型キリスト教構築の結末である。

かつてプロテスタント精神の輝かしい勝利であった若々しいアメリカは、その男性史観のゆえに自らの腹を切るという結果になった。人を傷つけて勝利したものが、またその刃を自分に向けると言うのは日本剣法の諭すところ。武士道の経験結果のいさめるところである。武人は刀など抜くものに非ず。満州で刀を抜いた日本人の経験則でもある。ゆえに、刃を抜くキリスト教男性史観から、キリスト教を解き放つときが来ているような気がする。

フィオレンツア氏はイエス(神、天主)と、その後に続いた人間達による、勝利したキリスト教の陥欠を鋭く分析したと言えるであろう。

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2009.11.27

8-215 老人神学を考える 10

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回の文章を推敲していて、一番肝心な下記の文章に問題があったことを発見した。すなはち、『イエスが「父なる神」と、「神」(アバ/アラム語でおやじというような意味)(「イエス逆説の生涯」53頁)と馴れ馴れしく発言したことが、既存ユダヤ教の反発を買ったという記事である』という箇所。

これを次のように訂正したい。

「イエスが「神」を、「父なる神」(アバ/アラム語でおやじというような意味、「イエス逆説の生涯」53頁)と馴れ馴れしく発言したことが、既存ユダヤ教の反発を買ったという記事である。」これが正しい文章である。一番肝心なことなのに、見事に間違った。訂正は三カ所で、よく検証していただければ、逆に言わんとするところが明確になる。

ともあれフィオレンツア氏は、新約聖書の記事が正典として確立する段階で、女性の主要な働きが徹底的に排除された、それを回復することは不可能だと言う。ただし、聖書(正典)以外の関連文書類において、女性の働きは理解できると言う。その資料で分かるイエスの女性観から、イエスという人は決して父権制文化や従属を女性に要求していない、と強調して言う。

ここで、イエスという人を通して笠原氏とフィオレンツア氏が、私の中で結びつく。祖父ネットがそれで笠原氏の言うところの、「イエスはキリストではない」と言ったことを読み解いたという意味ではない。ただ笠原氏も、昨今のフェミニスト神学を十分に知っているはずだから、その神学の持つ重大なインパクトに答えたものではないかと思うようになった。そこでイエスに対する歴史的見解と信仰的見解を分けて考えることにした。

イエスの出生が謎に満ちているということは、全ての人が知っている。ヨーロッパ中世社会では、それは聖性であり性性でないという理解である。その中世社会で確立された聖性の不可侵性が、ヨーロッパ中世の基盤でもあろう。今でも、キリスト教文化圏では大きな力を持っている。それに対し、フィオレンツア氏が、初期キリスト教形成期に排除された女性像を指摘するにおよび、色濃く人間的な臭味を帯びる。それは正典(聖書)にあるイエスの出生の契機が、性行為の不正であって、それを隠す処女降誕であるというような現実的な考え方である。

キリスト教徒でないものには、処女降誕など神話でしかない。まして現代、キリスト教徒さえ、まともにそのことを信じている人はいないと思う。イエスの処女降誕は、歴史的科学的見解では勿論ない。それは信仰的なものであって、宗教的真実である。この二つの事柄である俗性と聖性から見えるものが、フィオレンツア氏の言ういわば女性蔑視、男性社会の構築という訳であろうか。キリスト教という宗教を確立する為に、また神の神聖の為に、マリヤは処女でなければならないのであり、それが普通の女性性の蔑視を促進し、男性を際立たせたのであると解釈することも可能であろう。

フィオレンツア氏が指摘した女性像の隠蔽は、マリアの主体的不倫や犯罪としての強姦などが想像できる。これが現代人の科学的で自然な理解であろう。ここで、現代キリスト教は聖性の意味を、再々度古代社会から答えなければならない。イスラム教の創始者マホメットは「神に子などあろう訳がない」、とキリスト教の基本であると三位一体を喝破した。それによってイスラム教がキリスト教から分離された。

神と人とのキリスト教的接合点を解決することは、もちろん容易ではない。人の行為と意図か、神(天主)の意図と行為か。現代人にとっての古代社会から呼びかけて来るこの難題は、だから何事であれ生まれでたイエスその人(神)から出発するのであろう。笠原氏とフィオレンツア氏が、私の中で結びつく。

次回はそれを少し書いてみよう。

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2009.11.23

8-214 老人神学を考える 9

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

フィオレンツア氏のさらなる書物を探しに、銀座教文館に行った。長いことキリスト教とつきあってきたが、うかつにもフェミニスト神学者による、特別な聖書注解書があることを知らなかった。ともかく立ち読みをしてみると、なかなか刺激的である。氏の大著「彼女を記念して」を読み終わったら、読んでみたいと思って本棚に戻しておいた。

こんなことをしている時、ある女性教師と話す機会があった。彼女に言わせると、人類の重要文章文化の多くは、男性が創り上げたものであるという。確かにこのことからすれば、聖書もその視点で書かれているとして不思議ではない。なるほど聖書が男性中心的であるというのも、特におかしな話ではない。しかし、こと神(天主)のことも、結局は男性性であるということは、考えてみれば何と悲しいことであろう。フィオレンツア氏が初めて取り上げたものでもないようだが、あれだけ書かないと、聖書の神の男性性と言うものが明確にならないとは、まさにあきれた話である。普通、頭っから、キリスト教は「普遍の神」を礼拝していると思っている。

文化文明という割には、人間の認識と言うものはこの程度のもである。人間の認識というより、人間のそれも男性のみの文明ということになる。この程度の認識力では、到底「人間」が「かみ」のようなものを認識できるものではない。どちらにしても、こういったキリスト教の欠点は改善すべきであり、今後のフェミニスト神学に期待している。2000年間の文明は、つまるところ中途半端であったということであるが、今後の2000年間に多いに期待しよう。

このようなことを通して、「父なる神」という表現は、実はイエスが始めた表現であるということを知る。以前ここでも書いたことがあるが、笠原芳光さんという人がいる。1927年生まれの人で、2008年12月、今から約一年ほど前、立教大学で講演会をなされた。演題は「現代人にとってイエスとは」である。かなり刺激的なものであったので、二三冊の本を買った。講演が刺激的で、中途退場した人もいた。刺激のもっとも大きな部分は、「イエスはキリストではない」ということにあった。

その本をフィオレンツア氏の、フェミニスト神学から思い出したのである。イエスがキリスト(救い主)でなければ、キリスト教は存立しない。が、笠原氏はどうも存立基盤の否定に使ったようでもないな、ということが最近分かり始めた。つまり、イエスが「神」を、「父なる神」(アバ/アラム語でおやじというような意味、「イエス逆説の生涯」53頁)と馴れ馴れしく発言したことが、既存ユダヤ教の反発を買ったという記事である。

ここにもキリスト教の、男性性的強権的威圧的権威構造に分け入ることができる、のではないかと思うようになった。

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2009.11.19

8-213 老人神学を考える 8


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

フィオレンツア氏は次のように言う。「父権制的な聖書宗教は、私たちの社会の全ての女性の抑圧と搾取に今だに貢献している。それゆえに、聖書宗教とその影響力を『無存在』の領域に追放することこそ、フェミニストロマン主義である」(76頁)また、「抑圧的な父権制的テキスト/構造/制度/価値観からの女性解放を規範として持つフェミニスト神学の解釈学が主張するのは、ーーーもしも聖書が女性への父権制的抑圧の道具であり続けるべきでないならばーーー父権制的文化と『もっともらしい構造』を批判的に突破するような伝承とテキストのみが、啓示としての神学的権威を持つということである。(79頁)」

フィオレンツア氏の本は、このような言葉が延々と続く。始めは切り口として新鮮であるので、率直に読み続けていた。しかし、こういったいわばオール男性批判が続くと、流石の祖父ネットもすこし引いてくる。しかし、上に掲げた氏の言辞は、500頁にもわたる大冊の、ごく始めの一部分でしかない。であるがゆえに、この本は読み続ける価値があると思う。軽々しく扱うことはできない。

自分にとって都合の良い、気持ちのよい書物だけが書物ではない。このようないわば真剣な主張は、世界大戦という、男社会が達した最も愚かな問題解決法に対する新世代からの、それも最も犠牲となった女性からの叫び声である。氏と同じドイツ人のヒトラーが、男性社会特有の「腕力の解決」の最後の皇帝であるなら、氏はそれに対抗する歴史上始めての女性大天使なのである。我慢して少しずつでも読んで行くしかない。読む価値の十分にある書物である。

ここで少し祖父ネットの、キリスト教慣れしていない読者の為に書いておきたいことがある。

フィオレンツア氏のフェミニスト視点からの聖書全否定的発言は、キリスト教2000年の長きにわたる、キリスト教神学史全体に関わるということである。そのことを理解しないと、氏の主張の価値は分からない。という意味で言えば、この祖父ネットの記事は、ほとんどキリスト教的にも高度で知的なものと言わざるを得ないから、分からないことを気にしないでもらいたい。分からなければ読み飛ばすしか方法がない。この女性神学は決して、東洋的心性の中には生まれない西洋言語文化の華なのである。

先日、友人の教会青春クリスチャンが、ガンになったことを書いた。その彼はすでにキリスト教から離れた生活をしているが、大和心は健全である。「しょうがない、なるようになるさ」、と彼は電話口で言う。教会に通っているときも、そのニヒルな姿勢が魅力の彼はいまもそのままである。しかし、教会というところは、そうはいかない。

フィオレンツア氏の言辞は、深刻で革命的である。それはもっぱら、言語的な発展を遂げた西洋キリスト教の宿命と言ってよいであろう。東洋と西洋の、言語における強弱の問題であるが、どう見ても心的特徴は東洋的であり、言辞的なのは西洋的である。そこに女性が本格的に参入したのである。

女も強くなったものだ、と言った程度の俗言はもはや通用しない。老人神学もまた、その文脈上に相乗りしている。

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2009.11.16

8-212 老人神学を考える 7


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

なぜ神は「父なる神」、つまり「男性神」でなのであるか、と前回は書いた。その影響下にある老人神学であるが、いったい何を生みだすか。

フィオレンツア氏は書いている。「男性中心テキストと言語によるリアリティ構築が、人間の歴史/文化/宗教の信頼できる証拠であるかのように取り違えてはならない。テキストは使信であるかもしれない。しかし使信は人間のリアリティや歴史と同じ目標を持っていない。」(「彼女を記念して/フェミニスト神学によるキリスト教起源の再構築」74頁)。

この本は頁が進めば進むほど男性中心主義批判の厳しい言辞に満ちており、その切り口は新鮮、鮮烈である。祖父ネットより数年上の生まれ、かような人が1938年ドイツに生まれたのは偶然ではない。ヒットラー総統が大戦争を構想し、凄まじい領土争奪戦が実行される。腕力ですべてを奪い、実行支配し、搾取しようという大構想である。男性社会の代表とも言えるヒットラーは、こうして人類史に汚点を残した。ときにフェミニスト神学の騎手が、呱々の産声を上げる。フィオレンツア氏の経歴を簡単にご紹介しておきたい。

エリザベス・シュスラー・フィオレンツァ。1938年(昭和13年)ドイツに生まれた。1962年ヴュルッブルグ大学神学部を卒業し、1970年ミュンスター大学の新約聖書学で博士となった。その年アメリカに渡りノートルダム大学で教授、1988年ハーヴァード大学の神学部教授になっている。ここで取り上げるフィオレンツア氏の本は、1990年日本基督教団出版局から出版された。その後の彼女の消息は分からない。祖父ネットが68歳だから、すでに現役を引退しているか、冥界の人か、不明だ。

ともあれこの人フィオレンツアが、その後のフェミニスト神学の火付け役になったらしい。本は500頁強もあるどっしりとした本で、これを読み解くには時間が必要である。読めば読むほど祖父ネットに書きたくなる題材であるが、全部読まないうちにとやかく言うのも危険。となれば読んだ後で書く、となると三ヶ月はこのブログを休まねばならないだろう。

やむを得ず虫食いのごとく書く。祖父ネットの読者はそれを承知で読んでもらいたい。出来れば、実物を読むことをお奨めする。ジュンク堂ネットで出版状況を見ると「2000年に及ぶ父権制的なキリスト教によって、歴史の記録から隠されてきた初期キリスト教における女性達の業績の記憶を、最新の聖書学を駆使して再現。フェミニスト神学を確立した、古典とも言うべき名著。」と書かれておりオンデマンド本である。注文から2、3週間で入手可能、9,765円で販売されている。また、「聖典への探索/フェミニスト聖書注解」2002年刊もあり、こちらはぐっと高価に18,900円。

いくら高くても、「21世紀以後」の「希望の研究」には欠かせない本であると思う。

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2009.11.14

8-211 老人神学を考える 6

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回は若き日の、ある秀才のことを書いた。時が経った、長い時が。四冊の本は、病者に何を語りかけるのであろう、で終わった。共に若いときに教会に通い、神に祈り楽しい青春を送った。今から50年ほども前のことである。キリスト教と言っても、その若いときに深い神学を分かって洗礼を受けた訳ではない。むしろ何も分からずに洗礼を受けたのである。今は逆で、かなり深い神学も多少は理解している。その上、老人神学などを考えよう、などと無謀なことまで言うようになった。

小田垣雅也氏の「現代のキリスト教」(講談社学術文庫)は一種の神学史でもあるが、結局キリスト教神学も啓蒙思想に圧迫されて、じわじわと後退しているという。なんやかやと批判される神学は、必死になってキリスト教擁護を繰り返しながら、信者を失いつつある。友人の病者も、結局はキリスト教から離れた人で、同一教会青春経験者としての懐かしさしか残っていない。もはや彼が四冊の本を熟読しても、キリスト教を取り戻すことは不可能であろう。それは厳しく言えば、死につつある肉体をもって、若き日のノスタルジアの域でキリスト教を再経験し、病気の予後を養いつつ、現状にとどまるに過ぎないのだと思っている。

ところで、どうして日本のキリスト教は、特にこのようになるのであろう。キリスト教のある種の原理的な理屈から言えば、狭き門より入るものは少なく、広き滅びの門より入る者は多い、ということになる。これが原理だとすれば、誠に寂しい話である。若い時は、この狭さこそ魅力であって、他の者は知らず、何か自分だけはそういった高いものにむかっているような気分になっていた。その魅力が薄れるのは、所詮自己が厳しい社会の現実に翻弄されるからである。狭き門が魅力であるのは、世間も同じで、大会社や給料のよい会社に職を求めるのは、まったく聖書でいう狭き門と同じと知る。そこに日本の社会は大乗仏教を提供し、すべての衆生が救われる方法を編み出している。しょせん日本人はそれに鞍替えしながら、若き日のクリスチャンといえども、仏教徒に変身して行くのである。啓蒙思想は、その日本人にも仏教を軽視させるから、恐ろしい人類知なのであろう。

で、わざわざ老人神学である。なぜキリスト教は青春神学だったのであろう。いわばキリスト教は、上昇エネルギー思想をたっぷりと含んだ高気圧のようなもので、世界史で積乱雲となり時に豪雨となった。それがキリスト教2000年史のおおむねの印象である。それが低気圧になり、人類の上に薄曇りの日々しか提供しなくなって久しい。つまり逆転の時期が来たのではないか。何が逆転するのであろう。それが解放の神学、その一つがフェミニスト神学と言うものであろう。なぜ神は「父なる神」、つまり男性神でなのであるか。つまり老人神学の「老人」という言葉すら、男の性を印象させるに過ぎない。そこで老人神学とは、一体何のことなのであろう。

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2009.11.13

8-210 老人神学を考える 5

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回は当人の病気の話になり、それは次回に書くで終わった。ご多分に漏れずそれは「ガン」である。病気の話は書かない。早速見舞うつもりで、ともかく行くよ、ということにした。が、それは出来ないと後で冷静になった。なにせ術後三ヶ月も経っていない。私が家に行けば迷惑もかかる。家の近くの喫茶店で会うつもりであったが、家の廻りにそれはないようだ。ましてそんな人を外に引っ張りだし、今時のはやり風邪でも引かせたらまずい。

そう考えて、ともかく食事を確実に採ることと、病気で時間は幸いにあるのだから、本ならばよいと思い定めて果物と本を送った。本は四冊、小説「許されざる者(上下)」これは辻原登さんのもの。最近、毎日新聞朝刊に連載された。後の二冊は関根進さんのもので、「ガンを切らずに10年延命」「大正霊闘記/沖野岩三郎伝」である。

この四冊は実は微妙に繋がっている。おおむね100年前の明治時代の大事件、国家はそこまで無理をして国を創った、と言われる大逆事件にすべて関係している。今ではえん罪となっているが、 Wikipedia にはあるので是非読んでいただきたい。

教会青春時代、忘れられない一人の秀才がいた。明治学院高校から国際基督教大学に進学し、高校生の我々を魅了していた。当人は今でもご健在である当時の武田清子教授の研究室にいて、大学院を目指すはずがアメリカに行く。それから杳として行方が分からない。その秀才と二冊の本の著者関根進さんは、幼ななじみである。高校も二人とも明治学院。そして関根さんは本となっている大逆事件の関係者「沖野岩三郎」の孫で、秀才の方も辻原さんが書いた本の主人公大石誠之助と親戚である。大石は言うまでもなく大逆事件で刑死した人。ともに大逆事件の関係者である。

そして関根さん自身がガンになり、ガンの本を出した、というシナリオである。関係が分かりにくいかもしれない。要するに私の友人も私も、教会青春時代に「その秀才」の家に、教会の帰りによく遊びに行っていたのである。もちろん若い時はそんな複雑な秀才の環境は知らない。

時が経った、長い時が。四冊の本は、彼に何を語りかけるのであろう。

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2009.11.12

8-209 老人神学を考える 4


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

小田垣雅也氏の「現代のキリスト教」(講談社学術文庫1254)から老人神学を思いつき、老人特有の状況から、老人の神学に挑戦してみようと言うことで書いている。死や衰退に近づいたものが、その状況から考える神学である。

一方、小田垣氏からはフェミニスト神学も理解させてもらった。E.S.フィオレンツアという覚えにくいドイツ人女性の学者が書いた「彼女を記念して」、という本が面白いと言う。そこで、少し読んで、脳天を張られたようなショックを受けた。この題名も変わっている。本を手にして題名だけを見ていると、よくわからない。「彼女」というのは、一体だれか。著者のことをさすのかと最初は思っていた。英語の原題は「 In Memory of Her 」である。それにしてもどうもピンとこない。

ところが少し読み始めると、Her とは彼女「フィオレンツア」のことではないことがわかる。それは、聖書のマルコによる福音書14章9節の言葉から引用している。話を難しくするときりがないが、日本聖書協会の新共同訳の箇所と、本の見開きにある冒頭巻頭言に掲げられた、その聖書の言葉は、明らかに少し違っている。実はここにこの本のミソがある。この聖書の箇所と訳文こそ、キリスト教フェミニスト運動の発火点である。話は老人神学や解放の神学などとミックスしながら追々書いて行きたい。

ところで、11月ともなると喪中のハガキがぽつぽつとくる。すでに二通きた。一通は無視することにした。その人には始めから年賀状を出す気がない。このようにして老人は、いわゆる世間との付き合いを整理する。郵便代もかかるしね。しかし、もう一通は無視できない。何せ中高明治学院時代の後輩で、教会も一緒。教会青春時代の仲間である。

その兄貴が亡くなったという。家にもたびたび遊びに行ったこともあり、立教大学で勉強した人で少し面識もある。ともかくも電話を入れた。で、これが兄貴の死とは別の、当人の病気の話になった。それは次回。

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2009.11.10

8-208 老人神学を考える 3


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

小田垣雅也氏の「現代のキリスト教」(講談社学術文庫1254)から、上記の表題を思いついた。キリスト教の神学は、おおむね青年か壮年神学である。頭脳明晰で過ごすエリートたちが考えた結果と言ってもよい。約2000年間営々として形付けられたのであるが、それは秀才の作業であった。

例えばイエスである。イエスという人はこの事情を代表している。男性であり、死亡年齢は推定30歳代前半、彼は決して老人ではない。多分イエスの若さから言って、12人いたと言われる弟子たちも、それなりに若かったに違いない。ではソクラテスはいかがか、プラトンはどうであったのか。と、なるのであるが、概して人間の寿命が今よりはるかに短い時代が、2000年間の事情であろう。それもただ長寿社会を実現した現代文明にあって眺めているのであるが、おおむね正確であろう。つまり今という時代に特徴的なのは、地球規模の長寿社会であるということである。

このように言ってしまうと問題はある。世界にはまだ多くの貧困があり、それを無視しては本当の長寿社会はない。が、ここでは思想を扱う視点から、老人神学が改めて考えられる時期に来たと思ったのである。実は神学の中で、現代で改めて考えられることになったものに「解放の神学」や「フェミニスト神学」がある。解放の神学とは別に難しいことではない。

キリスト教の神学はおおむね秀才神学である。これは哲学と共同作業であるから仕方がない。哲学は、エリート頭脳集団の成果である学問の中の学問として発達した。それは宗教を巻き込んで政治集団となり、社会を支配することになる。結局、宗教が政治集団と結託し、社会を支配するという構図は、避けられない社会現象である。その桎梏を解き放つのが「解放の神学」である。その中でフェミニスト神学も発達する。その主な主張は、キリスト教は聖書を始めすべてのドグマは、男が考えた男神学であると主張する。この男神学から女神学を解放し、ないしは創造しようと言うエネルギーが発生したのである。

それと同様に、老人神学は老人であるものが、老人特有の状況から神学に挑戦してみようと言う遠大な計画のことである。死や衰退に近づいたものが考える神学ということになる。ただそのとき、太陽(神、天主)に近づくことは出来ないのではないか。せいぜい着陸したとき生きていることが出来る、月(亜神か亜天主)程度に近づくことを目標に、少し考えてみたい。

もちろんこれは神学素人の戯れの試みに過ぎない。大げさに言ったのは分かりやすくする為で、文字通りではない。

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2009.11.09

8-207 老人神学を考える 2


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回書いた小田垣雅也氏は、祖父ネットより十歳ぐらい年上の人である。彼は本の中で、自らを身体障害者だという。その病名はかなりあって、主に精神的なものが多い。よく考える人が陥る病なのであろう。身体も精神も人は病む。それが生きているということであるが、人生はただならない。

本の解説を少ししてみたい。私は本に書き込みをする。本を壊すつもりはないから、書き込みは鉛筆で行う。よく古本を買うが、ボールペンを使ってわずかでも線を引く人がいる。これなどはまったく常識はずれ、一二行の線の為にその本全体が、古本としての価値をはなはだしく失う。線を引くのなら鉛筆にすべきであろう。それなら、なんとか消して次の読者に迷惑のかからないようにできる。紙は貴重な資源である。であるが、私の書き込みも凄まじい。ほとんど古書として価値のない本になってしまうほど線を引く。もちろんこつこつと消せば、それは立派な古書になるのであるが。だから通常私の本は無料で、私のひいきの古書店に出す。

小田垣雅也氏のこの本も凄まじい書き込みとなった。この本は私どまり、古書店に出すつもりはない。通常別にノートなど作らないのであるが、それが必要になったほど、本の空間は書き込みでいっぱいになった。それほどこの「現代のキリスト教」は面白かった。その解説をしようと思うのであるが、そんな事情だから容易ではない。

氏は始めに「神学」というものの矛盾を説明する。すなわち「神」と「学」とを分けて、このような学などあるはずもないと言う。この考えは私が以前から気づいていることなので、大いに溜飲(むねのつかえ)をさげた。一流の学者の言うことと、自分が考えていることが一致したのである。「神」が、我々が一般に常識としている「学」の対象になるはずもない、と前々から疑問視していた。

もしこういったことを正確に表現するのなら、教義学であろう。ないしは神理論でいいのではないか。少し注意が必要なことは、「理神論」という立派な神学的哲学用語があることである。しかし、この理神論はここで言うものとは違っている。18世紀ヨーロッパ啓蒙時代にはやった合理主義的な自然神論で、神は創造主であるが、創造後の世界は神の支配を離れ、自己の法則に従って働くとし、奇跡/予言/啓示などの存在を否定した考えである。

一字を入れ替えただけで、これほど違って来る。メモが多くなった理由である。

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2009.11.08

8-206 老人神学を考える 1


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回書いた小田垣雅也氏は祖父ネットより十歳ぐらい年上の人で、なかなかユーモアのあるトボケた老人である、と書いた。祖父ネットの再開を祝して友人からもメールが入ったが、ここのところ神と天主問題に熱くなっていたので安心した、と書いてあった。神天主問題は本質的には中国の問題である。中国語の聖書は、神版と天主版の二つが現実の市場で売られており、そこから問題は熱くなる。この熱さは当面さめることはない。

なぜならいわば西洋思想の「かみ」のようなものを、東洋語の「かみ」に訳せるものなのであるかどうか、だれも分からないのが現状である。逆に東洋思想が西洋用語で訳せるとも思えない。この辺りの微妙な問題は、多少語学が分かってくると起きる必然である。それ故に中国語聖書こそ、実に正直な表現を採用しているということである。二種類の聖書、それはまさに一国二制度に通じている神業である。ただ、ここでは今のところ一休み。いや、これ以上は深く考察が出来ないであろう。浅学のなせる業である。

ところで、小田垣雅也氏のことである。

彼の本がこれほど私の脳裏を直撃したには、もちろん理由がある。祖父ネットはたびたび書いているように明治学院の出身である。戦後の日本は、連合占領軍の主力アメリカの統治下にあった。そのなかでキリスト教は息を吹き返した。日中戦争から太平洋戦争で終わる昭和の戦争期間、その全行程でキリスト教はひどい目に遭っている。それがミッションスクールの経営にも深く影響している、ということは当然のことである。簡単に言えば戦後、ミッションスクールである明治学院も、その長い逼塞期間を抜け出たのである。

当然クリスチャンは張り切ったであろう。それが教育現場で実行された。その期間に、見事なキリスト教教育を受けたのが祖父ネットである。何せ10年間も教育を受けたのであり、時期が時期であるから、キリスト教界がただならない理想に燃えた時、といっていいのではないか。現に中学生の頃は、そのプロジェクトに「理想教育」と言う名前が付けられていた。明治学院の10年間以外にも、前後で深くキリスト教に関わっている。

そのプロセスを少し説明しよう。まず中学校の時の教科書にブルナーの「我らの信仰」があり、高校のときには「カルヴァンの人間論」に触れた。それを読んでは線を引っ張って、やたら考えたが、もちろんよくは分からない。大学は社会学科だから思想系の本をよく読んだ。中国語をやり始めたのもその頃である。そんな自分の読書傾向をまとめて見ると、結局素人の読書である。が、その一式をきっちりとまとめて説明してくれたのが、小田垣雅也氏の本ということである。

ほぼ一ヶ月、なるほどなるほどこれだったのか、と思いながら読んで充実した時間を過ごしていた。

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2009.11.07

8-205 キリスト教の神は天主と直すべし その62


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

きっちり一ヶ月、「現代のキリスト教」小田垣雅也著(講談社学術文庫)を早朝に(11/7)読み終わった。祖父ネットがあまりにも書かれないので、ある友人が祖父ネットに異変があったのではないかと心配してくれた。いかにも、人間には異変がつきものであるが。

その異変と言えば、アメリカ本国の軍事基地で異変があったことはすでにご承知であろう。あれはアメリカ自身の身内の異変であり、人間内部の崩壊現象であろう。容疑者は精神科医、アメリカ人ではあるがヨルダン系の米人だという。バージニア州で生まれた人でニダル・マリク・ハサンという人、いわゆるアメリカ的な名前でない名前を聞くと、何とも複雑でつらい気持ちになる。

人間にとって問題というのは二つある。一つは自分に取っての外部問題、もう一つは内部問題である。どちらも問題が生じる「場」である。この内外の問題をキリスト教の神学で捉え、その調整を計ろうとするのがキリスト教の歴史であるとも言える。ところで小田垣雅也氏の本を読み終わって、ここでタイトルに長く使った「神」「天主」問題は、どちらでもよいという気持ちになった。確かに小田垣氏を読みながら神の方がいい場合も少なくない。それでも天主の方がキリスト教的には分かりやすいという場面も多くあったが、結局はどちらでもよいと思うようになった。

そこで次回からは「神天主問題」から離れようと思っている。

それにしても、小田垣氏の本は面白かった。自分のように忙しく会社を経営していたものは、そうそうキリスト教神学の流れを理解する時間は与えられていない。それでも内村鑑三の本を読み続け、それで経営実務を乗り切ったので、キリスト教的にはかなりの知識は持っていたつもりである。実は内村鑑三は神学が嫌いである。彼はどちらかと言うと実務的で実際的な信仰者であって、その点が内村の魅力なのである。例えば彼には「成功の秘訣」なる文章があり、それで成功しているのが軽井沢の星野温泉である。そこには内村鑑三記念館もあり、今も健在である。内村の実務的な信仰が生きたものになっている。そこで内村信仰が無教会であるのは、彼の信仰を成り立たせる為に、結局教会的西洋的伝統から独立している必要があった。日本には日本の事情があるのは当然で、日本社会のキリスト教活動家にとって、西洋伝統は邪魔な時代であった。当時のキリスト者には国家の運命を背負っているという使命感が強かったのである。

しかし今さら言うまでもないことであるが、時代は完全にグローバルになった。そこに現れたのが地球規模の人間である。これが今の問題であり、内村以後すなはち明治大正昭和初期時代を越えている今のキリスト教の流れを、小田垣雅也氏は「現代のキリスト教」として解説したのである。

だから実に面白い。祖父ネットよりほぼ十歳ぐらい上の人で、なかなかユーモアのあるトボケた老人である。ただ残念ながら本は絶版であるし、たぶん普通の人では歯が立たないであろう。かなりのキリスト教プロである祖父ネットでも、読み抜くのに一ヶ月を要した。

まずこの辺りから祖父ネットを再開したい。祖父ネットにもいくらかのファンはいるものであると確認でき、うれしくなった時でもあった。

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2009.10.06

8-204 キリスト教の神は天主と直すべし その61

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

みずき教会という教会がブログにある。
http://homepage3.nifty.com/mizukichurch/
主催者は小田垣雅也さんという人で、わたしが今読んでいる本としては「現代のキリスト教」がある。講談社学術文庫1254から出ている。祖父ネットの推薦教会としては聖公会がよいが、小田垣さんのブログ教会もなかなか面白い。

特にご紹介したい。

(祖父ネットはこの本を読みつつあり、読み終わるまで書きませんのでお知らせいたします。flag


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2009.10.05

8-203 キリスト教の神は天主と直すべし その60


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回はアメリカを個人利己主義的資本主義、中国を集団主義的利己主義的社会主義と定義して書いた。今から後、この二者に闘争が起こるとハーバート大のファーガソンさんは言う。しかし、この近代の個人主義を生み出したキリスト教は、利己主義を糾弾する過激派も生じさせる。キリスト教的教条主義は潔癖集団となって、利己主義を徹底的に攻撃することになる。

社会主義が左側に高じると、集団的禁欲主義が徹底される。が、キリスト教でも同じ社会現象が起こる。宗教改革はロマンチックな福音主義だとばかり思っていたら、大間違い。多くの過激派を生み出した。そのヒステリックな集団行動は、正統プロテスタントやカトリックから粛正されて、歴史の闇に消えたと言う。

しかし、まったく記録がない訳でもない。その一つが「千年王国の惨劇/ミュンスター再洗礼派王国目撃録」という本になっている。2002年平凡社から出版された。記録したのはハインリヒ・グレッシュベックというひとで、1535年の実録である。宗教改革が1517年であるから、その派生的事件である。ミュンスター城内に立てこもり、千年王国を実現するとしたキリスト教プロテスタントの異端である。前回書いた「宗教改革急進派」と同種の本である。

この悲惨きわまりない事件は、従来のプロテスタント福音主義のイメージを傷つける。プロテスタント教会で現在でもたびたび起こる、教会「独善牧師」の暴走食い止策など事実上はない。キリスト教の中でも組織派である正教、カトリック、聖公会と、無組織派とでもいうプロテスタントでは、キリスト教のあり方そのものが多いに違っている。そのプロテスタントの牙城がアメリカである。そのアメリカの衰退が今世紀の大問題という訳である。

明治維新以来、主にアメリカプロテスタントによって開かれた日本は、今後どのように進むのであるか。多いに注目したい。聖書の中の、神か天主かのどちらが正確な訳か、と言った問題から得るものは実に多い。

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2009.10.04

8-202 キリスト教の神は天主と直すべし その59

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

前回は、プロテスタントであるスイスの神学者ブルンナーさんから、中国を書いてみたいで終わった。参考図書は「キリスト教と文明」である。さらに「宗教改革急進派/ラディカル・リフォメーションの思想と行動」を使いたい。後者の本は倉塚 平氏を中心に、5人による編訳本である。前者はブルンナーさんが書いたものを、熊沢義宣氏が訳したもので、2001年「書物復権」という願いの下、岩波、紀伊国屋、勁草、東大、白水、みすず、法政、未来各出版社の肝いりで出版された。

後者は1972年、ヨルダン社から出版された古書。中に真っ赤なボールペンで、うるさい線が引かれているところを見ると、どこかの過激分子が読んだ後らしき気分が見える。何せ揺れた70年代の本である。と、こんなことを言っているうちに、たちまち二つのことが追加された。一つは、内山書店から中国の小学校一年生の教科書の入荷。二つ目は今朝(10/3)の日経新聞9面。見出しは「世界を語る・歴史から読み解く現在/帝国の衰退、波乱の芽」である。帝国とはアメリカ経済帝国(世界経済基軸)のこと、波乱の目とは、将来および現在の中国経済の大国化である。

書いた人は、ハーバート大学教授ニーアル・ファーガソン氏。1964年生まれと言う。祖父ネットが明治学院大学で中国語の勉強を始めたのが1960年、その4年後に生まれた人、感無量だ。わたしには中国経済が、現在の姿になるという、漠然とした予感がその頃すでにあった。時が過ぎ、もはや夢物語ではない。中国の問題は世界や日本を揺るがしかねない、現実の問題となった。

ブルナーさんといっても、すでに古い。20世紀彼のような心ある人は、戦争を通じヨーロッパの衰退を心配している。所詮人間のやること、人は常に前途に向かって心配ばかりしているが。その心配も今や地球規模の凄まじいことになっている。ただ、ブルンナーさんのような、あのころの真面目な神学者は、資本主義(個人的利己主義)と共産主義(集団的利己主義)の対決を心配をしている。キリスト教徒といっても、人間だから所詮すべて個人主義者である。ただその利己主義の抑制手段として有効であったものが、少し揺れ始めたと心配している。集団的利己主義の方が、有効ではないかという心配である。その成功者が今では中国という訳である。

人間の利己主義は生存の原理である。人間存在とともに古い。ただ、その抑制手段が変遷するのであるが、それは思想史的に宗教的史的に説明が可能だ。今の時代は、その個人利己心が最大の発達をした時代、という風に表現すればいいだろう。これは近代の理想とされたものである。そしていよいよ、すべては達成されたのであるが、はたと振り返ると畑(地球)の限界が視野に入り始めた。アメリカは個人利己主義の最大実現国である。一方中国は集団的利己主義を達成しようとしているという。その命題がハーバート大学ファーガソンさんの言わんとしたこと。二つの大利己主義は10年後に激突する、という恐ろしいご託宣。個人利己主義の国アメリカの衰退を原因として。

祖父ネットは、利己主義抑制をキリスト教で説明しようとしている。避けることの出来ない解決不能の利己主義を、どのようしたらよいのか。難しいことを考えているのである、老人らしく。このテーマを続けてみたい。

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2009.10.02

8-201 キリスト教の神は天主と直すべし その58


主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

「ローマ字問題と中国」を書きながら、マルクスが蘇った。建国60周年記念、中国共産党の建国思想は、今や成功したと言うべきかもしれない。主体と客体、これがキーワードである。真理ということからいえば、それは客体たるものの中にこそあり、主体がいくら主張したところで、真理の実証は不可能であるという。それがマルクス主義の神髄である。

中国革命がこのように成功し、華やかなパレードを見ていると不思議な気持ちにさせられる。近代とは確かに、主体から客体への移行脱却である。あるいは客体の発見、といってもよいかもしれない。主体でしかない古代社会から、客体を引き出した人々を研究することは、楽しいことである。それは困難な哲学的営為であろう。昨日(10月2日TV)の華やかな中国を見ていると、マルクスがほほ笑んでいるように見える。これは唯物論の勝利なのであるか。マルクスは客観的真理の福音主義者なのであるか。

あの主体の国アメリカ、主体国家アメリカ、それが様々な失敗を経て疲弊し、もはや中国にすりよっている。客体の成功を見、主体(キリスト教福音主義)が敗北宣言をしたのだろうか。主体は唯物論を嫌った。すべての真理はわたしそのものである、という主張を代表したアメリカ。わたしの欲望、わたしの創意、わたしの努力、わたしの妻、わたしの夫、わたしの子供、わたしの国、わたしの学歴、わたしの作品、わたし、わたし。これらの主体主義は、21世紀を迎え本当に古くなってしまったのだろうか。

中国にわたしはないのであるか。客体としての政治組織、国家理念、経済目標、趣味や嗜好、歴史と宗教。これら錯綜する流れの中で、わたしの一票は無意味な一票なのであるか。明らかに歴史は、大きくその流れを変え始めている。

次回からはそれを、プロテスタントであるスイスの神学者、ブルンナーから書いてみたい。

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2009.09.30

8-200 キリスト教の神は天主と直すべし その57

主なる天主(神)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

「ローマ字問題と中国」を書いた。その中で梅棹忠男氏を書き、氏が「日本は世界の大勢からとりのこされていきます。」と予言したことを紹介した。怖い話である。日本は戦後、世界の経済大国に成長しそれを享受した。その時代を生きた祖父ネットには、今の後退する日本の状況が空恐ろしく感じる。

先日、フトしたことで思いついたことがある。何のこともない「.com」についてである。この「ドットコム」はたいへんなくせものである。ラテン文字がこの方式になじむことに、いまさらながら驚愕している。世界言語として、漢字はドットコムに明らかに負けている。

漢字はどうしても転換がいる。ラテン文字は転換が無用だ。この一気性をwatashi wa 推薦している。このワープロでローマ字を少し書いてみよう。naka naka omottakoto o yuuno wa mutsukashii mono de aru.shikashi soremo nare te kuruto zousamo nai. この打っていて心地よい一気打の気分を、是非味わってもらいたいものだ。昔の作家たちが原稿用紙に書いて行く気分である。もちろん、ワープロも昔に比べれば、格段に良くなっていることは認める。しかし、どうしても転換には「もどり」がつきものである。

どれほどせいかくにやっても、いっしゅんのここちよさはにはとおい。ローマ字でせっかく打ち込みながら、転換キーを押し、ときにとんでもない言葉が出るときの気分の悪さこそ、耐えねばならない今の日本語ワープロ環境である。これを日本民族は延々と続けるのであるか。あたまがおかしくならないか。健康な文章環境と言えるのだろうか。これを日本人は、一体いつまで続けるのであるか。sono ten rohmaji ni wa, modori mo tenkan mo nai. sura sura to atakamo hanasu ga gotoku, kaite shimau.

この生理的心地よさが、素晴らしいのである。もちろん妙な「tenkan」などnaiからである。

osu hiku mawasu migi hidari ue shita など。どうして家電などの操作ボタンの表示にtsukawa nai noka, watashi ni wa sappri わからない。デザインとしても美しいし、世界にtsuuyousuru、のに。

何年か前スイスに旅行した。個人旅行で、面白いことがippai atta.その一つにホテルのメニューがある。「よくいらっしゃいました。ここは世界有数のリゾート地で、美しい山に囲まれ、お客様にきっとご満足いただけると思います。」などとkaitearu. kono kotoba wa 数カ国後で書かれている。英語、スランス語などである。その中に立派な漢字かなまじり日本語で、先ほどのようにかかれていた。私はその頃からすでにローマ字論者であったから、これをローマ字で書いてくれれば、メニュー全体のデザインは統一され、きっとima ijyouni 、menyuu は utsukushiku naruと確信した。そのように書かれてこそ、日本語も国際語となる。漢字で書かれていると、いつまでたってもアジアの代表は中国になってしまう。図らずも日本は、世界に中国を宣伝しているという訳である。

中国のブランドはラテン系の人にとって、アジアと一体であり、日本の優れたブランド感覚が安い中国商品をバックアップしている。しかし、どう見ても中国商品と日本商品は異質であり、まったく違う nippon dokutoku のものと言わねばならない。それを強力に主張する時代に入ったと言うべきであろう。それにはローマ字化がsaizen de aru.英語表現はすでに古い。

日本はアジアの技術文明先行国家として、恥ずかしくない先鞭を付けた。その日本製品が世界で認知されたからこそ、今のアジアは世界で栄えることが出来る。これが日本とアジアの富の源泉である。それを得るために、明治期すべて英語と言う表現方法を使ったのは日本の英知である。しかし、それは今や西洋に埋没し、日本の独自性を失わしめることにもなった。それを打破するために、ローマ字日本語を使って、その高度で独自のブランド性を世界に訴えるのである。

せっかく養った日本の高度技術力は、漢字イメージのために「中国化」し、安物化して埋没、かつ英語のために西洋に埋没した。韓国製品と中国製品と日本製品とでは、同じterebi demmo 内容は格段に違う。それは見た目には分からない。これを訴えるのがブランドである。極端な価格競争だけが全面に出ている以上、このように差別化するしか方法がない。

銀座を席巻している西洋型ブランドショップを見れば、akirakaではないか。

結局、日本の商品が世界商品たる資格を持った今でも、日本商品は日本語を無視し続け、英語先行イメージで突き進む。始めは英語であったが今こそ日本語で、という戦術転換が必要である。ローマ字ブランドで成功した会社がある。いうまでもないが「TOYOTA」である。それでも車の室内は、osu hiku mawasu migi hidari ue shita oriru 、などと実行していない。そうしてこそ、巨額の赤字の幾分かは減少したことであろう。それでこそ本当の日本商品になり、日本のkoudo 技術力が世界ブランドとしてiji diki る。

スイス旅行の、あの頃の華やかに輝いた日本人旅行者の、omoide de aru.

下記のイメージは、あるドットコムから拾いだした。
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2009.09.21

8-199 キリスト教の神は天主と直すべし その56


主なる神(天主)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

「ローマ字問題と中国」を4回書いた。

現代中国ではローマ字教育が徹底していて、はるかに日本をしのいでいる、と書いた。それは現在の中国経済の躍進の真の原因である、などとも書いた。

その教科書の実物を、写真でご紹介しよう。下の写真は下記の順です。
① 小学一年生用副教科書の表紙
② ①の15頁、漢字にローマ字が振ってある。
③ 小学生用国語辞典
④ ③の最初の頁は「阿」A から始まる。アルファベット引き。
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8-198 キリスト教の神は天主と直すべし その55


主なる神(天主)よ、我らが同胞をかえりみたまえ。

ローマ字問題と中国(その四)

鐘ケ江信光編書/大学書林刊/昭和35年(1960年)4月1日第一刷/「中国語辞典」「はしがき」から、新中国語の秘密を書いている。

前回の最後に、実はまったく気がつかなかったのである、と書いた。ただ勉強不足であったにすぎないが、今回肖さんの言葉から一気に解明した。内山書店で買った本は二冊、「xiaoxuesheng zuci cidan 」と 「課外語分/小学一年級/修訂版」である。中国語を勉強していない日本人なら、始めのローマ字ラテン語表記中国語は分からない。しかし、二冊目の漢字の表題は、それが小学校一年生用課外教科書であることがわかるであろう。ただ中国語をローマ字で少し勉強をすれば、どちらもぞうさもない。中国語は外国人にも学びやすい言葉に変身している。

このことに、中国革命時の理想が生きていたのである。新中国が生まれて以来掲げられた、言語ラテン化理想は、半分実現し半分まだ実現していない。しかし、梅棹忠男氏が「日本語の将来/ローマ字表記で国際化を」NihonHousouKyoukai 刊(NHK) 2004年 の中で書いたことが(177頁)、雷鳴のように殷々と伝わって来る。「日本は1000年来の伝統をまもって、いまだに漢字にしがみついている。ローマ字化した中国語と漢字化した日本語と競争したら、勝負は明らかです。中国語は世界語、国際語になります。日本語は、漢字ゆえにひじょうなローカルな言語として世界の大勢からとりのこされていきます。」

梅棹忠男先生はもちろん知っていたのである、中国語はもはやローマ字化寸前であることを。先生は別な箇所でも書いている(176頁)。「今日、中国語がローマ字化したということはいえません。しかし、底流としてローマ字化の願望は中国のなかに流れております。わたしは、場合によったら日本よりもさきに中国の方がローマ字化するかもしれないとみております。」わたしは肖さんにその実体を見たのである。

その実証が、先述の「xiaoxuesheng zuci cidan」という表記である。このローマ字化されている表題には、すでに中国語では知られている四声表記すらない。もちろん大見出しは「小学生組詞詞典」である。要するに日本語にすれば、「小学生用国語辞典」である。この辞典の特徴で恐ろしいのは、うかつにも気がつかなかったが、「ローマ字引き」であることである。実は大人のいわば「国語辞典」も子供用の「国語辞典」も、中国の国語辞典はすべてローマ字引きである、ということである。それは日本人が使う今の中国語辞典もまったくおなじ引きかたであって、なんらかわるところがない、ということである。つまり中国語は日本語と中国語の間で、「すでに」「革命時から」国際化していたという事実である。1960年あの時の鐘ケ江信光先生の辞書も、今に通用する辞書であるということの実体である。

というのは、小学一年生用の副読本であるが、この本はまったく、ルビがローマ字であるという事実である。幼児本においてすら、幼児が自分で読む本のルビはローマ字表記、親が読み聞かせる幼児本は、ローマ字無表記である。つまり、よちよち歩きの赤ちゃんから幼稚園になったとたん、中国人はすでにローマ字化しているのである。中国がこんなにも早く世界経済に躍り出たのは、ここがポイントであった。

現代中国の飛躍は、すでに革命初期、文字ラテン化運動によって着々と準備されていた、と言うべきであろう。それに比べ日本は旧態依然、アジアにおける先行国家の地位にねそべって遅れを取り中途半端、現在のていたらくになった。その主な原因がここにあるのである。それを最近まで、まったく知らなかった自分たちのバカさ加減、「油断」という日本人の実体であった。と、いうことをおもいしらされた。すでに遅いのかもしれない。と、老人は責任を感じて書いた。

ただ幸いに、今回の選挙で民主党が勝利したのをきっかけに、新文部大臣に建白書を送る予定にしている。主なる神(天主)よ、われらが同胞をかえりみたまえ。(おわり)

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2009.09.19

8-197 キリスト教の神は天主と直すべし その54


主なる神(天主)よ、我らが同胞を顧みたまえ。

ローマ字問題と中国(その三)

鐘ケ江信光編書/大学書林刊/昭和35年(1960年)4月1日第一刷/「中国語辞典」「はしがき」は次のような書き出しである。

私(鐘ケ江信光)が、大学書林社長/佐藤義人氏から中国語辞典編纂の依頼を受けたのは、敗戦間もない昭和22年春である。世を上げて英語万能の時代になったにもかかわらず、氏は中国語辞典に着目された。そこで菲才を顧みず勇を鼓し、この難しい仕事を引き受けた。新しい時代であり、中国語学会の要望でもあったので、ほぼ十二年かかり、ここに出版できた。実に感慨深い。この12年は、中国語の歴史に一時代を画した時代でもある。大きな変化があった。中国史でも、未だかつて見られなかった大革命の完成である。私がこの仕事を始めた当初、まだ決定的な変化はない。それでも、今までの辞書の不備を補い、新しい試みを加えて仕事に取りかかった。その後、中国革命の新しい事実に直面し、遂にそれまでの原稿を破棄した。そこで企画と構想を練り直し、新たに稿を起こして完成したのである。

新しい事実の一つ目は、かつての文学書には見られなかった単語の輩出である。二つ目はローマ字による発音表記法の決定である。第三に漢字の簡略表記である。

鐘ケ江信光先生の要約は以上にするが、専門家が書いているので、こんなに簡単ではない。が、要点はこれに尽きる。もちろん、当時学生であった私たちが、このことを深く知っていた訳ではない。高校では、もちろん漢文を勉強していた。余談になるが、この高校時代の先生は、後で中国文学の世界で重鎮となる伊藤虎丸先生である。明治学院高校の教師を辞した後、多くの大学から招聘され後、東京女子大の教授となられた。とはいえ、高校生のときから、このような複雑な中国語環境を語られた訳ではない。あくまでも高校生には、「しいわく」である。

話を前に進めるために、辞書のことはこれぐらいにしたい。ともかくこの記念すべき「中国語辞書」によって、当時中国語に触れた学生は多い。この辞書で勉強し、今まで大いに中国語で活躍した人がいて、今の中国関係が構築されたことに間違いがないであろう。

ところが、これからが肖さんとの話に戻る。中国の言語的理想は、ローマ字化では後退したと思っていた。今でも漢字一辺倒である。実はローマ字化の最終段階は、漢字ローマ字表記の国字化である。それは実現していない。漢字を排するのではない。すべての言葉を表音表記であるローマ字にしようと言う、遠大なものであった。これは日本において、明治時代初期にすでに現れた理想であるが、未だ実現していないことは言うまでもない。中国おける漢字の弊害は、日本の比ではないことも言うまでもない。が、不思議なことに現在の中国を見ていると、漢字がその急激な経済発展の障害になっているという印象は薄い。

実はここに多いに秘密があった。まったく気がつかなかったのである。(続く)

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2009.09.17

8-196 キリスト教の神は天主と直すべし その53


主なる神(天主)よ、我らが同胞を顧みたまえ。

ローマ字問題と中国(そのニ)

前回は、「それを肖さんの一言から、ハッとするほどのスピードで察知した。」で終わった。その続きである。あまりにもショックだったので、翌日、急いで神田まで行った。中国専門書店内山書店を目指した。「ある」ものを買うのが目的である。それが「ある」ことは分かっている。この問題はかなり前からこだわっていて、店に入ればそれが右側の棚にある、ことも分かっていた。

目的物とは、中国の「小学校低学年の教科書」である。ところが、期待の一年生用がない。今取り寄せていると言う。

1960年、有縁ネットと祖父ネットは、明治学院大学に入学した。二人とも明治学院高校で一緒であったが、おたがいの顔は知らなかった。彼は経済学部で中国語を第一外国語とし、私は文学部でそれを第二外国語としていた。部活動は中国語研究会。部長がリムーランさん、スゲー中国服の似合う美人で、二人とも彼女に勧誘された。スパッと太ももまで開いたスリットに、目を廻しての入部である。こんな話をするは、今後の話が堅くなるからである。その前に、話を少し柔らかくしたかった。ショックを和らげるためでもある。いよいよ本格的な中国語の勉強も始まり、奨められて初めて「中国語辞典」を買った。

鐘ケ江信光編書 大学書林刊 昭和35年(1960年)4月1日第一刷発行 の「中国語辞典」である。当時買ったものはすでに壊れてしまってない。今手元にある辞書は新品で、二三年前わざわざ買った。発行から50年近くも経過しながらも、大学書林さんの倉庫に残っていた。その辞書は1960年に出版された記念すべき辞書であったが、当時その事情は知らなかった。鐘ケ江さんが「はしがき」を書いたのが3月1日、発行がその一ヶ月後である。それがまさに新学期と重なっている。

このわざわざ買って手元に置いたことには、深い理由がある。鐘ケ江先生が辞書冒頭に書いた「はしがき」では、中国が中国語のローマ字化という理想に燃えた時であった、と書いてある。中国革命の神髄を、私たちは自分で使う辞書で経験したのである。文盲をなくし、中国のすべての国民が、文字を簡単に学べるようにするという革命思想である。

次回はその要約を書いてみたい。(続く)

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2009.09.15

8-195 キリスト教の神は天主と直すべし その52

主なる神(天主)よ、我らが同胞を顧みたまえ。

ローマ字問題と中国(その一)

今日の冒頭の祈りは、いかにも大げさに聞こえるかもしれない。明治の思想家内村鑑三が言うのなら、読者も納得するかもしれないが、一介のどこの馬の骨とも知れない老人が、なにを大げさなという声が聞こえる。しかし、これは大げさではない。

先日、ある若い中国の方と食事をする機会を得た。肖という人で、秀才である。もう一人の古くからの友人と一緒に、湖南料理を食べに行ったのである。最近、新宿歌舞伎町など行ったこともない。まして夜の新宿など、とんとご無沙汰の老人である。肖さんの前で、自分のことを老人と言うと、彼はそれを止めてくれる。祖父ネットは老人ではありません、などと励ましてくれるのであるが、彼は25歳、私は67歳である。どうひいき目に見ても、老人ではないというわけにはいかない。まして彼はこのブログのことは承知で、流暢で美しい日本語を話す祖父ネットの読者でもある。

彼自身も湖南省の人で、劉少奇さんの生家は近いという。言うまでもないが、毛沢東氏は湖南省最大の英傑である。まさに湖南省こそ、歴史に名を残す人を多く輩出する省でもある。ひょっとすると彼も、歴史に関わる傑物であるやも知れず、私の知り合いのIT企業で生き生きと成果を上げている。その彼と、何度も話し合っている漢日ローマ字問題が話題になった。すでに5、6時間、時を忘れて話しているとき、フト彼が漏らしたことが祖父ネットのショックとなった。中国のローマ字国字問題である。

ローマ字問題は、このブログでもたびたび取り上げ、日本の言語事情は国際的に見て大きな問題がある、と警告をしてきた。現在ではすでに絶版の「日本語の将来」梅棹忠夫/編著を再度読み始めていた。というのは、明治学院大学で10月から卒業生勉強会があり、研究対象の冒頭が「ヘボン」であるからである。ヘボンと言えばローマ字で、改めて「日本語の将来」を再読したのである。

読んでいて、本当に深刻になる。梅棹忠夫氏については言うまでもない。ウィキペディアにあるので、ぜひ知ってもらいたい、日本の文化人類学のパイオニア、文化勲章受章者でもある。しかし、何せ先生も老人で、その上勉強のし過ぎで目がご不自由、活躍がスローダウンするのはやむを得ない。その後を引き継げる人を知らないので、ローマ字問題の論客を失う日本の将来が危ぶまれる、と言ったのである。

このテーマはしばらく続けるつもりである。キリスト教で「神」というも、また「天主」と言ったとしても、その元は中国にあることは前にも書いた。中国で訳された聖書を参考に、日本の聖書は訳されて今日に至った。そのお陰で、日本は明治期以後「西洋文明」なるものをアジアで先行できた。あまりうまく行き過ぎたので、アジアで迷惑をかけ、反省して今日に至った。アジアではローマ字問題も日本が先行している。それに比べ、中国のローマ字は、毛沢東革命によって出来た現政権の下で始まる。しかし驚くべきことに、今では日本をはるかにしのぎ、恐るべき成功にいたっている。中国で成功しているのは経済ばかりではない、言語においてももはや中国は、日本を追い越し国際的成功をおさめていたのである。

それを肖さんの一言から、ハッとするほどのスピードで察知した。(続く)

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2009.09.14

8-194 キリスト教の神は天主と直すべし その51


主なる神(天主)よ、今日も我を守りたまえ。

「ヘブライの神/旧約聖書における一神格の肖像」B.ラング 著 加藤久美子 訳 教文館刊を読み終わった。その最後の頁にある言葉である。要約すると次のようになる。旧約聖書は、おおむね紀元前500年ごろ集成された。その事業はヒルキヤという祭司が、国家神ヤハウェの排他的崇拝を目的として、伝統的であった多神教的ヘブライ宗教を抑圧することによって行われた、と説明されている。

ユダヤ教から派生したキリスト教の神は、一神であると言われる。祖父ネットも、このキリスト教の「一神」を探すのに苦労をした。子供のころ長野県から赤坂に移り住み、誘われて渋谷の教会学校に行く。小学校の三年生のときで、赤坂見附から銀座線に乗りトンネルを出ると渋谷、という遊園地的気分が、田舎の子供にとっては印象的であった。田舎とは長野県北部、コスモス街道で有名な佐久市である。以来キリスト教で、学校も明治学院で10年、高校生で洗礼を受けて、今でもこのようにキリスト教漬けである。

一番苦労をしたのは、この「一神」を探すこと。日本の宗教状況で「神」と言えば、神道の神々に決まっている。佐久市の村は権現堂と言った。権現を辞書でみると、仏菩薩が衆生を救うために、日本の神に姿をかえて、この世に現れること、などとある。大阪で生まれたが、産院は聖公会の経営で祖父と母が会の信者、というのは後で知る。ただし、嫁さんは精神とも純粋な日本人、結婚式は先方の希望で神式である。佐久市の権現堂はまったくの米作地域、そこに聖公会の病院などあろう訳もない。つまり生まれて一年目、大阪からいきなり佐久市に移り住んでいた、という訳である。戦争中の話で、もちろん自分のせいではない。

ともあれ、ミッションスクールである明治学院の10年にしても、学生の身にして「一神さがし」は容易な業ではなかった。洗礼は受けたが、明確に一神を認識したからではない。私の人生は一生かかって、一神と出会うことが目的のような人生であった。それを徹底的に明確にしてくれたのが、「ヘブライの神」である。

読み終わりホッとしている。肩の荷が降りた気分、または肩の力が抜けたとでも言うのであろう。宗教というのは、常識的には多神的に出発する。世界中がそうのようになっているようだ。その中でまがりなりにも「一神」となったキリスト教は、いわば宗教の発展形態である、と言い切っていいのだろう。イスラム教なども含め、一神教は世界史に深い影響をあたえた。ところが日本は、言うまでもないがキリスト教なども加わり、いっそう多神教的である。この日本文化の多神教的伝統のもとでは、キリスト教徒は苦労が絶えない。それは「一神」探しの苦労に尽きる。

肩の荷が降りたと言ったのは、一神教の代表のようなユダヤ教にしても、始めは多神教的であったことを知ったことである。かくして、さらなる宗教の旅はまだまだ続く。

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2009.09.05

8-193 キリスト教の神は天主と直すべし その50

天主よ、我らの罪を許したまえ。

宗教と言うものは必ず、どこかで終末をいう。人は死ぬものであるから、死の恐怖から逃れることが出来ない。死には三つある。世の中の終末、他人の死、そして自分の死である。どの死も恐ろしいのであるが、通常経験するのは他人の死である。老人になると自分の死が現実のものになる。ところが、死が身近になると、意外とその恐怖が薄れる。それは頭脳の感覚が、低下して行くからであろう。認知症の最高の到達点は、死の恐怖からの卒業である。

老人が意外に宗教から離れるのは、様々な恐怖から、感覚的に遠ざかるからであろう。「どうせ」という気が働き始めたら、老人の兆候である。幸福な老人とは、いつまでも新鮮に、死の恐怖を持てる人である。ところで、その新鮮な死の恐怖を、聖書から久しぶりに味わった。その恐怖の一節とは、ヨハネの手紙一2章18節「子供たちよ、終わりの時が来ています。」である。簡単な英語であるから、書いてみよう。

My children , the end is near ! である。その後はその理由が続き、さらに so we
know that the end is near.となっている。

専門的な解説書を読まなければ、深いことは分からない。2000年ほども前、多分発祥したばかりのキリスト教を迫害するものが現れたので、このように書かれたのであろう。それにしても、この時代はまだローマ帝国の時代であるのか、どのような時代背景であったのだろうか。が、これは自分なりに今読んでも、迫力がある。宗教はこの迫力によって、人々に迫り、キリスト教も尚今日信者を絶やすことはない。

しかし、この言葉の今日的な価値が下がらないのは、残念である。地球温暖化や核兵器、感染症、食料問題、貧困、犯罪、紛争など、一向に収まることのない恐怖要素は、数えきれない。その中でも地球温暖化は誠に恐ろしい。実際に恐ろしいのは、核兵器の保有なのであろう。が、目に見える形では北極海の氷解が一番。先日、国連事務総長が訪れて、「怖い」と言ったのをTVで聞いたとき、実際怖いと感じた。

キリスト教徒的に言えば、「神(天主)守りたまえ、我らが罪に因りてなるもの、許されたし」と、祈りたくなる。自分は已に老人であり、死が近づいている。この死に対する、新鮮な気持を持ち続けたいが、あまりにも刺激的な今日この頃である。

キリスト教徒の祈りは、時にのんきでいいと言われるが、普通の人は祈らないのであろうか。人類もだいぶボケたのではないか。

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2009.09.04

8-192 キリスト教の神は天主と直すべし その49

天主にこころから感謝し、秋収穫の時の豊穣を祈るばかり。

「ヘブライの神」教文館刊を読み続けている。B.ラング氏が書き、加藤久美子氏が訳するもの。旧約聖書の一神格は、いかにして彫像されていったか、が主題のようである。祖父ネットの、最も興味あること。やはり人類は、神々から神に、そして天主に至ったのである。そこにドグマとは別な、考古学的な照明をあてても、唯一の神が浮かび上がってくる。その見事なプロセスを書いている。

それが今朝、ユダヤ教美術に至った。新鮮な発見である。ユダヤ教の中で、唯一の装飾美術と説明されている「扉のぶどう図」には感動する。それも昨夜、大学でスペイン語の教師をする隣人が、フト立派なぶどうを二房も持ってきてくれた後だから、余計感動した。

彼をある公演に誘っていた。題は「光のスペイン/Stella splendens /日本に渡来したすべてのスペイン人宣教師に捧ぐ」である。

聖ヤコブが眠り、ザビエルが船出する、ガリシア語でマリアは讃えられ、モンセラートの岩は屹立し、黒い聖母が愛を溢れさせ、喜びに満ちて人々は歩き続け、トレド大聖堂に楽器が鳴り響く、とある。隣人はまさに、日本有数のガリシア語の専門家。ところが彼は当日、抜けられない用事や会議までもあると言う。観に行けないとは、誠に残念至極。

持参してくれたぶどうたるや、誠に見事なもの。それが、ユダヤ教神殿の扉に刻された、唯一のユダヤ教美術装飾、とは。つまり装飾を排除したユダヤ教も、周縁文化でもある収穫神の表象から影響を受けているという。

神とは無理なく考えれば、神々であり、自然であるもの、人々の素朴な願いに他ならない、という常識が胸に落ちる。

合唱/Laudesi Tokyo 合唱隊
独唱、楽器、と説明してある。9月26日土曜日午後3時、日本基督教団東京山手教会(渋谷)、入場料3000円。予約0422−32−6074(杉本ゆり)、当日券は3,500円である。

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2009.09.03

8-191 キリスト教の神は天主と直すべし その48

天主にこころから感謝して、さらに積年の罪を許されるよう祈るばかり。

民主党の政策が見え始め、自民党の混乱が伝えられる。人間負けた時が一番大事である。世のため人のために働いているのならば、自信を持って再建に当たるべきである。それよりも何より、昨日は週刊文春(総選挙特大号9月10日号)を買って読んだ。が、それが一番ショックだった。

原因は記事の目玉、「立花 隆」の凋落である。

彼と私は同年。こちらが若くてうろうろしている頃、彼は田中角栄を糾弾し、一国の総理をその座から引きずりおろした。いわゆる金権体質をすっぱ抜いた、若き俊英のジャーナリストである。多くの人がそれを歓迎し、文春はでかいビルを建てることになった。あまりにもすばらしい天与の業績は、文字通り彼のものである。

この際彼の記事が、文春の冒頭を飾るのは当然である。しかし、年月は惨いことをする。期待して読んだその彼の記事は、単に年寄りの愚痴に過ぎない。人間ここまで落ちるのであるか。誠に年はとりたくない。

彼によって、壊されて行った自民党を支えるものは、党であるがゆえに、今も健在であるはずだ。しかし彼は一人、彼一人が老いれば、だれもその凋落を止めることが出来ない。彼はこの記事を最後に、ジャーナリストをやめるべきである。しかし、文芸春秋社は社会にいっそう必要である。老いた彼を重要視し、だれ一人だめだと言えないなら、会社そのものが凋落する。社会の新鮮な風であるべき役割も、終わらねばならない。そうならないように祈りながら、書いてみた。

その点聖書は長きに渡り、今も変わらず、神(天主)の意志を人類に伝える。その天主の意志を持ってすれば、人は誤ることはない。ジャーナリストとは、聖書にある一種の予言者である。社会に清新の風を送る人。老いることはやむを得ない。だから引き下がること、若き人を引き立てることが肝心だ。記事の場所をすでに占有すべきではない。

自民党もジャーナリストも、新しい時を迎えた。若い人は果敢に進むべし、人類のために日本人も活躍する時代が、本当に来たのである。賢者がスイスから帰国した。その活躍を祈りつつ、老人の感想を書いた。

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2009.09.01

8-190 キリスト教の神は天主と直すべし その47


選挙後の出来事で、老人にとって際立ったのは、一つは民主党の予算編成の全面見直宣言と、心斎橋そどうデパート本店閉鎖のニュースである。

有名デパートの閉鎖は、池袋で味わった。池袋三越がまさか、閉鎖になるとは夢にも思っていなかった。自分の商売の拠点が池袋であり、家も近かったからよく利用した。本店と同じライオンの像が玄関にあり、そこはよく待ち合わせの場所として使った。このブログの右サイドに紹介している人気ブログ、有縁ネットともよくそこを利用した。

有縁ネットいう中国ネットは、そこで生まれたと言っても良いかもしれない。それが、どうか。自民党も結党以来の凋落であり、一部には消滅説すらある。日本も今後、二大政党政治を理想としているが、一方がこのような状態では、一体どうなるやら心配である。自民党も頑張らねば、今までの政治的実績をすべてむなしくしてしまう。何も自民党だからと言って、悪いことばかりをしてきた訳ではない。沢山の良いことをしている。

それはそれとして、世の中が変わったのである。先ず自民党で造り上げた予算編成の見直しなど、その冴えたるものの一つである。これなどは明治維新に匹敵する。この見直しが明治維新とまったく違うのは、それが民意で行われた、という点である。

言うまでもないが、明治維新は市民革命ではない。しかし、今回の革命は市民革命である。もちろんそれがバラ色である、などとのんきなことを言うつもりはない。どんなことも努力と忍耐でしかない。と、老人らしいことを言うことを許してもらいたい。

ところで昨日も書いたが、明治維新を知る素晴らしい資料が出版された。時代が変わったのを機会に、ぜひ一読をお勧めする。下記の文章は出版社の文章を少し加工して書いた。

「ヘボン在日書簡全集」教文館刊(9月25日発売予定)
《岡部 一興 編、高谷 道男・有地 美子 訳》

ヘボン式ローマ字で有名な宣教師ヘボンの手紙。ヘボンは1859(安政6)年横浜に上陸。派遣元はアメリカ長老教会本部。そこに送った手紙の集大成である。

医療・教育・聖書翻訳(現在の聖書の原型)・日本初の和英辞典『和英語林集成』、宣教、日本の文化・風土・風習が書かれている。維新の日本を知る超一級史料。これらの先進文明情報により、日本の現代社会の基礎が築かれた、と言ってよいと思う。 【A5判/560頁/定価7560円】[ISBN 978-4-7642-7301-6 C0016]

新たな時代を迎えたわけだから、冷静に行く末を考えるときに必要な本である。

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2009.08.31

8-189 キリスト教の神は天主と直すべし その46


選挙。希望通りの結果になった。

1960年から堅持した左翼、やっと実現したのである。これで、祖父ネットの役目も事実上は終わった。もう一つ、1960年に始めたことに中国研究がある。今日の中国を見ていると、あの時の予想通りである。

そしてもう一つ加えると。教文館さんが素晴らしい本を出版された。メール宣伝が来たので、それを貼付けておく。

ヘボン在日書簡全集

《岡部 一興 編、高谷 道男・有地 美子 訳》(9月25日発売予定)

ヘボン式ローマ字で知られる宣教師ヘボン。1859年の来日以降、彼が派遣元であるアメリカ長老教会本部に送ったすべての書簡を収録。医療・教育・聖書翻訳・日本初となる和英辞典『和英語林集成』の編纂といった多彩な宣教活動から、日本の文化・風土・風習までを克明に書き記した、開国当時の日本を知る第一級の史料。

※1959年にヘボン来日100年を記念して岩波書店から出版された高谷道男編訳『ヘボン書簡集』には121篇が収録されていたが、今回、それ以後新たに発見された在日中の書簡等94篇と、帰国後、ヘボン夫妻が日本の牧師や友人に宛てて書いた手紙20篇を翻訳。今日入手できるすべての書簡を収録したことで、宣教師ヘボンの全貌が明らかになる。

【A5判/560頁/定価7560円】[ISBN 978-4-7642-7301-6 C0016]

祖父ネットとしては後、残っているテーマは、ヘボンさんに関係する「神」と「天主」問題一つになった。教文館さんがタイムリーに、見事な本を出された。心から感謝している。

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2009.08.30

8-188 キリスト教の神は天主と直すべし その45


選挙、一体どのような結果になるか。

昨夜は、日経新聞8月29日夕刊の七面掲載記事について書いた。キリスト教ブログ、祖父ネットにとっては見過ごせない。その見出は、「『地獄に落ちる』と献金要求/米教会に賠償命令」である。

ヨーロッパ中世においては、献金とは税金のことではなかったか。納税についての記事は聖書にもある。日本の税金は米であったようだ。建前は5対5らしいが、実際は7対3だったようだ。

むごい話である。治安と称して、米を必要以上に搾り取る方法は、今でもあまり変わりがない。治安のさえたるものが、今は国際治安と国内治安に分類できる。そのための経費たるや、なければどれほど生活にゆとりができるのであるか。想像もできない。

思うに人類は、どれほどの悪を行うのであるか。金も名声もある者が、麻薬に手を出す。それを国民に蔓延させないための経費を、子育て経費にしたら、どれほど素晴らしい若者が出来るだろうか。献金でだまされたと言うが、地獄に行くと予想できるだけの当人の人生の背景は、昨日の新聞には書かれていない。

結局のところ、人という不思議なものを理解することは不可能である。などと思いながら、老人の一票は、いかなる効果を発揮するのであるか。分からないが、よかれと思って投票をしたい。

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2009.08.29

8-187 キリスト教の神は天主と直すべし その44

選挙前日、少し雲行きが怪しい。

そんな時、日経新聞8月29日夕刊七面記事に、キリスト教ブログ、祖父ネットにとって見過ごせない記事が載った。その見出し、「『地獄に落ちる』と献金要求/米教会に賠償命令」。

ここにある「米教会」というのは、何の意味か、日経さんに問いたい。つまりアメリカの教会、という意味か。それともアメリカにある教会で日本に支部を持つ教会、などと言う意味か。それではアメリカの教会とは、何か。それはアメリカにある教会、という意味か。それがなぜ、日本に信者がいるのであるか。だまされたのは日本人である。

記事を最後まで読むと、その教会、実は日本人がアメリカで創った教会であるという。カリフォルニアに住む日本人らが設立した、とある。「ら」と言うから複数の人間がいるようだ。献金をした日本の信者の献金額は、約6800万円。随分と高い地獄行き切符になった。これはキリスト教の教会であるか。教会というのは、どれもみんなキリスト教なのであるか。

東京地裁は28日、宗教法人「セイント オブ グローリー教会」の日本側担当者に約7800万円の賠償金命令を出した、という。ところで、教会の名前であるが、その真ん中にある「オブ」と言う字は、なにを意味するのか。伝統的教会では見かけない「送りがな」である。「なになにーーーの」であるが、そんな教会があるのだろうか。カトリック、正教、プロテスタント、聖公会など、に。セイントとは聖、グローリーとは栄光であるが、それをオブで結んだのである。が、文法上結びつくのだろうか。訳すとどのような教会名になるのか、見当もつかない。

なんと他愛無い。嘘の英語で、本当の教会と思い込んだ女性も悲劇であるが、気をつけたいものである。あまりにも腹が立ったので、急いで書いた。

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8-186 キリスト教の神は天主と直すべし その43

朝を迎え天主に深く感謝している。

そんな素晴らしい朝であるが、心の中は暗い。自分のことではない。世間様のことである。失業率 5.7 % 。自分としては幸い、現役で失業したことはない。学校浪人の経験もない。誠に学校の成績は不良で、あまり勉強などしなかったが、なんとか抜けてきた。就職浪人の経験もない。就職し総務の時代、失業保険などの社会保険、税金を滞納したことがある。滞納すると会社に赤紙がくる。立派な利息を付けて必死に払った経験がある。

失業保険をもらったことがない。健康保険は多いに使った。払った分と使った分、バランスが取れていただろうか、考えたこともない。今は国民健康保険である。自分の持病のことを考えると、多分受け取りの方が多い。経営者になってからは、社会保険の半分は会社負担であることを知った。会社はボーナスを義務的に、世間並みに支払うことを毎回要求された。給料は経営者の自分のことはさておき、毎年上げるべきだとされ、頑張った。年功序列が常識の時代である。

どうしてそうなったのか、深くは分からない。たびたび危機が来た。生活の中で一番つらかったのは、新婚のときの石油ショック。この石油(sekiyu)という言葉、音で打つと、どうしても「せっ」と詰まって発音する。「せきゆ」と一字一字きる必要があるが、「ゆ」がくせ者だ。意外と難しい言葉だ。ワープロで打ちにくい。

この「せきゆ」に手こずった。地下鉄の照明が消されるなど、目立って世間が暗くなった。それでも会社は潰れなかった。必死に働いた。総務が収まって、営業にも手を染めた。主に東北の港沿いを這いずり回った、夜行や車に乗って。教会にも毎週通った。考えてみれば健気である。断っておくが土曜日は休みではない。それが半ドンになって、午後は開放される。その時のうれしさは表現できない。何せ日曜日は教会に行っていたから、休みと言うものがなかった。その中の土曜半ドンである。

半ドンとは、休みの太鼓の音のこと、ドーーンという音で、開放されたので、半ドンなのであろう。城につめる武士の習わしから転用されたのであろう。昔の武士もうれしかったに違いない。ただ登城の合図でもあった。

だから、高い失業率はつらい。見ていられない。暗い、なやましい。飯が食えない、などということのつらさを知らないが、それがいやで必死に働いた。人様より少しはうまい飯を食うためには、人以上に働かねばならない、という時代だった。だから選挙に行こう。苦しい時は聖書を読もう。行動することだ。立ち止まってはいけない。

祖父ネットには、今はそれしか言えない。

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2009.08.28

8-185 キリスト教の神は天主と直すべし その42


朝を迎え天主に深く感謝する。

美しく秋らしい朝である。選挙がまじかに迫ったので、今週の週刊誌が気になって買った。この選挙区も話題になっている。民主党の勢いは代わらないと言うものの油断があり、自民党の巻き返しもしたたかであると書かれている。記事はともかく祖父ネットとしては、一度政権を交代し、国民がいつも新鮮な政府を作れる体制が出来てほしいと思っている。長期安定政権の方がいいのか、交代制がいいのか、だれにも分かるものではない。

ただ、戦前は政党政治があまりにも多党化し、軍部につけ入れられた貴重な経験がある。この危険はどの国にも存在するのが、政治であろう。アメリカには、ないのであるか。想像するも恐ろしいことであるが、理想的にばかり考えても、思うようには行かない。ともあれ実行し、クーデターのない理想の国家を創り、世界に認めてもらえれば幸いなことである。まだまだ、日本は政治的に言えば、世界的信用はない。円は世界的通貨ではない。

話を宗教に戻すと、その週刊誌に、私にとって面白いことが載っていた。タイトルは「新/家の履歴書 156」である。今回は福島孝徳(読みが今ひとつ不安だ)という人が主人公だ。彼は1942年生まれ、私の一つ下である。風前の灯火にも見える麻生総理大臣が一つ上、私が真ん中、言うまでもないが太平洋戦争開始の時である。

彼の名前に注目した、「孝徳」さん。やはり孝行の「孝」を使った人を知っているが、この字を使う人に頭のいい人が多い。戦争中であるにもかかわらず「勝」を使わないなど、親の高い「人格」が読み取れる。「襲治」(Suuji)という人を知っている。戦争末期に生まれた人で、親が「空襲」を治めたい一心でつけた名前だ。

ともあれ、氏は東大医学部出身の、世界でも有名な脳外科医。その先生が言った言葉「最後は神に祈るんですーー」。その「神」とは神道の神である。ともかく面白い、ぜひお奨めする。

週刊文春9月3日号。それを読めば、人生を深く味わうことが出来る。350円は安い。取材構成は大西展子さん、いい仕事をしてくださったものである。

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2009.08.27

8-184 キリスト教の神は天主と直すべし その41

イギリスのキリスト教史は、紀元200年程度から始まる、ということを知った。

ローマ帝国の勢力が、イギリスにまで及んだからである。これをウィキペディアで知ったのであるが、検索ワードは「聖公会」である。ここから進んで、ヘンリー八世やシェークスピアにまで至り、後は切りなく広がって行く。プロテスタント長老派(日本キリスト教団)で長く過ごしたから、キリスト教の知識や教義、礼拝の形式生活習慣は、おおむねアメリカ的である。

アメリカは比較的新しい国だと言うが、たしかにキリスト教の歴史をイギリス史と比較して見ると、イギリスが世紀200年というのだから、確かに新しい。しかし、私のキリスト教は、アメリカ史的視点であったから、イギリスのキリスト教史も比較的新しいのかと思っていた。イギリスのピューリタンがメイフラワー号でアメリカに渡り、出来たのがアメリカであるぐらいの知識でしか、イギリスのキリスト教史を見ていなかった。大いに間違っていたのである。

キリスト教史の古いところでは、やはりエルサレム、ローマ、コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)などが、その主要ルートだというぐらいの知識であった。それが初期キリスト教時代を形作るもの、だとばかりと思っていた。まさか紀元200年、時をそれほど違わないで、イギリスのキリスト教史も始まっていたのである。それはもちろんイギリス史の始まりでもある。

日本の歴史は紀元500年ぐらいから、識字的に書かれる。識字的というのは意識的と同じ意味で、国として一つのまとまった記述をしうる歴史ということである。もちろん考古学的に言えば、さらに深いものになろう。

ともあれ、ここ三年ほど聖公会の教会に行くようになり、イギリス史の面白さに目覚めた。これで少しヨーロッパが理解できるかもしれない。西洋を理解しようとする時、西ヨーロッパ、東ヨーロッパというカテゴリーがある。西はカトリック的、東は正教的に理解するのが常道だろう。が、東ローマ帝国という、当時では主役が活躍する正教史の方が、ロシアという大国だけが際立つ分、分かりやすいのかもしれない。繁栄する西ヨーロッパ史は、政治的には取り残されたローマ、というストレスの上に成り立つ。だから、人間苦労をする方がいいことは、これもまた人生と同じなのであろう。そこに当初から、ひそかにイギリス史が加わって来ることは知らなかったから、まったくうかつである。

練馬ガブリエル教会に出席できたことを、心から感謝している。

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2009.08.26

8-183 キリスト教の神は天主と直すべし その40

秋になってきた。

季節の確実な変わり目は、暑い夏に少し飽いた老人には有り難い。昨日も生き、今日もまた生きるか。倦怠はない。起きてすぐ祈りをする。今日も神(天主)守りたまえと祈る。

選挙戦もあと数日、先日駅前で偶然、投票しようと思っていた人の演説を聴いた。追い上げる当選圏内の人である。六叉路の一角に車から降りて、演説が始まった。聴衆はわたしが一人、皆急がしそうに通り過ぎて行く。車はひっきりなしに通る。その内、数人が立ち止待って聞いていた。道と橋しかないその場所は、立ち止まるところが少ない。その少ない一角の木陰で、老人は一切を聞いた。

演説が終わった。私は駅へ向かうつもりであったが、しばらく様子を観ていた。すると彼女がすたすたと私のところに来て、握手をしてくれた。たおやかなお嬢さんの手であった。頼もしい正義派の改革者である。

60年安保反対運動をして以来、右に投票をした記憶は一二度だけ。経営者でもありオーナーで、会社をやっていたことがある。その時も左スタンスを批判された。しかし、会社と言っても零細企業である。別にだれはばかることもなく、左を公言していた。会社は退職し若い人に売ってしまったが、今も生き残っている。

長年抱いた政治の夢が、今回実現する。1960年は18歳か。あれからおおむね50年が過ぎた。

青春の思いは、あと数日で実現する。日本にとって本当の戦後が始まるのである。気を引き締めてやってもらいたい。彼女なら実行できると希望をもった。

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2009.08.24

8-182 キリスト教の神は天主と直すべし その39


老人になっても、まだまだ教えられることは多い。

先日、教会に行くとき、少し時間ができたので、いつものようにあるギャラリーに寄った。オーナーが水を撒いている。魅力的で小さなギャラリーは、都会のオアシスである。並べられた芸術作品は、いつでもどれも力作である。さっと観てから、教会の夕拝に間に合うように行くのが、祖父ネットの趣味。

そんな中でも、時々は雑談もする。顔なじみになったので、宗教の話や家系の話になった。近くに小堀遠州の墓を守るお寺があるので、ご紹介してみた。オーナーは芸術家でもある。日本を代表する建築家小堀遠州は特別の人であろうし、茶人でもある。そんなことからメールを交換することになった。お寺の住所を書いて送ったのである。

いつもの祖父ネットらしいお話は、これから。

ちょっと失礼とは思うのであるが、そのまま差し支えない範囲で、そのメールの一部をコーピーしてみよう。

「今夜の NHK教育で、近江のアメリカ人の建築家の設計した家は
昔の我が家の様で(それほど立派ではなかったのですが)
懐かしく見ました。彼はキリスト教の宣教師から,建築家になったとか。
心安らぐ家々は、本当に素敵でしたが,ご覧になったかな?と思いますが。」

この一言であるが、宗教の霊的なやり取りを感じる。

これを書いているパソコンの脇に、ある本がある。「失敗者の自叙伝」初版昭和45年、近江兄弟社刊 という本である。作者は一柳米来留という人、元アメリカ人の日本人。帰化しているアメリカ人である。アメリカ人である名前は「William Merrell Vories」、有名なメンソレターム(ある事情から最近はメンタームという)を作った人。

祖父ネットが勉強した明治学院の、現存する礼拝堂の設計者、当人もそこで結婚式を挙げている。その脇には島崎藤村の碑もある。ギャラリーのオーナーのメールにある「昔の我が家」とは、ヴォーリスさんの設計した家である。実はヴォーリスさんのことは詳しい。

いつもの単なる偶然であるが、祖父ネット流に言えば、天主の采配である。感謝この上もない。こんど住んでいたという住宅のお話を、ゆっくりとお聞きしたいと思っている。

このようなことを天主に感謝という。

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2009.08.22

8-181 キリスト教の神は天主と直すべし その38

主の恵みによって、今日も朝を迎えた。

昨日の冒頭の言葉は「天主」、今日は「主」である。キリスト教徒にとって、こういった言い回しは、「主」が多い。天主と表現する人は少ない。それより、「神」のお恵みにより今日も朝を迎えた、といういい方が一番多い。

8−180では、自分の名前から自分というものが、いかに弱いものであるかを説明しようと思っていた。「巳、已に、己」という漢字を並べてみると、この「mi」という名に使われる関連の漢字は判別しにくい。子供が覚えるために、命名者の祖父は「Mi wa takaku、 sudeni nakaba ni narinure do 、 Onore o hikuu suru wa yoshinari」と教えてくれた。この教訓を含んだ「漢字の読み方の歌」の中には、文語調関西調が混じっている。祖父は関西の人、四国で明治21年に生まれた。わたしが初孫で、聖公会の信者でもあった。

こういった歌をわざわざ教えてくれたのは、「mi」が書きにくく、判別しがたい漢字である、ということであろう。

意味は「己に勝つこと」である。わたしの「mi」は、巳年の巳ではなく、己(おのれ)という字を巳(み)と読ませる。謄本はそうなっている。ただし、昔は謄本も人が書いたから、やはり曖昧になりがちだ。現在の謄本はワープロだから、「mi」は「己」となっている。「カツ」という字に「克」を当てられた人もいる。ただ、アメリカと戦争でも始めようなどという時、「勝」にしたのだろう。

己に勝つことは容易なことではない。それを見越したネーミングは、見事に成功した。信仰にすがる人間になった。旧約聖書によれば、蛇がエバをだまし、アダムに禁断の木の実を食べさせる。ここから意味をとれば、「巳年、へびどし」つまり「hebi」に勝つ、誘惑に勝つ、という意味にも取れる。これもクリスチャンらしい命名である。ただし、戦争はアメリカに負けた。

子供のころから名前の漢字書きには手こずったが、感謝している。見事に自分に相応しい名前である。

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2009.08.20

8-180 キリスト教の神は天主と直すべし その37

天主の恵みによって、今日も朝を迎えた。

祖父ネットのキリスト教信仰は、特に篤いというものではない。だからといって、薄いとも言えない。が、なにせ小学校から日曜日には教会学校に通い、今に至るまでキリスト教にこだわっている。自分で言うのもおかしいのであるが、その宗教的忍耐力は見上げたものである。

しかし、この宗教的スタミナは、強いから持続したのではない。持続したのは弱いからである。祖父ネットの名前は「Katsumi」であるが、親からいただいたこの名前を、今は大いに気に入っている。この名前こそ、自分の弱さを説明するのに、もってこいの名前である。

子供のころ、いよいよ小学校にでも入るかという時、漢字と出会うことになった。ここで自分の「mi」の字が、いかに書きにくい字であるかを経験する。要するにそれは、「巳」と言う字に似た字が、三つあるからであり、書く時に字が安定しないからである。

今ではワープロがこのように普及しているから、あまり問題はないが、その分、役所などは結構うるさくなった。それは「みどしのみですか」とか「おのれですか」などという。これで二つであるが、もう一つある、それが「すでに」という読みである。

二三年前、中国行った。その時インフルエンザ流行の後で、交通機関は随分と神経質であった。フト、バスの運転席の脇に、この車両はすでに消毒済みです、という意味の言葉が書いてあった。この「sudeni」を見つけた時は、特にうれしかった。「已に」という「mi」の字に似たこの言葉を、日本ではそう見かけるものではない。本などを読んでいて、時々フト見つけることはあるが、まずない。

と、こんな調子で漢字に、生まれて初めて接したのが、信州の当時は片田舎の小学校である。今では近くに新幹線も止まるから、片田舎ということではないにしても、ローカルという言葉はその分ピッタリくる。浅間山の見える美しいところである。

ところで、冒頭に書いた日曜学校の場所は、東京である。小学校3年のとき上京した。場所は赤坂、華やかな場所だなどと言うまでもないが、TBSの近く。この大移動は田舎育ちの子供にとって、恐ろしく刺激的であった。当時はまだそこは料亭が山ほどあった。

時に已(sudeni)に、自分の名前「己」は正確に書けていたと思うのであるが、定かではない。

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2009.08.19

8-179 キリスト教の神は天主と直すべし その36

老人の朝は早い、とよく言われる。

祖父ネットも5時に起きる。起きて空を見るのは、人生の楽しみだ。少し秋の気配が感じられる。ベッドの脇に朝日が入るようになった。冬になると豊かな太陽が入る。

ベッドは道と川の脇にある。大雨になると凄まじい勢いの川が、轟音を発する。龍となって建物を揺るがす。1時間に100ミリ程度が、この川の防衛限界として設計されている。最近では日本でも、この限界の記録的な雨が報じられることがある。地球温暖化が原因であるが、それにしても地球極点の氷解は、恐ろしい風景である。ときどきニュースになる。

自己の崩壊と、人類最適地球環境の崩壊を見つめる日々であるが、どちらの崩壊が先か。なにも地球が消える話ではない。人間存在が脅かされる話である。地球の生命は何億年、宇宙の生命はそれをはるかに越えている。太陽の何億倍のエネルギーを有するブラックホールがある、と言われる。ウィキペディアで読んだ。用語はまるっきり分からないが、宇宙の膨大な仕組みに、はたして天主がいるのだろうか。

それにしても、ブラックホールという最新科学の用語も難解であるなら、天主というキリスト教用語も難解である。現代人は宗教で解するものも難解になり、科学の最新用語も難解である。どちらにしても難解に違いない人間生命について、古人(inishie-bito)の深い洞察と伝統を尊重するのが、宗教。最新の用語、思想を用い、宇宙の秘密に迫るのが科学である。

はたしてどちらが、自己の生命にとって有益であるか。それにしても今朝も、このように一編のブログを仕上げたので、「ヘブライの神/旧約聖書における一神格の肖像」B.ラング著、加藤久美子訳教文館刊を読むか。ほぼ半分を読み終わっている。読み終わってから、古人をここに書いてみたい。

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8-178 キリスト教の神は天主と直すべし その35


以上の題で35回書いてきた。

書きながら、日本語として一般化した「神」という字が、いまさら「天主」になる訳もないという、あきらめの心境である。せめて、自分が聖書を読むとき、はたまた神学書でも、天主と読み替えて読む程度。

それにしても、今では「神学」という訳語になったセオロジーを、ヘボンさんは「神理論」と訳した。名訳だ。だから、あまたあるキリスト教の書物を読むとき、「神」や「神学」と言うより、「天主」や「神理学」に読み替える。

このように、天主や神にこだわるのは、キリスト教の信仰を少しでも多くの人に知らしめたい、という気持からである。老人だから大人しく本でも読んで、静かに死んでいけばいい、と思うこともある。しかし、ともあれブログを書いて、ここまで達したのである。ブログに書かなければ、こんなことを思いつかなかっただろう。ただし、キリスト教の信仰の対象を、「神」といい「天主」というも、別にその内容が変わるわけではない。神学も同じである。

老人になりきってみると、つくずく天主の加護や恵み、永遠の生命罪の赦しなど、何とも頼もしいことと、気ずく。老人である自己が、限りなく弱体化していくからであろう。キリスト教は弱者の宗教である。

人にとって、宗教は堅固な外周である。いわば砦だ。ただ、衰退する中心部にある自己が消滅せんとする時、外周は中心から乖離するばかり、とも感じられる。弱体化がますます現実化する老人とは、なるほどこういったものか。とすれば、減少しつつある円の中心にある自己は、天主の恵みの実体が中にあるはずだ。これによってしか、自己と天主の乖離は防げない。キリスト教の救いは、あくまでも収縮する自己の内部になければならない。

これは宇宙創成と言われるビッグバンと、一致するのだろうか。すなわち収縮する宇宙である。生命の秘密は、宇宙のメカニズムと深い関係があるように思える。消えつつある自己の小なる生命も、その大なる宇宙の一部であるからであろう。

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2009.08.17

8-177 キリスト教の神は天主と直すべし その34

明治時代にヘボンさんが訳した聖書の、「神」に関し書き続けている。その「神」に連動し、「神学」という訳についても気になり始めた、と書いた。

聖書を日本語に訳す時、ヘボンさんは東洋語のなかで、特に日本語は中国語の影響が強いことを知っての来日である。日本語であるから、ゴッドの先行中国語訳「天帝」「天主」という言葉が、日本語に存在するかどうか調べたと思う。しかし、特に「天皇」を全面に押し出して、徳川政権に替える政治情勢は流動的である。天皇と天帝、天主では微妙すぎて、少しまずいと思ったのかもしれない。彼は自分たちの、複雑なアメリカ史を熟知した人であるから、そう簡単に日本の政治が安定するとは思っていない。そこで、「神」を選んだのか、どうか。

これは当時の、キリスト教宣教師全般の意識であって、政治情勢に配慮しながら宣教したに違いない。切支丹時代に、非常な目にあったカトリックは、特に慎重であったと思う。正教はロシアから渡来して、北海道を足がかりとする。北海道から政治の中心地「東京」を観察していたのであろう。

明治維新を中心に、キリスト教諸派の動きを学ぶことは、実に面白い。それは日本史を中心とする、世界史の面白さに通じるからである。今だにその面白さは減じることはないばかりか、ますます興を加えてとどまることを知らない。

そんな中、ヘボンさんが創った明治学院で、卒業生を中心にした勉強会が行われる。今年のテーマは「ヘボン、島崎、賀川」という三人の人物を取り上げる。祖父ネットはすでに申し込んだ。講座は全11回、9月26日に開催され、12月19日までの土曜日を当てて行われる。

多分、講座後の祖父ネットは、一層面白いことが書けると思う。そこで、ついでに余計を書くと、祖父ネットが高校生で洗礼を受けたときの介添人は、山本良次さんという長老である。彼の父上は、ヘボンさんと一緒に働いた人。また、高校の時の国語の先生は、島崎藤村を構内で直に見たことのある人。また、賀川豊彦が亡くなった年に、祖父ネットは大学に入った。だから、三人とも祖父ネットにはさほど古い人ではない。が、当人が大いに古くなったことは認めざるを得ない。

明治学院で10年に渡り教育を受けると、祖父ネットのような人間も、たまには出来るのである。成績はいたって悪い方であったが、それは宗教などに興味を持ったからだと、今は心から感謝している。

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2009.08.16

8-176 キリスト教の神は天主と直すべし その33


キリスト教のゴッドが、日本語で「神」と訳され、それが世界の言語界でも、日本語のそれは「神」であると一般化した。

ヘボンさんたちキリスト教プロ天スタント宣教師たちによって、訳されたのである。カトリックの訳「天主」が出遅れたのは、切支丹弾圧の経験が、古くから正確にバチカンローマに伝えられていたからである。そのため、再びそのような経験を繰り返さないために、カトリックは慎重に、日本の革命(明治維新)の様子を眺めていたのであろう。

ロシアにあった正教は、どうしていたのであろう。ニコライさんは聖書を訳すとき、やはり漢文の分かる日本人学者を雇っている。中国語の先行聖書を参考にしたのだろうか。正教には正教の立派な日本語訳聖書がある。ただしそれも、「神」となっている。ヘボンさんたちプロテスタントの先行聖書を、参考にしたに違いない。

昔々、大昔、大和朝廷の中に漢字がもたらされ、政治や行政機構に中国式が入り込んだとき、「仏」ももたらされた。神々の世界に「仏」という漢字で、新たな宗教が入ってきたとき、どのような混乱と困惑があったのだろうか。

大和言葉には字はない。その世界に侵入した漢字なのであるが、「仏」はもともと日本にない概念である。発祥はインドである。それが中国に渡り日本に入って来た。日本人の「かみがみ」は、どのように反応したのか、考えるのは興味のあることである。それもただ入ってきたのではない、「仏」という漢字とともに来たのである。まったくの新語を理解するのに、なにがあったのか。聖徳太子一族は絶滅されたと言うが。

ヘボンさんは、ヘボン式ローマ字の考案者でもある。それを使って彼はいち早く、日本語のローマ字化を世界に発信した。そのため、外国語の世界地図などで日本の地名を書くと、すべてヘボン式である。今さら訂正のしようもない。そのあと、日本式訓令式など、日本人が発音しやすいローマ字が、日本人の手で考案されたが、世界には通用しない。そうこうするうちに現代になって、ワープロや携帯電話ができた。もはやなに式であろうと、ローマ字入力は重宝されている。祖父ネットなどは、ヘボンさんの創った学校の生徒だったから、すべてローマ字入力であるが、もちろんヘボン式である。

そのように特に宗教では、一番大切な崇拝対象を外国語で定めるのは容易ではない。先行的なものを、一種の習慣としてならされていくのであろう。その代表が「神」である。それで聖書を読むのも、習慣にするといいと言う人がいる。なるほど宗教とは習慣の一種であろう。西洋ではキリスト教が長い伝統の下で、習慣として定着し形を変えつつ今日ある。

それならば日本における習慣は、まず「神々」であり、次に「仏」であろう。キリスト教の神が習慣になっているのは、クリスマスである。クリスマスは、キリスト教の「神」(天主)の誕生日のお祝いの日である。しかし、習慣ではあるが、あまり宗教的ではない。宗教を習慣にすると、惰性と言う危険もない訳ではない。どちらがいいのか、それは各自の問題であろう。

日本の宗教のメニューは、新興宗教も含め今やで出そろった。が、キリスト教の「神」は、一神教をよく表す「天主」と言い習わした方が、今の祖父ネットにはぴったりとくるのであるが。

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2009.08.15

8-175 キリスト教の神は天主と直すべし その32

キリスト教における日本語としての「神」を決定的にしたのは、ヘボンさんたち明治初期の、プロテスタント宣教師たちである。それ以前、1600年前後の切支丹宣教師は、自分たちのいわゆる今で言う「神」を、「神」と訳せず(訳さず)に原語主義を通した。だから切支丹になった日本人は、「原語」(例えばデウスなど)でキリスト教の「神」を信じた。

このような原語使用で生じる宗教的精神的な問題を、今まで取り上げた書物を知らない。当時の信仰生活を表すのは小説が一番であるが、どの小説も、原語使用による精神生活を書いていない。すべて日本語で訳した「神」で書いている。切支丹大名などは、落款をローマ字で作った人も少なくない。いわゆるキリスト教式の名前さえもらっている。千葉の国立民族博物館には、ローマ字書きの実物が陳列されている。それなどを見ると、日本の武士が、よくここまでやったものであると感心する。しかし、それは当然のごとく不幸な結果になった。

切支丹は迫害され、ことごとく闇に葬られた。しかし、それによって日本の伝統文化は守られ、また継続されたのであろう。迫害は凄惨を極めたが、日本人も必死だったに違いない。当時の人に、原語で受け入れられたキリスト教の「神」は、原語ゆえに、日本の神々や仏と決して習合することはなかった。

先年、和歌山県の新宮市を尋ねた。ちょっとした知り合いがいる。その知り合いは、明治時代の大逆事件に関係した人が親戚にいる。事件では、仏教徒も検挙され刑死している。クリスチャンでは、大石誠之助が有名で、その大石の縁辺である。その中の一人が神々派である。彼が「今さら他国の神様でもないだろうに」と言ったとき、確かにと思わず同意した。新宮には、そんな有無を言わせない雰囲気がある。

祖父ネットも今なら、いえいえキリスト教が「神」と言わず、「天主」と言えば、少しは混乱が防げますと答える。が、まさかキリスト教の「神」が「天主」になり得るなどと、その時は夢にも思っていなかった。いわゆるキリスト教で言う「神」は、日本語や中国語韓国語とも、複数存在することを知らなかった。

その上、一神教であると言われるキリスト教ですら、昔々大昔、その発展の当初においては神話であり、さらに神々である、ということをある本から最近知った。

ラング氏が書き、加藤久美子氏が訳した「ヘブライの神」教文館刊である。今読み続けている。当然と言えば、あまりにも当然の話であるが、ただここまで実証的に書いた書物はめずらしい。力作である。

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2009.08.11

8-174 キリスト教の神は天主と直すべし その31


ヘボンさんが、今では言葉として定着した「神学」を、「神理学」と正確に訳したのは、おおむね150年前である。

明治期日本の聖書を翻訳したのも、主にヘボンさんたちプロテスタントの宣教師である。明治維新以後、いち早くできたその聖書によって、今の「神」は「神」に定まってしまった。中国語の先行聖書を参考に、日本語聖書を翻訳した時、そこに神が「天帝」とも訳されていることを、彼らは知っていたのである。中国では、「ゴッド」翻訳問題が紛糾したにも関わらず、日本では一切問題にされなかった。プロテスタントの宣教師を中心にした翻訳委員会であり、カトリックも正教も参加していないからである。当時ではそれは当然のことであった。

忘れてならないのは、当時は三者ともバラバラで、歴史的事情で反目していたということである。一冊の聖書を共同で訳す、などと考えてもいない時代である。もちろん自分達の聖書翻訳をするために、他派で訳された聖書を密かに参考にしたに違いない。

カトリックには浦上天主堂など、「神」を「天主」と呼ぶ習わしが古くからある。今の中国語聖書にも二種類の訳、「天帝」版聖書と「神」版聖書が現実に存在する。キリスト教専門店である教文館はもちろん、総合店であるジュンク堂さんでも置いてある。今、祖父ネットの手元にもある。もちろんすでに書いたように、カトリックには素晴らしい文語体の天主版聖書がある。

こんなことを勉強し考えていると、「神学」という言葉が急に気に入らなくなった。セオロジーはその英語である。が、どう見ても「神学」とは訳せない。セオロジーはセオリーの派生語ではないか。そうだとすれば、セオリーとは論理のことであるから、教義学ではないか。神学というと、偉そうな感じがする。何か特別な神の学問なのか、と錯覚を起こす。神の学とは随分と高邁であるが、あり得ない学問対象ではないか。もちろん論理学は学問である。だから、神をまたは天主を論理的に扱うことは問題がない。ただ、我々常識人が学問というとき、それは経済学、医学、天文学、建築学、生物学などであるが、この中に神学を入れる訳にはいかない。

ヘボンさんはこのことを十分に知っていた。その証拠が、彼がセオロジーを訳した「神理学」が正確であるからである。彼は彼の作った本格的な和英辞典「和英語林集成」第3版1886年(明治19年)講談社文庫版に、次のように書いた。

Shinrigaku シンリガク 神理学 n. Theorogy, divinity.

セオロジーとは、まさに今の「神学」のことである。ここで問題は俄然大きくなる。だれが一体、ヘボンさんが正確に訳したセオロジーの「理」の字を捨てて、大げさに「神学」としたのであるか。ゴッドを神としたなら、素直に神理学とすべきであり、天主としたならば、教義学と受けるべきであろう。なぜこうならなかったのであるか。

この実体とは一体なになのであるか、今は調べる何の手ももっていない。しかし、いつか解明する。

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2009.08.06

8-173 キリスト教の神は天主と直すべし その30

ホテルからスイスアイガー山を観る朝は美しかった、という思い出がある。

そのスイスに、聖書翻訳者ヘボンさんも旅をしたのである。明治初期日本で聖書を訳し、日本と言う異文化と接触しながら、疲れた体を癒しに行ったようだ。祖父ネットもスイスから帰り、書物からそれを知った。ヘボンさんが創った明治学院の高校生の頃、近くの書店である本を買った。

「カルヴァンの人間論」である。T.F.トーランスという人が書いた本で、1957年(昭和32年)泉田 栄氏の翻訳で教文館から出版された。定価280円のその本を今ももっている。原文は「CALVIN'S DOCTRINE OF MAN」1949 London

そうはいっても古い話なので、始めにもっていたものは古書店に出した。どうしてもまた想いがつのり、改めて古書店から購入していたのである。その冒頭のカルヴァンの言葉は、次のようなものである。

「人間の真の自己認識は、人間の神認識の反映である。」

老人になった祖父ネットが書けば、さしずめ「人間の真の自己認識は、人間の天主認識の反映である。」となる。書店で本を買うか買うまいか迷っているとき、横から顔をのぞかせた同級生がいる。今カメラマンの永谷氏である。「なにを読んでいるの」「これ」「うーん」。それがきっかけで買った。

この本が一生、わたしを支配した。冒頭の言葉が「わたし」を決定したのである。その言葉をたよりに生きてきた。人間とはそういった存在である、と何となく決めてしまった。実に何度も読んだ。祖父ネットは本に書き込みをする。その時からの癖で、今だになおらない。書き込みの多い厄介な本を、ただで引き受けてくれるのが池袋の「往来座」である。余計を書くと、そのご主人の祖父が、明治学院構内のヘボン像の作者であるから、嘘のような話と言うべきであろう。往来座にふらりとよったのは、会社が近かったからに過ぎない。


で、スイスに行った。カルヴァンの教会をどうしても見たかったのである。そのついでにアイガーを観た。その北壁は、登山紀行に興味のあったものにとって、深いロマンがある。厳しいアイガー山の偉容は、まさに宗教改革者カルヴァンの精神と一致するように思えた。

そのスイスから今朝メールが入った。8−172でご紹介した「ヘブライの神」の訳者加藤久美子氏からである。スイスで祖父ネットを見たのである。

天主のなされようは、わたしにとってまさに言葉がない。天主こそ、私たち人間の決定者である、ということしかここでは言いようがない。主の栄光、とよく聖公会ではいう。

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2009.08.05

8-172 キリスト教の神は天主と直すべし その29

このような興味のさなか、ピッタリの書物が今日出版された。

B.ラングという方が書き、加藤久美子氏が訳している。出版したのは教文館、早速入手した。題は「ヘブライの神/旧約聖書に於ける神格の肖像」である。この場合の「神」であるが、天主問題をここまで考えていると、この本の大意は理解できるように思えた。加藤氏の解説を先ず読み、その結果分かったことがある。その大事な一つは、旧約聖書の理解には、ユダヤ教の経典としての理解と、キリスト教の経典としての理解の二つがある、ということである。

この本で加藤氏が訳した「神」は、祖父ネット流に言えば、ユダヤ教の旧約聖書の神である。それを一言で言えば、ヘブライの神は「神」であり、キリスト教の神は「天主」であるということである。または神から天主へ、つまりユダヤ教からキリスト教へ、という宗教上の歴史を背負っている、ということをラング氏は書く。だから、何でもかんでも神を天主と書けば良いという訳ではない、と言うことを教えられる。

ラング氏はドイツ人である。著書は始めドイツ語で出版され、次に自ら英語で書き出版されたようだ。ラング氏がドイツ語と英語を良くすること、また加藤氏が同じくドイツ語と英語を良くする、ということが解説から理解できる。多分ラング氏が英語でこれを書いたとき、神は「ゴッド」なのであろう。それを加藤氏は当然「神」と訳したのである。

しかし、それがキリスト教の「神」に至ったとき、それは「天主」と訳した方が、祖父ネットとしては内容が明確になる。単に祖父ネットの主張である。著書の264頁から始まる「第二の神になるキリスト」で、それは示唆されている。

これからじっくりと読んでいきたい。ラング氏は1946年生まれ、加藤氏はさらに若い。加藤氏の先生がラング氏で、ラング氏は祖父ネットより若い。実を言うと、加藤氏は祖父ネットのヘブライ語の先生である。それで彼女がどれほどの才媛であるか、祖父ネットがよく知るのである。ただし今回の出版に就いては、教文館のメール広告で偶然知った。

ここで最後に、単純化を恐れずに書くと、ユダヤ教で神が形成される実体は多神教的であり、キリスト教として完成する一神教が、いわば「天主」だと言うことである。つまりどちらにしても、社会学的に理解されうる「神」ということであるが、特に信仰的に見ても問題はないと思う。むしろ社会学的理解の上に立った、冷静な「神」理解が成り立つということを論じている。

ヘボンたちプロテスタント宣教師が、明治初期「ゴッド」を「神」と訳して150年、「神」は普通名詞になった。それが意味するところのものを、この本は解き明かしている。

ユダヤ人は激しい興亡史の中で、人を救うという複数の「神々」と出会いながら、唯一神たる神を見出し、それがキリスト教を生み出す素地になった。日本人は穏やかな孤島の中で、「神々」を守り通した。そういった日本人の歴史に、いよいよ本物の「神」ないし「神々」を、考えざるを得ない時代がやってきたのではないか。

世界が激しくさらに接触する時、指針を示す書と言ってよいと思う。

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2009.08.04

8-171 キリスト教の神は天主と直すべし その28


前回170で、神に替わる「天主」版聖書をご紹介した。

祖父ネットが好き勝手に、こんなことを言っていると思っておられる方もいるだろうが、そうではない。この「天主」版聖書を発見した時はうれしかった。国会図書館で確認し、ネット検索で神戸の古書店にあるのを発見した。少々高かったが、証拠としても必要であったし、手元に置いておきたかった。旧約聖書だけであるが、四冊ワンセットの力作である。

この聖書の発見には幾つかのルートがある。

その一つは韓国語には神が二種類あり、中国語には二種類の聖書すらある、という発見である。初めそのことを知ったとき、一種のだらしなさを感じた。しかし調べていくうちに、神には二種類または複数の翻訳語があってこそ、その問題をまじめに考えている証拠であるということが分かった。

西洋語の最も重要な言葉、英語で言えばゴッド、これを東洋語に訳すのにそう簡単である訳がない。明治維新以来、「ゴッド」は神と訳されて150年がすぎて主流となったが、もうそろそろ再考する時期なのではないか。

もう一つの決定的なルートは、柊 源一(Hirgi)氏の「吉支丹文学論集」(教文館2009年刊)で、直接天主版聖書を教えられたことである。そこに柊氏が吉支丹時代の聖書の訳と、現代語訳としての天主版聖書(光明社)を比較して書いていたのである。題名は「吉支丹文献に現れた『天主』なる語をめぐってーー明版の天主教書との交渉ーー」(87頁から。)である。

ぜひ日本のクリスチャンの方々が、神に替わり、「天主」という呼称を使用する正しい信仰の下で、日本神道の神を、キリスト教の神から解放して上げるよう願って止まない。

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2009.08.03

8-170 キリスト教の神は天主と直すべし その27


いよいよ「天主」版聖書をご紹介する時が来た。

ともあれ書いてみたい。美しい文語体で ひらがな がふってあるが、ここでは始めにひらがなで読み、その後で原文を書いてみたい。今では「神」としか書かれない聖書にも、「天主」と訳されたものがあった、ということがこれで分かってもらえばいいのである。またそれを現在形で表現し神を天主と読み替えたとしても、別に奇異ではないのである。

創世記第一章
1 はじめに天主あめつちを造り給えり。
2 その地はいまだ形なく、空しくして、やみおおわだの上にありき。しかして天主の御霊水の上をまい動きましつつありき。
3 ここにおいて天主のたまいけるは、「光なれよ」と。すなわち光り成りぬ。
4 しかして天主は光を好しとみ給えり。かくて天主は光とやみとを分ち給いぬ。

以上の原文は下記の通り。

創世記第一章
1 元始に天主天地を創造り給えり。
2 その地はいまだ定形なく、空漠しくして、暗黒洪淵の面上にありき。しかして天主の御霊水の上を旋い動きましつつありき。
3 ここにおいて天主日いけるは、「光明成れよ」と。すなわち光明成りぬ。
4 しかして天主は光明を好しと観給えり。かくて天主は光明と暗黒とを分ち給いぬ。

実際の聖書では、以上が一体で読みやすく、日本語の格調も味わえる。が、このワープロではうまく行くとも思えないので、今のところ試みない。

聖書は昭和29年(1954年)、札幌にある光明社から発行された。この頃から、聖書の文語体を口語体に直す機運が高まるから、多分「天主」も文語体的表現として廃れていったのであろう。

しかし、「天主」が単に、文語体的表現であるとかカトリック的であるとか、という風には祖父ネットには思えない。ますます天主を多用し、神や天主を二つとも適宜使いながら、日本人の信仰生活を神道的表現から分離し、キリスト教的本質に至らしめたいものであると考えている。


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2009.08.02

8-169 キリスト教の神は天主と直すべし その26

キリスト教徒の仲間と、コーヒーを飲む機会があった。

久しぶりのことで、同じ信仰を持ったもの同志は腹を割って話せるとはいえ、実際にはなかなかそうもいかないものである。しかし、今回の仲間は傑物で、一ヶ月ほど前パイプオルガン独奏会を開いた人だ。その気宇は壮大で、パイプオルガンの立派さとマッチして、素晴らしい演奏ぶりであった。いささかの神経では、5000万はするパイプオルガンなど弾けるものではない。設置された礼拝堂は天井が高く、プロテスタントのものとも思えない。その舞台で2時間の演奏をこなしたのである。

話は音楽から教会の現状に移り、現状に深く影響した150年前の誤訳「神」の話になった。驚いたことに、韓国語の「かみ」に当たる語が二つあるということを、その友人が言い出した時である。知っている人はそういるものではない。祖父ネットも最近知ったばかりである。それを受けて中国語でも二つです、と訴えた。ヘー、ということになったが、さらに日本語は一つですね、いや二つありますと。その一つが「天主」であると。

日本語でキリスト教の「神」は、一つしかないと思っている人は多い。神を天主と書いてある旧約聖書もあるのだが、今は知る人も少ない。聖書すらありますと話すと、ええ嘘でしょう、ということになった。いえ本当です、ただしカトリックの聖書ですが。

そのカトリック聖書も、いつか今のように共同訳で「神」になってしまった。なぜでしょう。そうですね、多分ーーーー。切支丹時代の悲惨な事件が影響しているのでしょうと、普段推定していることを話した。

そこで仲間には次の資料を渡そうと思っている。
一、神が天主になっている旧約聖書の「創世記」冒頭のコピー
二、前島潔著の「日本に於ける基督教用語「神」に就いて」、立教図書館からコピー
三、「『ゴッド』は神か天帝か」 柳父 章著 岩波現代文庫

実際若いクリスチャンなどにも、ぜひ分かってもらいたいと思っている。日本に於ける150年間のキリスト教の「神」理解は、沢山の悲劇を生んだのではないか。欧米ではこの区分はないはずだ。カトリック、プロテスタントとも、英語ならばすべて「ゴッド」であろう。西洋語を東洋語に訳す時の、最大難関と言ってよいと思う。

キリスト教界ではやっと「神」に統一できたのに、今さらと言うかもしれないが、わたしは「天主」の方が正しいと思っている。ブログのお陰で、このように主張できる。もしブログがなっかたとしたら、このような素人主張など、一切無視されたであろう。

時代は変わったのである。信仰が民衆に取り戻されたのである。


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2009.08.01

8-168 キリスト教の神は天主と直すべし その25


耐震偽装事件で、官公庁の検査にこそ問題ありとした訴訟は、訴えた側の完全敗訴に終ったらしい。今朝のネットニュースで見た。偽装者側が官公庁の手抜きとして、50億近くの賠償金を要求していたのである。

その件に関し、前回に登場してもらった友人とさらに話した。彼は建築構造設計家である。新興宗教の信者でもある彼は、その合理主義的頭脳と神秘主義的頭脳がどう同居しているのか、わたしの興味のあるところであった。彼によれば日本の耐震基準というものには、さしたる基準はなく、建築基準法の基本精神である「国民の生命財産の保持」(同法第一条)以外の科学的根拠などない、というのである。

建築物と地震との関係はいたって複雑で、まるで神と人間との関係に似ている。最後はそこまで話が行った。お互いに宗教に興味があるからであろう。

ただ、話はここからである。

この神と人間というところの「神」であるが、祖父ネットは「天主」と読み替えている。つまり祖父ネットでは天主と人間の関係、と言っているのである。友人は「神と人間の関係」と言い、わたしは「天主と人間の関係」という。この違いは明らかで、彼は日本の神を言い、わたしはキリスト教の言う天地創造者を言うのである。彼の神は「あるもの」であり、本居宣長のいう「かみらしきもの」である。わたしはまったく違って、天地の創造者この宇宙の第一原因者をいうのである。

こういった彼との違いが明確になったのは最近である。長い間、彼とは建築や宗教で議論を繰り返したが、宗教では噛み合なかった。業界を同じくしていたから、日々の飯のための話は合っても、宗教の話だけはいつも未解決のまま今日至った。それがわたしだけ年金受給者になり、日々の飯の心配は基本的にはなくなった。彼はまだ建築商売にこだわっているが、くたびれたとつくずく言う。

そこで久しぶりに宗教の議論をしたのである。こちらはお陰さまで「神」を整理していたからであろう、彼と宗教の話をしても、「彼の神」と混合しなかった。それはクザーヌスを読む事を奨め、表題の神を天主と読み替えて読むと、キリスト教が分かるよ、と言ったのがきっかけである。本は「神を観ることについて」であり、岩波文庫版八巻和彦訳である。彼は素直に、今の複雑なある仕事が終わったらぜひ読んでみたい、読んだらお電話します、ということになった。

耐震事件以来、建築設計家たちの仕事がやたらに増えて、相対的にお金の問題は一層厳しくなった、という愚痴を聞きながらその日は別れた。

聖俗半々の面白い一日になった。

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2009.07.31

8-167 キリスト教の神は天主と直すべし その24

8−144−23で表題のテーマを一応終わり、それを実行するために、内村鑑三の教文館版「一日一生」を利用していた。しかしここに来て、少し考え方を変えた。表記の問題はあまりにもスケールが大きいため、内村にばかりとどまっていることはできない、と思うようになった。

現在のキリスト教の書物は、「神」という字を使っている。だからこの言葉の悪影響は量り知れない。その重大性を解き明かしていくには、一冊の本にばかりこだわることはできない。

先日、古い友人にあった。彼はある新興宗教に長く関係している。その宗教団体は、一言で言えば神秘主義である。日本の神を中心にキリスト教の神も使い、「神」を宣教している。このように日本の神とキリスト教の神を一緒にし、神だから同じものでありなどと教理を単純化し、簡単に説明する宗教団体が幾つも日本にはある。「神」だから同じである、という言い方は実に乱暴である。しかし、「神」という言葉を使う以上、そういったことが起こるのはやむを得ない。どちらが正しいのかということなど、本質的に何の根拠もある訳がない。憲法の宗教の自由の下に、そういった宗教法人など簡単に組織できる。その際、最も利用しやすいのが「神」である。

ところがここで主張しているように、キリスト教の「神」に当たるのもが「天主」であるとすれば、キリスト教は他の宗教と分離できる。神ではなく天主であるから、同じものを指し示す訳ではない。神と訳されてもそれは当然同じではないが、神を天主とすればそれがより明瞭になる。キリスト教とは、日本の神とまったく別な考え方なのである。別に複雑ではない。言葉一つで、こうも簡単なものかと、実行してみて分かるのである。現に古い聖書であるが、いわゆる今ではすべて神と訳されている「神」を、「天主」と訳している旧約聖書が現存する。わたしの手元にある。

聖書は翻訳されたものであるということを、忘れてはならないと思う。「神」と言うその翻訳語が間違っているのである。

友人をその神秘主義から離すために、岩波文庫の「神を観ることについて」という本を渡した。読むかどうか分からないが。書いた人はキリスト教中世哲学者のクザーヌスである。本を渡す時、その本の「神」を「天主」に読み替えて読んでもらいたい、と言って渡した。訳した人は八巻和彦氏で、クザーヌスを書いて彼の右に出るものはいない。祖父ネットより若い人である。その彼すら「神」なのであるが、それを「天主を観ることについて」と替えると、八巻氏の言うことが一層明瞭になる。もちろん氏の頭の中の「神」は日本の神ではない。神を普通名詞として使っているのではない。

彼の頭の中の神はキリスト教の神であって、日本で言う神ではないことは当然のことである。しかし普通の人にはそれが理解できない。題名からフト手にすることはあっても、読み始めれば放棄するであろう。日本人が期待したようには話が展開しないから理解できないと思う。キリスト教信仰に依ってこそ分かる書物であるのは、それが神理解の違いに基づいているからである。彼の本は「天主」と読み替えてこそ全部理解できる。信仰とは別であるが、考え方としては理解できる。

キリスト教の神は天地の創造者、すべての第一原因者として理解してこそ、初めて理解できる神である。だから天主と訳した方が適切である、と言っているのである。

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2009.07.29

8-166 天主と書く「一日一生」 27


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月27日(本文33頁) 

☆ 聖書の引用箇所/テモテヘの手紙二第四章三節〜五節
だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。

そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれていくようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。

☆ 内村鑑三の解説
宗教というものは人類と天主との間の関係を明らかにするものであって、これを世に伝えることは人類を最も幸福な地位に立ち返らせるものだから、この教理を世に伝えることは、実に善の善であって、博愛事業のうちこの事業に勝るものは他にはない。伝道は仁人君子の職(つとめ)であり、これに勝る業を私たち自らの思想中に見出すことはできない。

今伝道をもって人類を天主に立ち返らせる事業とすれば、その区域は実に広くかつ大なるものである。

言語によって教理を説明するのはもちろんその方法の一つである。けれども説教または筆硯(ひっけん)の業によって伝道事業の大部分または全部とみなすのは、大いなる誤謬といわざるをえない。伝道の要はすべての方法をもってすべての人を天主に立ち返らせることにある。

★祖父ネットの解題
この箇所を現代人である祖父ネットが読むと、二つの感想を得ることができる。

一つは聖書の冒頭にある言葉、すなわち「だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。」というところである。現代キリスト教の問題を言い当てて妙であるが、2000年前に発された言葉とはいえ、あまりにもピッタリである。しかしどのようなものであれ、出発時の斬新な思想もいずれは陳腐化する、という経験上の理由であると思えば、さもあらんということである。

二つ目は、聖書のその箇所を読んだ内村の内心である。この箇所は彼の言葉にしては意外と切れが悪い。それに長くくどい。これは彼の心の中に、いささかの波が立っていることを表している。内村が無教会を宣言したとき、それが「健全な教え」であるかどうか、フト迷ったのであろう。

いかに無教会という考えが、幅の広い深い個人の実存に根ざすものであるか、ということを知らない彼ではない。健全であるかどうか、教会という深い西洋伝統を乗り切る、日本人内村鑑三のサムライ精神は一歩たじろいだのであろう。

伝統キリスト教のもつ重圧な歴史を、彼は十分に知った上で、刀を一気に振り下ろしたのである。一刀両断と言う言葉が、一番この際適切であろう。ここに教会の覚醒はなる。これにより今、教会人は深く反省し、また共に歩く道を見出したのである。

教会人は常にこの言葉の持つ意味を忘れてはならない。

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2009.07.28

8-165 天主と書く「一日一生」 26

内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月26日(本文32頁) 

☆ 聖書の引用箇所/箴言第三章十九節〜二十二節(注、箴言は旧約聖書にあります)
主の知恵によって地の基は据えられ、主の英知によって天は設けられた。主の知恵によって深淵は分かたれ、雲は滴って露を置く。わが子よ、力と慎重さを保って、見失うことのないようにせよ。そうすれば、あなたは魂に命を得、首には優雅な飾りを得るであろう。

☆ 内村鑑三の解説
詩人テニスンの最も注意した問題は、霊魂不滅未来存在の問題であったと言う。故グラッドストーン氏、またこの問題に彼の終生の思考を注ぎ、死に瀕した時、バトラーの『アナロジー』に評注を加え、彼の豊富な観察と思考の結果を世に遺(のこ)して逝(い)った。

政治家であれ、文学者であれ、あるいは商売人であれ、職工であれ、常にこの世以上の一問題を彼の脳中に蓄えておくことは、彼の品格を高め、彼の悟性を明らかにし、彼に俗界の汚気に触れる憂いをなくすために必要である。

★祖父ネットの解題
昨日(2009年、平成21年7月27日)の日本経済新聞夕刊トップに、驚くべき記事が載った。「2時間映像720本分1秒で伝送/光ファイバー容量世界最大/KDDIなど3年後めど」。

今でも十分な性的有害情報が、別に問題もなく世界的に見られる時代である。記事のようになると、性的有害情報とは有害情報ではなくて、平凡情報としてだれも見向きもしない時代になる、ということを意味するのだろうか。我々の興味が性にあるということを、だれも否定できない。

昔も今も性は聖である。生命を創りだし、伝え、伴侶を得る主な目的である。それは優美であり、個人的であり、秘密的であり、密室的である。が、インターネットはそれを商売に利用する。商売となれば、人の最も興味のあるものを利用するのが常道である。ただそれが性に関わる場合、過剰として人の魂をいためることが多い。どのように悪い影響があるかということは、論ずる必要はないだろう。だれ一人として、その誘惑から逃れられない。

映像はこのように悪用されるが、映像が絶対に送れないものがある、「天主」である。ローマ教皇庁システィナ礼拝堂に描かれた「アダムの創造」は、1510年ミケランジェロの作であり、芸術品として至高である。そこに「天主」が描かれている。しかし、それをネット上でいくら見ても、また現場で実際にを観ても、実際の「天主」を見ている訳ではない。絵のモチーフとして描くべきものではなかった、と言ってよいであろう。

「天主」とは見えないものであり、映像として送ることができない世界で唯一の、人間にとって最も貴重なものであるということが、一層分かる時代に入ったのであろう。

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2009.07.27

8-164 天主と書く「一日一生」 25


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月25日(本文31頁) 

☆ 聖書の引用箇所/マタイによる福音書第五章十四節〜十六節
あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置くものはいない。燭台の上におく。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなた方の立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。

☆ 内村鑑三の解説
イエスの弟子は世の光である。文明の先導者である。知識の開発者である。霊光の供給者である。このことについて疑いを抱く者はない。世のいわゆるキリスト教に迷信がない訳ではない。いわゆるキリスト教会なる者が頑迷無智の巣窟(そうくつ)と化したことは幾回もある。

けれども過去千九百年間の人類の歴史において、イエスの弟子が光明の松明(たいまつ、字句異動)を把持者(もちて)であったことは、どのような人であっても疑おうと思ってもできなかったところである。我は世の光なりとイエスは言われた。そして信者はイエスに代わって世を照らす者である。

もちろんイエスのように自ら光を放つことはできないとはいえ、各自の信仰の量に従って彼の光を反射するのである。

★祖父ネットの解題
この箇所ほど内村の文章や聖書が、時代に合っていない箇所はないと思うようになった。青年の頃ここを読んで、随分発奮した記憶があるが。

しかし、今や時すぎて老人となり、いかにこの箇所が自分に相応しくないか理解できる。イエスの光の反射などゼロに近い。ゼロが正確であるが、近ければその量にしたがってという、内村の文章としては正確となるが。その上に大容量の情報社会は、キリスト教会やクリスチャンがいかに不快な行動をしているか、またそうしてきたかについて、一層詳しく知らせてくれる。むしろ人はすべて罪人である、というメッセージの方がはるかに説得力がある。

しかし何事にも両面があるように、キリスト教徒が聖書にあるがごときものであったことは確かであろう。同時にこの道徳的な文言は、歴史の中で生き生きと活動したことも事実である。

はたして人の未来はどのような展開をするのであろう。善と悪、この永遠のテーマは今も我々を直撃している。

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2009.07.26

8-163 天主と書く「一日一生」 24

内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月24日(本文30頁) 

☆ 聖書の引用箇所/ヨハネによる福音書第十四章十六節〜十八節
わたしは父にお願いしよう。

父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。

この霊があなたがたとともにおり、これからも、あなたがたの内にいるからである。わたしは、あなたがたをみなしごにしてはおかない。あなたがたのところに戻って来る。

☆ 内村鑑三の解説
私たちがキリスト信者となったというのは、洗礼を受けてキリスト教会に入ったということではない。また私たちの知能をもってキリスト教の教理を理解したということでもない。私たちがクリスチャンになったということは、私たちがある「聖者」を友としてもつようになったということである。しかも単にある古い記録において、ある理想の人を発見したというのではない。

今活けるある聖(きよ)い友人を発見してその伴うところとなったということである。すなわち私たちは大いなるパラクレートスすなわち「側(そば)にある者」を得たということである。

寂莫(せきばく)の世にあって孤独の生涯を送るのをやめて、大なる「訓慰師(なぐさめるもの)」を平常の友としてもつようになったということである。


★祖父ネットの解題
内村鑑三の言葉のエッセンス集たるこの「一日一生」であるから、これぞ内村という言葉が多い中にあって、この箇所は彼の信仰の特徴をよく表している。それは「無教会」という思想である。明治時代十分な情報もないままキリスト教に接した人たちには、キリスト教と教会の関係を切り離して考えることは不可能であった。また西洋とキリスト教を切り離すことも大変難しかった。

その中にあって天与の秀才は苦しんだあげく、それぞれを見事に切り分けて考えることに成功した。苦しみは砂を噛むようなものであったが、日本思想史の財産となった。それでもイエス•キリストと教会と西洋を切り離して考えることは、今でも難しい。

ミッションスクールで学ぶもよし、クリスチャン家庭もよい、教会の門をくぐるのもよい、欧米に学ぶもよいと思う。ただ大切なことは自分とイエス、自分と天主、天主とイエスとの関係がはっきりしてこないことにはキリスト教は理解できない。

こういった実存的な事を、明確にあの時代に確立したのが内村である。無教会とは決して欧米の産物ではなく、日本が広く言えばアジアが、世界のキリスト教に誇ることができるものである。

これで世界のキリスト教は完成したのである。伝統的教会もよし、またそれに拮抗する実存的無数者のキリスト教もあるとしたのである。伝統的教会の桎梏たる経済問題を克服し、もともと無経費の、天主やイエスの愛を示したのである。

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2009.07.25

8-162 天主と書く「一日一生」 23

内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月23日(本文29頁) 

☆ 聖書の引用箇所/出エジプト記第四章10節〜十二節
それでもなお、モーセは主に言った。「ああ、主よ、私はもともと弁が立つ方ではありません。あなたが僕(しもべ)にお言葉をかけてくださった今でもやはりそうです。まったく私は口が重く、舌の重いものなのです。」主は彼にいわれた。「一体、だれが口をきけないようにし、耳を聞こえないようにし、目を見えるようにし、また見えなくするのか。主なる私ではないか。さあ、行くがよい。この私があなたの口とともにあって、あなたが語るべきことを教えよう。」

☆ 内村鑑三の解説
憂えることはない、汝朴訥(なんじぼくとつ)な青年よ。汝は常に秀才怜悧(れいり)の人に愚者として疎んじられ、汝が世事に長じていないことをもって不用人物とみなされることがある。しかも、全能なる天主はかえって汝のようなものを求め、汝に人間の思想の達しえないような知恵と希望と喜悦とをもたせようとなさる。言うのをやめよ、汝俊才怜悧の青年よ、我は人を統御する才があり、我は世の風潮を観察する卓見があるから、我は伝道師となって教会を組織し教理を伝播しようと。

汝はよろしく伝道師となる念を棄てて他の事業につくべきである。

★祖父ネットの解題
この文章は、明治時代の空気のようなものを感じさせる。日本でキリスト教が生き生きとしていた時代。様々な事業を興し、人々に喜ばれた時代。その時代が去り、今や物質全盛時代となった。純朴は消え、人々は早くから精度の高い情報に接する。

それなのに、たった一つの情報だけ、どこを探してもないものがある。「天主」である。あらゆるものが見えるのに、これだけは見えない。今からはやる動画ネットでも見るができない。古代人はこの「天主」と語ることができた。何とうらやましいことか。単に錯覚であろうか。あらゆるものが見える時代に、たった一つだけ、永遠に人には見えないものがある。

信仰が成り立つ所以である。信仰とは唯一見えないものを信じることに尽きる。

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2009.07.24

8-161 天主と書く「一日一生」 22


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月22日(本文28頁) 

☆ 聖書の引用箇所/フィリピの信徒への手紙第三章八節
そればかりか、私たちの主イエス•キリストを知ることのあまりのすばらしさに、今では他の一切を損失とみています。キリストのゆえに、わたしはすべてを失いましたが、それらを塵あくたとみなしています。

☆ 内村鑑三の解説
病むもよい、私はただ天主の聖意(みこころ)を知りたいと欲する。貧するもよい、私はただ天主の聖意を知りたいと欲する。人に憎まれるもよい。私はただ天主の聖意を知りたいと欲する。

私の不幸の極みは天主の聖意を知りえないことにある。私は疾病を恐れず、孤独を恐れず、私はただ天主に捨てられてその聖意が私に伝えられなくなることを恐れる。天主よ、願わくは私にいかなる患苦(なやみ)の臨むことがあろうとも、あなたと私との間に霊の交通が絶えないことを。

★祖父ネットの解題
内村の生涯から言って、この聖書の言葉に彼がいかに励まされたかが理解できる。明治初期キリスト教を受容して、日本人として苦労した人の一人である彼の苦労を偲ぶことができる。現在にそれを置き換えるなら、苦労の局面は違っているにしても、人生の苦労という点に関しては何らだれもいつも変わりはない。むしろだれもキリストからはなれ、人間の英知にのみ頼る時代であればあるほど、信仰をもち続ける苦労は並大抵ではない。

人は前に進んでさらなる苦労を得、後ろに下がって苦労の跡を確認するのである。それは主から離れたことが原因である、とキリスト教は説明する。いかなる時代になろうとも、キリスト教のこの人間存在の基本理解と、救済理解の説明は今後とも変わることはないと思う。

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2009.07.23

8-160 天主と書く「一日一生」 21


内村鑑三「一日一生」から
(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし聖書新共同訳には著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月21日(本文27頁) 

☆ 聖書の引用箇所/イザヤ書第四十三章十五節〜十七節
わたしは主、あなたたちの聖なる天主、イスラエルの創造主、あなたたちの王。主はこういわれる。海の中に道を通し、恐るべき水の中に通路を開かれた方、戦車や馬、強大な軍隊を共に引き出し、彼らを倒して再び立つことを許さず、灯心のように消え去らせた方。

☆ 内村鑑三の解説
奇跡とはなんであるかというと、奇跡とは天主の事跡であるというまででございます。すなわち人を造り宇宙を造られた天主がなさる業であるというのであります。

人間には奇跡はできるものではありません(特別な天主の援助を得るのでなければ)。なぜならば彼自身の位置が自然界の一部分であるだけでなく、彼は彼の堕落によって彼の能力(ちから)の大部分を失いましたからであります。

私たちは元来天然以上の者でありましたけれども、私たちが天主を離れて自己に頼りだしましてから、私たちは天然の奴隷(どれい)となり下がった者でございます。しかし、天主は己の造った天然を自由にすることができます。

天主が宇宙の運行を早めようが、遅らせようが、それは時計師が時計の針を自由にするのと同然で、何も驚くに足らないことであります。(座談)

★祖父ネットの解題
この言葉は座談から記録されたようである。文章語ではないから、誰かが記録していたのであろう。

内容は旧約聖書の故事を知らないと理解しにくいが、要はすべて天主を信じて生きていきなさい、という意味に受け取ってよいと思う。座談の現場では勿論「かみ」と言ったのであろう。天主の方が意味は取りやすいと思うのであるが、直接内村から「天主」という言葉を聞いたと仮定すると、少し恐ろしいような気もしないではない。「かみ」という表現は「天主」に比べ意味を広くとれるから、その座談会の雰囲気を少しは和らげられたと想像している。

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8-159 天主と書く「一日一生」 20

内村鑑三「一日一生」から

(1997年初版の教文館版を利用しています。原文は現代文に直されています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。理由は祖父ネット8−144「キリスト教の神は天主と直すべし」に書いておきました。)

(内村の文章は、著作権のない日本社会の歴史的財産です。しかし、そこに引用されている日本聖書協会の新共同訳聖書には、著作権があります。が、その利用はごく一部に限られていますので、そのまま利用いたします。)

1月20日(本文26頁) 

☆ 聖書の引用箇所/ローマの信徒への手紙第九章一節〜三節
わたしはキリストに結ばれた者として真実を語り、偽りは言わない。わたしの良心も精霊によって証ししていることですが、わたしには深い悲しみがあり、わたしの心には絶え間ない痛みがあります。わたし自身、兄弟たち、つまり内による同胞のためならば、キリストから離され、天主から見捨てられた者となってもよいとさえ思っています。

☆ 内村鑑三の解説
宗教家は愛国者でなければならない。博愛主義に則(のっと)ると称して、国家の存立すべき理由を解せず、国家の威厳を犠牲にして、外国の宣教師の命(めい)にただ従うようなことは、これは今だ宗教の大義を解していないのである。

真正の宗教家は皆ことごとく愛国家であった。国のためにならない宗教などは、邪教として排してよい。もし天使の形を装(よそ)おう者が降(くだ)ってわたしに一宗教を授けようとし、わたしに告げて「わたしはあなたに宗教を授与しよう。あなたの愛国心を捨て去ってこれを受けよ」と言ったとする。

わたしはその時、彼に向かって言うだろう。「わたしはあなたの宗教を必要としない。わたしはむしろ我が国を守って無宗教家として死のう。わたしの胸中に燃える一片の愛国心、わたしはこれに換わるべき者があるのを知らない。わたしはあなたに用はない。去って再びわたしに来るな」と。

★祖父ネットの解題
新聞などで、アメリカ大統領の演説などを英文で見ながら、同時に翻訳文を見ると、「ゴッド」という原文を日本語で訳さない傾向がある。これは悪い傾向である。ゴッドはゴッドとして、明確に書くべきである。同時にゴッドは日本語で「神」ではなく「天主」と訳してこそ、アメリカ大統領の依って立つ気持ちが明確に伝わる。

それが国民を思う大統領であり、いかに国民を守るかということに帰結することである。人類的である「天主」と、狭い「愛国」との間で苦しむ、ということになるのは言うまでもない。

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2009.07.16

8-158 天主と書く「一日一生」 19

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月19日(本文25頁) 

☆ 聖書の引用箇所/申命記第5章32、33節
あなたたちは、あなたたちの天主、主が命じられたことを忠実に行い、右にも左にもそれてはならない。あなたたちの天主、主が命じられた道をひたすら歩みなさい。そうすれば、あなたたちは命と幸いを得、あなたたちが得る土地に長く生きながらえることができる。

☆ 内村鑑三の解説
聖書にいうところの「天にいますあなたがたの父が完全であるようにあなたがたも完全であるべきである」(マタ五•48)とは天主の絶対的完全を達すべきだというのではなく、天主が天主として完全であるように人も人として完全であるべきだというのである。

完全な馬とは人のように物を言い、人のように思惟する馬をいうのではなくて、馬が馬としての用を完全になすものをいうのである。

したがって人に罪があるというのは、人が人としての完全を欠くということである。キリスト教が義人は一人もいないというのは、このことをいうのである。天主が私を責めるのは、私が雨を降らすことができず、日を輝かせることができないためではなくて、私は人を愛すべきなのに人を憎むからである、私は怒ってはならないのに怒るからである。

☆祖父ネットの解題
この箇所は文句なく分かりやすい。始めはなにを言うのかな、とおもっていると、いやごく普通のことが言われている。こういった人間観の切り口のようなものが、内村の魅力となっている。

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2009.07.15

8-157 天主と書く「一日一生」 18


内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月18日(本文24頁) 

☆ 聖書の引用箇所/イザヤ書第40章28節から31節
あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。

主は、とこしえにいます天主、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れたものに力を与え、勢いを失っているものに大きな力を与えられる。

若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望をおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って登る。歩いても疲れない。

☆ 内村鑑三の解説
思想はすべて実現してその終末に達するものである。

人はその思想の実現を見て、彼はすでに彼の最終期に達したのである。常に若くあろうと願えば、常に実現できない思想を抱かなくてはならない。青年は夢想する人である。夢想がつき利害を知覚するようになって彼は老物と化したのである。常にインポシブル(不可能)を計画する人、常に大改革を望む人、常に詩人的で夢想する人、常に利害の念に疎い人、常に危険を感じない人、これが青年であり、壮者である。

すでにポシブル(可能)を計画し、すでに温和主義を主張し、すでに散文的で実務に着目し、利害の念に鋭く、脚下に注意するものは、その齢(よわい)を重ねたのが幾回であるかを問わず、彼は老物であってすでに廃棄物である。

☆祖父ネットの解題
老物、廃棄物という言葉は祖父ネットに痛い。こうあらんということはすでにないが、目指すものが時々ボケることもある。その目指すもとは「永遠の命」「罪の赦し」である。

それに尽きる、これしかない、と思うのであるが、それをすべての人に伝えるのが、至難の理想であるが。

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2009.07.11

8-156 天主と書く「一日一生」 17


内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月17日(本文23頁) 

☆ 聖書の引用箇所/エレミヤ書15章10節、11節
ああ、わたしは災いだ。

わが母よ、どうしてわたしを生んだのか、国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに、だれもがわたしを呪う。

主よ、わたしは敵対する者のためにも、幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか。

☆ 内村鑑三の解説

私はかつてエレミヤと共に嘆いて言った、ああ私は禍いである、人は皆私と争い、私を攻め、皆私を詛(のろ)うと。けれども今になって私は感謝して言う、ああ私は福(さいわ)いである、人は皆私と争い、私を攻め、私の詛ったので私は天主に結ばれてその救済にあずかることができたと。

人に捨てられるのは天主に拾われることであった。

人に憎まれるのは天主に愛されることであった。

人に絶たれるのは天主に結ばれることであった。

今に至って思う。私の生涯にあったことで最も幸福であったことは世に侮られ、嫌われ、辱められ、斥けられることであったということを。

☆祖父ネットの解題

この箇所は内村鑑三の一生涯を、ある意味で徹底的に表現している。

内村の全著作を読んでみると、その生涯を追体験できるが、普通全部は読めない。その著作は膨大である。しかし、彼の著作のすべてを読まなくても、この箇所だけで十分である、と言ってしまうのは心配であるが、ある意味で当たっている。

彼は幕末に一人のサムライの子として生まれ、その後キリスト教信仰を受け入れた。その生涯はまさにサムライの子らしく、闘いの一生であった。もし彼が16世紀の切支丹であったとしたら、当然のごとく鼻をそがれ、耳をきられ、逆さにつり下げられ、最後には火あぶりにあって死んでいた人物である。

彼は近代の迫害を経験したクリスチャンであった。その信仰のエッセンスがここにあり、すべての人は実は、天主の下で生きることができるというメッセージなのである。あまりにもそれは、現代社会が造り上げる幸福観と異なるので、とても信じることができないだろう。

しかし、真に人間を生かすものは、創造者天主の愛であることがここに書かれている。苦しむときにこそ人は、天主の下で真の人間となる。

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2009.07.10

8-155 「我らの信仰」 その6(最終回)

天下の誤訳「神」を、「天主」にすべきであると主張している。

その目的を果たすために、ブルンナーさんの古い本(1935年刊)、「我らの信仰」を利用した。キリスト教と言う信仰を成り立たせている根本の思想は、それが西洋思想であるということと、本来的にはなんの関係もない。キリスト教が欧米から来たと言われる技術「文明」とセットで解釈されるところに、日本のキリスト教の悲劇がある。その悲劇の根本的な理由が、その崇拝対象に「神」という言葉が当てられたことである。

今ではキリスト教関係のあらゆる本は「神」で満ちており、神があたかも普通名詞のように使われている。普通名詞であるということは、それが世界の人々の共通の「なにか」として「ある」という意味であるが、そんなものは「存在」しない、といっても過言ではない。

キリスト教は文明とは本質的に関係がない。ブルンナーさんは戦後に書いた「キリスト教と文明」
( Christianity and Civilization 白水社刊 2001年 新装復刊版 )の中で、それを端的に説明している。その一部を書いてみよう。ただし、神を天主と書き替えて書きます。

「いずれにしても、天主の国というのは文明の領域をまったく超越している現実なのです。その内実は〈終末のもの〉、つまり、究極的で絶対的なもの、完全なもの、真に天主的なもの、あらゆる人間的な相対性とは区別されるものなのです。

この天主の国の福音は、文化的な価値や社会制度などにいっさいふれることなく(注、聖書において)、そのもっとも深い秘義においてもたれる人間の天主との関係と、もっとも人格的で親密な意味での人間関係に関心をもっています。

しかし、この天主の国の教えは、イエスの教えのすべてであり、最後的なものであって、そこにはそれ以外のなにものも、芸術とか、教育とか、科学とか、社会的政治的な秩序とかいった大切ではあるが、一時的で世俗的ないっさいのものを入れる余地はまったくありません。

それでは、だれもこのイエスの福音から、キリスト教的な真理の基準をえようとするものにとって、何かキリスト教文明論のようなものを企てることなど、いったいどうしてできるのでしょうか。」

以上ですが、つまりこういった、いわばキリスト教の根本的な理念というものを説明するときに、あたかも日本で言われる「神」を、キリスト教の普通名詞として使うこと自体、非常に危険きわまりないことであるということが分かると思います。

ぜひ今からでも遅くないのわけですから、あらゆるキリスト教文章で「神」を「天主」に書き替えてもらいたいと思うのである。
(終わり)

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2009.07.07

8-154 「我らの信仰」 その5

8−150にあるブルンナーさんの「未来」の続きです。

○ エミールブルンナー「我らの信仰」/32編「未来」(213ページ)から

しかしなお、それにもかわらず、この新しいと表現される救いは、古い罪を引きずっています。それは古い罪の中から非常に激しい闘いを経て、やっと現れてくるものです。キリスト者の新しい生活は「罪に覆われた古い人」を通じて発現します。

私たちは確かに天主と交わりをなすものですが、それは罪の古い人を通してでしかありません。私たちは自分たちの不完全を嘆きます。私どもはいつも古い人をまといながら生き、新しい人生を支配している腐敗に悩まされ続けます。私たちは完全を渇望しながら、自分たちが死ななければならないことを知っています。この死こそまさしく古い人に対する、すなわち私どもが今なお引きずり歩いている、古い本質すなわち罪である、と言っていいでしょう。

天主の国は今だ実現しません。故に、私たちは将来を待ち望みます。天主の到来を待ち望みます。もし未来への眺望がないとすれば、ただ二つのことが残るだけです。すなわち、将来とは単なる幻想、もしくは絶望です。

しかし、信仰は未来に向かって開かれている窓です。その「窓」こそ聖書に記録された、現在も生きているとされる天主の姿、イエス キリストなのです。キリストにおいて、私どもに約束された悦ばしい内容であります。それが聖書が福音書と名付けられた理由です。

○ 祖父ネットの解説

読み返してみるとかなり書き替えている。人間の言葉は時代の影響を受ける。聖書もそれを免れないが、時代が変わっても聖書が言わんとしていることは、はっきりしている。とくに「神」を「天主」に書き替えると、ますますはっきりする。それを信じるのがキリスト教徒である。この言葉の採用によって、日本の宗教で「神」「仏」「天主」とを分けることができる。

どれが「正しい」などということは今さら言うべきことではない。人間を救うという目的の宗教は、これで十分そろったと言えるであろう。宗教は人類史の大きな柱である。
(続く)

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2009.07.06

8-153 「我らの信仰」 その4

8−150にあるブルンナーさんの文章、「未来」の続きである。

と、いいながら昨日、面白いことをネットで発見した。「動画」である。
ブルンナーさんと少しテーマがずれるが、「ブログ」自身の動画のことである。ここ祖父ネットは最近ご存知のように、日本語の最大誤訳「神、天主」翻訳問題を書いている。それがいかに深い問題であるかを洞察しているが、穿つこといまいち力不足を感じる。その非力を補う方法があることを発見した、「動画」である。

フトしたことから、動画検索を覚えた。

動画とはもともと金儲け主義のエロ動画、だとばかり思っていた。たしかに世界には驚くべき有害高度な性動画があって、人々の目を楽しませている。それは当然、経済効果が十分見込める商売なのであるが、まともなものではない。度を超していて、年寄りには体によろしくないし、若者には刺激が強すぎて、なにおかいわんや、である。論評困難、とても非才老人の出る幕ではない。

ところが、動画には悪いことばかりも無い。

むしろ素晴らしい利用方法もあった。いま祖父ネットというブログには、動画を貼付けることができると思われる。実験していないので詳しくはわからない。先述のエロネットのことで、自分で動画を利用することは興味が無かった。しかし、確かに説得しようとすることについて書き、さらに動画を簡単に添付できるとするなら、これほど分かりやすいものは無い。もはやそういった時代なのであるか。文章と動画の組み合わせである。文章と写真の時代がさらに進んだ。

で、動画検索「浦上天主堂」と実験してみると、次のような結果があった。

http://www.youtube.com/v/J41G_KsNuiY.swf&autoplay=1

まさか「天主」という言葉が動画でヒットするとは、思ってもみなかった。ところが、見ていただければ分かることであるが、驚くべきことに、いいですね「天主」堂の鐘の音は。
 
つまり、「天主」という言葉は、まだまだ健在であるということを発見したのである。とすれば、「浦上神堂」と言ってしまうと、おおよそ、そぐわない表現であることが分かる。ということから、いかに神が誤訳であるか分かってもらえると思う。

聖書にある翻訳語「神」を、各自が「天主」に読み替えてこそ、本当のキリスト教に達することができる。祖父ネットもいよいよ動画を利用する時期に来たのか、少し研究してみたい。
(続く)

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2009.07.05

8-152 「我らの信仰」 その3


8−150にあるブルンナーさんの文章、「未来」の続きである。

○ エミールブルンナー「我らの信仰」/32編「未来」(212ページ)から

すなわちいったいどうして、こうしたことが起こるのであるか、またどこからこの知識を得るのであるか、という疑問です。この二つの疑問にはただ一つの答えだけがあるだけです。

それはイエス キリストです。これは聖書において知り得ることです。ヨハネの手紙1/1章2節に書いていることは次のようなことです。「この命は現れました。御父と共にあったが、私たちに現れたこの永遠の命を、私たちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのですーーーー」。私たちはこの聖書によって、イエス キリストを知ることになりました。わたしたちは、イエス キリストを知り、それが真実であると信じました。私たちは、それが実際に起こったことであると信じました。

それは、すでに天主が来られておられるということを意味します。ヨハネ福音書1章14節は「言は肉となって、私たちの間に宿られた。私たちはその栄光を見た。」( The Word became a human being . and , full of grace and truth , lived among us . )

イエス キリストは現実の歴史です。

この新しい歴史によって、この世界が失っていた天主の生命、愛が、私どもの罪の赦しとともに新たに取り戻されました。このイエスによって、人は再び天主と相見え、一切を超越した天主の平安を得、天主と人間の新しい生活が生まれたと、聖書は語ります。

救い主であるキリストを首(かしら)とし、人類を枝とするキリストの団体、キリストによって聖められた人々の愛の交わりが、歴史の中に現れたのです。この天主から生まれた新しい生は限りなく、かつ偉大なもの、貴いものであります。この歓喜、力、意志、相互関係、確実な信仰は、キリストによって刷新され創造されました。古い世と自己はことごとく過ぎ去り、すべてが新しくなった、ということを意味しているのです。
(続く)

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2009.07.04

8-151 「我らの信仰」 その2


ブルンナーさんのこの「我らの信仰」が書かれたのは、1935年である。

その年は言うまでもなく、昭和10年である。祖父ネットが生まれたのが昭和16年、1941年である。随分古い話である。この「未来」と名付けられた文章を読んでいると、当時の社会状況が彼をしてこのような文章を書かせたのであると、言えないこともない。

その年の前後、ヒットラーが総統に就任しているし、イタリアがエチオピアに侵入した。すでに満州事変が起こっており、日本の傀儡政権である満州国も成立している。太平洋戦争とネーミングされた戦争は、1941年である、などと言うこともないだろう。それを全体で言えば、第二次世界大戦と名付けられる戦争は、1939年ドイツがポーランドに侵入したことを始めとしている。

何と激しく世界は動いたことか。それが昭和の初めにアメリカで勃発した世界大不況の高らかなラッパの吹奏から、人類史未曾有の悲劇が始まったのである。だからブルンナーさんが聖書をこのように読んだとしても、決して不思議ではない。

ウィキペディアによれば、ブルンナーさんは1889年(明治22年)の生まれである。さすればこの「我らの信仰」が書かれた1935年は、彼が46歳の成熟期の働き盛りである。肉体的な衰えからマイナーな考え方に捉えられる年齢ではない。やはり世界のただならない情勢が、彼の思想に深く影響したことは間違いない。

しかし、ブルンナーさんのこの文章は、私には決して古く感じない。彼がこれを書いた時の背景はともかく、あまりに今にも通用すると思うので、自分としては不気味なのである。

戦後、あの惨禍を乗り越えて高度成長し、世界の経済大国に仲間入りした日本の今の状況は、むろん当時と逆である。いちいち言うまでもないが、日本人は天主の力を借りずに人間自身で英知を傾け、ここまでやってこられたのであると。これは人間性の勝利である、といっても過言でないような気がする。本来ならブルンナーさんの「我らの信仰」で言われた未来の姿など、「改善」を可能にした人間性の前で、敗退したというべきであろう。キリスト教のこのような非現実的な信仰は、あくまでもあのような深刻な事態であったからこそ、人々の共感を得たのであると、言い切る人もいておかしくはない。

確かに、今ではキリスト教は西洋でも後退していると言われている。日本でも信者の数は延びないままである。それに反し、厳しい政治的現実を背負っている韓国では、驚くほどのクリスチャンがいる。キリスト教は、本当に厳しい現実の中だけに通用する宗教なのであるか。これが祖父ネットのテーマである。

ブルンナーさんの文章が生きることは、すでに無いのであるか。私の受けたキリスト教教育は、もはや不必要な、打ち捨てられるべき無駄な教育であったのであるか。古い本を前に、古い人間が自問自答しているのである。
(続く)

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2009.07.03

8-150 「我らの信仰」 その1


今から50年ほど前、明治学院の中学校のとき、エミール ブルンナーさんの「我らの信仰」が教科書だった。その経緯は8−149に書いた。原題は、
Emil Brunner / Unser Glaube/
Eine christiche Unterweisung / Gotthelf Vesiag/ Bern=Leipzig/ 、
新教出版社さんで刊行したものである。手元のものは1958年版で教科書版第6版となっている。
その一部を「神」から「天主」に書き替えてご紹介します。

「未来について」(210ページから) エミール ブルンナー

キリスト教信仰は「天主は来られます」ということを言う点で、ほかのあらゆる宗教と違っています。

旧約聖書でもそれは同じです。また新約聖書で「悔い改めなさい、天主は近づいておられます」とマルコによる福音書第一章が書き、聖書の最後の文章も「アーメン、主イエスよ、来てください」です。未来の天主の支配の告知が、福音です。そして、それは来るに違いない、それが永遠の完成である、というのがキリスト教の信仰です。

今日一番多く失われているものは、希望です。

この希望の喪失は、人々が、天主がやってこられると言うことを信じない、あらゆるところで起きています。天主が来られるということを知らない場合、人々は次のように考えます。世の中は結局、こうしたものだ、我々は現在のままの状態を続けるだけで、ほかに方法がない、と。人々も確かに希望を持っています。しかし、進歩や発展によってもたらされる「改善」を望んでいるに過ぎません。人々は、人間の「健全な心」、またそれと同様の「人類の核心にある善なる力」に希望をかけています。

しかしそれは、本来何も望んでいないのと同じです。

もし私たちが、人間固有の蓄積だけを頼みとし、また能力だけを頼みとするだけであるなら、私たちは滅亡するでしょう。私たちの進歩発展また進化発達は、死および罪と呼ばれている腐敗と堕落から、私たちを救い出すことはできません。私たちが私たちのうちにあるもの、また世界の中にあるもののみを頼りにしていますと、一切は結局破滅するほかはないでしょう。

聖書は私たちに語ります。

「それは違う、われわれはそのようなものに望をつないでいない」と語ります。この世界は「閉ざされた」ものではなく、それは天主に向かって開かれているものです。あなたは閉ざされていない、天主に向かって開かれている、天主があなた自身を開かれるのです。

あたかも解放者が、捕囚の憂き目に遭って憔悴し切っている人々を、再び光明の世界に連れ出すために、城塞の奥深くにある牢獄を打ち破り、その扉を開くように、天主があなたの心の扉を開かれるのです。天主がこの世界に、その扉を打ち破って入ってこられるのです。腐敗堕落し破滅の淵にある被造物のところへ、天主がそれを再び善美な状態に回復するために、またそれを完成するために来られるのです。

天主があなたを救うために、あなたのもとに来られるのです。

私たちがこのことを聞く時、二つの疑問が残ります。
(続く)

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2009.07.02

8-149 ブルンナーさんを書く

明治学院の中学校のとき、ブルナーさんの書いた「我らの信仰」が教科書だった。

勿論、当時よく分かる訳ではないが読んだ。ブルンナーさんについては、ウィキペディアを見てから読まれるとよいと思うので、どのような人であるかは書かない。その本を今でももっている。そして、時々読む。最近、「神」を「天主」に読み替える運動を始めたばかりなので、その線にそって書いてみたい。

ドイツ語は分からないが、ローマ字日記を十年ほどつけているから、読むのにそれほど苦にならない。本では表題の次のページに出典が書いてある。Emil Brunner / Unser Glaube/
Eine christiche Unterweisung / Gotthelf Vesiag/ Bern=Leipzig/
となっていて、次のページにブルンナーさんの文章が英文で書いてある。英文タイプをそのままを印刷してある。

出版したのは新教出版社さん。 現在手元にあるのは1958年版で、古書で購入した。教科書版第6版とあるから、かなりの数が出版されたようだ。あらためて読んでみると、内容はキリスト教を理解する上で、今だ有効である。中学校の教科書だからブルンナーさんも、余りこむつかしい表現をしない。平明で分かりやすい。祖父ネットが日本語の神を、天主に書き替えた方がいい、と主張している例として使うには絶好である。

古い本だから言葉を当時より読みやすくすし、一部をご紹介したい。本は絶版である。国会図書館には保存されているので、気になる方はそこで確認されたい。翻訳の翻訳である。ごく一部しかできないが、キリスト教とはこれ、と分かる文章にしたい。「神」を「天主」に書き替えるので、とてもよく理解できるはずである。

ついでに言うと、祖父ネットは「神学」という言葉が嫌いである。英語でセオロジーであるが、セオスというギリシャ語が、新約聖書の今翻訳されている言葉「神」にあたり、そこから派生したのがセオロジーなのであろう。セオスが日本語で神と訳され、そのまま「神学」などと言われてしまったが、悪い訳である。明治初期の聖書翻訳時、中国語聖書の神をそのまま採用したのである。セオスには他に「天帝」「天主」などの訳があったのにも関わらず。

もし天主と訳されていれば「天主学」なのであるが、これでもしっくりしない。あくまでもロジック(論理)として、信仰を論理的に言い表そうと努めたものだ。学問的近代的な科学とは、まったく違うものである。それが教義学とされずに、「神学」と訳されたために、キリスト教の汗の結晶が台無しになった。

神の学とは、大げさに表現されすぎた感がある。信仰とは心の問題で、科学を連想させる近代客観主義とは相容れるものではない。つれて神学校などというのもやめるべきである。教義学校であろう。宗教なのであるから教義に過ぎない。信じる信じないは、各自の問題で、客観的真理などというものとは別である。それを分かりやすくするために、祖父ネットは聖書の神を、天主に読み替えて読んでいる。

祖父ネットの「神、天主書換運動」の主眼点を述べた。

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2009.07.01

8-148 人間の罪について その三

「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)の最終回としたい。

建築というものが、いかに人間と深く関係しているか、このごろよく理解できる。本にはジュンク堂トークに出席する、駒見宗信さんのコメントがある。彼が「新建築」と言う建築雑誌の記者のとき、村野先生に質問をしたことが書いてある。先生は建築家なのだから、そこらの建築家と違い自由に設計できるのではありませんか、と問う。それに答えた先生の解答は意外。いや99%、お客様の意向にそって設計しています。自由なのは1%です、と。駒見さんはそのとき赤面したとあるが、確かに意表をついている。

文字通りではないにしても、超一流の建築家の答えとして一流だ。建築は勿論社会に必要なものである。それゆえ、どこかそれに関わる人は一種の不遜がある。そういう建築家をよく見る立場にあったから、建築家でない自分には多いに不満があった。日本が高度成長時代、謙虚でない建築家がいかに多かったことか。いやというほど見た。

そんなところから、建物は人間の罪を顕してしまう。街はその建築で溢れているが、どれもこれも少なくとも傲慢の臭いを免れない。制作の内部事情を知らない人にはこれが分からない。が、内部にいるものにはそれが当然分かる。どんなことにも内輪の話はある。しかし、建築の話はスケールが大きいから、あきれることが山ほどある。それをここで「人間の罪」と言った。

人間の罪とは利己主義であり、それ以外ではない。その利己主義が表面に現れるものとして、建築ほどストレートなものは他にない。よく自分はその辺りのことを、建築家に向かっていったものである。飛行機なら落ちますね、と。しかし、いささかの失敗ぐらいなら、建築は落ちないで傲然と建つ。これが怖い。

クリスチャンでもあった村野先生の作品にはそれが少ない。世間はよく知っていた。その先生に文化勲章が当然のように贈られたのである。村野藤吾は寡黙な建築家と言われていた。その内面の披瀝が今回の本の内容である。ぜひ一読をお勧めする。

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2009.06.30

8-147 人間の罪について その二

「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)の続きである。

この本を知ったのはネットである。いつものようにネットで遊んでいて、フト目に入った。若々しい美しいお嬢さんと、「村野藤吾」の名前が目に入った。それは本の宣伝で、前回書いた関係から早速ジュンク堂に行った。内容から言っても、一般書でもいいと思うのであるが、カテゴリーとしては「建築」。ジュンク堂では技術系の本は7階であったか、要するに上の階である。人があまり入らない階、とでも言った方がよいかもしれない。

それでも棚に五六冊はある。上の階にしてはジュンク堂さんでも力が入っている。その熱の入れようには、多少あたりがついていた。7月11日、ジュンク・連続トークセッションで村野先生を取り上げる予定になっていたのである。勿論、参加をすでに申し込んでいて、楽しみにしていた。それと本とが連続しているとは、そのときまったく予想していない。

本を買って読んだ。読んで懐かしいことや、自分のつたない経験が走馬灯のように頭をよぎった。日本を代表する建築家と、しがない祖父ネットでは繋がりようもないのであるが、そこは業界を同じくすること、「先生」も同じ悩みを持っていた、と知った。そこで、書き始めたのである。書くために本をもう一度よく確認した。書いているここは、しゃれたある喫茶店、英語で意味不明なモダン音楽を聴きながら、マックで書いている。

確認していくと、本の編集に関わった駒見宗信さんが、トークセッションの主役の一人であることが分かった。なんと、うれしいかぎり。年を取って、こういう幸せに会えるのである。会場の片隅で、黙ってコーヒーを飲みながら、今でも通用する建築家の生き様を、聞いてみたいと思っている。
(続く)

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8-146 人間の罪について

「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)という本を読んだ。

村野藤吾さんについてはウィキペディアにある有名な人である。さん、と言っていいか迷うのであるが、ここ祖父ネットではすべての人を、粗方そういった呼び方にしている。内村鑑三だけはそれができない。村野さんもそのような範疇の人で、さん付けはやめた方がしっくりと来る人である。が、ここではやはり、さん、と言わせてもらいたい。

私にとって村野さんという人は、二つの顔をもった人である。有名な建築家という顔、もう一つは私の祖父の友人でもあると言うものである。祖父が他界したとき、村野さんが弔辞を読んで下さった。祖父は少し彼より年上で、ともに大阪の建築設計業界で、先輩と後輩という位置づけであったらしい。弔辞は記録が残っていて、その中で祖父に先立たれたので、今度は自分が何かと乾杯の音頭をとらねばならないことになった、寂しいことである、と書いている。祖父の例としてではないが、そのことが本の中にも出てくる。村野さんは名実ともに建築設計業界の顔であった。

先生は日本を代表する建築家である。

今度は村野藤吾さんを「先生」と呼びたくなる。それは、祖父ネットもその業界で飯を食ったからである。飯を食った、といっても祖父ネットは建築家ではない。その業界の片隅で、それなりに呻吟していたに過ぎない。祖父からの流れを自然に引き継いだ職業で、だからこそそれなりに、本の内容は手に取るように分かる。分かりすぎて、どう言ってよいのやら、しばし考えながら書いている。

書くことはいっぱいあるが、先ず表題のことが頭に登った。なぜこのような表題になるのか。それは村野藤吾という建築家の思想には、いかにも日本的なすべての文化が詰まっているからである。深刻な表題はそれに相応しいと思えたことで、詳しくおいおい書いていきたい。

著書はあまりないと言われている。その一部は読んだことがあるが、今度の本は設計図でいえば鳥瞰図で、「村野藤吾」の人格をあらゆる角度からパースペクティブに表現している。その意味で、孫である写真家の村野敦子さんの編集は見事である。身内の甘えを乗り越えて、冷静な判断ができている。流石、写真家として認められた人であり、それでこそ村野藤吾さんの孫として、恥ずかしくない存在である。本に掲載されているモノクロの敦子氏の作品も、見事なものである。

ブログは一編を長く書けない。このあたりが限界であるので、さらに続けたいと思う。

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2009.06.29

8-145 天主と書く「一日一生」 16

内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)

1月16日(本文22頁) 

☆聖書の引用箇所/ヨハネの手紙一第三章、一、二節
御父がどれほど私たちを愛してくださるか、考えなさい。それは、私たちが天主の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです。世がわたしたちを知らないのは、御父を知らなかったからです。愛する者たち、わたしたちは、今すでに天主の子ですが、自分がどのようになるかは、まだ示されていません。しかし、御子が現れるとき、御子に似た者となるということを知っています。なぜなら、そのとき御子をありのままに見るからです。

☆内村鑑三の解説
信者は今なお救いの途中にあるのである。天主は彼にあって善い工(わざ)を始められて、これをイエス•キリストの日に完全(まっとう)なさるのである。(フィリ一•6)そうであるために私たちは今完全になれないといってあえて悲しむ必要はない。私たちは今は罪の身をもって罪の世にあるのである。私たちの外も汚(けが)れ私たちの内もまた汚れて、今や完全を求めても得られないものである。

そしてこういう状態であるために「聖霊が初めて結んだ実をもっている私たち自ら心の中に欺いて(天主の)子となること、すなわち私たちの体の救われることを待つ」(ロマ八•23)のである。そしてこの待望は空望(くうぼう)として終わらないのである。

その実現するときは必ず来るのである。キリストの再臨は単に彼の再臨にとどまらないのである。信者の救いの完成(まっと)うされるのもまたその時である。
(注、フィリとかロマとかあるのは、聖書の各書巻の略です。出典を意味します。)

☆祖父ネットの解題
「聖霊が初めて結んだ実をもっている私たち自ら心の中に欺いて(天主の)子となること、すなわち私たちの体の救われることを待つ」(ロマ八•23)、というこの聖書引用文の中で、「心の中に欺いて」がよく理解できないが、聖書本文は「心の中でうめきながら」である。それはそれでおいておきたい。

それにしても、イエスの再臨を言う内村のこの高い信仰は、当時かなり批判された。しかし今にして思えば、それが再臨を高唱できた最後の時かもしれない。ただ時が流れてますます「私たちの外も汚(けが)れ私たちの内もまた汚れて、今や完全を求めても得られない」に帰結している。主よ我らを憐れみたまえ。

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2009.06.28

8-144 キリスト教の神は天主と直すべし その23

日本語におけるキリスト教の最大用語「神」に付いて書いてきた。

祖父ネットの考えでは、表題に書いてある通りの意識で出発した。そして前島潔さんに遭遇し、しばし挫折した。しかしお陰で、ギリシャ語のセオスには達したのである。そこでこの問題はこれでやめようと思う。むしろ「天主」に固執し、「神」と書かれている既存の膨大なキリスト教関係書物を、「天主」という言葉に換えて、こつこつと解説して見るつもりである。

それは日本の神と明確に分離し、あらゆる日本人にキリスト教の信仰を開くものである。日本の神とは違うということを明確に示し、明確な信仰対象を示すことであると思っている。
(終り)

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8-143 キリスト教の神は天主と直すべし その22


ともあれ、少し考え、気持ちを立て直す必要を感じる、と前回は書いた。

少し時間が経過してみると、少し落ち着いてきた。前島潔さんの意図がいかなるものであれ、日本語聖書翻訳語の「神」について書いてくれたことは確かである。考えてみれば昔々、中国から漢字が伝えられ、字のない日本に字が生まれた。そして「神」という字もその時、日本の宗教に当てられたのである。次に切支丹。彼らは自分の神に日本語の「神」を使わなかった。さらに明治維新。宣教師は日本語の神に、中国生まれの神を当てて、自分たちの神を表した。以来、日本語の「神」にキリストの神が加わって、その幅が広がったと言えよう。

「和訳聖書の最も重要な原典と推定される、モリソン訳の流れを汲むブリッジマン・カルバートソンによる中国語訳聖書は、「神」を採用していた。殆どの日本語訳聖書はこの流れを汲み、「神」が適訳であるかどうかをほぼ問題とせずに、こんにちに至るまで「神」を翻訳語として採用するものが圧倒的多数となっている。」これはウィキペディアの「神」からコピーしたものである。いささか手前味噌で言えば、「ほぼ問題にせずに、こんにちに至るまで云々」という言葉に、これは問題である、と受け取れないでもない。

ともあれ、明治維新以後に日本語になったキリスト教の「神」は、中国出身である。日本語に訳された聖書は、中国語に訳されものを参考にしたのである。昔々、中国から伝えられた「神」という漢字が、おおむね1500年経過した後で、お出迎えしたという図式になる。

(続ける)

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2009.06.26

8-142 キリスト教の神は天主と直すべし その21


こともあろうに、「神、天帝、天主」問題を扱った人が、「大日本帝国の本質と使命」を書いた人であることが分かった。

国会図書館から戻り、コピーを読んだ。途中で吐き気がした。赦せない文章である。それでも表題が書かれている聖書の一句に、救われた思いがした。昭和12年の聖書引用は文語文、「これ皆一つとならん為なり」となっている。

しかし、このヨハネによる福音書第17章21節はこんなに短くはない。かなり長い節である。その節の全文や17章の全体、またこの福音書をすべて読めば、そこに引用された問題とはまったく関係のないことであることが分かる。ただ自分に都合の良い部分を、勝手に引用しただけである。自分に都合の良いこととは、「大東亜共栄圏」を持ち上げることであるばかりではない、全世界を「家族主義」という理想で貫くという、馬鹿げたことを言う為に利用したのである。

彼の理屈は誠に単純で、日本で生まれた古代の大和政権を理想化して書く。戦前よく利用された説である。日本の古代社会で、ある一家を率いた長(今の天皇家)が、複数の家族を吸収しつつ次第に大きくなり政権を樹立。その政権は一度も簒奪されず、今に一系として継続している。このような国は世界にはない。このような家族の典型が残る国の理想を世界に広めたい、と言う論法である。

その上でキリスト教では、創造者がまず家族として一対の男女を創り家庭を営ませたのであるから、家族主義は世界の理想であり、神の意志であるともいう。世界の他の国の歴史といえば、政体を簒奪し、常にその家族的結合を破壊する罪の存在であり、世界は日本に学ぶべきである。満州への侵略も、乱れた中国の政権を整理し、家族主義を実現する為であって、云々と延々と続くのであるが、これでは読んでいられない。

こういった積極的で幼稚な侵略思想を、当時のクリスチャンが公言していたということが、あまりにもショックであった。このことをもはや書き続ける気持ちを失ってしまったが、残念なのは「神、天主、天帝」問題もやめざるを得ない、と思い始めたことである。

日本の聖書で翻訳語「神」選択の理由を、前島さんも探求した。彼はその歴史的経過を詳述したのであるが、それはそれで優れている。しかし、それがこのような思想の持ち主では、彼を参考にする気持ちが失せる。日本語聖書の翻訳語である「神」選択は、所詮英米の宣教師等がやったこと、と言わしめる「意図」が別にある。

「神」という語が、いかに日本のキリスト教に悪影響を与えたかと言う、起点において祖父ネットと同じように見える問題意識も、内容はまったく道を異にする。祖父ネットはそのこと自体を考えることをやめようかとさえ思っている。

ともあれ少し考えてから、気持ちを立て直す必要を感じる。
(一応はまだ続ける、と書いておきたい)

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2009.06.25

8-141 キリスト教の神は天主と直すべし その20

前回は「前島 潔」さんには、今の世の中が受け入れられない大きな欠点があることを発見した、と書いた。

国会図書館へ。そしてコピーをとり電車の中で読み、家に帰って読み、非常につらい思いをすることになった。過去の亡霊が顔を出したのである。読んだ以上私の中に入り込まれた、これを追い出すのは、私の何を使ったらよいのだろうか。論文は「大日本帝国の本質と使命」である。こういった題名は勿論今ははやらないにしても、「日本の使命」ぐらいは言う人はいる。しかしいくら問題が大きいと言ったところで、その本質や〈大〉日本と言った表現は見当たらない。しかし、昭和12年に書かれたこの本は大真面目に、しかもクリスチャンがここまで書いていたのである。

簡単に言って、この本は読まない方がいいだろう。第一にマイクロフイルムというものは読みにくいし、全文をコピーしたわけであるが、1200円もかかり、その上読むと吐き気がするほど凄まじく高邁な内容である。今朝のネットニュースに「FF11は、魔物がはびこる中世の世界で、自ら主人公となって敵と戦う ゲーム。」にはまる青年の話が出ていたが、老年のネット好きも、昔の魔の世界と出会ってしまったようだ。はまった青年が大いなる時間の無駄であったと、発言している。

キリスト教は日中、太平洋戦争を通じて常に平和を訴えて苦しんでいた、と今の今まで思っていたのである。世の中の隅にいて平和を唱えて嫌がられていた、と伝えられていたように思う。内村鑑三の日露戦争反対論は有名である。内村のように骨太にはいかないまでも、太平洋戦争に消極的に反対し、一部の人は官憲の監視の下に生活していたのである、と思っていた。所詮少数者であり、敵国の宗教であるから、目立った反戦運動もしない冴えない話として伝え聞いていた。それがかわいいホッかぶりの、精一杯スタンスであったと思っていた。だまって、ひたすら生きていたクリスチャンは、戦争の大いなる被害者で、戦後アメリカ軍の進駐と同時に一気に花開いた、ぐらいに考えていたのである。

それが違っていたのである。それがまたこともあろうに、「神天帝天主」問題を扱った人であるから、祖父ネットにはショックが大きい。
(続く)

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2009.06.24

8-140 キリスト教の神は天主と直すべし その19

前回は「前島 潔」さんが「上帝」「神」「天主」を解説しているので、それを書いてみたい、と書いた。

ところが気を取り直して、できれば全文を現代語訳してご紹介したい、と思うようになった。昭和13年の文章を見ながら、いきなりワープロを打ち、現代語訳をしてもうまく行くはずもないのでノートに原稿を作り、それからワープロで清書するというやり方がいいと思った。

いつまで続くとも分からないが、三四日かかって少し目鼻がついた。原文を見ながらノートに現代文を書いていく。その内、文章に「神」を原語主義で書く案が出てきた。新約聖書はギリシャ語であるから、ギリシャ語を使うというアイデアである。ところが自分はギリシャ語に触れたことがない。しかしことがここまで来たのである、放っておけるわけもなく早速ジュンク堂さんに行った。日本語英語ギリシャ語辞典を期待したのである。

ところがあるのはギリシャ語英語辞典、ゴッドを引いてギリシャ語セオスを確認したいだけである。それでも仕方がないからやむを得ず、一番安い辞書「Greek-English DICTIONARY of the New Testament」を購入した。あとはギリシャ語の棚に並んでいる本から、ジュンク堂さんには申し訳ないのであるが、ゴッドがセオスであることを確認すれば済むことである。

ギリシャ語のセオスというのは、日本語の「背を押す」に通じている。背中を押される感じでギリシャ語セオスを探すと、何となくゴッドはセオスと読めるものがある。多分間違いないと思い、買った本を近くの喫茶室でゆっくりと確認した。つまり買ったばかりのギリシャ語辞典で、英語のセオスを確認したのである。「God」とあったからコーヒーのうまいことこの上ない。

しかしそうは問屋が卸さなかった。さらに書き進んで最後の結語に至ってから、前島 潔さんには世の中が受け入れられない大きな欠点があることを発見したのである。
(続く)

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2009.06.20

8-139 キリスト教の神は天主と直すべし その18


祖父ネットは「キリスト教の神という翻訳語」は、大誤訳であると主張している。

そこで前島 潔さんという方が、昭和13年に書いた書物を見に立教大学図書館を訪ねた。現役の頃の職場は池袋だったから、何度か構内に入ったこともある。しかし、図書館は初めて。閲覧許可書をもっていよいよ前島さんの本と出会う瞬間である。

本、「日本に於ける基督教用語『神』に就いて」を受け取り、風格のある閲覧室の椅子に座った。そこは立教が築地居留地にあった頃のもので、一言で素晴らしい。ともあれ本の内容である項目をまずご紹介したい。(注、原文にある国名は中国とする)

一、問題の重要性
二、日本語「神」の意義
三、聖書に於ける神の意義
四、中国天主教(注、カトリック)伝道史上に於ける用語問題
五、中国新教(注、プロテスタント)伝道史上に於ける用語問題
六、日本基督教史上に於ける神の用語
七、結語

前島さんはその結語で、「神」という語は、日本人が決めたのではなく、外国人宣教師が決めたことで、日本の長い神道伝統と紛らわしい、と書く。キリスト教の方でこの言葉を替えるべきである、と主張している。もっとも昭和13年という時代は日米戦の直前である。英米を相手に戦うと言う気分が横溢しているときの言葉であるから、割り引いて聞く必要がある。が、それでも大筋は間違っていない。

実は前島さんがこの文章を書いた経緯に、別の人が「キリストのみ神である」(昭和10年)と主張し、その本が発禁処分になったという事件がある。「キリストのみ神である」とは、明治憲法で信教の自由があり、信仰的な発言としては当然であるにしても、あの時代に文章となればそれは、ということになったらしい。国家の方も軽く受け流せない時代と言うべきであろう。

ところが70年近くも経過した現在、同じ主張すなわち「キリストのみ神である」などと言ってみたところで、だーれも相手にする人はいない。相手にする人もいないということになれば、だれも言わないわけであり、むしろ各自が信じる道でいいじゃない、ということになってしまった。ところでこのようなことを考えているうちに面白いことを思いついた。

イスラム教のコーランを日本語訳にすると、アッラーは神と訳すのであるが、然らば英語にしたときはゴッドと訳すのかどうか、という疑問である。早速ジュンク堂でコーランの英語版があるかどうか調べるか、などと思っている。祖父ネットの予想では、ゴッドではなくアッラーという原語を用いていると想像している。

それがなぜ日本語では「神」と訳されるのであろう。もしそう訳されていたら、おかしな話である。次回は前島 潔さんが「上帝」「神」「天主」を解説しているので、それを書いてみたい。
(続く)

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2009.06.17

8-138 キリスト教の神は天主と直すべし その17

中国語聖書では上帝版神版として、別々の聖書が今でも市販されているから驚いたと以前書いた。

柳父 章さんの名著「『ゴッド』は神か上帝か」で、2001年4月、文庫版を出版するに付いて、「岩波書店編集部の林 建朗さんのおかげで、ふたたび(注、絶版のこの本が)世に出ることになって、これで安心してあのお墓(注、先生は事前に作っている)にもはいれるかな、という思いである。」と語っている。この本が世に深く影響のあることを期待しておられる。

その中から祖父ネットのテーマも生まれたのであるが、さらに一層スリリングな展開を見せた。本には「前島 潔」さんという人が紹介されている。前島さんという人を知らないので、国会図書館で検索した。と、どうも立教大学に関係した人のように思える。目当ての本は見当たらない。そこで立教大学の図書館を検索してみると、柳父さんが紹介した本がある。早速、近くの図書館にお世話になって、立教大学図書館宛「紹介状交付申込書」を出してもらった。それが早くも受領され、あす立教大学に行くつもりである。

目的の本は「日本に於ける基督教用語「神」に就いて」である。出版が1938年と言うから、祖父ネットの生まれる少し前。

さらに近くの図書館には「歴史をかえた誤訳」(新潮文庫)という本があった。題名が祖父ネットのテーマに近い。調べるとそれはばりばりの現役本で、早速買った。作者鳥飼玖美子さんは立教大学の教授でもある。推理小説のようにスリルとサスペンスに富み、小説「天使と悪魔」より面白い。現実の社会の中で、言語による異文化遭遇が様々に展開する様は、あまりにも身近に感じられる。

祖父ネットにしてみれば「神という言葉の翻訳問題」は、その中でもまれに見る大誤訳問題であると主張している。
(続く)

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8-137 キリスト教の神は天主と直すべし その16


前回は小説「天使と悪魔」から同性結婚という、とんでもない問題にまで言及した。

久しぶりに神田のキリスト教老舗古書店「友愛書房」を訪ねた、と書いた。入手したものは二冊、「中国語聖書翻訳史」と「英和•和英語彙」である。前者はテーマにズバリの本で、著者は都田恒太郎さん、教文館から1974年に発行された。もう一冊は1830年のもので、メドハーストさんという人が書いたものの復刻版である。1830年と言えばおおむね180年前。そうでしょう180年前ですね確か、その英和和英の語彙集である。

ここで取り上げている英語で言うゴッドの、「神」という翻訳語は、明治初期ヘボンさんたちアメリカ系の宣教師等によって完成したものである、ともすでに書いた。明治元年は1868年で語彙集ができたのは、その前ということになる。ここから話は面倒になる。まずヘボンさんはこの語彙集を参考にしたと言う話がある。その上、メドハーストという人は前にも何度も紹介している柳父 章さんの本、「『ゴッド』は神か上帝か」によれば、神派ではなく上帝派なのである。

で、それなのにメドハーストさんが作ったと言われる語彙集では、「A god  Ka-mi カミ」 となっているから話がややこしい。こうなると素人では歯が立たないが、柳父さんの本(岩波現代文庫、学術56)の120ページを少し書いてみよう。

「委員会(注、中国語聖書翻訳委員会)の意見は二つに分かれた。
委員長メドハーストは『上帝』を主張し、ミルンなど多数を占めるイギリスの宣教師がこれに同調した。これに対し、ブリッジマンは『神』を主張した。両者の意見は遂に折り合わず、God と Spirit の訳語だけを白く残した草稿をまとめて、1850年、会議を終え、以後、両者は別々の中国語訳聖書を出版した。」

その別々の聖書が今でも、中国語聖書上帝版神版として市販されているから驚いた、と以前書いた。ともあれ21世紀の現在でも、決着はついていないということになる。ところが日本語の聖書では、完全にすべて「神」であって、さしたる論争も世間に伝わらないまま、これが天下の誤訳であるとここで主張しているのである。
(続く)

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2009.06.16

8-136 キリスト教の神は天主と直すべし その15

小説と映画「天使と悪魔」はこの程度にしたい。

「天使と悪魔」は表題の翻訳問題と大きく関わった。自分としてはゴッドの訳を神よりも天主としてくれたなら、一段と素晴らしいと思っている。小説の内容となっている教会と社会との問題は、祖父ネットの場合個人信仰的傾向が強いので、教会の社会的公式的見解はあまり気にならない。

先日もアメリカの同性結婚が問題になっていた。州は比較的それを認可するが、連邦政府は反対であるという報道である。同性結婚が法律上も認められる土壌として、キリスト教の信者の数が減少しているからであるとも報道された。

確かに結婚は法律上の問題であるが、好きな者同士が一緒に生活をすることに何ら問題を感じない。わざわざ結婚と言う手続きを要求する人たちの気持ちが理解できない。法律は法律で、自由な恋愛は恋愛である。キリスト教で結婚は男女一対でなければならないと聖書に書いてあるから、同性結婚には反対であるというキリスト教信者も多いらしい。結婚は社会的な活動である。古い時代の結婚観として、常識的に聖書にも書かれたに過ぎないと思うのであるが。

キリスト教の聖書にそう書いてあるから、同性結婚には反対であるというのであれば、その手の禁止話は聖書には山ほどある。とても今の法律がそれに合致しているとは思えない。同性同志が性的関係を結ぶのは忌むべきことである、とも書いてある。それは聖書的には罪であるというが、これなども聖書に山ほどある古代社会倫理問題の一部に過ぎない。2000年も前にさかのぼる書物が、どうして超保守的でないことがあろう。

人間の罪など数え上げれば切りのないほどある。神経症になるほどの罪的状況に、現在も過去も未来もあることは言うまでもない。それよりも何よりも、非文明的であると考えられる古代社会で、人間の「罪と救い愛」などの優れた教えを説いたイエスを大切にしたい。それを大切に思い、教会は歴史上教権を確立した。近代に至ってさらに個人的レベルまで発展させたのである。

しかし完成した教会教権はもはや下降し始めた。それは個人の信仰が本格的に上昇してきた証拠である。慶賀すべきことであり悲しむべきことではない。いわばキリスト教の社会性の後退と個人的発展の相克である。キリスト教信仰が後退したのではない。さらに進んだという言い方は好きではないが、変容するのはやむを得ない。

究極の信仰とは個人の決断に関わることである。教会に関わる数の信者などというものではない。教会が崩壊すると言っているのではない。教会と言う社会的歴史的機関は、個人化する信仰の傾向と向き合うことになる。

結婚も同じで古い結婚観も、社会的という意味で言えば廃れるとは思えない。そこに同性性交と言う通常の性的関係のダブーを打ち破る結婚観も、あるいは法律的な認知を受ける可能性はある。同性性行為の社会的認知であろうが、私にはそのような性の傾向はない。

もはや老人の枯れた体には関係のない問題である。元気な体の人たちの性的嗜好問題と割り切っている。肉欲ばかりではなく愛である、という主張は無視できない。

小説「天使と悪魔」からとんでもない問題に言及したのであるが、そろそろ本題に戻ることとしたい。昨日は本題にさらなる参考図書を入手するために、神田古書街のキリスト教老舗古書店「友愛書房」を訪ねた。

入手した参考図書のお陰で、問題は一段と深まったと言える。
(続く)

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2009.06.14

8-135 キリスト教の神は天主と直すべし その14

前回はかなり難しいことを書いたと思う。

自分では分かるのであるが、それでも「か」「も」などの言葉をさっき追加した。この二つの言葉で文章の全体はガラリと様相を変えるほどである。時間をおいて読み、推敲することがいかに大切であるかがわかる。少し書くピッチに時間をおいたのは、他でもない映画「天使と悪魔」を観に行ったからである。近くの映画館で上映日があと数日しか残っておらず、小説「天使と悪魔」はやっと下巻に至たり、どうしてもパンテオンを大画面で見たくなった。

ローマに行った時パンテオンを見る機会がなかった。ローマ帝国がまだキリスト教化していない時、パンテオンが帝国治下の多神教の神殿であると小説で知り、いても立ってもいられなくなって映画館に行った。まえにこの映画は見ない、小説で済ますと書いた。多分この映画は評判にはならない、と推定していた。あにはからんや観客は10人ほど、もっとも平日の昼頃のことで客層は限られる。しかし映画を見終わって観てよかったと思っている。小説の方がはるかによいと思うが、大画面で観る現場の雰囲気は棄てがたい。

先ほども言ったことであるが、パンテオンがローマ多神教の神殿であるということは知らなかった。なるほどと思いウィキペヂィアで調べてみて、ますますここで書くことの意味を感じた。小説は下巻冒頭であるが、ゆっくりと思索を深めている。映画と小説、おなじ作品を別な表現方法でみられるとは有り難いことである。それも科学と宗教という最も先端的なことを考えるには、むしろ必要なことであったと今さらながら感謝している。

感謝しているがゆえだろうか思索が深まる。その分思索は苦しいことこの上ない。科学も大変であるが、人間そのものを全体で扱う宗教もそれに増して苦しいということがよくわかる。まして「神」「天主」翻訳論に関わってここまで深く書くと。自分としては読む時に、小説「天使と悪魔」の「神」の部分を「天主」と自由に読み替えるのである。

もし翻訳者越前敏弥さんと話せたら、「天主」と書くのはいかにも正鵠を射るようであるが、今の日本人には無理ではないだろうかという解答であろう。誠に英文原書と照らしてみても、名訳であるだけに残念であると言わざるをえない。

ところでこれを機会に改めてガリレオの「新科学対話」岩波文庫を読んでみたが、まったく歯が立たない。世界を変えたと言われる本であり1638年に書かれたのであるが、この本を読めないことにより、ガリレオは現代人の私をはるかにしのぐ数学的天才であると感じる。科学はここから驚くべき発展を遂げたのは言うまでもないが、文学的に見れば「人間問題」はそれをはるかに越えて、ますます理解の難易度を上げているように思う。

人間存在は想像以上に難問である。宇宙の大を理解する以上であると感じている。
(続く)

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