永遠の生命と進歩の概念、少年興亜讃美歌第一番、と世界堂

 僕の友達が軍歌だね、と言った興亜讃美歌少年版。その一番の歌詞を読みながら(国会図書館デジタルから)いささか考えている。いうまでものないが、僕がまだ三歳か四歳の時で。父は零戦の地下製造工場建設現場で設計監理者として働いていた。頃にできた讃美歌である。例えばこうだ。題名は祖国日本。そのはじめの部分を書いてみよう。よろず代かわらぬ 御座(みくら、と読ませるがワープロで出ない)にのぼり 皇国(みくに、と読ませて、ワープロに出ない)を統べます すめらぎ尊(字が潰れて読めないが、とうとし、か)など、天皇の尊貴を歌っている。が、イエスキリストや神は出てこない。これが明治学院など当時の指導者が、指導してできた讃美歌である。この現実を前にして、絶対天皇制の怖さを感じるのは僕ばかりではないと思う。

 要するに人間が人間を支配する究極のフォームなのであろう。これを愛国主義、という言葉で呼んだ時代だった。このような天皇制は敗戦後でも、徹底的な排撃を見事に回避している。それが、日本文化の良い面でもあるか。令和という時代のネーミングは、日本独特のもので、世界中が面白がる。のも、この日本の特殊性が面白いのであろう。日本が戦後、敵国の文化を借りて平和憲法を生み出しても、それは借り物であるなどという日本人も未だ絶えない。世界を平和に保ち、なんとか破滅を回避したいのは誰も同じであろう。だがしかし、現実はついに世界的な激突を明日に迎えているような、怪しい雰囲気が漂う。と見るのは、私のような老人だけだろうか。これは、人間全体世界中で深く考えなければ、ならないことである。

 昨日、池袋パルコの世界堂で画材を買った。ここのところ水彩画を描いていて、ここでも(祖父ネット)その喜びを書いている。絵を描くということは、僕にとっては原爆の図を描くことではない。僕はそれよりも近くの公園の緑のくさぐさや、大木を描くのが好きなのだ。僕は、父が信州で零戦工場の建設に汗を流している時、そんなことは全く知らずに。そこいらのくさぐさや杏やホタルやトンボや川魚や山や谷や、を駆け抜けたりして、遊んでばかりいたのである。近所の子が、都会っ子の僕を珍しがって、いじめたりしたのであろうとしても(記憶にない)、子供だからいつか僕も仲間になって、子供らは猿のように素早い集団となり、あの山や谷や川やを、飛び回っていたのである。で、僕は、平和が好きなのだ。

 で、僕はくさぐさが好きなのだ。野辺に咲く小さな花は僕が特に好きなもので、何の気なしに見ていて、そこに僕はここにいる、という風に語りかけて来るのが好きなのだ。で、つくずく、美しいと思うのだ。で、僕は。世界堂で、一番高い水彩画用紙を買い、一番高い水彩絵の具を使って、くさはらに座り込んで絵を描くのだ。顔なじみの画家でもある世界堂のT氏は、僕に。来年は世界堂が80年周年記念なのですが、何かいい企画がないですか、と問うてくれた。ので、僕は、平和こそ絵画のベースである、と力説して。テーマは「平和の絵画」、にしてもらいと言ったのである。

 もちろん絵画史では戦争画なども有名であるが、本来聖歌であるべき興亜讃美歌などにも、想像を絶する戦争思想が作曲されているが。しかし、僕は。これからの世界は(世界堂は)、つまり第三次世界大戦を避けるには。僕の愛する絵画の世界しかないと、強調したいと思ったのである。それは、僕が、幼児期。信州の佐久で自然から教わった、何ものにも変えられない、絵画の尊さの象徴であると、僕は主張したいのだ。僕は、今も。佐久美術館の友の会に属する不良会員であるが、それは僕の思い込みである片思いの、郷里として。それが、僕の価値観の絵画的高さの象徴なのであると、T氏に提案したのは。僕の老人としての人生の快挙、なのだと。言って。世界に平和があってこその、絵画であるのは言うまでもない。と、言って帰ってきたのである。

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筒井友美作品。「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

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2019.05.20

永遠の生命と進歩の概念、内村鑑三のアメリカ下品発言

 内村が、アメリカのキリスト教を批判して。書いたのが大正九年の「東京朝日新聞」広告欄に載っている。全集では第25巻、591ページである。彼はその中で、「我が日本に於いて本当のレリジョン(英単語書かれている、以下同じ)とサイエンスとの調和を計りたいと思います。何れにしろヴァルガー アメリカン クリスチャニテイ ー は真平御免であります。そうそう(匆々)敬具 」とある。朝日新聞の広告、とあるのは理解しがたいが、そう書いている。それより、アメリカの下品(vulgar)を嫌った内村らしい、広告である。アメリカを嫌ったのは、彼ばかりではない。歴史の長いヨーロッパなどは、それをきらうことこの上もなかった。が、第二次世界大戦で是非参戦してもらいたい、の一心でイギリスなどは、だんだんアメリカびいきが出てくるのである。

 が、基本は変わらず。歴史の長い日本なども、実際はアメリカ嫌いである。僕も、実はアメリカ嫌いで、明治学院のようなアメリカ人の優秀な人(ヘボン)が神学校として作った学校に10年も行ったものでも、実際アメリカ嫌いなのである。しかし、当時はアメリカ好きも、いっぱいいて、戦勝国アメリカの空気を吸いたい人は、日本人の中に山ほどいた。が、僕は体が小さいので、でかいアメリカ人にえらく劣等感を持っているから、それで嫌いなのであろう。が、内村は日本人としても偉丈夫で、ヒケなど取るものか、といった武士の子孫で。堂々と、アメリカ嫌いなのである。彼が、色々あってアメリカに行くのは、札幌農学校で結局洗礼を受けてしまったことを受け、それならその本場を(当時はそう思われていた時期)見てやろうと、思ったのであろう。もともと、早々離婚する羽目になり、その不満解消をアメリカ留学にかけたのであろう。だが。ともかく、彼が死んで、まさか愛する日本が太平洋戦争まで、やるとは予想してはいないはずだ。ともあれ、下品なアメリカのキリスト教は、あの勧誘の、よく見かけるあの手の、アメリカ的勧誘には。僕もほとほと下品なものを感じている。そのアメリカこそ、それこそ科学発展の本場で、原爆を開発し、広島に落っことしたのだから。戦後に、罪深いアメリカの行動は、世界の軽蔑を受けてしまったのが現実である。その反面、高い科学の現実がまた今の世界騒動の問題と、なっている。何しろ、コンピューターにしても、アメリカはともあれすごすぎる。

 

 という、アメリカの不幸は、今も世界の不幸なのである。弁証法的であるキリスト教の発展形態たるアメリカは、矛盾の塊であることは、言うまでもない。それをヨーロッパの神学者ブルンナーは分析している。この人が、僕の高校の時の教科書である。

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永遠の生命と進歩の概念、奪われる未来(毎日新聞から)

スウェーデンのグレタさんという若者(十六歳)が、学校ストライキを呼びかけた、という記事。が、今朝のトップ一面の、毎日新聞である。スウェーデン語で書くと、SKOLSTREJK FOR KLIMATET らしいが。トップの写真が、彼女が掲げるスローガン、と彼女だろう。いうまでもなく、地球環境情報にもとずく世界の意識は、ここまできている。要するに、発展思想(俗的進化論)の行き詰まりであろう。で、有島武郎の北海道漁業と、絵画の関係をさらに読むことにした。北海道の厳しい冬と、スェーデンは、当時同じ質量を持っていたに違いない。厳寒の冬に耐える、漁業者のたくましさ。山のような波を乗り切りながら、漁を続ける労働者の群れ。

 は、今どこにいったのか。

 これを発展としないで、なんと表現するのか。さて、問題はこれから、ということであろう。有島は、もう一編の小説「カインの末裔」で、同じテーマにぶつかっていく。スェーデンの若者の標語は、「奪われる未来、若者よ怒れ」と書かれているようだ。で、彼女は、学校ストライキを訴える。僕は。戦後直後日本から帰る時に出版したブルンナー、が考えていた、進歩思想とキリスト思想の相克矛盾も読む(基督教のつまづき・1955年)。弁証法的な地球は、太古からすべて生命と死との、戦いである。だから僕は、絵画、なのである。僕は、昨日も近所の公園の、大木の下で絵を描いた。 

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2019.05.19

永遠の生命と進歩の概念

かしら書きの、思いに至ったのは、殺人クリスチャン好地由太郎さんのおかげである。結局それが、神学者ブルンナーさんに至ったからである。それに「進歩の概念」と書いたのは、ブルンナー神学の中に文明の「進歩」が説明されているからである。日本の基督教の教会的働きが限界にきているのは、僕の目から見ても明らかである。なぜなら、教会ばかりではなく、人間の進歩そのものに疑問が呈される時代が来ている。教会も、その一環である。「進歩」が、限界にきているというのは、何も私ばかりの実感ではないと思う。これから生きる人がいるのに、こういうことを言う老人になりたくないのであるが。事実的全体的地球的問題だと思うので。死も近い老人がこう書くのは、よろしくないと知っている。甚だ迷惑だと思う。し、何にも面白くもないことであろう。

 考えてみれば、なんで。私がごときがこのような余計を書くのか、第一に書く資格などあるのか、と問われれば、では一体。誰が、このような大それたことを書く資格があるのか、と問いたいのであるから。僕は、こうやって、ブロガーとして、勝手に書いているのである。出版隆盛時代では考えられないことだ。こういった書きが可能なのも、出版の発展あってのことで。これを「進化」というのであろう。こう言えば、進化思想、進化概念は生きてはいる。が、しかし地球規模の資源の枯渇や人口問題や、核兵器、原発やプラ汚染などのことを考えると。本当に、これでいいのか。ということを自然とみんなが考えてしまうのが現代社会の実態であろう。それを引き受ける、若い人は、たまったものではないが。これから何十年も生きていかねばならない人々にとって、頭の痛い問題であるということに変わりはない。若いから、できるのである。が、この問題、実は。戦後に若い時を生きた僕たちにも厳然と、突きつけられた同じ問題なのである。あの時、世界は馬鹿げた大戦で多くの人命を死傷させ、剰えその殺しかたの凄惨なことは、これで人間であるか。と、問われた実態が次々と明らかになって、いく時代だった。それを引き受けた僕ら若いものに、訴えかけた神学者が、ブルンナーさんだった。スイスの人である。

 彼の本は、今は誰も読まないが、「基督教のつまづき」という本である。英語版では、「スキャンダル オブ クリスチャニテイ」という。僕が持っているものは、昭和30年に日本基督教団出版部から発行されたもので。図々しいことに、日本基督教団は、ここでも書いているように。戦中は「興亜讃美歌」なるものを堂々と出版し、それに少年版までこしらえて、戦争に協力を惜しまなかった今もある教団である。その、教団が、今度は終戦で。ブルンナーさんに頼り、基督教団の生き残りをかけたというのだから、恐れ入った話なのである。この興亜讃美歌は少年版とも明治学院図書館が今も保存している。是非見せてもらいたいものだ。で、一方、好地由太郎さんは慶応元年生まれの、十七歳の若い時に、女盛りの女主人を殺し放火した(日本橋で)クリスチャン(もちろん後での話)で(「恩寵の生涯」という自伝がある)、基督教的ヒュマニズムの実践者になった人である。

 この二人を書くことになるとは、思いも及ばないことであるが。説明などできるものではないほど、面倒なことなのである。と今日は書いて、やめたい。

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2019.05.18

永遠の生命と殺人罪受刑者好地由太郎さんの宣教活動(その1)

「好地由太郎」という人を書く、Wikipediaの書きは最悪である。全く、彼の人となりを表さない。のは、残念である。と、まず書くのは、ここのところのキリスト教界の教会的ていたらくに嫌気がさすからである。そこで、昔から研究している好地由太郎さんを書きたくなった。のは、彼の素朴で徹底的な信仰の中に(歴史に残った)、キリスト教の真の姿を見る思いがあるからである。と、書いて、その予告を短く書いてその1とする。

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永遠の生命と小説家有島武郎の魅力と島田清次郎からの卒業

かしらがきの意識が生じたのは、有島武郎の生まれ出ずる悩み、を読んでいるからである。これを読んでいると、島田の小説の二十歳の幼さが目に付く。確かに、芸者冬子の内心の説明や生き方には、感心していたが、有島を読むと全く色褪せて見える。昨日はある病院に行ったのであるが、その間読み続けた。のは、有島武郎のそれである。北海道の冬を描く彼の力量を世間は認めるだろう。誰も異論のない、日本の誇る文学者である。あれを英語にしても、どうも上手くは伝わらない日本語の絶頂がある。その彼の小説の冒頭は英語で書かれているから。当時の学識の高さ、それを吸収する力量を感じるが、英語は訳されないまま冒頭に掲げられている。大したものだ。最近は僕も英語を読むことはなんでもないが(やっと)、英語のあまりにも単純な簡潔性には呆れている。日本語で、有島が著した北海道の漁民の。波を乗り切る力量など、とても英語では表せない。

 

 僕は、これを。明治学院の高校の時に読んだのは、その題名に惹かれたからであろう。生まれ出ずる悩み、とは有島もよくつけたものであるが、まさにそんな題名の内容が十分感じられる。が、読み切ったり覚えていたりする箇所など、一箇所もない。が、昨日は、全く激浪の中を魚の群れを追う漁業者の真剣勝負が、実に印象的に伝わってきた。病院は、今。全くクレゾールの匂いがしないに、気が付いて。呆れた。これは病院ではない。僕の知っている病院は、しっかりと消毒薬のにおいのする、しけたもので冴えないもので、わびしいものと決まっているのに、僕の昔の病院はすでに消えて。料金の精算も、次回の予約も何もかも機械がやってくれる。と言う、ことに驚いて外に出て、僕は最寄りの駅まで歩いて知り合いのいる、駅前の中板橋のアンデンドゥでコーヒーを飲み、家に帰った。小説の中の二人の主人公は、一人は有島という文学を志す人、もう一人は漁業を生業とする画家、の物語である。僕も今は、絵描きの端くれであるが、やっと思うように絵が描けるのは、水彩絵の具という道具とネット販売というシステムのおかげである、と言っておこう。もちろんその基幹は年金生活であるが。当時の有島にも漁民にも、それはないのである。

 

 にも関わらず、厳酷の海に二人は出て行くのだ。いうまでもなく、僕の比ではない。

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2019.05.17

永遠の生命と小説家有島武郎の魅力とその異常について

ついに、僕のブログも、おかしくなってきたのであろう、やはり、「有島武郎」に至った。有島は内村鑑三の弟子としても有名である。有島は、内村を裏切った最大の人物、として内村は。怒り心頭に達したようだ。その彼を以前、横浜生まれなどと書いたのは、全くのミスで。横浜は、薩摩隼人だった彼の父の勤務先で明治の高級官僚の息子。が、生まれたのは文京区であると、Wikipediaで知った。全て、彼に関してはやり直しである。久しぶりで(明治学院高校以来)彼に至ったのは、僕のキリスト教も、今更ながら知った事件の積み重ねで、真実内村無教会に至ったからで、さらに内村から離れた有島を連想したのである。キリスト教のあまりにも馬鹿馬鹿しい事件の中で、「興亜讃美歌」や「東洋英和女学院論文偽装事件」などのキリスト教的最大悪の事件がきっかけで、一気に。有島にも突入することにした。つまり絵画と文学の世界である。要するに神学世界から、離れたくなった。今更ながら論理で、神に至る不可能を知った。

 

 小説「生まれ出ずる悩み」は、北海道の自然を背景にしたドラマ。見事なもので、一字一字万年筆をギシギシと原稿用紙に擦り込むようにして書いた、と言う有島の書きに嘘はないと思える。やはり、言うまでもなく彼は、本物の小説家であろう。中途半場に終わった島田清次郎とは、小説の格が違うと思う。世間の目は、節穴ではない。

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2019.05.16

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(9)と興亜讃美歌の研究その二

表題の問題は、二者とも実は繋がりがある。一方は武藤富男、もう一方は興亜讃美歌。一見して繋がりがないように思うと、そうではない。前者は戦中の満州国宣伝担当の高級官僚、他方は戦中の国内キリスト教の戦争迎合讃美歌である。その実態には、いうまでもなく確たる繋がりが、ある、とはいえない。が、戦中日本の軍事侵略に迎合せざるを得なかったと、通常説明される基督教界特に、日本基督教教団と深く関係がある。どちらも明治学院とも関係が深い。ヘボンによって明治維新前から準備された明治学院は、純粋な外国の宣教学校、特に神学学校として期待されていた。ということを、僕は入学当時知らなかった。中学生の時に渡された高谷道男さんの書いた「ドクトル・ヘボン」を読むほどの技量はまだなかった。親にも見せたと思うのであるが、二人とも読まなかったと思う。僕を、明治学院に入れておきながら、両親ともそれを読むことはなかったと思う。

 が、僕は、実は初め読めなかったが、その後かなりこだわった。当初読めなかった、むづかしかったという印象を、なんとか克服したかったからである。それは、何度かの後にできた。ただ、それでも高谷という人が、まさか内村鑑三の研究会に出席していた秀才だった、とは人生の後半も後半でやっと、わかったことである。だから、初め無教会と教会という関係を整理できていない。この問題を僕たち戦後派が整理するのは、やはり相当の時間が必要だった。そして今、やっと七十七歳で、完成したと言えるだろう。それは、明治学院が深く関わったこの興亜讃美歌を持ってして、それは完成したと思う。ここまで、やったのか、と思ったのである。

 まさか、聖書を変えることはできない。聖書の解釈を変えることは可能である。自分に、都合の良い箇所は、聖書に山ほどある。が、それは、あまりなされなかったと思う。その解釈をして戦中有名になったのは、本間俊平である。しかし、彼は、真面目な大倉土木(今の大成建設)の社員大工で、いろいろの経過で、最後は東京帝国大学で基督教時局講演会まで開いた人である。が、ともあれ。その中で、讃美歌問題は、僕にとって実に深刻だ。それもご丁寧に子供讃美歌まで用意され、教会学校で歌われていたのではないかと、疑ることになったのは、僕だけかもしれない。馬鹿みたいに、真面目に僕も。教会学校の教師をしていたから、まさかこんな讃美歌があるとは思っても見ない戦後派であるが、なんとも情けない次第。キリスト教だけは、少なくとも少しは戦争に抵抗的程度の活動があって然るべしだと。思っていたのである。

 思って、今も教会クリスチャンである高校時代からの真面目なクリスチャンに。電話で、その一節を読んで聞いてもらった(歌ったわけではないが)、一言「軍歌だね」という感想だった。僕も、戦後文語調の讃美歌を歌っていたから、あまり抵抗はないが、その内容には抵抗がある。つまり、僕らは、戦中に改変されていた讃美歌の、そのまた改変された戦後讃美歌で、育てられた、と知った。「神は我がやぐら」が好きだったが、それは戦中の讃美歌からは削除された、ようだ。と知った。僕は、内村鑑三全集第25巻を読まざるを得なかった。内村は言う。「日本は聖書から科学を見る、ことがない。科学から聖書を見るから、聖書がわからなくなるのである。」と。明治維新という維新は、確かに科学が優先され、そのために宗教はないがしろにされた。科学的思想という名の下に、近代思想が入り込んだのである。しかし、欧米では、いつも当たり前のように、まず聖書があり、その聖書の研究や批判の中から科学思想を生み出したのである。その優れた科学を、聖書の検証もなく使用する日本が、アジアの先進文明国家に成長した、という歪んだ歴史を歩むことになった日本、と内村は分析もし、予言もしたのでる。

 

 今の日本は、科学によって、世界の孤児になった、と言って、今日は僕も書き続けられない。対処法は、ないのか。日本を世界史の正常値に、どうすれば戻せるのであろう。七十七歳の戦いは続く。

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2019.05.15

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(8)と興亜讃美歌の研究

昨日は、びっくりポンの繰り返しで、最後は東大経済学部出身の三十五歳の青年議員丸山穂高のびっくりポンで終わった。のは、彼が確信犯であるということを確信したからである。維新の会は彼を除名したが、あのような発言をした人は、誰かが拾うものである。多分そういう風になるのが政治の常道である。初めはバカかと思ったのは、Wikipediaを見ていなかったからである。すぐ調べたら、通産省出身の優秀な官僚だったので、ははん、と思った。大蔵官僚では、間違ってもでない発言である。先日東池袋で交通事故の不幸を作り出したのも、彼と同じ経歴を持つ秀才老人で、あの不幸が元で彼の人生は真っ暗になったが、宗教的に救われる以外には救われる方法は、ない。と思う。僕も、実は昨日疲れていた。少し小雨が降って、好きな絵も外で描けないので、屋内で描くつもりでいたところ、なんとも奇怪なもの「興亜讃美歌」の情報に接して、一日中振り回された。僕の恩師が編纂した明治学院100年史に加え、やはり明治学院の「心に刻む・敗戦50年の自己検証」も読み、つくづく国家権力の高さと恐ろしさを経験していた。ので、丸山発言は、かなり意図的だと、思うようになった。

 

 武藤富男は帝大法学部である。僕らの時代の学長で、僕はその人生模様をよく知るのであるが、丸山発言と好一対をなすので、いささかい書きやすいが、ことは重大である。現代の秀才議員は戦争発言をし、一方は再軍備反対を唱えている。この一連の動きは、何を意味するのであるか。僕はそれを基督教的視点で捉えながら、今日はこの程度とし、内村鑑三全集25を読んで、気を落ち着け頭を整理したいと、思っている。諸君。僕は、世界が平和であることを願いながら、日本の未来に思いを馳せ、皆様の幸せを祈りながら、今日は曇りであるな。

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2019.05.14

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(7)興亜賛美歌という奇怪

ネット社会の尊さは、人間社会の愚と賢が、一段と精緻になることである。と、ネットで昨日、奇怪中の奇怪に出会った。ことから再認識させられた。僕らが、明治学院の戦後教育(十年間)を受けている頃。戦前にそんなことがあったとは、今もって思ってもみなかったことが、一気に明らかになった昨日だった。のは、呆れるばかりの「騙された」というはじめのショックから、少しは立ち直った。今朝である。かつて教会クリスチャンだった僕は、それが教会やミッションの学校を守る仕方のない、「方法」でもあった、と冷静になったものの。今朝これを書いているときは、またいささか感じ方も変わってきている。呆れたから、軽蔑的になってはいけないと思いつつ、もっと大人になって、やむを得ない処置。いや、積極的にそれほど。圧迫は強烈を極めていて、国家総動員の戦争の怖さと、国家権力の暴虐の深さと闇を、思わずにはいられなかった。七十七歳の僕である、とはなんと、情けない非力であろう。だから、ローマ帝国は、増殖するクリスチャンを処刑していくのであると、思いつつ。現代クリスチャンの自分を責めている。

 などと、散々ん気を持たせているが。表題の「興亜賛美歌」などというものをご存知の方はまれびとであろうと、思うのである。僕は無教会のクリスチャンであるが、本当に内村鑑三には、心から感謝している。無教会で、良かったのである、と。つくづく思っている。ただ最近無教会では、宣教の実はあげられないとも、自分を責めることもあるが、たまたま偶然に、友人の画家から昨日電話もあって(僕のブログを読む気の毒な人でもあるが)、少しは僕のキリスト教を理解していくれるところもあって、どうかしてこんなことでイエスキリストという神への信仰を、阻害しないように、僕も頑張ってみる、というのが、今朝の書きの意味するところである。が。

 戦中(第二次世界大戦・太平洋戦争)で、真面目に、本当に真面目に。かしら書きのような賛美歌が作られて、真面目に礼拝で歌われたような記録がある。大の大人が大真面目に、日本の侵略戦争を正当化して、なんと恐るべきこと。に、その正当性を賛美歌に表現して、教会で日本の勝利を歌った、という事実は、知らなかった。勝利を祈願したことは、知っていた。が、賛美歌まで、ご丁寧に作っていたとは、あきれたことである。戦争の首謀者たるキリスト教国ドイツなども、ナチズムにすり寄った教会のことは、知っていて。あきれ果ててはいたが、散々明治維新以来関係の深かったアメリカに世話になってできた学校(明治学院)も、それを賛美歌で実行していたとは。いろいろあるにしても、あきれた話である。卒業生として、組織としてのキリスト教のばかばかしさを、今更ながら、哀れんでも仕方がないが。やってしまったことは、先回の東洋英和院長と言うミッションスクールの論文捏造解任事件、なども思うと、悪魔の仕業は。やはり、さすがであると、思う。人間の弱さを言うイエスキリストの高さも、神にしてできる、ものであると、思いながら。礼拝堂で、心持ちいい気持ちになって賛美歌などを、さんざん歌っていたあの頃の若い自分を、思い出していた。無教会となってすでに20年30年も経過したから、この頃は、とんと賛美歌を歌っていない。

 もっぱら、聖書を読んで、簡単なイエスキリストの誕生の、処女生誕記事を読んで確かに、神でなければできないことであると、思うこの頃である。

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2019.05.12

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(6)と東洋英和女学院・院長解任事件その2

で、聖書のマタイ伝第一章を掲げる。マタイ伝(マタイによる福音書)で、十八節には次のように書かれている。「イエスキリストの誕生の次第は次のようであった。」これが、キリスト教のすべてである。神学などではありえない箇所。教会でもないのである。この言葉なくして、キリスト教はない。のである。どういうことかといえば、これが「神」が人になって出現したという唯一の証である、ということである。つまり日本語でいえば「如来」の出現に過ぎない。昔、明治学院を創りあげた宣教師たち、その代表はいろいろあるにしても私にとってはヘボンという人が、和英語林集成というローマ字和英辞書を作った時に、神と訳さず如来と、訳せば済んだ話で。如来をいろいろ東洋的漢字的日本語的に考えてみれば、神とは如来、すなはち出現したき時に、思うが如く出現自由に、出現する存在は、すでに日本文化の中にもあったのである。だから、特に深くは考えず素直に「如来するもの」が神と訳されたのである。で、ヘボン以来キリスト教の神は如来と訳さず、「神」と訳されることになった。

 中国語では神は「天帝」などとも訳されるから、その訳語そのものは、大した問題ではない。問題は、その概念であって、人間にとってともあれ如来していただきたい、救世主の問題である。人間は、有史以来知恵が増し、そのような存在をいつも希求せざるを得なかった。で、如来にとどまらずイエスキリストの優れているところは、如来だろうが神だろうが、その存在が人間としてわかりやすく、目に明らかな身近な存在として、神ないし如来が出現した、というストーリーにあるのである。ここに神学などあるわけはない。もちろん、科学もない。だからニーチェの肯定も否定も無意味であると思うのが、僕の立場である。

 このイエスキリストを神学化するのも人間で、素晴らしい人智であるが。その始めが聖書のもう一人の中心人物パウロ、の考え方の中に実在したのである。どちらにしても人間は、死の淵より救われたいのは、いうまでもなく。古代人とて、それに飛びついたのであるが、それで。ただそれだけで、人間社会の代表であったローマ大帝国は、それを国教としたのである。そこから、全ての人間らしい虚偽の歴史は始まる。いわば、西洋では如来をイエスキリストとして人間化したのであり、人間化したからこそ、そこに虚偽が生じたのであるが、その虚偽の宣教者が昨日の新聞の神学大学を卒業した人の、東洋英和の院長さんであると、いうことになる人間的、ああ人間的フライイング現象なのである、と言えるだろう。僕も若い時、東洋英和の女学生と仲間だったこともあり、残念であるが。今は普通の主婦ばあーさんとして、平穏に生きているに違いないと思っているが。多分彼女も、今更ながら、神(如来)が人になった、ということを信じているかどうか、疑っている。もちろん、いうまでもなく僕は今朝も聖書のその箇所を読んで、つくづくありがたいことであると思う自分をありがたいと、と思っている。ありがたい、とは漢字で書くと「有難い」、と書くが、本来ありがたい、こと。すなはちあることが、難しいこと、奇跡、が起こったので、ありがとうございます。と、人は答えるのであると、子供の僕に教えてくれたのは、クリスチャンの母なのだ。今更ながらえらい母だと思う。

 多分フライングした東洋英和の彼は、頭脳的にのみ神(如来)を考えたのであろう、それが神学なのかもしれないが。絵描きの僕なぞは、一本の草の中にも如来(神)を見るぐらいな歳であるから、何をか言わんや、であるが、今日も晴れているので、原っぱで絵を描きにいくつもりにしている。

 痩せがえる 負けるな 一茶 ここにあり と奥信濃の俳人は詠んだと思う。

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2019.05.11

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(5)と東洋英和女学院・院長解任事件(緊急)

事件の首謀者は深井智朗(54歳)、とされる。院長だからややこしい。どうも普通の学校のように、よくある理事長と院長の内部闘争ではないかとも思える。が、この際。毎日新聞によると懲戒解雇だという。キリスト教文系では珍しい論文捏造盗用事件だから、祖父ネットにはもってこいの話題である。が、 これ以上は書きたく無い。がここで、日本のキリスト教劣化問題を取り上げていて、僕は無教会で教会派の人々の闘争にはもともと加担しない。加担しないから、無教会なのである。内容は、お粗末なドイツ哲学や神学の盗用らしいが、もともと日本教会などには神学は存在しない。存在しないものを無理に学校で論文化すると、こういう捏造となる。要するに借り物である。

 2000年前、のイエスさえ欧米では捏造に過ぎない(無神論、ニーチェ)。日本の宗教も、元を正せば権力者の捏造である。あらゆる宗教は、捏造といえば捏造。科学のように、法則があるわけでは無い。これ以上は言いたく無い。それにしても無様。捏造したという院長は、東京神学大学の出身である。東京神学大学は僕が10年通った明治学院から独立している。そこの出身者のやることだから、事件性のある問題は今までにもいっぱいあることは知っている。が、それはいうまい。もう本当に言いたく無い。で、Wikipediaから転載しておく。普通の人は、全くわからないものだ。科学の捏造とは趣が違うだろう。

 Wikipediaから

 不正行為・北海学園大学准教授の小柳敦史が、深井が2012年に発表した著書「ヴァイマールの聖なる政治的精神 ドイツ・ナショナリズムとプロテスタンティズム」で論考を行った論文の書誌情報が公開されていなかったことに疑問を持ち、日本基督教学会を経由し、深井の研究不正の疑いに関する公開質問状を送り、これが2018年9月25日付の学会誌に掲載された。小柳は論文の著者とされる人物や論文について調査した結果、「単なる『間違い』ではなく、深井氏による創作であると疑われる内容が含まれることが判明」したと指摘した。2018年11月に「研究活動上の不正行為の疑いがある」として、東洋英和女学院が学内調査委員会を設置した。2019年5月10日、東洋英和女学院の学内調査委員会は研究活動上の不正行為(盗用および捏造)があったと認定し、同学院はこれを受けて開催した臨時理事会で深井を懲戒解雇処分とすることを決定した[9]。調査では、深井が「ヴァイマール」で紹介した「神学者カール・レーフラー」は存在せず、その論文も捏造であるなどと認定した。

 研究活動上の特定不正行為に関する公表概要によると、深井教授は「実在しない人物と論文を基に本件著書を書き、その著書の一部にて他者の文献より適切な表示をせず引用を行なった。また、実在しない架空の証拠を基に本件論考を著した。これらについて、本調査委員会は、研究者としてわきまえるべき基本的な注意義務の著しい懈怠があったとして、特定不正行為(捏造・盗用)が行なわれたものと認定する。」とした。

 本人は一部に関して「想像で書いた」などと説明をし、意図的な研究不正を認めていない。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

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永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(4)と「生まれ出ずる悩み」

西高東低がうまくいった、と書いた途端。日本経済の疲弊と凋落は、目を覆うばかり、との記事が毎日新聞に載った。僕は島田清次郎を読んでいるから、それもあまり書きたくなくなったが、急にそんなことから、有島武郎に至った。有島の小説「生まれ出ずる悩み」に、全ては帰結していくと思った。で、何度も読んで達することのできなかったそれを、古書で買った。千円である、福岡の書店さんで、字が大きいらしい。なんども読んでいるし、軽井沢の彼の心中の家も知っているし、彼が内村鑑三の弟子で、内村期待の人であったということも知っている。生まれたところも横浜で、その場所も知っているから。昔から気になって仕方のない人で。絵描きとも繋がる人だということなどいうまでもないだろう。多分青空文庫にあるはづだから、でも岩波文庫か新潮文庫であるだろうと期待していた。が、なかった。多分売れないのである。

 あの時代を忘却する現代人には、生まれ出ずる悩みなど無いに等しいのかもしれない。が、僕らの時代は、全く逆で生まれ出ずる悩みの時代、だった。戦争が終わって馬鹿げた話ばかりで、一向に生まれ出ずる喜びなど感じなかった時代だ。大人たちは悩み抜いていて僕らの青春は真っ赤に燃えているが、どうもストーブの火は消えかかっていた。のでは無いか。とはいえ、新しい萌え出ずる生命は。そんな馬鹿げた大人なたちの愚行をあざ笑うが如く。ボンボン燃えて、今の日本が再生したのである。が、再生したのは、日本ばかりでは無い。世界中で、それは起こったことだ。ビートルズが僕らの時代を代表するにしても、僕は斜に構えて。ビートルズなどには一向に萌えなかった。燃え立ったのは、主に女の子だったと思う。

 僕は絵を描いて、そのエネルギーを養ったが。今は水彩絵の具を抱えて近所の広っぱに行きそこで島田清次郎を読んで、絵を描く。のだ。実にいい絵が描ける。何も考えずに、自然に描ける。水彩絵の具の高さを味わっている。が、七十七歳だ。で。島田から武藤富男へ、そして有島武郎に、やっと至った。全ては、生まれ出ずる悩み、なのである。世界中の悩みは、これに尽きる。これが、筒井の作品「帰る場所」であると、気づいた。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

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2019.05.10

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(3)

キリスト教がここまで、人々の興味から遠くなったのは、最近のことであるが。どうも、日本(アジア的文化)の高さが、世界の人々を惹きつけるに及んで、ますますキリスト教は後退を続けるように思う。要するに、西高東低の時代は終わったのである。この西高東低の文化現象が終わるだろう、東洋の時代がくるといったのは内村鑑三である。彼は私が尊敬する人で、明治の日本人の代表である。と、思っている。が、その人も遠くなったというものの、果たしてそれが遠くなったのは、明治が遠くなったからか。それは違うだろう。むしろ、日本人は日本人的基本(歴史)に帰っている。

 

 人々は自分が生きるということを誰であれ、自分の目的として生きているから、自分が問題なのであって。その自分を考える時、なんであれ、自分探しの中でますます、現代的不明が出現する中で、僕は。人々が、生きることへの生きることをどうやって実現するかといった問題は、結局金の問題であるか。なにせ、金がなければますますまづい世のなかで、ATMに並びながら、一生懸命自分の残高を探るように、毎日を生きているのは、なんともいつの時代でも、変わらない人間の姿なのであろう。残高が、自分なのであり、残高がないといかにも心細いし。金がないのは、首がないのと一緒だと思うのであるが。小説家島田清次郎は、見事に。金を獲得する。それは、二十歳で世に出した自分の小説が、図らずもベストセラーになったからである。彼は、かなりの金を獲得するが、今度はその処理に困りはてる。頭のいい人であるから、少しずるがしこく立ち回れば済むことであるが、それは彼にはできない。

 当たった小説は、見事なもので、あのような描写(小説的)ができるということは、金ができても、それを維持したり、増やしたりという野心を抱けるような考え方が持てるような人ではない。もし、そういった考え方ができれば、小説はたちまち書けなくなり、もちろん売れなくなり、元の貧乏に苦しむ人になるほかはない。が、もちろんそうできない以上、そうならないのが必然である。のに、彼は、巣鴨の養護院の精神病室の一室で、なんと結核で死ぬのである。三十歳の短い命だったとされる。彼が、失敗したとすれば、金ができたために身分もわきまえず当時の、お嬢様に手を出してしまったことである。彼の小説「地上」を読んでいるが、なんとも凄まじい場面を書いている。描いている、という絵を描いているという風に表現しても、いい場面である。彼は、その場面を書きながら、「それからどういうことが起きたかはしるすに忍びない。」と書いている(104ページ・季節社・2002年)。この場面は、僕も記するに忍びないのであるから、僕も書かない。もし彼が、この場面を書いたとし、画家として描いたとしたら、とても見ることなどとてもできる場面ではないことは言うまでもない。画家としても描けるものではない。

 

 僕は広っぱの緑の初夏の風が吹く、爽やかに日に。近くの公園の広っぱで、水彩絵の具で一気に、素晴らしく生きている草ぐさを描いて、何も自分の作為を交えず、何も考えないで、今までの絵画の修養をベースに、一気に。描いてみた。小さな箱状の、水彩用のコンパクトな水入れも用意してあるから、それから世界堂で買った水彩用の筆を使って、一気に。書き上げてみた。自分の意思や判断はない。ただ自然の、風に揺れるそこらの雑草を描いて。僕は、一気に気分が良くなり。何も作為しない自分の絵が、なんでここまで美しいのか、これならネットで売れると判断した。要するに、僕なりのベストセラーなのだ。まだ売れてないが。僕は、美しい自分の絵に満足して、店じまいをし。家に帰った。島田清次郎のあの場面を、読んだのは、店じまいをして近くの椅子に腰掛けて読んだ島田清次郎の「地上」の一節で。中身は、詳しく僕も書けない。ほど、醜い(みにくい)こと、むごいことである。

 

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 筒井友美作品。

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2019.05.09

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(2)

 

 などと書いて、古い非現実的な歴史をかくと、いけないだろうか。

 人の歴史の中で、キリスト教が果たした役割は大きいのであるが、僕は、それを。

 

 武藤冨男さんが編纂した「峠で会った人」で、見ることができる。聖書は誠に古い話に違いないが、その中にある新しい話は、依然として人の救いとは何かを表していないだろうか。武藤さんが、装丁の貧しい地味な本をキリスト新聞社から出版したのは、昭和42年で1967年。僕が二十歳代のことである。この本を古書で買って、キンコーズでしっかりと製本したのが、七十七歳の最近で。僕は、島田清次郎という忘れられた天才的小説家の今勉強中の、僕の先輩の小説家をこの歳で研究していて、今更ながら。これらの二冊の本が連動するので、えらく感心しているのである。

 

 昨日、近くの原っぱで絵も描きながら、島田清次郎の「地上」をさらに読んで、この人は本当の天才である、と思うのである。

 五月の太陽と、心地よい青葉のきらめきは僕を、遠くの時空に彷徨わせるのであるが、僕の描く草はらの新緑の草ぐさたちは、初夏の暖かい風を受け流しながら、絵を描く僕に微笑んでくるのである。草はらに、携帯用の僕の妹がイギリスから買ってきてくれた絵画用の折りたたみ椅子は、僕が今まであまり使わないで、もっぱら部屋に置いていたのは。油絵では、どうも外部の写生が大げさになって僕らの現代生活にはふさわしくないことになるからで。ルノワールを羨ましいというのではない。印象派の画家が一生懸命自然の中で買いた時代は、その制作物が、適当に売れるという経済的背景があったからにすぎない。椅子は、その時代を象徴している。

 しかし、今の社会では、そういった画家の穏やかな感性を実現する、自然の陽光を一生懸命描くには、ほとんど一生の時間帯をその描きに捧げなければ、とてもできるものではない。要するに、そういった印象派の時代は絵画では去っているのである。が、これは、工芸がますます後退し、それが機械文明に置き換わってしまった現在の状況をよく表している。

 だから一生をかけて一つの作品を作る古代社会の3000年前のツタンカーメンのような作品は、もはや絶対に人類には不可能なこととなっているのである。とは、知っているが。僕は、そこら中で愛らしく咲いたり伸びたりしている草花やくさぐさを愛するから、僕はシュミンケという最高の水彩絵の具を使って、フランス製の水彩紙の上に、実に何の苦もなくやすやすと、その美しい小さな生命を初夏の風に頬をなぜられながら、広い原っぱの木陰の下で絵を描き。また島田清次郎を読みながら、実にうまい天才的な書き方をする、僕の先輩が大正7年二十歳で書いたという小説を読んでいたのである。

 しかし久遠の陽光であるが、人の生命はいかにも儚く、とっくの昔に失われた遊郭の話であり、そこで生きる女性たちの深い会話は、いかにも人間の美しい姿なので。あり、その内面であり、状況デリ、匂いなのであり、色香、なのであり。決して、幸福な境遇を書いているのではないのである。今は、まだ小説も前半であるが、約二十人の役人が、その妓楼に押し寄せ、その色香を持って、ある汚職が行われるのであるが、それには20人もの相手をする女性はほぼ五人ほどで、そこのおかみさんが頭を痛める場面が、本当にどうなっていくのだろう、と思わせる先輩の書きぶりなのである。

 

 初夏の本当の暑苦しい季節はもはや、まじかなのであるが、僕は、そこいらで店じまいをして家に帰る支度に取り掛かった。

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 筒井友美作品。

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2019.05.08

永遠の生命と武藤富男の「キリスト教入門」の解説(1)

武藤富男をWikipediaで調べ、私なりに編集した。それをまず掲げたい。武藤 富男氏は1904年(明治37年) ~ 1998年(平成10年)を生きた人である。簡潔に書けば、戦前の満州国や日本の高級官僚で。戦後は教育者、キリスト教牧師(伝道師)。明治学院院長、恵泉女学園理事長、東京神学大学理事長などを歴任している。主な略歴は下記の通りであるが、かなり複雑な人生行路とはいえ資料は意外に多い。祖父ネットは武藤氏が明治学院院長に就任した1962年の時、文学部社会学科の学生であった。安保闘争終了後の、一種の虚脱状態が学院の学生の間にあったように思う。その時、忽然と現れた人で。帝大卒業の何やら鬱陶しい人、という印象であった。特に、関わってはいないのであるが、ともあれ学院長なので時々見かけていた程度であるが。なぜか、今でも深い印象がある。

 その後、私も社会に出て世間を知り。少しは物がわかりかけた頃、要するに第二次世界大戦の歴史に興味を持った。そんな中で、武藤富男氏を知ると、誠に複雑で。実は戦中史そのものであることを知った。由来、興味は尽きず調べた結果、結局。氏の書いた「キリスト教入門」に、七十七歳で行き着いたのである。氏の書いた文章は、さすが秀才の文章で、かなり硬いものである。が、うまくまとめてあり、キリスト教の入門書としては抜群である。そこでブロガーとして、これを解説してみたいと思ったのである。

 うまくはいかないとは思うけれど、少しは難しいキリスト教を解説できるだろうと思う。それが、結局人間の「永遠の生命」の解説になるとも思うのである。ところで氏の略歴は下記の通り。 弁護士の家で書生をしながら開成夜学校学で学び、受験資格を得て一高に合格、卒業。 東京帝国大学法学部卒業、裁判官。東京地方裁判所判事。 1934年(昭和9年) 満州国司法制度構築のため、請われて渡満。満州国司法部刑事科長、国務院総務庁弘報処長、満州国協和会宣伝科長を歴任。 1943年(昭和18年) 帰国。大日本帝国政府情報局第一部長に就任。終戦直前に辞し、日米会話学院を創立。 1946年(昭和21年) 賀川豊彦とともにキリスト新聞を創刊。 1947年(昭和22年) 日本基督教団補教師となる。 1962年(昭和37年) 第7代明治学院院長に就任。 1963年(昭和38年) 明治学院東村山高等学校を設立、校長。 1977年(昭和52年) 日本キリスト党結成。第11回参議院議員選挙、全国区に立候補。戦争放棄を訴えて落選。 1988年(昭和63年) 『私と満州国』(文藝春秋)出版。

 一高時代より大森教会会員。満州国時代、大杉事件甘粕正彦と親交があった。甘粕を満州映画の理事長に推薦し、満州国のメディア統括のトップに立った。帰国後は、日本の戦争遂行宣伝の責任者だった。しかし、敗戦を確認し任期半ばにして退官。キリスト教徒として、再軍備反対を貫いた。安保推進の首相岸信介とは満州時代親交が深かった。

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 筒井友美作品。

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2019.05.05

永遠の生命とエジプトの至宝、「ツタンカーメン」のディテールの愚

前回を引きずって、ツタンカーメンのWikipediaを読んでがっくりきた。要するに、説明ディテールのバカバカしさだ。誰それの姉妹だの、兄弟だの。病気がどうのこうの、と言った本当の考古学の学者が書いているのであろう。けれど、ツタンカーメンもあそこまで書かれると、全くの無意味である。年代の測定も精密で、それが考古学の真髄であろう、とは思うものの。素人が読むようなものではない。僕らに必要なものは、エジプトの古代ロマンである。あの広大な砂漠を支配した、大帝国(エジプト)の思想史(生きた本当の人間史)こそ、我々と直結することであるのに。三千年前の物体(ミイラ)が、精細に写されていても、それは単なる一人の人間の「死」の様に過ぎない。我々は、今。死ねば燃やされる運命にあるが(法律によって)、骨だけ残りあとは跡形も無くなるのは、誰も同じである。その同じ人間の運命を、ただ単に、虚無的に捉えては、生きている意味は全くない。と、思う人もいるのではないか。

 要するに、紀元前の、1000年2000年であれ、人は皆死ぬのである。その死を如何に捉えて、現在を生きるかが問題である、とすれば思想史しかない、のではないか。物質的な詳細な考古学が細分化され、その精緻な探求が如何に明細になったとしても。人間の死の意味は、一向に明確になるものではない。故にWikipediaも程々にすべし、である。のが、Wikipedia現状だ。で、僕は。小さな「新約聖書」を持って、近くの公園んで寝転がりながら昨日。その冒頭の、マタイ伝一章と二章を読んだ。

 見事なものである。イエスの両親は、夢のお告げでエジプトに逃げる。自分たちが属する国の王に恐怖心が生じ、もう一人の王(イエス)が生まれたという学者の説をもろに信じる王が慌てる様を書く。当時の現実が。権力者が同時期の子供を皆殺しにする、記事は如何にも人間的現実である、と思う。エジプトに難を避けた、イエス一家は。唯物論的宗教論者(ツタンカーメン的)でしかないエジプトに逃げ、そこから観念論的唯心論の神論が発祥する一瞬を、聖書は捉えているのである。イエスは、神の一人子、という想定である。実に見事な、転換と言えよう。その観念論的神論の永遠の生命論(これは今も変わらないが)こそ。西暦元年から今まで、世界を支配した大きな思想なのである、と僕は思っている。それが、実は激しく毀損する時代が(唯物論の復興期)が、ポストモダンと言われる時代の思想の潮流なのである。

 僕は、その潮目に生きたキリスト教の若者で、あるが。それを代表するキリスト教の書物こそ、「H・コックス」というアメリカの神学者が書いた「世俗都市の宗教」Religion in the Secular City なのである、と知ったのは、最近である。

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 筒井友美作品。

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2019.05.04

永遠の生命とエジプトの至宝ツタンカーメン

 

 偶然ではあるが、昨日。

 かしらがきのテーマが放映された。4Kか8Kなのか。見事な映像だった。

 実物も、かなり前に見たことがある。昔日本に確か来た時、のぞいた程度で見ていた。しかし、映像が接近するので、それはそれは詳細である。

 

 あまりに詳細すぎて恐ろしい思いをした。で、発想があった。あれは三千年前の作品である、とすれば。で、想は唯物論に至った。あれが、真の唯物論である。金(きん)は残り宝石も残った、人間業(わざ)も残った。が、まさにそれは、唯物論的表現の最大の作品である。すでに三千年前に創造ざれていた、と知った。

 僕は、今朝起きて、早速「聖書」を手にし、イエスキリスト生誕の記事を読んだ。率直に読んだ。

 

 こうである。

 マタイによる福音書、これは新約聖書冒頭の巻。二章11節、「家に入ってみると、幼子が母マリヤと共におられた。彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として捧げた。」

 である。

 

 これが、その後の世界に救い主がお生まれになった、という記事で。その救い主がお生まれになった時のはじめのシーンである。そこで僕もイエスに祈りを捧げて、我等をお救いください、と祈った。ツタンカーメンを作ったエジプトは、キリスト教の発祥を助けた、すなはち唯物論から唯心論という高いデリケートな発想に人類を導いた原点となった、と今日は言って終わりたい。

 

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 筒井友美作品。

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2019.05.03

永遠の生命と島田清次郎と吉倉汪聖

 

 昨日、世界堂で額装が完成したというので出かけた。

 額装をしてくださったのは世界堂に勤める画家で、武蔵野美術大学出の才媛である。

 その念入りな仕事ぶりから、僕は10年ほど、この方の額装に頼っている。死ぬまで、変わらないだろう。いつも祖父ネットの最後に紹介している「帰る場所」の作家である。

 

 で、いつもながら念入りに素晴らしいものに仕上がったのであるが、その中身は古いマッチ箱である。

 昔、僕が池袋の骨董品屋さんから買ったものを、今はなき中国画材という画材屋さんで額装してもらった。透明なアクリルに、箱状にして額装してくれたのは上野さんという人で、今は神田の文房堂(ぶんぽうどう)で働いている。その上野さんのアクリル額装に、さらに世界堂の額装をしたのは、訳があるのは当然である。

 一つはそのマッチ、売っていただけあって、今では貴重品である。

 僕が買ったわけは簡単で。そのマッチを作った大会社は、僕らの会社(建築設計)のお得意様で、僕の祖父の代からのお得意様なのである。僕も現役の頃は、父と一緒に、丸の内にあったその会社を頻繁に訪問した。し、僕の結婚式にも、その会社の施設部長が出席してくれている。ともかく、足を向けては寝られないほど、世話になった。実は、世話になったのは、私たちのような狭い範囲の問題ばかりではない。大げさに言えば、戦後の日本国民全体が、実は世話になっているのである。つまり、日本の最大の漁業会社で、戦後直近の日本の食糧難を、この会社の水産物が支えた。世界が戦争をしている時期に、漁業は衰退したのは当然である。

 僕などは、父が零戦を作る工場を信州中込で担当していたので、中込の小学校に三年まで在学して、東京に移動した。その時(戦中)、大洋漁業は兵士の食料を支えるため危険な海上で、少ない漁船で。食料を確保すべく、頑張っていたのである。あの当時は、漁船そのものが戦闘に参加もしていて、これは戦争秘話として伝わっている。

 が、ともあれ、当時の漁獲高は国民の食料や、外地で戦う兵士の食料で慢性的に不足していた。

 で、その分、特に太平洋では魚が繁茂し、戦後の日本の食料を支えたことは論を待たない。その会社のマッチを、僕が池袋の骨董品屋さんで見つけたのである。実は、額装にさらに額装をしたのは、この作品を、ある人にプレゼントするためである。

 

 プレゼント先は山口新聞のコラムニストだった吉倉揠(よしくら・あつむ)さんだ。

 僕より10歳も上で、そこの新聞記者をしていて、コラムニストに抜擢された人だ。この話は、不思議極まる話で、書くのも嫌になるほど深い。書けば書くほど奇跡的で複雑で書きたくない。ほどだ。

 で、世界堂から戻ってみると、頼んでいた古書「思想の科学・1980年五月」版が、届いていた。そこに、吉倉さんの祖父の「吉倉汪聖論」が、書いてあるので頼んでいたのである。で、早速読んでびっくりした。吉倉さんから聞いていたことはごく一部で、その一層の深層が書かれていた。

 それは、僕のキリスト教的深層と重なる。北村透谷、島崎藤村、宣教師ドクター・ウィン、さらに梅花女学院、松ノ井久子(同じ教会の先輩)、などが書かれている。僕は一気に読みながら。僕のキリスト教の知識の深みを刺激してきたのには、びっくりした。現在、吉倉氏は車椅子で、僕は彼を見舞うために。額装マッチを持って、彼を見舞うつもりだった。が、金沢出身の島田清次郎のことを、もしかしたら吉倉さんは知っているかもしれないと、思って電話したに過ぎない。10年以上も電話していない。

 

 その電話を入れた結果が、これなのである。

 が。これ以上書くのは嫌になった。これは厄介な思想の問題、となったと思った。のは、「吉倉汪聖」という人が有名な「黒龍会」の人である、ということと深い関係がある、とのみ今日は書く。

 

 黒龍会をWikipediaがどう書いているかは、わからないが。戦前に存在した大変な団体であるということ、それ自体が大変であるが。

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 筒井友美作品。

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2019.05.02

永遠の生命と上州安中有田屋と島田清次郎(2)とフルベッキの秘密と売春防止法

 

 売春防止法などという、ものが施行されたのは、1956年である。

 だから、昭和で言えば31年である。

 風の便りで、明治学院高校の頃、そんな法律が通ったということを知った。国会の審議も見ていたと思う。昔は国会中継などはない。大体の所の、見せ場を放映していたのであろう。見た覚えがある。

 

 で、僕は性に目覚める頃で(とっくに覚醒していたか)、なんとなくわかってはいたが、ただそれだけで。一向に深くはわからなかった。その後、明治学院大学に進んでみると、今は消えてしまった銀座のおボッチャマ(親友)と淡路島の金持ちの息子が四国旅行をしようと言うので、面白がってついていった。いったら、結局それは悪い遊びの旅行の誘いで、僕は辟易したが、それでも性への覚醒は一段と進んだ。 

 その辺りで、大学生なのだから真面目にフルベッキを研究すべきであった、と思う。

 

 高校の頃は。思えば神学読書で、大学は概ねマルクス読書である。神学書を、もちろん、卒業していたわけではない。しかし、唯物論はその当時の流行で、キリスト教とニーチェはいい勝負だったのである。これらを神学的に高めたのは、ニーバーという神学者であるが、僕はそこまで行かずに、マルクスのようなわかりやすいものに引っかかっていた。この唯物論と唯心論こそ、欧米の思想的高みなのであるが、僕にはとてもとてもついてはいけなかった。

 ついていったのは、僕の先輩でICUに行っていたFぐらいのものであるが、実際は彼も手こずっていて、結局彼は欧米文化に飲み込まれて消滅してしまった。未だ、行方不明である。

 その、彼のような秀才でも手こずっていたものが、僕程度でわかるわけもないのに。まー大筋でそんな事に興味を持ったまま、教会には真面目に通っていた。別に僕の経歴を言っているわけではない。が、明治学院の中学校では、高谷道男さんの書いた「ヘボン」を、学校で渡されているから、それもなんとかをコツコツと読んでいた。が、実は、高谷さんはむしろ、フルベッキを研究したかったのではないか(フルベッキ書簡集を出版した)、と今ならわかる。

 

 フルベッキこそ、明治維新あたりのあの激動期を、維新の日本政治と深く絡みながら。最後には明治学院の創立に関わり、理事にもなった人なのである。この人を本当にわからないでは、明治維新の日本の歴史的姿は明確にはならない、と老人の僕は思っている。だが、明治学院にも、この人を徹底的に研究した人はあまりなく、創業者と言われるヘボンの研究に力が注がれている。要するに、ヘボンは明治文化で表の顔、フルベッキは裏の顔、なのである。この裏の顔こそ、日本史のある意味では恥部であるが、あまり教科書的に表には出ないとしても。これなくしては、人間が生まれないの同じように、日本近代史も完結しないと、この頃思っている。

 で、売春禁止法は、キリスト教のおかげで、僕が明治学院高校の時に成立したのでるが。大学に進んで四国旅行をしても、まだ売春的社会状況に変わりはなく、卒業して日活の経営になる、天城日活ホテルでも、その現実をフロントにいて経験させられた。この問題は、いうまでもなく、人間の不条理の最大問題であることに、今頃気付くのであるが。もはや、遅し。

 

 できたての明治政府は、フルベッキに世話になり、欧米の視察(岩倉具視団長)をし、近代の先進的人権社会に目覚めていく。その段取りは、フルベッキがしたのである。が、今や不条理の時代、この問題は哲学の問題となっているのは、言うまでもない。

 

 

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 筒井友美作品。

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永遠の生命と上州安中有田屋と島田清次郎(1)売春防止法とキリスト教

僕の中では、このタイトルは(頭書き・かしらがき、ともいう)ともに、キリスト教の関連である。それも、みんな明治学院のキリスト教の話である。が、どれも今や有名でもなければ、話題にもならない。そこが僕の、老人としてのいいところで、別にツイートするような話でもないし、SNSとかで連絡し合うことでもない。だから現代的話題性など、全くない。ましてユーチューブで動画を入れるには、明治維新は遠すぎるのである。徳川時代やその前の時代も、動画にするにはエレー金がかかるし。せいぜい映画がそれを実現できるにしても、そんな映画を作れる度胸の良い組織は、もはや存在しない。「レ・ミレザブル」などは、ミュージカル仕立てで。素晴らしい映画を作ったが。僕は、彼女が売春をする場面で、映画の先が見られず、全編を見たいのであるが、そのごくさわりだけで、全く見ていないと同じだ。本では、読んでいる。どの国の男も、男のだらしなさには、ほとほと呆れて。

 

 それが結局重なる世界の罪深い世界(歴史)を、今更ながら経験するのは、僕の趣味ではない。要するに、歳なのであるが、もっと若ければ、もっとセクシーであるのだが、どうもそうもいかない。にしても、これは嘆き節である。で、なぜこんな話に「例話、0話、0羽」になってまで、書くのかといえば。それは、「売春防止法」を書きたいからである。僕の頭の中には、この法律が思い浮かぶにしても、一度も真面目にこの法律を読んだことはない。で、多分ネットにあると思うので、この後でゆっくりと、その冒頭でも読むつもりであるが、それを読もうと思ったのは、頭ガキの人々を今まさに、読書しているからである。主要な本は、三冊。まず「島田清次郎」の小説類、次が「湯浅初子」久布白さんという珍しい名前の人が書いた伝記、次が、「上州安中有田屋・湯浅治郎とその時代」(明治キリスト教文化の創出者、などと書かれているが)である。湯浅初子と湯浅治郎は夫婦である。この三冊は、「島田清次郎」を研究していて、思いついていったもので。島田の小説「地上」は、だいぶ読み進んだ。その中で、あとの二冊が自然に僕の頭の中で読むべき本として、現れ出でたのである。すでに読んでいるからである。

 もちろん、そんなことを言ってみても、祖父ネットの読者が(いるとも思えないが)わかるわけもない。が、この三冊の本は、キリスト教とはいえ「売春防止法」で結びついていくのである。と、書くと、少しは興味が出るのではないか。と、思う。と意地悪に書いて今日はやめたい。なぜなら、これから、まだこれらの本を読んで(再読もして)、このテーマを構築したいからである。では、次回。人間の最も興味のある「性」は、売春防止法によって、国家から疎外されたのであり。その疎外物語であり、その法律のデリケートな構築過程の人間的な不条理の物語を、次回から書くことにする。もちろん、書けるわけもないが。挑戦だけはしてみるつもりだ。 

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 筒井友美作品。

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2019.04.30

永遠の生命と異端児秋元久雄・平成建設とバブルの精算

 

 

 頭書の会社を訪ねた。

 前日、毎日新聞の記事で拝見したからである。

 本をいただいて帰ってきた。平成は今日で終わる。人さまざまの思いがあるに違いない。私にもある。

 

 それを人にむやみと押し付ける性格が抜けない。これはきっと、キリスト教的宣教の精神だと、心得ている。過去の、世界史の中に、くどく刻印された宣教精神ほど、明治学院教育のどず黒い効果として、私を苦しめるものは、他にない。それは、ヨーロッパを中心とする世界史の人間罪の集積である。

 キリスト教の神は、人間を創った神であると、される。その人間を創った以上「製造責任」が、神にはあるのではないか。日本の神や仏、にはその反論は起こらない。なぜなら神や仏が人間を創ったという、確たる文献はないからである。しかし、ユダヤ教にはある。それが、聖書だ。

 それを引き継いだキリスト教は、それを旧約聖書とし、神の子たるイエスの新たな救済史を、新約聖書として編纂したのである。この一連の書物は、世界史に大きな影響を与え、今でも私はその神を神として、こうやって書いて宣教している。全くの個人宣教であるが。

 

 そんな日本の歴史を背負いながら、も私は建築設計の営業マンとして一生を送った。その間、キリスト教は離さず、若い時はよくわからなかったものの、今ではかなりもの、になっている。明治学院大学を卒業し映画会社日活に努めたのは、前のオリンピックの年である。勤務地はまずリゾートから、つまり天城日活ホテルが振り出しである。修善寺駅前には、修善寺教会があり(今はない)、勤務の傍らよく通った。その修善寺に生まれていたのが、平成建設を創設した「異端児」と言われる、秋元久雄氏である。私より少し年下、といただいた本に書いてある。

 僕は、まさか氏が修善寺生まれだとは知らなかった。ただ、新聞には沼津で開業したと書いてあった。沼津は、ホテルの勤務で車でよく買い出しに行った懐かしい土地である。ぐらいの認識に過ぎなかった。それが、なんと修善寺生まれだったと知って、本が一層面白くなった。だいぶ読んだので、今日中に読みきりたいと思う。

 が、実は彼をすごいと思ったのは、そんなことではない。

 

 僕が勤務していた設計業界は、僕で三代目の家族の職業である。実は秋元氏も元を正せば三代目。祖父、父ともに大工、自分は工務店を再興したのである。で、彼の全くユニークなところが僕の興味の的だ。本の出版は、PHP。かの有名な松下幸之助を記念して作られた出版社、今でも健在である。現に、秋元氏の本の最後には松下幸之助本の広告が載っている。実は僕の母方の祖父は松下電器(当時)の建築顧問だった人だ。

 で、こんなことでいいかしら。

 僕が平成建設をお尋ねした理由は。だから最後にまとめると。秋元氏は、建築職人の組合ではなく、職人会社を創った人なのである。この辺りが、異端児と言われる所以である。普通職人は、下請けである。建築会社はそう言った職人を「組」としてまとめ、仕事の流動性に耐えてきたのである。ある現場が完成し、全く意地悪く、次の現場が遠ければ、一式。前の現場の職人を移動させると言うことは、「できない」相談である。

 大阪の仕事から、同じ施主で今度は埼玉だ、と言うのにである。結局、転々とする建築現場に耐えるのは、職人制しかありえない。その時代が平成に激変する。今、東京は一点豪華主義で、人が集まり過ぎている。これは言うまでもなく一極集中、なのである。その原因は、経済学が説明するだろう。その上交通手段は一段と高度化。割合に経費をかけずに移動が、可能になった。

 

 それを読み切ったのが、三十年前の秋元氏である。

 彼の会社の職人は、これで一式、会社員が本支店を移動する。会社に属して長く在籍し、腕を磨き、先輩の技術を継承する大工課、鉄筋課、杭課(以上僕が勝手に命名している)などの中にいて、それぞれが切磋琢磨している。細かく言うことはないと思う。すべてこれで、平成建設は年号が変わっても、今建築に必要な「信用」を構築し終わった。だから、新年号時代も確実に、生き残る。

 昔のバブル崩壊は社会的悲劇である。

 僕もその渦中の人間の建築設計事務所の人間として、悔しい思いをした。建設業界の「信用」崩壊を横目に、なんとか小さな会社を若い若者(現社長)に託して会社から去ることにした。そして、今は絵描きと自称している。平成建設には、ギャラリーもある。僕は、ゆっくりとそれらの、解放された空間を楽しみながら。手職の高い人たちの安心した顔(職人会社員)を想像していた。

 

 満足して渋谷に出、コーヒーを飲んで帰ってきた。

 僕のような暇人の対応を、一級建築士の資格を持つ美しい女性が当たってくれた。絵を描く僕は、美しい知的な人を観察しながら、神に感謝し、とっても幸せだった、のである。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

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2019.04.28

永遠の生命と六本木ヒルズの結婚式

 

 現代式結婚式に、ここのところとんと縁がなかった。

 ところ、突然滝野川時代の縁でそれに出席することになった。

 

 遅れてはならじと神宮前で電車を降り、タクシーを拾いに原宿駅までハラハラしながら歩いたのは、連休第一日目。人気の場所は人で溢れかえっていた。やっと車を拾うと運転手さんが混んでいるので、方向を渋谷駅の方角から、六本木方面に向かって良いか、というからもちろん承知した。妻も久しぶりで緊張しているようすである。

 しかし、言うまでもないが。

 渋谷の変貌は目を見張るものがあり、特に青山学院の渋谷駅寄りにある生産性本部は、少し縁があり若い時に尋ねたそこを認識できなかったほど、街は様変わりしていた。これなどは書くときりなくあるので、スピードを上げて。恐る恐る51階の結婚式に臨んだ。僕は新婦の側、出席者リストは見事に構成されていて、初めはわからなかったが、食事をしながらゆっくりと観察した。人生はデリケートである。

 

 結婚式そのものの感想はいろいろあるにしても別にして。

 新婦の側の僕は、妻の横におられる方も、私たち同様に新婦側の親戚の方だとリストからわかった。実は僕たちは、新婦の生まれた時からの隣人同士で、偶然隣人になった同じマンションの近所づきあいに過ぎない。で、僕たちが先に滝野川から引っ越して、そのご家族もそのあとで滝野川から引っ越されたのである。が、なんとなく妻同士が仲良くその後も交際し、お嬢さんはすくすくと成長し、結婚式となったのである。約三十年が過ぎていた。

 僕は、この一家にはそのこととは全く別に深い思いがある。

 

 今時のことで、家族のことをあからさまに書くことはできない割には、隣人にはある有名人がいる。Wikipediaにある人で、すぐ見ることができる。僕はもしやとは思ったが、新婦の親戚の方というので、若いハンサムな妻の横の親戚の人に、ご親戚に有名な画家がいるのを、ごぞんじですか、と聞いてみたのである。その方も、どうも新婦と同じ年のようで、あるが全く知らない、いえ知りません。本当ですか。マー、本当です。僕も画家の端くれですから、などと言ったのである。

 というほど、Wikipediaに名前のある人は有名な人なのである。

 いや、なに、実は有名な画家で先日も、日本橋高島屋の隣にある不忍画廊で、回顧展がありました。などと、話したらびっくりしていた。

 ある程度、この話にはデリケートなところがあって、これ以上は今の人は、たとえご親戚でも知らなくてもいい話なのかもしれない。新婦の父上さえ、あまり詳しくは知らない話なのである。が、父上は、実はとっかかりぐらいは知っているのである。つまり、この話は日本の暗い社会思想と関わっていて、結婚式にはふさわしくない、話だと。思っている。が、僕は、そっちの方が、僕の興味の対象である。

 僕は、その画家のことをここのところ真剣に調べているから、新婦の仕草の中に、多少はその面影を見るのである。特に父上は、まさにその画家の近いご親戚であるので、よく似ていて(写真の)。僕にとっては、その仕草に親しみを感じるのは、その有名な画家の性格や事績を彷彿させるところが、あるからである。

 

 で、僕は、さてどうしたものか、迷ったのである。

 が、僕はそのハンサムな青年に(素敵な子供さんと奥様がいるが)、画家の名前を言った。当然、彼はスマホで調べ、僕に。この人ですか、というので。「はい」と答えた。

 僕の尊敬するその画家が、パリで生活しているときに。日本から亡命してきたある社会思想家をかくまった話は、日本史にあることなのである、とまでいう時間はすでになかった。

 

 51階から観る今日の景色は、先人たちの血の結晶である、と見てしまう自分は。なんとも因果であると、は思っている。が、フルコースの特別料理を全部平らげて今度は、電車で有楽町に出て帰ってきた。

 疲れたが幸せな一日となった。いただいた引き出物、イタリヤ生のリチャードジノリは。一千七百三十五年に創立された会社である。その白く大きく清楚な白磁は、かつて日本と同盟国であったイタリヤのものだと、それを部屋に飾り。

 その画家を偲んだのは、多分僕と妻だけであろう、と思っている。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.26

永遠の生命とコラムニスト吉倉撰(あつむ)のこと

 

 ここ祖父ネットの読者は、いないと思うが、そんなことは一向にかまやーしない、どんどん書くブロガーたるわたしは。

 ここに来てコラムニスト吉倉撰と再会することになった。

 言葉がますます安っぽくなって、お気の毒ですとか再び繰り返しては、ならない。二度とあってはならない、などとジャーナリズムは同じことばかりをいう。悲劇の現代に、未来などあるわけもない。が、あの頃は、そんなことはなかった。と、思う。吉倉はあの頃のジャーナリストである。

 コラムニスト吉倉は実は有名である。が、朝日新聞のコラムニスト誰々さん、と言って。それを知る人は、そんなにいないのではないか。と同じで、山口新聞のコラムニストだった吉倉あつむ(撰)を知る人など、皆無であろう。彼は今かなりの年だ。昭和五年生まれ、というから僕より十歳も上である。

 

 その彼に、用があって電話を入れた。

 だいたい、生きているかなというのが、僕の心配で。恐る恐る電話した、すると豈図らんやいつもの美しい声の奥さまが出て、あら遠い名前の〇〇さん、とかなんとか言って、当人が出てきた。時には、正直びっくりした。

 そのコラムの三百選が本になり、僕の手元に一冊残った(四季風)。

 もちろん当人からのプレゼントのもので、その後何冊か買って人にあげたりした。今でも山口新聞で売っていると思う。早速今日、ジュンク堂に行ってさらに買うつもりだ。意外に安い。そんな自分であるが、なぜ、今更であるか。

 と少し説明すると、長くなると思うので、あっさりとまず書くことにする。

 

 吉倉さんと会ったのは、かなり昔の新橋の、あるビルのなん階かの、ある出版社でのことである。

 この場面の想(おもい)は実は、満州の荒野にまで行く。

 が、とりあえず新橋で。彼と始めてあった。まだ、お互いに若く、狭い部屋の突き当たりの錯乱した机の上で何やら書いていた人が、振り返って僕にぶっきらぼうーに言った。社長、いねーな。何か用。という割には、自分の会社の名前を言うと、そうかい。入りな、で僕は奥に入った。細ながい部屋で、どん詰まりの机までいった。要件を手短に言うと、そうかいコーヒーでも飲みに行くか。で、近くの喫茶店で対峙した、のがここで書く吉倉さんなのである。

 この人の話が、結局満州の広野(荒野)まで行くとは、思わなかったのは当然である。

 吉倉さんに電話を入れたのは、島田清次郎のはじめの恋人が吉倉和歌子で、ひょっとすると同じ金沢の出身の吉倉さんと親戚かな、と思って久しぶりに電話した、わけである。結果は違っていて。僕の明治維新の頃の親戚では、女の名前に子がつく人がいないし、親戚ではないね、といったのは、どうも車椅子らしい。暖かくなったら、僕は彼を見舞うつもりだと、といったのは、転んで脊椎をいため、このごろやっと少し歩けるようになった、と電話口で言ったからである。彼は、金沢大学文学部の出身で、同じ金沢の島田清次郎が、明治学院で学んだことがある、と言うことに興味を示し。では暖かくなったら行きますよ、と言って電話を切った。

 

 で、一茶を。書くと。

 小便の みぶるひ笑え きりぎりす (寛政年間)で。

 僕が前回書いた、アメリカの世界的神学者R・ニーバーがコラムに出るから(324ページ)、新聞コラムは侮れないのである。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.25

「永遠の生命」と「島田清次郎からの卒業」とは言え

 

 そう簡単には、卒業証書は渡してくれない、ようだ。

 小説「地上」は、まだまだ読んだとは言えないから、読まなければならない。今朝も読んでいた。

 其の中で、島田の初恋の人吉倉和歌子の手紙がある。

 

 和歌子の母親は、彼女の幼い時、当時朝鮮で官僚だった父親の関係で、今の韓国にいた。しかし、其の母は、和歌子を守って虎に食われて死んだ、という話がすでに書かれている。で、今の母は継母(僕はけいぼ、と読む)なのであるが、色気ずいた娘の動向が気になって、色々ちょっかいを出す。それが気にいらないという、内容の文面で。大正期の、燃え上がる女性の若々しい気持ちが書かれた貴重な手紙である。で、少し引用してみよう。美しい、昔のおんなが匂い立つ文章である。

 今日はわたしは学校から帰って庭に出てあなたのことを考えていました。今日はどうしてか学校からの帰り道でお会いしなかったのが気が悪くて仕方がございませんでした。すると隣の深井のお坊ちゃんがわたしをよびなさったのです。

 わたしは何もかも存じておりました。ほんとうにわたしはすみません。でもわたしにはどうしてよいか分からなかったのでございますもの。ほんとにわたしはあなたのあれ(本では、あれ、にわざわざ点がふってある)でございます。わたしは今、うれしくてじっとしておれないのです。わたしは仲よくしていただきたいのです。でもわたしはそんなに仲よくしていただけるのかしら。

 気がせいて思うことが書けません。

 

 と、続いていく。興味のある方はいないとは思うけれど、本文は青空文庫にあるはずです。で、最後の署名、なつかしき大河平一郎様吉倉和歌子、となる。で、さらに。ある芸者の話がでる。そこを書くと、こうだ。

 しかし彼女にも、たとえそれは極めてエロチックであるにせよ、熱烈な恋愛はなかったわけでもない。彼女がまだ十八の正月、三郎さんというこの街一の呉服屋の息子で、高等学校の学生が彼女にしきりに打ち込んで来た。若々しい力に充ちた三郎さんの坊ちゃんじみたところが、、無性に彼女には恋しくなった。彼女は三郎さんに会うときだけは一切の手管(彼女は売られた芸者だった)を脱去して一筋な情熱に奮い立った。恋愛の力が妖艶な彼女をどれほど美しく輝かしたかは三郎さんのみが知ろう。お幸にとって肉欲の錯雑が深いだけに一日中三郎さんを離されなくなってしまった。三郎さんは学校(旧制四校・今の金沢大学)を休む、お幸にとって肉欲の錯混が深いだけに一日中三郎さんを離されなくなってしまった。三郎さんは学校を休む、お幸は座敷に出ないで、毎日毎夜二人は熱病人のように一室に籠もったきりだった。しかし三郎さんの家の番頭が三郎さんを連れてゆき、電話で一日中話し合うので電話を一時取りはずしたりしているうちにお幸の情熱も沈潜してしまったのである。「三郎さんのことだけはいつまで経ったって忘れることじゃない!」と彼女は言ったが、それが最初のそして最後の「我を忘れた」恋愛であり快楽であった。

 

 と、書いたのである。これは部分を引き出して其のごく一部を書いたに過ぎないので、本当の色街の、大正時代の金沢の恋愛情感は伝わらないだろう。しかし、島田清次郎は、エロチックという素晴らし言葉を用いて、最近ではすっかり色あせた男女の性的感覚を復活させてくれる。西洋で言えば、クリムトの絵画のように、妖艶で純粋な男女愛を伝えていたのだ、とわかる。

 わたしのように、同じような歳で、明治学院ですっかりキリスト教的禁欲を会得したものは、かなりの神学的インテリには成長したが、その性はいささかひねくれていたと思う秋の風である。と、わかるのである。

 

 そこで、金沢と長野と東京を結ぶ俳人一茶の句を一句、書いておこう。

 

 いつ逢(あは)ん 身はしらぬひの 遠がすみ (一茶三十歳寛政年間作詞の句・岩波文庫から)

 

 

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 筒井友美作品。

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2019.04.23

「永遠の生命」と「島田清次郎からの卒業」

やっと、島田清次郎の呪縛が解けた。ようだ。中退しているとはいえ、明治学院の先輩である島田を読んでいると。これが、二十歳の青年の文章であるか、とやはり思う。天才と謳われたことは、間違いのないことで。確かに、当時女性問題で、あれほどの非難を受ける理由は、今ならどうであろう。女性が、解放されていない大正時代。無理矢理に女性を世間に晒してしまうと、家族や社会の怒りは、信じられないほど強烈である。それによって、流石の島田も精神病を発症したようだ。あそこまで晒し者にされると、天才島田も人を信じることが、できなくなる。当時は、それが、貧困をも意味した。合理的判断ができなくなるのであろう。

 それにしても、短い期間に明治学院で、キリスト教に触れたのは彼が17歳、の時。私も其の年齢で洗礼を受けたので、他人事とは思えないところがある。で、こだわったのであるが、私の時は日本がもろに敗戦した時代だった。またそれは、あの時代は時代で、キリスト教は問題を抱えていたのである。あの戦争は、世界史上最大の戦争で、死者数、負傷者数、参加国、被害国、加害国など。ともかく戦禍の一部は、いまだ未解決である。そんな時、活躍した神学者たちは、キリスト教会ばかりでなく、一般の耳目をも騒がせていたようだ。

 

 僕は、要するに高校生で子供だったから、よくわからなかった、が。天才の島田をもってして、僕らのあの時代を、小説や思想として、あの歳で何かを創作できたかどうか。もちろん彼は、天才と言われたのであるかあら、私などが云々することではない。が、ともあれ。島田の陥った自由の呪縛と、戦後の自由の解放には、なんらかの共通点が見出される。と、思うのである。反対もまた、真なり、なのではないか。自由、という概念は。戦後本格化するが、いうまでもなく戦前から文化として存在していた西洋思想、であることは、正しいことであろう。日本には、掛け声はあっても、戦後に実現した民主的なものを基盤にした本格的自由は、まさに戦後に実現したものに過ぎない。この辺りの、思想史的問題は、ともかく。面倒である。

 其のころに、キリスト教思想家で、ブルンナーかバルトかニーバーという人に、私は今でも、救いを求めざるを得ない。其の中で、前者二人は、何かと高校生の時から読んでいる。が、最後のニーバーは、まだ全然読んだことがない。島田をボツボツ卒業し、本格的なキリスト教的「永遠」問題に入らないと、いけない時期がきた、と思っていたので。途端、ニーバーを読む必要が出た。ニーバーこそ、現代神学の、なんともいえない高い神学者であるからである。で、僕は今日、国会図書館に行き、ニーバーを読もうとしたら、それはすでにデジタル化されていた。

 今日は本当は、佐倉の川村記念館美術館に行き、ロスコの絵画を研究し、島田の時代をそぎ落としてみようと思っていたのである。で、色々迷っているうちに、ニーバーに出会い、その日は国会図書館でニーバーを読むことにした。同じ、人間の苦しみなのであるが、島田の日本人的な苦悩とは別に、キリスト教的に純粋なキリスト教的苦しみが、今の私にはある。で、島田を卒業し、ニーバーを読んで。自分が洗礼を受けた高校生の頃の、世界のキリスト教的思想と状況と、今の自分を感応させることにした。それは、ニーバーの著書「アメリカ史の皮肉」(オーテス・ケーリー和訳、英語原書1951年、国会図書館デジタルあり、古書約現在七千円前後現売)という、素晴らしい翻訳本に、それは書かれていることなのである。

  ◯◯◯◯

 筒井友美作品。

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2019.04.18

永遠の生命と国際ペンクラブと島田清次郎

 

 

 島田が、日本で初めての国際ペンクラブ会員である、と杉森久英は書いた。

 しかし、現在のWikipediaがペンクラブを書くのに、そのことは一言も触れない。

 初代の会長はゴールズ・ワージーである、と書いてある。その会長から、会員として島田は推挙されたのだから、正式の会員である。日本にはその頃、国際的に通用するないしは国内的にも通用する、日本ペンクラブは存在していない。国際ペンクラブとて、島田が出席した時が初めての会合で、まだまだヨチヨチ歩きに過ぎない。ワージーはノーベル文学賞を取っている。

 このような時、紛れもなく正式の会員だと、言われた島田清次郎は、ともかく高揚したようだ。

 当然であろう。

 

 自分が日本の文学界をリードするのだ、と志を持ったとして。いったいそれは、彼の罪だろうか。ともかく、自分をプリンスシマダと言ったのは。大日本帝国の本物のプリンスが、大英帝国皇室を訪問していた時期と一致したかららしい。時を同じくしていたので、文学的な諧謔を込めて、彼は自分を。プリンスシマダ、と言ったに過ぎないのでは、ないか。この辺りは、誰にもわからない。

 しかし、なぜそれが悪いのか。ウィキには一切、島田清次郎が。日本の文学界の初めの会員である、と書かないのか。僕はわからないのだ。それは、彼が、単に生意気であるに過ぎないし。若いから、有頂天になっていることが、日本人には許せなかったようだ。このあたりの分析によれば、彼の傲慢と世間の嫉妬とが、見事に絡み合って。彼を狂わせていく。

 が、彼が小説に書いた「明治学院」を読んでいると、彼の明治学院(あるいは西洋文明)に対する清新で綺麗な、澄み切った気持ちは書かれていても、とても狂う人とは思えない素晴らしい物書きでると、知る。

 

 こんなところから、島田清次郎研究の切り口は、まだまだ奥が深そうである。

 が、彼のベストセラー「地上」には、M学院として明治学院が登場する。それは其の巻の最後の部分に書かれている。いわば四部作の第一部であるが、其の副題として島田は、「地に潜むもの」とした。彼の小説は社会小説だと分かれば分かるほど、彼は社会から抹殺されていく、のだ。ということが明確になっていく。

 実は、明治学院の文学部で勉強した僕は、どうして明治学院にもっとまともな文学者が出ないのか。前から不思議であった。それなら自分でやったらどうだ、という声が聞こえるが。それは、キリスト教と絡む(関係する)ゆえに、そう簡単にはいかないということが、本音だ。キリスト教で、小説家として飯が食えたのは遠藤周作一人ではなかろうか。遠藤は明治学院ではない、上智大学に絡む慶応大学出のカトリック教徒だ。Wikipediaから書くと。

 父親の仕事の都合で、幼少時代を満洲で過ごした。帰国後の12歳の時に伯母の影響でカトリックの洗礼を受けた。1941年上智大学予科入学、在学中同人雑誌「上智」第1号に評論「形而上的神、宗教的神」を発表した(1942年同学中退)。

慶應義塾大学文学部仏文科を卒業後、1950年にフランスのリヨンへ留学。帰国後は批評家として活動するが、1955年半ばに発表した小説「白い人」が芥川賞を受賞し、小説家として脚光を浴びた。

 

 ところで、

 明治学院の島崎藤村は、大正三年、1914年。四十二歳の時「桜の実の熟する時」の連載を始める。

 僕は、この桜の実、こそ島田が真似を(参考にした)したものと観測していた。しかし、それらをよく読むと、もちろん明治学院の当時のたたずまいの記述は、よく似ている、が。それは、実際を見て書いているからである。島田清次郎は、小説「地上」を刊行すると、それは一種の模倣ではないか、と悪意として最終的には指摘され、文壇から抹消されたのではないか。などと、僕も考えもした。

 しかし、それを内容から見れば、藤村のキリスト教と、島田の其の態度には明らかな相違がある。藤村作品を盗作し、島田がベストセラー「地上」を書いたとするには、いささか無理がある、と思うようになった。抹殺された理由を探るのは、実際日本文学界から抹殺されたからである。

 

 などと書いて、DVDを見ると。

 要するに、工場にストライキが起こり、それを指導するのは友愛会、という有名な労働団体、となる。其の対策をするために、東京本社からお偉いさんが現れ、まだ手つかずのうぶな役を背負う香川京子を、いわば芸妓が、その夜の接待役になる、という、見慣れた。今見ると、だらしない、いやらしいくくさい男の、よく知る貫禄のある俳優佐分利信、などであるから。と、急に見る気がしなくなる。ので、あまりにも露骨だ。

 嫌になりDVDをやめて、この文章を書き始める。一体、どうしてこうも陰湿が濃厚なのか。これがまさに本当の、島田新次郎の環境なのである、か。其の中から、ともかく東京に行き明治学院に入る。

 青年らしく、初々しく。全てが貧しいものへの目線として、書かれていく。それで聖書を読む環境ができるのであるが、この落差も実に辛い。が、あの時の、日本の紛れもないリアリティなのである。か。

 確かに、自分の中にも戦前は残っているし、本当に、嫌な日本の陰湿な原風景なのである。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.17

永遠の生命と明治学院と島田清次郎と、さらなる永遠

 

 展開があまりに複雑化して、全然雲を掴むような話になる。

 

 だいたい、島田のことが。明治学院図書館の奥の奥から、長く眠っている島田の本を引き出し。脈絡も意味もなく、一人の老人が。

 

 なんで、そんな本を今更研究しているのか。

 

 興味を持っている私自身が、自分に問いかけるのだが。それが、僕の永遠の生命の探求、につながると思うからである。と、言うことは簡単であるが、内容はいたって面倒な問題である。

 

 この気宇壮大なテーマは、まさにキリスト教の真髄なのであると知る、ことだけはできる。

 

 老人になって、いざ永遠の生命へ、などと目標を定めた途端、それは見事に目前から消え。人にとても説明できるテーマにはならないのが、実情である。その関連で、明治学院が出、島田が、出る。要するに、永遠の生命を考える中で、島田清次郎を考えている。島田も十五歳で明治学院に入ったが、島崎藤村も十五歳、なのではないか。僕も、十五歳なのか。島田はごく短い一年半の間に、聖書を読み、他の神学書などもこなして、その読書量は相当のものになったと推定できる。僕と比べてもしょうがないが、下手をすると、藤村より勉強したのではないか。

 

 結局、私にすれば、明治学院高校の時の教科書。神学者ブルンナーの、「永遠」を、まだ何度も読まなければ、ならなくなる。のではないか。

 

 島田清次郎が、聖書から人類救済という観念に取り憑かれて、小説を書いたのか。今のところわからない。

 

 が、図書館で昼になり、放送で。自由参加の礼拝が始まります、とアナウンスがあっても。僕は、自由参加の礼拝堂に行ったわけではない。久しぶりなので、礼拝は今どうなっているのか、と図書館に入る前には考えてはいたが。出席する気持ちは、なかった。そんなことで。もっぱら図書館で研究していたのであるが、それは島田のキリスト教との関係を探っていたのである。

 

 彼は巣鴨の養護院で、その一角にある現在の松沢病院の前身となる。特別に作られた病室から退院した、ようであるが。長年の結核のため、若い命を終わるようだ。その終焉の地に立って、彼の小説「地上」を読んでいると。なんとも、当時の人の心の動きの。過ぎ去ったときに対する、作法のようなものが、どのようなものか戸惑う。とても、今の私などが、想像も及ばないことである。

 

 結局、短い人生を送る人の、小説の中の永遠の生命は、そもそもあるのであるか。

 

 あの社会主義が表面化する大正時代の、島田清次郎の高い社会的志は。結局、誇大妄想として精神科の医師に認定されても。彼から発する、キリスト教的真実は、しかし、決して狂ってはいないのだと、言っておきたいのである。

 

 で、僕も、このブログで、これからもさらに永遠の生命を求めて、島田清次郎を書いていきたい、と思っている。

 

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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永遠の生命と明治学院と島田清次郎と、さらなる永遠

 

 展開があまりに複雑化して、全然雲を掴むような話になる。

 

 だいたい、島田のことが。明治学院図書館の奥の奥から、長く眠っている島田の本を引き出し。脈絡も意味もなく、一人の老人が。

 

 なんで、そんな本を今更研究しているのか。

 

 興味を持っている私自身が、自分に問いかけるのだが。それが、僕の永遠の生命の探求、につながると思うからである。と、言うことは簡単であるが、内容はいたって面倒な問題である。

 

 この気宇壮大なテーマは、まさにキリスト教の真髄なのであると知る、ことだけはできる。

 

 老人になって、いざ永遠の生命へ、などと目標を定めた途端、それは見事に目前から消え。人にとても説明できるテーマにはならないのが、実情である。その関連で、明治学院が出、島田が、出たのである。要するに、永遠の生命を考える中で、島田清次郎を考えているのである。島田も十五歳で明治学院に入ったのであるが、島崎藤村も十五歳、なのではないか。僕も、十五歳なのか。島田はごく短い一年の間に、聖書を読み、他の神学書などもこなして、その読書量は相当のものになったと推定できる。僕と比べてもしょうがないが、下手をすると、藤村より勉強したのではないか。

 

 結局、私にすれば、明治学院高校の時の教科書。神学者ブルンナーの、「永遠」をまだ何度も読まなければ、ならなくなる。のではないか。

 

 島田清次郎が、聖書から人類救済という観念に取り憑かれて、小説を書いたのか。今のところわからない。

 

 が、図書館で昼になり、放送で。自由参加の礼拝が始まります、とアナウンスがあっても。僕は、自由参加の礼拝堂に行ったわけではない。久しぶりなので、礼拝は今どうなっているのか、と図書館に入る前には考えてはいたが。出席する気持ちは、なかった。そんなことで。もっぱら図書館で研究していたのであるが、それは島田のキリスト教との関係を探っていたのである。

 

 彼は巣鴨の養護院で、その一角にある現在の松沢病院の前身となる。特別に作られた病室から退院した、ようであるが。長年の結核のため、若い命を終わるようだ。その終焉の地に立って、彼の小説「地上」を読んでいると。なんとも、当時の人の心の動きの。過ぎ去ったときに対する、作法のようなものが、どのようなものか戸惑う。とても、今の私などが、想像も及ばないことである。

 

 結局、短い人生を送る人の、小説の中の永遠の生命は、そもそもあるのであるか。

 

 あの社会主義が表面化する大正時代の、島田清次郎の高い社会的志は。結局、誇大妄想として精神科の医師に認定されても。彼から発する、キリスト教的真実は、しかし、決して狂ってはいないのだと、言っておきたいのである。

 

 で、僕も、このブログで、これからもさらに永遠の生命を求めて、島田清次郎を書いていきたい、と思っている。

 

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.16

永遠の生命と明治学院と島田清次郎と

永遠の生命を教えてくれたのは、明治学院である。島田は、たった一年、高輪の豪邸から明治学院に通った。僕は、十年も通って、その僕が七十七歳になって明治三十二年生まれの島田を調べに、明治学院にいく、というのだから。呆れたものである。季節社という出版社が2002年に出した、島田清次郎「地上」の解説によれば。可哀想に、「この本は、貧しく学歴もないまったく無名の二十歳の青年の作品である。」と、なっている。なんと、無情で、一方的な断定であるか。それなら、なんで僕が、明治学院まで行って。島田の資料を観ているのであるか。と、憤りを感じた。明治学院は、学校ではないということか。

 新入生で混んでいる明治学院大学の図書館で、僕は。まず、島田が二十歳の頃に新潮社から出した、本。「地上」四部作四冊を出した。それは丁寧にビニール袋に保存されていて、係りの人が僕に本を渡す時、壊れていますから大切にと注意をしてくれた。僕は、その本を大切に持って、道路ぎわの明るい場所を選び、おもむろに読み始めた。深くはまだわからない。が、第一部は270版定価1円30銭、郵送料八銭、第二部は二百五十刷、第3部は二百三十一刷などと第四刷まで記録したが、それらは昭和2年の250版もので、大正9年に印刷され、発行されたもののようだ。詳しくは、まだまだ調べねばわからないことだらけだ。それらの、関連本として佐藤春夫の小説「更正記」が、あると知り、それも出してもらった。昭和29年筑摩書房が、現代日本文学全集30、として出したものの中に入っていた。で、島田清次郎の創作の本質を極める、という意味で。それぞれの巻に必ず掲げられた、巻頭言を書いておきたい。それは、すべて聖書から引用している。第1巻のものは、すでに書いたが、わかりやすくするために、もう一度書いておこう。

第1部虐げられたる者の涙流る 之を慰むる者あらざるなりーー伝道の書、第2部こは速やかに来るべし。されどその時と日は神の子といへども知る能はずーー1927、第3部神、「人もし全世界を得ると雖も その生命を失はば何かあらんや。」人、(涙含みながら)「神様、私は生命のために全世界が欲しいのでございます。」ーー1921、第4部光は暗きに照り、暗きはそれを暁(て)らさざりきーー1922 ヨハネ伝第十一章

 なにせ、久しぶりの図書館で(昔はよく利用していた)せっかくあったカードも破棄してしまっている。ので、新たにそれも作ってもらうことにし。帰ってきた。地下鉄南北線に乗るために、明治学院の正面ゲートを出ようとすると。時の大衆小説家長谷川伸の、大きな日本家屋が今も厳然と慄然と、少し高い崖の上に建っているのが見える。その建物は、僕が十年間通っていた時から、あまり変わらない姿だ。が、今や。その経緯を知る人もいないと、思いながら。坂を下り。その建物の主、長谷川伸は。昔の、第一高等学校教授、第二次世界大戦の最中に死んだ三谷隆正の腹違いの兄、であると知る。のは、僕が明治学院を卒業して、かなり後のことである。長谷川は弟の、帝大を卒業した三谷と違い、造船少年工から身を起こした人だ。などと、思い出しながら、八芳園の方向に向かった。三谷は、明治学院の中学校から、一校、帝大を卒業し。母校の教授になり、無教会派の勉強会を開いていた人と知るのも。かなり後の話なのである。と、島田が、明治学院に通ったという痕跡は。まさに小説「地上」の冒頭から、聖書が引用されている事実から明らかであると、思う。が、彼の明治学院は、彼の学歴を飾らなかった、ということなのだ。本の一番後ろに書いてある、島田の短い経歴の中にも一切書かれていない。そこに書かれた学歴は、県立第二中学校中退、と一つあるだけ。明治学院も中退なのだから、書いても良いではないかと、ムッとして。帰ってきたのである。

 本を売るために、精神病者としてピエロ化にされた、真面目な島田先輩のために。まだまだ図書館通いを、しなければならないとあらためて決心した。僕は学生に戻り、一番安いラーメン三百十円を昼飯に食って、帰ってきた。

 ◯◯◯◯

 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.15

永遠の生命と島田清次郎原作、映画「地上」のDVD

 

 直木賞を受賞した杉森久英の、

 「天才と狂人の間」(島田清次郎伝)を読みながら。島田の小説「地上」も併読し、少しづつDVDも観ている。

 前回も書いたが、ほとんどの俳優を覚えている。

 

 映画の設定年代は大正中期の金沢。物語は島田清次郎の物語。島田の、「地上」という小説は、国会図書館デジタルで少し読んだに過ぎない。が近々、明治学院大学で閲覧するつもりでいる。で、島田終焉の病院、巣鴨保養院の跡地を見学した。そこは現在、巣鴨北中学校で、有名建築家が設計改築中である。

 小説のスケールは非常に巨大。で、二十歳で天才と言われ、世にでる。新潮社が出した。

 その伝記である杉森久英の、直木賞作品も巨大なら、映画ももちろん巨大だろう、ポツポツ観ている段階だ。

 DVDの箱に書かれているのは。ひたむきな十七歳の初恋、という。その舞台の始めの頃は、芸者置屋の実景と人間関係。凄まじい。今では考えられない強烈な人間臭さ。今の世の中には、全く「ない」ものだ。

 

 僕は、その映画をかつて見ていたのではないか、とふと思ったのだ。要するに、出演者全員に記憶がある。

 この辺りに、ゾッとするが。それら俳優の動作や台詞は、手に取るように覚えている。もちろん全体の流れとして、であるが。まさに覚えているのである。田中絹代、のお母さんの表情は、あれだ。若い娘を買って、まず自分で犯そうとする下宿先の置屋の亭主。のあの所作、まさに彼の顔と服装と、歩き方と声と、女房の動きを見定めて行動する、彼の夜の行動の全てが。自分の脳裏に残っている。

 一方、工場見学をする川口浩(主人公)の表情とその意味も、実に男らしい美男子ぶり。野添ひとみのお嬢様ぶりも、板について魅力的だ。あんなに、いい男と女、だったのか。しかし、なぜかこの二人の記憶だけは、曖昧である。

 私たちのような、あの時の青年の純情を見事に表している。が、記憶というより自分そのものである。

 

 嫌な、すけべーオヤジをその時は、嫌悪の気持ちを持って。狙われる、香川京子が演じる処女のウブな瞳に、僕は同情していたに違いない。が、今はどうだろう。人生経験を通してみると。あの時代の大人の、あの律動に意味を感じる。無道は、なぜ生じたのか、本当にあったのか。それを、悪として書いた脚本の名人進藤兼人は、見事というべきか。しかし、あれが、実態か。単なる、お芝居か。

 ひどいと思って見ていた若い自分が、なんとも懐かしく思い出される。僕は、DVDを途中で止めて。一息つかないわけにはいかなかった。

 巣鴨は、見事な見学となった。今、巣鴨北中学校は改築中だ。工事用の仮囲いが周辺一帯にあり、その規模の大きさがわかる。かつてホームレス用の養護院(精神病室のある・だから巣鴨病院ともいう)のあった、いわゆる近所の僕(駒込にいた)などが、お地蔵様通りと言った西巣鴨寄りの。大正大学の隣である。

 庚申塚で都電を降り、私がよく知る明治女学校碑をまず久しぶりで拝見し。回り込んで北中学校を目指した。

 むかし、東大の学生寮があったところは。規模のでかい瀟洒な海外留学生寮に建て替えられている。が、その周りは昔のまま。人一人通れる路地が入り組んで、このあたりの雰囲気に、「しびれて」しまう僕だ。なんだか、恋人と一緒に怪しげな路地をうろうろしている、若い僕を想像してしまう。

 ところで、小説「地上」の書き出しとなる、下の言葉。それは旧約聖書から島田清次郎が引用したものだ。彼が、明治学院の学生だった時、間違いなく聖書に読みふけった彼の痕跡が、冒頭である。

 

 ^^^

 

 虐げらるゝ者の涙流る

 之を慰むる者あらざるなり  

 

 傳道之書

 

 ^^^

 この伝道の書は、現代聖書では(コレヘトの言葉)に表題が変わり果てている。昔は、僕が明治学院の中学生で習った時は、まさに伝道の書。であり、それは同じ文語体の聖書なのだ。島田が、間違いなく読んだものも文語体の聖書なのである。その、四章1節の中に、この言葉がある。なぜ、彼は、この言葉を拾い出したのか。

 僕は、小学校側の庚申塚通りからオープンの構内に入り、大正大学構内を正面ゲートから抜けて、明治通りに出た。近くのコーヒーショップで、「天才と狂人の間」(昭和三十七年初版)を読み上げ、西巣鴨交差点の都バスで池袋に。世界堂でブックカバーを買い家に。

 読み上げた本に、丁寧に透明カバーをかけた。

 あの場所で精神病は完治したのに、すぐ結核で死んだと言われる島田清次郎の影を追った1日だった。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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永遠の生命と島田清次郎原作、映画「地上」のDVD

 

 直木賞を受賞した杉森久英の、

 「天才と狂人の間」(島田清次郎伝)を読みながら。島田の小説「地上」も併読し、少しづつDVDも観ている。

 前回も書いたが、ほとんどの俳優を覚えている。

 

 映画の設定年代は大正中期の金沢。物語は島田清次郎の物語。島田の、「地上」という小説は、国会図書館デジタルで少し読んだに過ぎない。が近々、明治学院大学で閲覧するつもりでいる。で、島田終焉の病院、巣鴨保養院の跡地を見学した。そこは現在、巣鴨北中学校で、有名建築家が設計改築中である。

 小説のスケールは非常に巨大。で、二十歳で天才と言われ、世にでる。新潮社が出した。

 その伝記である杉森久英の、直木賞作品も巨大なら、映画ももちろん巨大だろう、ポツポツ観ている段階だ。

 DVDの箱に書かれているのは。ひたむきな十七歳の初恋、という。その舞台の始めの頃は、芸者置屋の実景と人間関係。凄まじい。今では考えられない強烈な人間臭さ。今の世の中には、全く「ない」ものだ。

 

 僕は、その映画をかつて見ていたのではないか、とふと思ったのだ。要するに、出演者全員に記憶がある。

 この辺りに、ゾッとするが。それら俳優の動作や台詞は、手に取るように覚えている。もちろん全体の流れとして、であるが。まさに覚えているのである。田中絹代、のお母さんの表情は、あれだ。若い娘を買って、まず自分で犯そうとする亭主。のあの所作、まさに彼の顔と服装と、歩き方と声と、女房の動きを見定めて行動する、彼の夜の行動の全てが。自分の脳裏に残っている。

 一方、工場見学をする川口浩(主人公)の表情とその意味も、実に男らしい美男子ぶり。野添ひとみのお嬢様ぶりも、板について魅力的だ。あんなに、いい男と女、だったのか。しかし、なぜかこの二人の記憶だけは、曖昧である。

 私たちのような、あの時の青年の純情を見事に表している。が、記憶というより自分そのものである。

 

 嫌な、すけべーオヤジをその時は、嫌悪の気持ちを持って。狙われる、香川京子が演じる処女のウブな瞳に、僕は同情していたに違いない。が、今はどうだろう。人生経験を通してみると。あの時代の大人の、あの律動に意味を感じる。無道は、なぜ生じたのか、本当にあったのか。それを、悪として書いた脚本の名人進藤兼人は、見事というべきか。しかし、あれが、実態か。単なる、お芝居か。

 ひどいと思って見ていた若い自分が、なんとも懐かしく思い出される。僕は、DVDを途中で止めて。一息つかないわけにはいかなかった。

 巣鴨は、見事な見学となった。今、巣鴨北中学校は改築中だ。工事用の仮囲いが周辺一帯にあり、その規模の大きさがわかる。かつてホームレス用の養護院(精神病室のある・だから巣鴨病院ともいう)あった、いわゆる近所の僕(駒込にいた)などが、お地蔵様通りと言った西巣鴨寄りの。大正大学の隣である。

 庚申塚で都電を降り、私がよく知る明治女学校碑をまず久しぶりで拝見し。回り込んで北中学校を目指した。

 むかし、東大の学生寮があったところは。規模のでかい瀟洒な海外留学生寮に建て替えられている。が、その周りは昔のまま。人一人通れる路地が入り組んで、このあたりの雰囲気に、「しびれて」しまう僕だ。なんだか、恋人と一緒に怪しげな路地をうろうろしている、若い僕を想像してしまう。

 ところで、小説「地上」の書き出しとなる、下の言葉。それは旧約聖書から島田清次郎が引用したものだ。彼が、明治学院の学生だった時、間違いなく聖書に読みふけった彼の痕跡が、冒頭である。

 

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 虐げらるゝ者の涙流る

 之を慰むる者あらざるなり  

 

 傳道之書

 

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 この伝道の書は、現代聖書では(コレヘトの言葉)に表題が変わり果てている。昔は、僕が明治学院の中学生で習った時は、まさに伝道の書。であり、それは同じ文語体の聖書なのだ。島田が、間違いなく読んだものも文語体の聖書なのである。その、四章1節の中に、この言葉がある。なぜ、彼は、この言葉を拾い出したのか。

 僕は、小学校側の庚申塚通りからオープンの構内に入り、大正大学構内を正面ゲートから抜けて、明治通りに出た。近くのコーヒーショップで、「天才と狂人の間」(昭和三十七年初版)を読み上げ、西巣鴨交差点の都バスで池袋に。世界堂でブックカバーを買い家に。

 読み上げた本に、丁寧に透明カバーをかけた。

 あの場所で精神病は完治したのに、すぐ結核で死んだと言われる島田清次郎の影を追った1日だった。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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永遠の生命と島田清次郎原作、映画「地上」のDVD

 

 直木賞を受賞した杉森久英の、

 「天才と狂人の間」(島田清次郎伝)を読みながら。島田の小説「地上」も併読し、少しづつDVDも観ている。

 前回も書いたが、ほとんどの俳優を覚えている。

 

 映画の設定年代は大正中期の金沢。物語は島田清次郎の物語。島田の、「地上」という小説は、国会図書館デジタルで少し読んだに過ぎない。が近々、明治学院大学で閲覧するつもりでいる。で、島田終焉の病院、巣鴨保養院の跡地を見学した。そこは現在、巣鴨北中学校で、有名建築家が設計改築中である。

 小説のスケールは非常に巨大。で、二十歳で天才と言われ、世にでる。新潮社が出した。

 その伝記である杉森久英の、直木賞作品も巨大なら、映画ももちろん巨大だろう、ポツポツ観ている段階だ。

 DVDの箱に書かれているのは。ひたむきな十七歳の初恋、という。その舞台の始めの頃は、芸者置屋の実景と人間関係。凄まじい。今では考えられない強烈な人間臭さ。今の世の中には、全く「ない」ものだ。

 

 僕は、その映画をかつて見ていたのではないか、とふと思ったのだ。要するに、出演者全員に記憶がある。

 この辺りに、ゾッとするが。それら俳優の動作や台詞は、手に取るように覚えている。もちろん全体の流れとして、であるが。まさに覚えているのである。田中絹代、のお母さんの表情は、あれだ。若い娘を買って、まず自分で犯そうとする亭主。のあの所作、まさに彼の顔と服装と、歩き方と声と、女房の動きを見定めて行動する、彼の夜の行動の全てが。自分の脳裏に残っている。

 一方、工場見学をする川口浩の表情とその意味も、実に男らしい美男子ぶり。野添ひとみのお嬢様ぶりも、板について魅力的だ。あんなに、いい男と女、だったのか。しかし、なぜかこの二人の記憶だけは、曖昧である。

 私たちのような、あの時の青年の純情を見事に表している。が、記憶というより自分そのものである。

 

 嫌な、すけべーオヤジをその時は、嫌悪の気持ちを持って。狙われる、香川京子が演じる処女のウブな瞳に、僕は同情していたに違いない。が、今はどうだろう。人生経験を通してみると。あの時代の大人の、あの律動に意味を感じる。無道は、なぜ生じたのか、本当にあったのか。それを、悪として書いた脚本の名人進藤兼人は、見事というべきか。しかし、あれが、実態か。単なる、お芝居か。

 ひどいと思って見ていた若い自分が、なんとも懐かしく思い出される。僕は、DVDを途中で止めて。一息つかないわけにはいかなかった。

 巣鴨は、見事な見学となった。今、巣鴨北中学校は改築中だ。工事用の仮囲いが周辺一帯にあり、その規模の大きさがわかる。かつてホームレス用の養護院(精神病室のある・だから巣鴨病院ともいう)あった、いわゆる近所の僕(駒込にいた)などが、お地蔵様通りと言った西巣鴨寄りの。大正大学の隣である。

 庚申塚で都電を降り、私がよく知る明治女学校碑をまず久しぶりで拝見し。回り込んで北中学校を目指した。

 むかし、東大の学生寮があったところは。規模のでかい瀟洒な海外留学生寮に建て替えられている。が、その周りは昔のまま。人一人通れる路地が入り組んで、このあたりの雰囲気に、「しびれて」しまう僕だ。なんだか、恋人と一緒に怪しげな路地をうろうろしている、若い僕を想像してしまう。

 ところで、小説「地上」の書き出しとなる、下の言葉。それは旧約聖書から島田清次郎が引用したものだ。彼が、明治学院の学生だった時、間違いなく聖書に読みふけった彼の痕跡が、冒頭である。

 

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 虐げらるゝ者の涙流る

 之を慰むる者あらざるなり  

 

 傳道之書

 

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 この伝道の書は、現代聖書では(コレヘトの言葉)に表題が変わり果てている。昔は、僕が明治学院の中学生で習った時は、まさに伝道の書。であり、それは同じ文語体の聖書なのだ。島田が、間違いなく読んだものも文語体の聖書なのである。その、四章1節の中に、この言葉がある。なぜ、彼は、この言葉を拾い出したのか。

 僕は、小学校側の庚申塚通りからオープンの構内に入り、大正大学構内を正面ゲートから抜けて、明治通りに出た。近くのコーヒーショップで、「天才と狂人の間」(昭和三十七年初版)を読み上げ、西巣鴨交差点の都バスで池袋に。世界堂でブックカバーを買い家に。

 読み上げた本に、丁寧に透明カバーをかけた。

 あの場所で精神病は完治したのに、すぐ結核で死んだと言われる島田清次郎の影を追った1日だった。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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永遠の生命と島田清次郎原作、映画「地上」のDVD

 

 直木賞を受賞した杉森久英の、

 「天才と狂人の間」(島田清次郎伝)を読みながら。島田の小説「地上」を、少しづつDVDで観ている。

 前回も書いたが、ほとんどの俳優を覚えている。

 

 映画の設定年代は大正中期の金沢。物語は島田清次郎の物語。島田の、「地上」という小説は、国会図書館デジタルで少し読んだに過ぎない。が近々、明治学院大学で閲覧するつもりでいる。で、島田終焉の病院、巣鴨保養院の跡地を見学した。そこは現在、巣鴨北中学校で、有名建築家が設計改築中である。

 小説のスケールは非常に巨大。で、二十歳で天才と言われ、世にでる。新潮社が出した。

 その伝記である杉森久英の、直木賞作品も巨大なら、映画ももちろん巨大だろう、ポツポツ観ている段階だ。

 DVDの箱に書かれているのは。ひたむきな十七歳の初恋、という。その舞台の始めの頃は、芸者置屋の実景と人間関係。凄まじい。今では考えられない強烈な人間臭さ。今の世の中には、全く「ない」ものだ。

 

 僕は、その映画をかつて見ていたのではないか、とふと思ったのだ。要するに、出演者全員に記憶がある。

 この辺りに、ゾッとするが。それら俳優の動作や台詞は、手に取るように覚えている。もちろん全体の流れとして、であるが。まさに覚えているのである。田中絹代、のお母さんの表情は、あれだ。若い娘を買って、まず自分で犯そうとする亭主。のあの所作、まさに彼の顔と服装と、歩き方と声と、女房の動きを見定めて行動する、彼の夜の行動の全てが。自分の脳裏に残っている。

 一方、工場見学をする川口浩の表情とその意味も、実に男らしい美男子ぶり。野添ひとみのお嬢様ぶりも、板について魅力的だ。あんなに、いい男と女、だったのか。しかし、なぜかこの二人の記憶だけは、曖昧である。

 私たちのような、あの時の青年の純情を見事に表している。が、記憶というより自分そのものである。

 

 嫌な、すけべーオヤジをその時は、嫌悪の気持ちを持って。狙われる、香川京子が演じる処女のウブな瞳に、僕は同情していたに違いない。が、今はどうだろう。人生経験を通してみると。あの時代の大人の、あの律動に意味を感じる。無道は、なぜ生じたのか、本当にあったのか。それを、悪として書いた脚本の名人進藤兼人は、見事というべきか。しかし、あれが、実態か。単なる、お芝居か。

 ひどいと思って見ていた若い自分が、なんとも懐かしく思い出される。僕は、DVDを途中で止めて。一息つかないわけにはいかなかった。

 巣鴨は、見事な見学となった。今、巣鴨北中学校は改築中だ。工事用の仮囲いが周辺一帯にあり、その規模の大きさがわかる。かつてホームレス用の養護院(精神病室のある・だから巣鴨病院ともいう)あった、いわゆる近所の僕(駒込にいた)などが、お地蔵様通りと言った西巣鴨寄りの。大正大学の隣である。

 庚申塚で都電を降り、私がよく知る明治女学校碑をまず久しぶりで拝見し。回り込んで北中学校を目指した。

 むかし、東大の学生寮があったところは。規模のでかい瀟洒な海外留学生寮に建て替えられている。が、その周りは昔のまま。人一人通れる路地が入り組んで、このあたりの雰囲気に、「しびれて」しまう僕だ。なんだか、恋人と一緒に怪しげな路地をうろうろしている、若い僕を想像してしまう。

 ところで、小説「地上」の書き出しとなる、下の言葉。それは旧約聖書から島田清次郎が引用したものだ。彼が、明治学院の学生だった時、間違いなく聖書に読みふけった彼の痕跡が、冒頭である。

 

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 虐げらるゝ者の涙流る

 之を慰むる者あらざるなり  

 

 傳道之書

 

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 この伝道の書は、現代聖書では(コレヘトの言葉)に表題が変わり果てている。昔は、僕が明治学院の中学生で習った時は、まさに伝道の書。であり、それは同じ文語体の聖書なのだ。島田が、間違いなく読んだものも文語体の聖書なのである。その、四章1節の中に、この言葉がある。なぜ、彼は、この言葉を拾い出したのか。

 僕は、小学校側の庚申塚通りからオープンの構内に入り、大正大学構内を正面ゲートから抜けて、明治通りに出た。近くのコーヒーショップで、「天才と狂人の間」(昭和三十七年初版)を読み上げ、西巣鴨交差点の都バスで池袋に。世界堂でブックカバーを買い家に。

 読み上げた本に、丁寧に透明カバーをかけた。

 あの場所で精神病は完治したのに、すぐ結核で死んだと言われる島田清次郎の影を追った1日だった。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.13

永遠の生命と島田清次郎原作、「地上」の大映DVDから

 

 アマゾンからあっけなく、表記のものが着いたから。

 早速開封し早速少しみた。

 が、私の中に長い間眠っていた、昔の人の私の若い時の「映画」が現れた。のは、感覚を超えている。

 

 なぜなら、この人たちは今、この地上から、全員がいない。少なくとも主要部を構成する俳優たちは、もうとっくにいない、のは当然である。この映画が、ネットによれば、

 

 大正初期のベストセラー作家、明治学院に在籍したことのある「島田清次郎」を原作に。

 新藤兼人が脚色、吉村公三郎が監督。撮影は中川芳久。主演は川口浩と野添ひとみ、田中絹代、佐分利信、香川京子。川崎敬三、小沢栄太郎と。自分の知る俳優さんだけを列記しておくが、誰も生きてはいない、のだ。だが、ここで書いている「島田清次郎」が、明治学院と関係していることこそが。ここ一連の、書きの深さとして目指すところである。

 

 ストーリーは。金沢中学五年(旧制)の大河平一郎は、針仕事で生計をたてている母のお光と(多分おみつ、と読む・田中絹代が演じている)、遊廓裏の置屋(売春婦がスタンバイする場所)の二階で、貧しい暮しを送っていた。

 ある晩、自分の借りている部屋に。冬子という若い女(香川京子が演じている)が飛びこんで来る。

 彼女は、明日。売春宿春風楼に売られることになっていたが、階下の主人に性行為を要求され部屋に逃げてきたのだ。中学生の平一郎は、泣いて嫌だと泣く冬子を見守る。この辺りの不条理描写は、今の人には絶対に書けない、わからない、意味不明であろうと推察するが。学校の授業料にも事欠くような、主人公の生活では何もできないのだ。が。諦めた冬子が、春風楼の下働き(実際は売春婦予備軍)に行こうとするところを、平一郎は反対する。

 

 ということらしいが、先に展開する島田小説の主題は、実際にはかなり明治学院的キリスト教的哲学的に展開するようである。で、あり、この映画が意図するものとは、島田小説の原文の意図とは、かなり違っていると思う。

 などとウィキ原文をかなり、訂正して書いた。

 のは、その事情を、私があの映画が作られた時代(昭和初期後半部)の人間で、だいたい隅々まで理解できるからである。で、少し観て、本当に僕はあのような映画を見て成長したのだ、とつくずく思った。

 

 便所の臭いがプンプンする、その時は。どこにでもあった近所の映画館で見たに違いない。

 幕間には、せんべいなどを売りに来るし。なんとなく幕間の倦怠をごまかしてつなぎ。結構売り上げはコツコツあったのではないか。で、映画の方は見事なもので。古い金沢の風景、もちろんそこに生きる人間の凄さ、生命力は抜群で。いうまでもなく、今に比べれば大いに貧しかった大正時代の金沢が、再現されている。

 こんなにも緻密に現場を再現し、昔の荒っぽい男っぽい、女の女っぽい。酸っぱい人間たちの、心と体の動きを再現している。見事な芸術作品と言えるだろう。

 

 改めて映画の表現能力の高みを見たと思う。

 演じた野添ひとみの墓を、僕が雑司が谷の墓地で偶然発見したのは、かなり昔で。彼女はあっけなくこの世を去ったという印象がある。深いことはウィキにあるだろうが、読む前にまず。このDVDを、羊羹を切りながら味わうような見方で、お茶でも飲みながら味わってみたいと思っている。

 

 その鑑賞の印象から。作家島田清次郎の精神を病んだとのみ強調される、彼の荒っぽい男の性と、対応する当時の女の受動的性、との。あまりに倫理的な現代的評価に対して、島田作品の底を流れる自分の知るキリスト教的判断をしてみたい。

 

 として、極端な島田狂人説を覆してみたい、と思ったのである。

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.12

永遠の生命と島田清次郎の狂と凶

 

 「島田清次郎」が狂に向かうのは、

 杉森久英の小説で、137ページあたりからである。

 「彼は次第に常人の域を逸脱して、病者の心理へ近づいていくかのようであった。」と、杉森は書いている。

 

 この辺りまで来るのに、読む方も容易ではなかったが。この小説は、全部で238ページであるから、概ね半分読んだに過ぎない。あと、100ページ残っているので、頭が痛い。

 

 ともあれ、明治学院的聖書読みの自分は、ここまで度々出現する島田の小説的スケールの大きさは。やはり人並みでない、とは思うものの。それを、新潮社の販売面で見れば、若いながら大物の小説家として扱われる発行部数(一般にベストセラー)、であることは間違いのないようだ。そのあたりは「彼はやはりこれまでの日本の作家にはなかったような、スケールの大きいところがあり、」と続いていくが、自分としてはどうも、扱いかねる。

 それが、キリスト教的世界観のスケールの大きさとリンクする、ように私には見えて。僕も明治学院時代から影響され、いまだ手こずっている、思想上の問題として同情をしてしまうのも、仕方がないと思うものの。

 そのために、心を狂わす島田という若者を思うと。もう少し、明治学院にいて。少なくとも、高い神学の一部なりとも勉強していれば。あるいは、その狂気も起こらなかったのか、などとも、思っていがら、読む箇所なのである。

 ところで、杉森の小説はますます深刻になるが。島田が、強姦によって妻を迎える方法も、尋常ではない。通常、合歓となるべき問題が、島田の狂気を一層促進する、場面は、悲惨の上の悲惨だ。暴力も伴っている。

 

 とても読めないが、ここまできて読まないわけにもいかず、一体どうなるのやら。不安だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

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2019.04.11

永遠の生命と島田清次郎の驚き

 

  僕が、今盛んに研究しかかった、島田清次郎は、

  意外な発展を僕の中に起こした。

  怖いことに、この人の研究が今は、俳人「一茶」に及ぶとは、考えもしなかった。

 

 どうして、こうなるのかもはっきりしないほど、いつの間にか一茶に及んだ。先の旅で、小布施に行き、一茶が発想したと言われる例のカエルの池を見たのが原因であろう。句の方は「やせがえる 負けるな一茶 ここにあり」が、急に島田清次郎を読んでいて、浮かんできた。

 

 自分があたかも。

 一茶になった気分がしたのであろう。七十七歳の今の僕の。

 

  昔知った一茶の句が、浮かぶのは、要するに。二十歳で世に出る(小説が新潮社から出版される)天才の苦悩が。杉森久英の小説(直木賞を取った)に、出るからである。それは、一種の狂気のきっかけになるのであるが、島田が死ぬのは、なんと三十一歳だから。つまり、狂気を持って死ぬのに、あと。たったの十年、というのも悲しいことではないか。

 

 僕が、最近まで全く知らなかった、明治学院に学んだ人が。

 

 このような天才とも狂人とも評価のしかねる年齢で死んだ、人であるということを知るのは。なんとも辛いのである。さらに、昔松竹で映画にもなり、その主演者が野添ひとみで、僕の青春時代(明治学院時代)の憧れの人だった、というのも。なんとも、切ない。で、親しくしている古書店の瀬戸さんに聞いてみたら、今でもアマゾンなら DVD で売っている、と教えられて。

 みてしまったところ、なんとある。

 これは、観なければとなって、安くもないその映画を買ってしまった。

 僕も、いよいよ狂ったのだと、思う自分を発見した。

 

   なぜなら、杉森さんの小説によれば、島田清次郎(通称、島清)の中に、僕が終生こだわった大逆事件も出る、からである。あの社会主義者の「堺利彦」の娘さんに恋をする、若い島田の恋心となると、は。悶々とする若き日の肉体の欲望と、の書き込みが、なんとも凄まじしい。自分の青春時代を回想する自分を、発見するからである。島田清次郎は、キリスト教的禁欲を、学んだのではないか。それをベースに小説ができた、ようなことは杉森久英も書いている。

 

 この辺りは、詳しく書かないと読者には、さっぱりわからないところであるが。

 

 やはり悶々とした青春の血を沸かした江戸期の一茶の性を、昔、研究したから僕には、わかっていた。しかし、それは若いクリスチャンの僕には鬱陶しくて、あまり深く進まなかった記憶がある。要するに、文化十三年1816年、一茶五十六歳が。七番日記に書いた。「菊婦女、夜五交」という単純にして明快な。いかにも有名になる俳諧師の性描写は、僕を悩ませたのだ。

 金沢出身の島田と北信濃出身の一茶と、小諸あたりで成長した自分、とがなんとなく重なってきて。なんともやるせない。が、信濃の豊穣な自然が育む豊かな生命力は、老年の僕を未だに魅了するのである。

 それで、名句「やせがえる 負けるな 一茶 ここにあり」という句を、えらく重要だと思い出した。

 

 時代を隔てているものの。キリスト教的苦悩と日本的苦悩は当然、違って表現される。のだから、これを考える自分も、実は大変だと、思うのである。が、情報化時代の、精緻なそれは。老年の僕を少しは正気に戻してくれる、と言っておきたい。

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.09

永遠の生命と黒い福音と筒井の抽象画

 

 今朝の毎日新聞朝刊。

 クリスチャンにとって不愉快なことが載った。「聖職者性虐待・日本も調査」である。

 

 この問題は、ほとんど僕のようにキリスト教をよく知るものには、中世の宗教改革のキリスト教を思い出させる。し、ネットができて、その手の画像には事欠かないことは、よく知っている。で、人ごとではないが、信仰者にとっては辛い話である。そんな時の性虐待であるが、黒い福音はもっと残酷である。事件の起きた時の社会の反応は凄まじいもので、小説家松本清張がそれを。「黒い福音」として小説にした。

 当時は、僕も読んでいるが、ほとほと辛い事件だ。

 

 性に対する、宗教家の対応ほど悲惨なものはない。僕も若い時は、熱心に教会に行っていたから、キリスト教的な性に対する二重性格を身につけたと、すでに書いた。

 そこからの脱却は、大変である。どう大変かは、やっていただかないと、わからない話で。だから、それには小説表現が一番適している。虚実取り混ぜて、性が人間性に対し、どのような発動と影響を与えるか。小説なら、多少は追求できるかもしれない。僕も明治学院高校の時に、小説を書いたから、この辺りを書いていたら、今頃左うちわの小説家として、通っていたかもしれない。が。

 だが前に書いた「島田清次郎」などから見れば、月とスッポンで、話にならない。しかし、テーマを丁寧に書いていけば、僕程度でも、性の問題は意外に書けるものではないか。今更、この歳で、性でもないが興味ある問題である。にしても、相変わらずの人間問題として、性を割り切ってしまえる歳も歳であるから、所詮内容として物足りないのではないか。要するに、平凡なことで。とてもとても、今の体力の及ばないことなのである。

 

 で今は、「永遠の生命」「天国」などに興味があるので、性は影が薄い。のは、自分の性が、まさにそれが薄いからである。

 で、どうせ明治学院なら。古い古い明治学院を書いて、そこから新生命を引き出したほうが有益であろう、と思う。ので。中嶋久万吉著「政界財界五十年」(昭和二十六年・大日本雄弁会講談社刊行)から、明治学院の部分を引き出して。現代文でご紹介した方が、自分も面白いし。多少は、世の中のためになるのではなかと、考えた。中嶋久万吉はWikipediaに立派にあるはずだから、今更書くこともない。

 ただ、多分予想するにあまり多彩な人生なので、Wikipediaでは、この明治学院時代までは紹介していないと思う。そこが、私のねらいで。ブログを、面白くしたいと思っている。が、一晩明けて、やめることにした。古書で、その本をもう一冊買って、昨日前払いの料金を振り込んできたのは。以前今持っている、その本は偶然に入手したもので。夢中で、研究してみた時期。もちろん大きな成果があって、満足しているが、今度は意識的にその本を買って見ることにした。

 ともかく、明治学院史は、単なる学校史ばかりではなく、日本の近代と深く絡んでいる。だから書きたいのであるが、それよりやはり明治学院高校の時の教科書であるブルンナーで「我らの信仰」を追求したい。と、思い、ブルンナーを棚から引っ張り出し、その「永遠・ETARNAL HOPE」を、研究し書くつもりだ。

 

 と、思う朝である。僕の部屋の壁に。画家筒井友美の描いた、「永遠」と題してもおかしくない抽象絵画がかけられたので。僕は若い筒井の生命力に依存しながら、人間生命の永遠問題に挑戦したいと思った。のである。

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

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2019.04.08

永遠の生命と僕の宝物の絵画

 

 昨日は、おふたりのお客様が我が家に見えた。

 ちょうど桜も満開で。居間から、今は盛りと咲き誇ってよく見える。桜の花をよそに、どうも僕の悪い癖が始まって、色々と喋ってしまった。きっと、お聞き苦しいことであったろう。お一人は、人生の偉大なベテラン、もう少しで九十歳。もうおひと方は、妙齢のご夫人で画家だ。

 その画家は、一枚の絵を私にお貸しくださった。30センチ四方の、正方形の透明なアクリルに額装されたもので。有名な画材店文房堂で作ったものである。僕は昔から、その画家の絵が欲しくてお願いしていたのだが、なかなか実現しなかった。

 

 僕は、さっそっく壁にかけた。なんとも、嬉しい。

 

 で、昨日の話に、僕のイエス論が出た。ベテランの方の質問だ。イエスの誕生の経緯は信じられない、というごもっともなご質問である。妙齢なご婦人の方は、神妙に聞いていた。つまり、イエスの処女生誕が、信じられない、という問いである。ごもっとも。

 で、僕は。かねてから僕もそれを調べていたので、大して役にも立たないが、申し上げることにした。いたって常識的な、人文的に無理のない解釈を紹介した。

 

 イエスの、処女生誕の人文的説明はいたって簡単である。

 

 つまり神殿の巫女であったイエスの母マリヤは、なぜか妊娠する。もちろん、このスキャンダルは、ユダヤ教の神殿では長い歴史の中で、多分度々起こっていたことであろう。それを、いつものように、神官の上層部は慣れていて。マリヤを密かに、そこから去らせる算段をする。それは。ユダヤ教保守派にとっては、歴史的に慣れていて特に騒ぐことではない。

 が、今度ばかりはそうはいかなかった。というのは、結果的に、キリスト教という新興宗教が、世界歴史に出現するきっかけになるからである。

 高位の神官はいつものことで、習慣に従い。部下に、いつものようによきように処置せよと命じる。ことは、一種の慣習法である。部下は心得ていて、大工のヨセフを選ぶ。ヨセフの評判は抜群で、真面目な大工のヨセフは。神官の言葉に従ってマリヤと結婚することを容認する。もちろん、適度な養育費も準備されている。

 

 これは、常識的近代的な、実証的歴史主義の推定解釈である、が。概ね間違ってはいないと思う。また、これ以外にはない。

 

 あとは、聖書にある通りであるが、それから約三十年が過ぎる。高位の高官も、それを担当した神官も神殿を去り、すでに故人である(推定)。が、いつもと違うことが起こってしまう。成長したイエスの働きは、尋常の域を超えて天才的である。とても常人の及ぶところではない。それは保守派にとって、黙視できない革命的なこととなっていく。それも聖書にある。

 壮年のイエスの働き、青年また少年のそれは、常識の人ではない高い才能を発揮する。

 

 「あいつはヨセフの子、大工の息子ではないか」

 「それなのに、なんだれは、あの言葉には力がある」などと、噂が広まっていく。

 あとは、聖書にある通り。

 

 これ以上は書く必要はないと思う。

 

 こんなに精細に、話した訳ではない。が、これが現代人の僕の、人文的な常識を総動員して語れる話だ。妙齢の画家は、黙って聞いていがその心中は測りがたい。僕は、今朝、画家の絵を壁にかけて鑑賞しながら、その美しい絵画の真髄が何であるかを言葉で言い表せない。結局、神の子イエスと同じ、聖書の内容は説明しがたい事柄に彩られている、のはいうまでもない。その膨大な事実の集積、なのである。

 結局、やはり、言い表せないので。それは、壮大な奇跡の物語なのだ。いくら、人文的な常識を総動員しても、神の人類救済を表現する、という世界最大の宗教行為は、説明できない。

 

 絵画も同じだ。僕の部屋に、それは飾られた、という事実だけが真実なのである。

 

 

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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.07

永遠の生命の中の、小説家島田清次郎(1)

 

 

 小説家島田清次郎を、知る人などいない、

 ということもないが。

 明治学院の文学部にいたものが、知らないというのは問題だと思う。

 

 ここのところ、「西村伊作」を勉強していた。

 文化学院が閉鎖され、長い一つの時代に区切りがついたと思っていた矢先。今度は、突然「島田清次郎」、である。か。全く知らなかった人で、なんで繋がったのかも、はっきりしないほど明治学院的である。が、Wikipediaを読んで、ガックリした。明治学院に十年もいた僕が、知らないというのは情けない話なのだ。ジュンク堂では、今でもこの人の小説「地上・・地に潜むもの」を売っている。のに。

 

 それを、青空文庫で読むことすらできる。

 それを、今読んでいるが、読みにくいので、本も買う予定。今、古書店からメールが入り、「天才と狂人の間」(島田清次郎伝)杉本久美著を送ったと、連絡があった。島田が、その小説を書いたのは二十一歳、青空文庫を少し読んだだけで天才と、頷ける。自分も、藤村ばりの私小説を書くつもりで、少し書いた。面白そうに書けるので、いい気になっていたが、これが、バカだったと知った。島田の天才ぶりを示す小説と、比較するのも愚かだが、天と地ほどの差がある。

 

 だが、彼は精神を患っている。

 

 小説でなく、その実人生の生き様の凄まじさ(Wikipedia)に、それが表現されたようだ。だからこそ失われた大正の、あの時間の、昭和に至る虚構の豊穣を余すところなく書いているのではないか。昭和の暴力と狂気に至る時代の不安、が予言されている。芥川が言ったっと記憶する、「漠然とした不安」の明治学院版である。で、百年史(明治学院)で、小説家島田清次郎を書いたのは、僕の師の工藤英一である。その中で、彼は。深いことは書けない、と書く。だが、特に、326ページから数ページを使い。わざわざ「文学者、特に島田清次郎」とタイトルまでつけているから、かなり気にしているに違いない。工藤は、慶應大学の学徒出陣組である。その彼が、僕の家庭教師なのだ。

 が、工藤も書いているが、そこでなかなか工藤の筆が進まない、のは。島田が複雑な人生を送ったからであろう。彼の「地上」には(青空文庫を少し読むと)、キリスト教的熱狂が書かれている、と工藤は書いている。が、その箇所は確かに、高い信仰的熱さに満ちているものの、やや過剰な狂気の感覚があり、それを紹介しかねる工藤の気持ちがよく出ている。

 

 が、私は七十七歳。

 にして島田清次郎を知った。

 

 今後、天国の鍵(永遠の生命)にかこつけて深掘りをするつもりでいる。文化学院終焉とともに「西村伊作」を卒業できるとは、ありがたいと思いつつ。僕は、彼に明治学院への入学を推薦されたのだ。だから僕は、ここで踏ん張って、西村伊作を大逆事件がらみで、一気に書き込みたい、と思って張り切っていたのである。が。

 その明治学院に、島崎藤村をうわまわりかねない小説家が、いる。ような気もして、西村から卒業した、と思うのである。

 

 

 

 

 

 

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2019.04.04

杉山かつみ時事放談(2)・日本社会党を返せ

 

 僕が、いつも不愉快なのは、日本社会党があの時。

 なんだか自民党と連合を組んで、自分をそこに寄せていった、思い出である。

 僕だって、自慢できないがあの時は、民社党かの党員で。それなりに、左翼を張っていたのである。小さな会社の経営者なのに、どうしてあなたは民社党なのか、と僕を見て不思議だという人もいた、グライダ。

 

 その理由は、以前にも書いたが、教会の牧師が説教で推奨したからである。 この推薦は当時も今も間違っていたとは思わない。が、社会党がなくなってしまった今は、事態だけが複雑になって。僕は途中で、民社党を辞め、社会党に戻ろうと思って。ある支部が目についたので、訪ねてみたことがある。が、けんもほろろで、全く不愉快な思いをした。

 僕のような善良な小市民を、政党は全く問題にしないのだ。

 自民党なら、一種の町内会だから。喜んで、党費まで立て替えてくれて、どぞどうぞなどといって、その入党を腹の底では疑っているに違いない。どうせ、政党などというものは、狐とタヌキの化かし合いのようなもので、どこの馬の骨やらわからないものを、簡単には信用しなのが常道である、ということは、老人の今の僕の人生経験で、分かることだ。

 

 このように万事純情なのは、僕のキリスト教精神であるが。

 よくここまで、純粋を保持できたと、我ながら笑っている。が、ともあれ、純情は純情で、なかなか上手く生きられるもので。それが、相手に伝わった時点で、信用というものが確立し。その後。僕が、経営者として少々の悪に手を染めても、その純情イメージが、僕を支えてくれる。

 

 が、世間は、むしろそれこそ怪しい、と知っているから。腹の底からは、誰も僕を信用などしていない。のは、キリスト教がわからないからである。だから僕は、図々しくも仮面小説を書いた。つまり、僕の二面性ないし二重性は、あくまでもキリスト教信仰であり。弁証法的な神と人、という超えがたい西洋思想の。西洋人の二元的存在論の中にいる、ということを時事放談を書き始める前に、断っているのである。

 日本人は、どうみても一元論者であるが。それは、いわば神道的仏教的超越者が、どうも無限抱擁的な優しさのもとで。日本人は、思想的にはぬくぬくと島国で生きてきたから、だと解釈している。今更、ユーラシア大陸の厳しい裏切り思想の、多重界的二元思想は、わからない、に違いない。諦めながら、二元思想のもとで、時事放談をする、ということぐらいは、覚えていて読んでもらいのである。それでないと、こんな放談など全くわからないはずだ。

 

 だから、僕のこれは、僕自身が腹を切るような、ものではなく。あくまでも、第三者的な冷めた放談である、ということも知っていてもらいたい大事なことなのだ。ので、わざわざ書いた。

 で、放談であるが、この元号は僕は不愉快極まりない。

 

 ともかく、せっせと迎合する新聞や現代ジャーナリストは、僕から見ると腑抜けに過ぎない。昨日北区で、鳩を大量に毒殺したという、大東文化大学の准教授なる人をテレビで見ていると。本当に日本はどうなるのか。と、言いたくなる。これが、放言第一号であるが、ガルストの墓参りをして、美術館で倉本健夫の絵を一点だけ観て、いい気持ちになっていた僕を直撃した、誠に低脳な事件。で、僕の人生は真っ暗になった。で、今朝、放言を思いついたのである。

 

 日本人は、大丈夫であるか。

 

 もはや、ダメになった、ダメになる民族であるか、などと言いたくなったのであるが。僕はクリスチャンではあるが、日本を愛しているから、これをいっているのである。これも皆、左翼反対党の真の政治結社を、むざむざと潰した。それまで、左席ででかい顔をして生きていた先輩たちの、あのばかさかげんが、僕の本当の非難の的なのである。

 といって、これぐらいにしておこう。

 

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 この墓は現在も、青山霊園にあるガルストのものです。撮影は、記事に書いた日です。

 

 

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杉山かつみ時事放談(1)・社会主義とガルスト墓参

 

 新年号騒ぎの中で、あの「令」というじにムッとして、

 

 国家が人民に、命令を下そうなどという、戦前の悪をつくずく思い出しながら。

 まず、青山墓地でガルストの墓参りをし、国立新美術館に示現会の展覧会を観に行った。切符をくれたのは倉本健夫で、僕と一緒に駒込美術学園(夜学)で若い時に勉強していた仲間である。彼は、八年前の、東北災害にあった大槌の出身で、学校にいるとき彼の家に泊まりがけで絵を描きに行ったことがある。

 その大槌が災害にあったので、僕は気になって。倉本氏に度々電話などをしていたが、さすがの彼も相当参っていた。彼は家が、マグロ遠洋漁業の家で、少々のことでへばるような人間ではない。その肉体は、鍛えられたヘラクレスであって、全くあの地域で成長した人間の知能の高さと、肉体美の体現者である。遠洋漁業という、日本の戦後を文字通り成長させたのは。まさにこのような、たくましい日本人である。

 大槌(吉里吉里)に絵を描きに行きながら、眩しいばかりの、彼らの生活に都会人たる自分が、小さいのをつくずく劣等感として味わった。僕が勤務した会社が建築設計会社で。僕が、漁業に造詣が深いのは祖父の時代から父へ、戦後急激に成長し日本の漁業を支えた冷蔵倉庫の設計会社でもあったからである。

 

 だから、日本の漁獲高が一年で一千万トンという、膨大な数量を達成してのち、漁業も輸入型に変化し。漁獲高そのものは減少に転ずることはやむを得ないことなのである、と知っている。その分岐点に立ち会った僕は、概ねあのリアス式海岸を東京から一気に盛岡(海岸線ではないが)あたりまで北上し南下。各漁協に営業をかけながら、南下そして南下。したのは若い時で。同時に、絵も描いていた。

 それが、一気に。それこそ一気に津波にやられる姿は。

 人間の業の深さを僕に知らせるのであるが、その裏に。漁業協同組合という、漁業とはおよそかけ離れていると思われる思想史の裏ずけ、があることは。その時の僕は、まだ不勉強でよくわからなかった。一人での侘しい旅は、それこそ、夜の酒場の一人旅であって、なんとも憧れの女性に会いたい年齢であるが、クリスチャンの僕にはそんな出会いもなく(酒は飲まない)。僕は、10箇所以上の漁協に自分の会社(設計会社)の得意は、戦前から冷蔵倉庫で。ある大手の、漁業会社の冷蔵倉庫は、全部我が社で設計している。などと。そればかりか、食品加工工場なども経験豊かです、などと言って南下しながら営業していた。のである。

 もちろん、その効果は抜群で。その後、日本の漁協のそれらの施設は、会社が多く受注し、世界にまでその名を知られた。というのも、実は本当の話なのである。その時の、営業先の一つでごく始めの頃の営業先が、釜石や山田漁協で。そこも大槌と一緒に大津波に遭った場所だ。僕は、ユーチューブで、それを何度も見ながら、まさに始め津波が来る時の、人間の単純な驚きの声が、町全体を飲み込んでいく大津波の運命的な暴力の前で、自然に沈黙する人間の姿を、毎日見ている。そのプロセスを、何度も何度も、ユーチューブで研究し、今でも研究している。その主要な研究対象が、大槌町、なのである。

 

 僕は、倉本健夫の絵だけを観て、知り人の顔もあるなか、さっさと無視し。て、倉本氏に挨拶をして帰ってきた。

 

 その前に、青山外人墓地に眠るガルストの墓に一輪の花を捧げたのは。彼こそ、明治初期に日本に宣教に来て、四十五歳の若さで東京で死んだ、初期社会運動の起点を作った人と、知るからに他ならない。

 

 で、僕は、今日から時事放談を始めたいと、決心した。

 

 

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2019.04.03

永遠の生命と人間救済

 

 人というものは、これだけの高い知識を持つ以上、

 死というものを考え、それを克服する永遠の生命を考えない、というわけにはいかない。

 

 このジャンルは当然、宗教か哲学、という高い手段を用いなければ、考えることはできない。のも、言うまでもない。僕は、明治学院の十年間で、この問題と取り組んでみたのは、明治学院がその時「理想教育」というものに特化している時代だったからであろう。ので、学生の僕は、こんな七十七歳の私になっていしまったのである。もちろん社会では、学者でもない人がこんなことばかり考えては、飯が食えないが、明治学院とは、もともと「メシがクエン・メシがクエン大学」という隠語を持った学校である。と、僕に教えたのは、その時の教授工藤英一先生、である。

 

 先生は、いわゆる慶應大学の出身の人で、学生時代まだ予科にいた。

 その頃、青春の血を沸かせながら神田の古本街を逍遥していた。彼の家は当時、いまは板橋区の。蓮根の公営アパートで母と暮らしていた。札幌から出てきて、慶應大学に合格し、やれやれという時に。父が郷里の札幌で死に、事業を手広くやっていた関係で母のところに遺産が入り。当時の、K教授の生活は、地味にさえ暮らせばそれはそれで暮らせない、慶応大学にでも通えないということではなかった。それで、母も上京したのである。

 

 と、書いたのは、小説的デタラメである。実は、この文章は、小説と僕のテキストとが混在する書き方で。私である僕が、最近はまっている手法なのである。というのは、K教授というのは実在の人物で、僕の明治学院中学の時の家庭教師であるし。僕は、その時の先生から(まだ講師時代か)英語で、アメリカ史を習っていた。母が、いそいそとお茶の準備してくれて、僕の勉強がうまくいくように考えてくれていた。

 が、僕は、そんな素敵な人に教えてもらっている、という意識は全くなく。赤坂小学校から、何の説明もなく。いきなり駒込小学校に転校したばかりで、その後、明治学院中学校に入るのですよ、というから、入ったばかりで。よく事情など、わからなかったが、そうなのである。そこで、僕は、どうも成績が不良で、入学の時に何かと世話をした僕を、F教授が、止むを得ず少し補強しなければ、ならない。といった、ような事情だったように記憶している。

 で、実際、工藤先生の葬式にも行き、墓参りにも家族の方に連れて行ってもらったから、ということは、すでに書いたような気がする。

 と、ここまでこだわったのは、実は昨日。ある本のコピーを取るために、国会図書館に行ったからである。その本は、明治三十二年に発行されたもので、ともかく古いのであるが。その本が、国会図書館にあると知った時の驚きは、尋常ではなかった。

 すぐ、その日のうちに行ったのである。

 

 すでにデジタル化されているから、僕のパソコンで見ることはできるのであるが、それでも紙にしたほうが、読みやすいし。それをキンコウズで製本して持っていたいのである。ので、寒い中を出かけ、いま手元にある。

 実はこの本こそ。若い工藤先生が、慶応大学の時に神田で見つけた、という本で。これが先生の一生の研究のテーマになった種本、だったのである。この種本を手に入れてすぐ、彼は兵隊に取られる。いわゆる学徒出陣に引っかかり、慶應大学文科にいた彼も、いわばひっぱられたのである。正確にいうと、在学徴収延期臨時特令が公布され、文科系の大学生に対する徴兵延期が停止された、というこことである。その結果、僕は(工藤先生は)学業半ばで、軍隊に入らねばならなくなった。これが学徒出陣。と、先生がなくなって十年後に出版された先生の本に、書かれていることをややこしく転載してみた、のである。

 つまり、実に不可解なことが多い人生であったので、僕を含む戦後直後の多くの日本人生活者は、何かと複雑な生き方をしていた。だから、こういう書き方しか、できない。仮想の文学と実話とをないまぜにして書かないと、はっきりしたことが実際、わからないのである。が、その時の本が、先生が神田で出会った本で「単純経済学」で。僕が昨日。国会図書館でコピーをとってきたデジタル閲覧可能な、本なのである。書いた人は、ガルストという人だ。

 先生は、それに、明治期社会運動の先駆者、という意識を持っていた。が、本のタイトルをつけたのは、別の人である。本は、未稿集を、他界してから概ね十年後に出版をした本で。僕は、当時読んでいてもわからず、この頃少し工藤先生の本が、わかりかけてきて、ガルストさえも少し、理解し始めたばかりなのである。が。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.04.01

永遠の生命と社会主義と工藤英一教授

 

 「ガルスト」、が石切橋の見学によって浮上しようとは、思わなかった。

 もちろん石切橋見学は、「幸徳秋水」の研究からおこなったもので。

 小説を書くために、糸屋寿雄の「幸徳秋水」を読んでいて、行かざるを得ないことになった。人生で何度も通過し、わかっている場所なのに、一度も「石切橋」というものを意識して見たことが無い。という、自分の負い目を感じたことが発端である。

 日本の民主的で大切な党である、日本社会党を潰したのは、一体誰なのか。突然、そんな怒りが出た。

 あの時の世界の流れの必然が、それを行わしめたのか。

 

 確かに、僕は。教会の牧師Yが、礼拝説教で中間派(自民、社会の)の民社党支持発言をした時から、確かに、僕は右に寄った。ことは、間違いのないことである。僕は、気になって、文革の中国を見ようと思い。新婚間もない妻に無理をお願いし、金もないのに。日中友好青年の船(読売新聞主催)で、中国に行った。

 その時、毛沢東が突然死んで、その旅行が。北京から旧満州に急遽変更になった。実際を言えばその旅行は、毛沢東葬式への参列のような形になって、妙なものになってしまった。が、僕は、それで経験した「中国」が大いに役に立った。帰国して後、民社党の党員に登録したのは、この時である。

 で、ガルスト、であるが、僕は自分の恩師として。工藤英一を思い出した。

 恩師の工藤が死んだのは1987年で、まだまだ学者としては働き盛り、これから。

 

 という時に死んだ。六十五歳だから、今思うとガルスト研究は中途、なのである。そんなことはわからない以前の若い僕は、もちろん恩師の葬式にも行ったが。当然明治学院葬のようになり、参加者の多すぎる葬式で、僕の先生を奪われたような寂しさがあった。後で、夫人が僕を家族の一員として墓参に呼んでくれたから、少しは溜飲を下げたが。一種の公人(明治学院大学教授)の葬式は、アットホーム(家族葬)ではない。

 身内の者にとっては、返って不快な部分がある。のでは無いか。

 で、僕は、参加したいと言った妻も連れず、嫉妬しながら遠くで葬式を眺めていた。あの頃は、結婚式で卒業生が自分の恩師を、仲人に選ぶのは普通で僕も、そうしたのである。妻にしてみれば、僕がつれなくしたと思ったようだが、僕にはその疎外感を妻に経験させたくなかった。

 

 それは恩師が、僕の中学時代の家庭教師でもあるからだ。文字通り僕は、彼が恩師なのである。彼は、慶應大学から学徒出陣し、満州なども周り、人間の「罪」を、深く考える学徒になっていたようだ。本の、ガルストに書いてある。

 

 今は、多分、誰も買わない「単税太郎C.E.ガルスト/ 明治期社会運動の先駆者」などと言う、およそ書籍になじまない長いネーミングが、この本を売れない本にしているのではないか。恩師がつけたものでは無い。恩師が故人になって、十年ほどが経過した後で、出版されたもので。僕は、二冊持っていて、それは、日本社会党が産声をあげる時代を飾った、アメリカの宣教師ガルストの。高い志を書いたものだ。

 言うまでもなく、日本社会党を潰してしまった日本に、未来などあろうはずもない。

 今イギリスは、EU離脱問題で、揺れてはいる。が、その揺れこそ民主主義なのである。左右に揺れる、賛否に揺れるのは、人間の限界を表している。が、それは何も恥ずかしいことではない。むしろ。まるで。この世の意見は一個しかないと言う、単細胞政治こそ、危険なのである。

 人間という、儚いものを主体とする政治や社会が、揺れないなどというのは全くインチキであって。人間の、絶対的な高さだけで、人間の関係性を深く理解できるなどというのは、全くのデタラメである。

 

 人間は、揺らめくもの、迷うもの、異なる意見を持つもの、に過ぎない。それを、思想が、なんとか、するのだ。その下に、政治がある。それが、民主主義では無いか。

 

 僕は、石切橋に佇んで、神田川の流れに目をやり。流れる川を見下ろしながら、近くのコーヒー店でガルストを読み家に帰った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.03.29

永遠の生命と俗なるもの

 

 俗なるものは、相変わらず。

 私を悩ますようだ。改元日もまじか。

 歴史の転換点なのであろう。毎日新聞、平成という時代第4部「伝える」、は「ハケン」により冷たく。である。

 書いた人は、脚本家の中園ミホさん(59)。七十七歳の自分から見て、若い中園さんを読んで、あの頃を思い出した。私が会社を辞めた後の話だ。私が経営者だった時は、年功序列と談合時代である。

 

 その制度が根こそぎ崩壊するのは、社会主義政権ソビエトの崩壊がきっかけだ。それまでは、何と言っても冷戦構造、何かと言えばそれで。ことが、これでパワーバランスを維持した。がしかし、言うまでもないが、崩壊はあっさり時代を変えた。その結果が、中園さんのいう今の事態である。彼女は父を十歳で、十九歳で母を失った、という。その後の苦労は、筆舌に尽くしがたい。だろうと思う。その中を、生き抜いたのが、ハケン時代なのだ。

 と、知った。その中を脚本家などという水商売で、よく乗り切ったものだ。

 彼女の子供(息子)へのセリフが書いてある。「うちはこうしないと食べていけないんだから」と、むずかる息子に言う。連ドラの注文を受けた高い書き手にして、これだ。登り切ってドラマを書き、なんとも苦しいことである。ドクターXも彼女だと言うから、納得した。面白いドラマだったね。

 

 あの時、こんな政策を実行したのは、小泉だの小沢だ。私と、同い年。嫌な感じだ。

 

 郵政省を潰し、自民党も潰す、と息巻いて世の中を変えていった。私は、早々に身をひいて冬ごもり。なんとか年金で飯を食ってきたが、会社を辞める時社会保険事務所に行った。いくらくれるかー、とでかい声を出して、散々脅しても、カウンター越しの役人は、平然と誰もわかりませんよ、と言い放った。そんな政治の現場も総崩れ、本家本元の大蔵省すら、消えて。財務省となり、関わった仲間の業者は、直接その尻拭いをやった。僕の仲間の設計会社が、それで。尻拭いに耐えず。会社をたたみ、財産を整理して、その会社は、終わった。と、最近聞いた。

 僕は、会社でこの状態だと、我々の(戦後の青年)給与は五百万に満たなくなるようだ。みんなでワークシェアリングをして、年収を下げ、耐えて行こうと提案した。

 が、高度成長時代の仲間は、誰一人賛成しなかった。僕は、その首魁の首を切って、会社の整理をせざるを得なかった。彼らは、自分たちでやる、と言って胸を張って出ていった。僕は、ていのいい首切りをしたのだが、その原資は会社が無借金だったから、特に問題はなかった。

 

 それで、今度は徹底的に若い者がやる、と言うので、僕も会社を辞めた。

 

 その時、ハケンという、会社に都合の良い制度は、できたのだ。で、日本の社会党もさっさと解党した。が、社会問題研究会という、後の社会主義政党を生む母体は、明治三十年にできたのである。そこに、幸徳秋水の名もあり、ガルストという社会主義者のアメリカ人もいる。僕は、このガルストを研究した明治学院大学の教授工藤英一が、僕の恩師なのである。

 

 と、書くとは、驚きである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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永遠の生命と聖なるもの、と俗世間

 

 先日、有楽町線江戸川橋の「石切橋」をたづねた。

 石切橋は地図では簡単に見つけられたが、実際に行ってみると。そうは行かなかった。

 地下鉄を出て、すぐの神田川(昔は江戸川)には、それらしき橋が見えるので、引き寄せられて護国寺の方に、自然にその橋を探してしまった。しかし、三つばかり橋を見たが、どれも石切橋ではない。で反対の、川の流れに沿って下って探してみたら、すぐ見つかった。上は、高速道路である。

 

 意外に大きな橋で、どちらかというと主要道路に近い幅を持った橋だ。

 

 普通の人にとっては、私の小説や、石切橋などというものは、見に行ったり読んだりはしないだろう。単なる今風の、自己満足の世界だからである。誰にも影響を与えないが、自分にとっては大切なもので。

 清水書院という出版社がある。この書店は、今はあるかどうかわからない。先日、池袋の三省堂で久しぶりに見つけた。それは「人と思想」シリーズで、昔は本屋に必ず並んであった。それが、いつの間にか棚から消え、どうしたものかと思って久しかった。久しいというのは十年ぐらいか。ともかく、あったので、びっくりした。

 

 おや、生き残っていたのか。と、思いながら背表紙を探ると、なんとそこに「幸徳秋水」を見つけた。

 

 その値段は、半値。三省堂が、価格を下げて売っている。八百五十円の正規の値付けが、今や四百円、早速買った。買ったものは、実は2冊。もう一冊は「ピカソと泣く女」という美術書である。これも、実は値付けは六千八百円、それが三千円。で、それも買った。ピカソは、それこそ「僕の」今の私の、若い日の画学生時代の、絵画の英雄である。

 英雄の本も、今や半値の価値しかない。

 なぜ、ピカソなのであるか。

 

 実は、東武デパでなんとなく、密かにという感じで「ピカソ」展があった。エスカレートに乗りながら、ふとポスターを見つけた。買い物を終わり、行ってみると。私からみればかなりいい展示なのだ、今時。昔なら(大昔)大騒ぎ、であるが。所詮、主には魅力のないリトグラフである。セラミックもるが。一品に見える、それも百以上の制作数がある、中の一つに過ぎない。がでも、それは魅力的な額縁に入り三百万はする。中で、一番高いのがなぜか六千万と。真筆がたった一点、ピカソのサインのようなもので四千万だか、忘れた。ともかく、値段は真筆ともなると見事、というしかない。

 美術館で散々見慣れたものであるが、美術館には値段がない。だが、デパートは売るためにあるもの、価格は当然である。いまにピカソの高さを知った。感動。もちろん、僕(私)にとってはさらなる勉強になった。ここで、それは書かない。で、石切橋である。

 

 これは、全く有名ではない。

 し、誰もそんなものを見に行かない。これは僕の(私の)酔狂であろうと思うかもしれないが、真剣だ。三省堂で買って読んだ、幸徳秋水と関係がある。幸徳を読んで、石切橋に出かけた。その場所は、広いエリアで言えば、人生でよく知った場所で、こんな場所こそ「秋水」が、東京に上京した始めの土地なのである、と知って感動し。わざわざ、見に行った。

 それにしても、石切橋とは面白い名前で。清水書院の「人と思想シリーズ」は、1973年に初出版、1991年には第8版まで頑張っていた、と知って感動した。で、幸徳を、小説風に書くことは、できないことと知った(小説意図はそこにあったが)。しばらく、私の(僕は)自然主義文学を中止して。いつものように、祖父ネットを思想の問題に、戻すことにした。

 

 小説で、キリスト教の信仰を表すことは、難事、さらなる不可能と知った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.03.28

永遠の生命と僕のエロス(小説14)杉山かつみ

 

 

 ある日、ウィーンで。

 僕ら夫婦は、ベートーベンの家を目指した。

 ホテルインペリアルから、市電の駅近くにあるマックで、まずコーヒーを飲んだ。マックはウィーンにはそぐわないが、そこがまた面白い。

 昨夜から、ホテルの一室で地図を見、首っ引きで目的地への行き方を学習した。ものの、もちろん内心は不安でいっぱいだった。ともかく循環式らしき市電(路面電車)に乗って、なんとか最寄り駅で降り。地図に従っていけば、そこにいけるはずである。その駅は終点で、日本の可愛い女の子の一団が、ガヤガヤと。名曲「田園」が発想されたとする、その場所を、目的地に向かっているようだった。その引率された、音楽学校らしき女学生の後ろに、ちゃっかりついて行った。

 ベートーベンの家は天井の低い小さい家で、それは、暖房費を節約するための構造になっていたようだ。

 で、そんな僕ら夫婦は、母の介護に疲れて。母を妹に任せ、ウィーンで息抜きをしよと旅に出た。妻との出会いは、Fのおばさんがきっかけだ。Fはその頃アメリカにいるが消息は皆無。おばさんもなんとなく暇だったのだろう。よく遊びにいく僕に、嫁さんを世話をしたいという。僕も、親父の会社で生意気を張って、すでに七、八年経ってすでに三十になっていた。その前の五年ほど、絵の学校にダラダラと在学し、四、五年も過ぎていた。ボツボツ、周りで仲間も結婚し始めていたが、僕には恋人らしい人は一人もいなかった。相変わらず仮面の貴公子で。絵の学校は。そんな僕の仮面の性を解放し始めてはいたが、とても他の画学生たちの高い性には及ばなかった。

 

 僕が、全裸の女に接したのは、実は高校の頃である。

 親父の知り合いの彫刻家で、津上昌平と言う人がいて。その人の鋳造した観音像は、僕が結婚の時に持ってきて、僕の家にあった。僕が、津上昌平のアトリエに、親父に薦められて、初めてクロッキーを習いに行った時。僕は。初めて女のモデルの、全裸を見ることになった。10人ほどの、そのグループは、津上昌平のアトリエでせっせと女体を描いていた。僕は、なんの予備知識もなく、いきなりクロッキー室に連れて行かれ、その後ろの方でそれを見たのである。

 実際、初めて見る眩しい女の裸は、僕のエロスを強烈に刺激した。のは、言うまでもない。

 僕は、それ以後少々おかくなったと、思う。親父が、そんなことを、昌平さんが僕に、いきなり教えるなどとは、思っていなかったと思う。親父は、硬い建築設計の技術者で、昔の工手学校(夜学)を卒業した人。戦前、宮内省匠寮に、いた人だ。そんな人が、彫刻とは言え、洋画界の人となぜ接触があったのか、その時の僕には、さっぱりわからなかった。ともあれ、明治学院で成績の振るわない僕を、親父が心配し。絵の好きな僕のために、津上昌平に何も考えずに頼んだに違いない。

 

 だが、僕のショックは、僕一人で耐えねばならず。

 誰にも、その夜の裸のモデルの、強烈な裸体の印象を語れないまま。その後も、僕は、誰にも、それこそ銀座のWにも、話さなかったのは。なぜかそれが。決して、ふざけた話ではないと、思えたからである。僕の苦悩に、絵画の高さと、自分の仮面とが重なって、ますます誰にも内心など話せなくなった。僕は、高校生のくせに、僕の強烈な青春の性の密室を持って。僕の官能は、明治学院の宗教教育と、教会とが一束にまとまって。僕の仮面を、一層強く僕の顔に縛り付けた、のだ。

 僕は、二、三回行ったきりで、その後津上教室には行かなかった。理由もなく僕は、そこに行かなかった。理由は、親父にも、津上昌平にも何も言わず、そこをエスケープした。

 そんな僕も、結局仕事の後で、近くの絵の夜学に通ってみると。そこにはまた、当然クロッキーの時間はあった。僕は、その時。もはや仮面の奥で、密かに性の経験も積み、表面はただ。当然のように、絵の基本技たる裸体の構成という、困難な当然の道を歩んでいた。

 

 性と、モチーフとしての裸体が、全く僕の中で分離した、のは。

 僕が、性的にも大人になった証拠でもあった。僕は、その日、東大近くの、夜学の友人の家で麻雀をしていた。東大闘争の叫喚が聞こえる中で、その家の友人が、僕らに。俺は結婚する、などと突然言った。ので、僕らは一気に白けきった。そこで気分直しに、東大の叫喚に加わるべく、正門から堂々と入って行った。正面ゲイトは、機動隊で固められ、沢山のポリスが山のように待機していた。

 が、僕らは、平然と。安田講堂に向かって、高く積み上げられた椅子や机の間を縫って。何か、ワクワクしながら進んでいった。その後すぐ、機動隊が動いたぞー、という声をどこからか聞き。僕ら関係のない、社会人の夜学の画学生は、一気に塀を乗り越えて都電通りに飛び降り、家に帰った。

 ともかく、なんとなく。あの時、白けた自分が情けなかったが。ともあれ、友達が結婚によって独身から飛び立つ姿は、なんとなく僕を考えさせた。

 そこに、おばさんがある日、見合いの写真を僕に見せた。そのかわいい、少し幼い感じのする清楚な人に。僕は、早速見合いを承知し。おばさんは、先方の家にすっ飛んで行った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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2019.03.27

永遠の生命と僕のエロス(小説13)杉山かつみ

 


 牧師Yの突然の死は、


 僕の、大切な何者かを失わせた。


 その時先輩のFは、すでにアメリカにいた。特に、連絡をしていたわけではない。そのアメリカには当時、「神の死の神学」とか「世俗都市の宗教」とかいう神学があり、結局彼はそれに惹かれていったのではないか。


 Fがわざわざ現場(アメリカ)まで行って、そういった思想の冒険に乗り出したのは。結局彼の体の中を流れる血の中に、大石誠之助のような壮絶な死を経験した人がいる、ということの証なのだ。それも、結局彼の消息は途絶え。欧米社会の激しい神学論争の犠牲者として、どうなったのか。今何をしているのやら。僕には、全くわからないことで、Fの母親のおばさんも、その後何も説明してくれなかった。それは、当然おばさんの方が、体内の血は大石には、息子のFより濃いわけである。


 今から思うと。それらを。あの時の僕に説明しても、まずいと思ったに違いない。


 で、結局僕が青年会で。逝去した牧師の記念号を出す責任者になった。その時、すでに映画会社の日活を辞めて、親父の経営する設計会社にいた。それは実家と一緒の棟にあって、戦後親父が信州から引き上げた時に建築した自宅兼事務所なのだ。


 で僕は。自宅の完成と同時に、赤坂小学校から駒込小学校に移り、絵の先生であるNに出会う。Nが、僕の担任になり、その結果僕は。近所の画材屋から、油絵の具などを買う生意気な小学生になった、ということである。戦後の社会があらかた貧しい時代、それは異常なことでもあったと、思う。その上、駒込教会という。キリスト教の教会学校にも通う、のは。ともかく、キリスト教全盛の、連合軍駐留時代の空気、の残ることで。まして赤坂にいた頃から、銀座線で、渋谷の教会に通うなどという僕にとって。信州の田舎の小学校を、三年の中途で抜けてきた僕は。どうにもこうにも始末の悪い、訳のわからない状態になっていた。今はTBSになっている、あの場所には赤坂連隊の演習場跡があり、そこには薬莢などもまだ転がっていた時代だ。


 つまるところ、周辺の未知な世界が僕に開けてきたのである。


 が、その上母親が僕を、明治学院に連れて行き、ここに入学するのだと。ある日突然なんの前触れもなく、そこに行って校舎を見上げながら、まるで決まったようなことを言うから、僕の混乱はさらに深まる。で、それが、いつの間にか駒込教会から、目黒教会に通っていて。そこの牧師がYで。カルヴァンの研究者だった、ということである。


 その牧師が、突然心臓麻痺で倒れたその日の講壇の説教が、「永遠の生命」で。僕が週報を使って、メモっていた説教を原稿にして。僕ら若い編集委員で、Y牧師記念冊子を発行したのである。


 なんとも、凄まじい僕のキリスト教時代であるが、明治学院大学に行くと。読書は前に進み。


 しまいには、なんと。スピノザという汎神論の大物にも出会うのだ。マルクスやエンゲルス、毛沢東はわかりやすい無神論者であるが。スピノザまで行くと、つまりイエスキリストは僕の頭から、消え去りながら復活しつつ。突然また再構成されるという。とんでもない、汎神論の間歇は。ますます僕を混乱の極み、にまで持っていく、のだ。まさに、日本人らしい汎神論的な穏やかさに至るのは僕(私)の、七十七歳の今に過ぎないことなのである。


 77歳の今(僕)はブログ小説家としての、悟りきれないクリスチャンの小説家を、して小説を書かせるのだ。まさに思想の格闘といえるのであるが。島崎藤村とて新生事件を起こした時、既にキリスト教を離れている。が、藤村は、その時も。まだ、日本人本来の、確たる汎神論には至ってはいないが。大磯の墓は神道の墓なのである。


 で、僕は混乱しながらも教会に通い、さらに絵を勉強し始めた。そこに出現したのが、大げさに言えばピカソである。僕は、そこから無限のエネルギーを引っ張り出して、上野で行われた自由美術展に出品した。それが、明治学院大学の何年頃かは記憶にない。


 僕は、高いところに飾られた僕の絵を観て、全くがっかりした。そこに観えるものは、なんとも奇妙な僕の絵、とも思えない。ものにしか過ぎなかった。僕はそれ一回切りで出品をやめ。数年後、改めて示現会が経営する夜学に、勉強に行った。自由美術展の僕の作品に、僕は自分で腹を立て、悔し紛れに数年後、思い出したように夜学校に行った。


 ピカソは、僕が教会で作る青年会誌のカットとして、ガリを切る僕の。独自のカットとして、教会員の顰蹙を買った。それは、Fが道を開いた青年会誌「透明」の、後継の青年会誌に過ぎなかった。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 


 

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2019.03.24

永遠の生命と僕のエロス(小説12)杉山かつみ


 大石が、インドに行ったのは明治32年である。


 そんな大石が。紀州から、明治24年アメリカに渡り、オレゴン州立大学医学部に入学する。さらにその前の明治17年、同志社に入学したが。さっさと退学し、大阪で洗礼を受けた後で東京に出、神田の英学校に通ったりする。


 が、その遊びぶりは派手で、吉原通いもせっせとしていた。僕の先輩Fの、好色な一面が、すでに先祖の血の中に露呈している。そして、勢い余ってアメリカに行くのが明治23年。ワシントン州の中学校で、多言語を学んだ後、医学部に行くと言うルートである。要するに、彼には。それを支える金があり、新宮の資産家の財産はその程度ではなくならなかった。


 そんな大石は明治28年、医師の称号をもらい正式に医者になった。しばらくして新宮に戻ったものの、旅の経験が、若い大石を激しく揺さぶり。新宮の田舎医者でじっとしていることはできなかった。そこで、インドにも行く。大石が、密かに探求した仏教の宗教観と言う、知的欲求のせいである。表向きは伝染病の研究で、ボンベイの大学教授たちと交際し。インド哲学に接した上で、チベットまで足を伸ばして密かに。鳥葬を見学し、その無常感を十分に味わった。


 だから医者としては、「死」に対し。かなり哲学的にも強靭になっていた。西洋医学の医者は人間の死と対峙する時、死に対し強固な陣を敷かねばならない。と、キリスト教のアメリカ医学は教えたのである。


 僕は、この大石が、先輩Fの祖父に当たる人で。大石の兄弟である、と言うことを知ったのは、チイロバの古本を読んだからである。当時の僕は、エロスとアガペーの二元的愛の性質が。がっしりと、心の中に居座り。そこから一歩も前に行けなかった。大石が、そんなキリスト教であったかどうか、僕にはまだ分からなかった。むしろ大石は、日本人的な一元的性格が、まだまだ強かったのではないかと、思っている。


 そんな僕が、日本人を観察してみると。日本人は自分自身が、実によく一元的に完成するようにできている。僕にはあまり、明治学院以外の友人はできなかったが、多少知るその人たちも。皆。なぜか真面目で、自分の思いを心に秘め、それを実にうまく制御しているように見えた。が、僕は僕のエロスが、奔馬のように激しく動揺する中で、結局。金でことを処理すると言う、最も卑怯なやり方に堕していった。


 だが、日本人の方法も、どうも個人差があるようで、実は皆適当にやり過ごしていたのであろう。ただ、二元的な僕と、一元的な他人との間には、天と地ほどの差があったと思う。で、意識的に僕は、仮面を被った。まるで、礼儀正しい西洋人のようにうまく、仮面を被ったのである。それが、教会生活だった。

 しかし、仮面を被った僕は、僕の性の、当面の解決法は卑怯なものだった。そんな僕を。突然襲ってきたのが、牧師Yの突然死である。


 それは、礼拝の後に起こった。


 当時フェイリス女学院は、戦後の拡大期に入り、大学設置と言う大問題を抱えていた。院長である牧師はその推進者で。日夜奮闘せざるを得ず、日曜ごとの牧師職も苦の種だった。しかし、Yはむしろ院長職より、牧師職を重視するほどの人で。16世紀の宗教改革者、スイスのカルヴィンの研究者でもあった。歳を重ねてもその白面の美男子ぶりは有名で、いつも顔色はさえず、顔色が青白いにも関わらず、いつも笑顔を絶やさないようなひとだった。講壇ではいつも、彼の手に、しっかりと抱えられた擦り切れた聖書を持ち語る。その姿が聴衆を惹きつけた。


 その日も、説教の内容は高く、「永遠の生命」を語った。


 ただYは。前の週の、講壇を休んだ。珍しいことに、家族五人で伊豆に出かけたのである。あまりにも忙しいのと、多分今思うと。体調も悪いので温泉にでも入り、英気を養おうとしたのであろう。それは異例なことで。僕も中学生の頃から、Yの説教を聞いていたが。その間に。牧師が休みを取っていた記憶がない。まして僕が、明治学院大学に進み、大人の礼拝に出るようになると。度々、仲間と一緒に礼拝の後で、横浜のフェイリスの院長宅に遊びに行っていたりしていたので。なんとなく、深く敬慕していたのである。


 その時僕は、密かに恋もしていて。年上の、Yの次女が好きになっていた。が、それは、礼拝の後で。青年会の連中と一緒に、仮面を被りながら、原宿に繰り出すことで満足していた。一度、横浜のレストランに彼女が誘ってくれたのに、ただただ僕は緊張してしまい。何も起こらずに、僕は仮面を被ったまま。彼女はその年に結婚をした。


 ともあれ、そんな日曜日が続いていたし。僕は、ほとんど日曜の教会を休まなかった。

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2019.03.22

永遠の生命と僕のエロス(小説11)杉山かつみ

 大石誠之助を、そのまま忘れていた、ある日。


 僕は好きな古本を探して、神田をうろついていた。


 キリスト教の古本屋は当時、僕の知る限り友愛書房とチイロバの二件だった。有名な画材の老舗文房堂(ぶんぽうどう)により、ついでにチイロバを覗いたのである。そこは、いたって狭いもので。だいたい当時の神田の、一般的な古書店の規模を下回った。無愛想なご主人がいて、特に何言うでもなくブッスとしている。そんな書店だ。


 で、お構い無しに見て、。フト、「大逆事件の犠牲者大石誠之助」を、見つけた。


 かなりくたばった本で、ほこりをかぶり中ほどの棚にあった。それを、見つけた時、本当にびっくりした。意識して大石を探したわけではない。軽井沢の記憶の中に、そのままあって。それが目の前に現れたのである。もともと、あるとも思ってもいない。のは、今のようにインターネットなどない時代、だからである。大石との出会いは、全くの偶然で。


 何度も言うが、探したわけではない。おばさんから聞いた時に衝撃を受けたまま、時間が過ぎて大方忘れていたのである。


 キリスト教古書店に、それは確かにあったので、あるが。これが、キリスト教の本であると断定するには、少し無理がある。にも関わらず、キリスト教書店にあったので、今から思うと。チイロバのご主人の読書力は、すごいものがあったと今更ながら敬服している。


 現在は、もう店を閉めてしまい、文房堂に行くたびに昔のことを思い出す。さて、だが。僕は。それからが大変なことになった。その本を読んだからである。


 それで始まってしまった大逆事件の旅は、同時に内村鑑三も知る旅なのである。この事件と、様々な人物と、宗教と思想とは。僕の脳髄を刺激し、概ねこのテーマに、自分をかけるほどのスケールとなった。


 おばさんの一言から始まった、死刑囚大石の話は。これで軽井沢以来、僕を本当に困らせる核になったのだ。おばさんが何か、得体の知れない人物のようにも思え。アメリカに行ってしまった先輩Fのことも、気になり始める。幸徳と内村は同じ新聞社で、机を並べ執務していたなどとも知リ。日露戦争に反対し、非戦論を掲げた仲とも知った。


 ただ幸徳は死刑囚として、執行を待っている間に「基督抹殺論」を書き上げる。それを、自分が死刑になった後で、出版するように友人に要請していた。その本を、僕は今も持っている。だから、僕は、ますます。アガペーとエロスが、僕と言う人間の中で分離する、と言う事態が生じた。


 大石誠之助を知った後の、僕は。それを調べるために、まるで学者のようになり。


 僕が実務とした、建築設計事務所の総務の仕事の忙しさと合わせて。もはや、僕のエロスは、安定した家庭を持った、と言うこで収束したが。安定したエロスは、一層アガペーの僕を、悩ませることになった。それは、会社という怪物が舞台に加わって。経済活動と合理性の中で、僕のアガペー(宗教)は、ますます鮮明になっていった。それは、僕の信仰として、ほとんど会社と信仰との闘争となって。で、今まであんなに活発だったエロス的人生は、僕個人の枠の中に鎮座して動かなくなった。


 それでも、ややエロス的救いがあるとすれば。その間、僕が絵画に関わったことで。少しは、人間らしいエロス的生き方もできたかな、という事態である。ともかく、社会生活は、僕のアガペーを昇華させる一方で。僕の絵は、激しいエロスに悩まされた若い時代では、明治学院的アガペーの中にあって。両者が戦い。あるときはエロスが、ある時はアガペーが勝つと言う事態は。子供の時から始まっている。それは、僕が。油絵を小学生の時に教えてもらっていたからであろう。


 生意気に小学生で。油絵というものにいち早く触れた僕は。あきれたことに。一人で駒込駅前の松本額縁店で。さっさと絵の具を買うような生意気な小学生になっていた。それは、僕の担任の、駒込小学校の中山先生が、油絵を早々に僕に教えたからである。赤坂小学校から来たばかりの僕は、絵の先生である中山先生が担当だった。


 これなども運命で、駒込の生活は。なんともおかしなことに駒込教会にも、僕を連れていった。のは、六年生になった頃なのかもしれない。


 それで、今に至るまで僕は、こんな小説で、エロスとアガペーといった二元論の小説を書く、僕になった、のではないか。


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2019.03.21

永遠の生命と僕のエロス(小説10)杉山かつみ

 僕が。Fの、大逆事件との関係を知ったのは、かなりあとだった。


 結局、Fはさっさと。


 アメリカの教会へ牧師の紹介状を書いてもらい。まるで風のように、去ってしまった。残されたおばさんは、目黒の権之助坂にある歯科医院をたたみ、もともとあった軽井沢の別荘で老後を暮らす決心をした。


 その別荘は、有名な星野温泉のすぐそばにあった。僕は、度々そこを訪れては、おばさんとそのお母さんと話し、自分なりに軽井沢ライフを楽しんでいた。Fがアメリカに去った後、僕は。おばさんの世話で結婚もしていたから、妻と二人でよくそこに行った。当時の軽井沢はとても魅力的で、おばさんの家は鄙びた山小屋風で、新婚の僕らの別荘のようになった。


 そんな時僕は、教会に少し疑問を感じ始めていた。


 で、無教会の内村鑑三などを読み、それなりに影響を受けていた。


 これなどは、偶然で。おばさんの近くの星野温泉が、内村と縁が深いこと。星野は内村記念館を持っていることを、遠からず知った。というのは、あの頃の内村たちの時代は、軽井沢が外国宣教師の避暑地として、かなり盛時で。軽井沢は結局、宣教師らに開発された、と言って良いものだった。


 内村たちは、夏になると。避暑に訪れ。


 関東大震災の時も。彼は、星野温泉から東京方面の空が真っ赤になり、凄まじい形相になったことを見ている。で、急遽列車に乗って上野にまで行かない列車で、災害時は終点の赤羽で降り。徒歩で柏木(新宿)の自宅に戻っている。そんな話も、詳しくなっていくのであるが。それは全て、Fの母親であるおばさんが、軽井沢に移ってからわかったことで。


 アメリカに行ったFを、その後見たこともない。が、ドイツに行き、ついにはスイスに今はいる、ような情報だけはおばさんから聞いていた。僕はその頃、Fにははあまり興味もなくなり、内村鑑三にのめり込んで。結局、無教会派となってしまい、教会を離れる信仰生活に入っていた。しかし、僕は相変わらず妻と一緒に、軽井沢の教会派のおばさんの家で、夏のバカンスを楽しんでいた。


 そんなある日。帰宅するタクシーの中で。中軽に向かっている時、見送りに来たおばさんがポツンと、なんとなく不思議なことを言った。それが。自分の親戚に大石誠之助がいる、ということであった。


 実は、この時のショックは、少し間をおいて僕を打った。


 息子のFは、明治学院中学高校からICUに進学した秀才であるが、教会活動も活発で。「透明」などと言った、青年会誌なども作り。病が高じて本屋にまで並べてもらう算段をした人だ。


 おい、お前も何か書け、というから。それに僕も小説を書いたが、小説は初めての経験でもなかった。高校の時、初めて書いた小説は「えじこ」というもので。えじこ、とは農村で農繁期に、赤ん坊を籠の中に入れて作業をする。その籠の名称をエジコといい、それを小説の題名にした。窮屈な自分の青春の、鬱屈した感情を書こうとした。が、失敗で続かなかった。それで、雑誌透明に書いた小説が、二作目であった。


 二作目は、隠れキリシタンを書いて、仏像がからりと回転すると。キリスト像になる、という構想までは良かったが、その意味するものを深く掘り下げられないまま。結局、中途半端に終わった。それでも健気に、なんとか、神田で高価な古本を買い、書いたことは書いた。が、それで。今ここで書いている小説は、三作目なのである。


 そんなえらく、飛んだところのあるFで、あるから。時々僕に、明治の大事件である大逆事件のことを、なぜかチラリチラリと、語っていたのである。それは彼が、左翼的傾向の人だからそれを言うのだろう、ぐらいに思っていた。し、六十年安保の後でもあり、僕も少しだけ大石誠之助は知っていた。


 幸徳秋水と大石誠之助は、あの時死刑になった12人のうちで、インテリで。和歌山県の新宮の医者だった。し、おばさんたちも新宮の出身で、あることは知っていた。が、まさか。彼らがその縁辺であった、とは全く知らないことであった。で、びっくりしたのである。


 ただ、それからも、大石誠之助を詳しく知ったわけではない。多少知っていたのは、有名な幸徳秋水の方で、この人は思想史に興味のある僕は、当然ある程度は知っていたのである。


 そのタクシーも、その後。中軽の駅について、僕たち夫婦は東京に戻り、そのことはそれ以上に進まないまま時間が過ぎた。


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永遠の生命と僕のエロス(小説9)杉山かつみ


 で、僕は。神学生のYが神学校を卒業してすぐ、今の教会の副牧師に選ばれたのを機会に。


 結婚をするという、事件にぶつかった。


 神学生は、僕より、四、五歳上であるから。


 今思うと、おかしくはないのかもしれないが。その早々の結婚は、もう一つのおまけまでついてしまった。新婚家庭用に建売住宅を買う、という話が伝わっていきた。Yという牧師が、住宅購入は早すぎる、牧師というものは、全国のどこに招聘されるかわからないから。結婚はともかく、住宅まではどうか。と、意見を言ったらしい。


 当時牧師は。さる有名な女学校の院長で、すでに五十歳を過ぎていたし、戦中はアメリカで苦労を重ねた人で。まして、その学歴は旧制の帝国大学と五校(熊本)で、その人が。住宅はどうかね、という。のに、副牧師のYは、それを無視して。結婚してすぐに、住宅まで用意してしまったのだ。


 その結果は悲惨で。


 牧師の給料で、住宅ローンなど払えるわけもなく。多分、奥さんになる人が、有名な官公庁に勤務していて、その保証があって、銀行から金を借りた、という噂が教会に広がった。ともあれ、僕には考えられない。が、ともかく新婚家庭に、我々青年会も招かれて遊びに行った。


 だが、牧師の予言は当たってしまい。子供ができてすぐ、たちまち金に行き詰まり、離婚話が持ち上がり。とうとう当人は、副牧師を辞めて不動産屋になってしまった。Yは、だらしのないことに。独身の僕からも、三万円程度の金すら借りて、借金証文まで僕にくれて。当人は既に、死んでしまったがいまだ、それは返済されていない。ということに、なった。


 で、もう一人のICUの先輩Fも、変わっていて。


 学校の成績がいいのだから、そこの有名教授武田清子のもとで修行すれば、出世できたものを。何を焦ったのか、アメリカに行くと言いだした。


 慌てたのは彼の母親で、私がおばさんと言ってよく遊びに言っていた家で、歯科医院を経営していた。つまりFの父が歯科医であったが、早くになくなり。困ったおばさんは、歯科医を雇い、Fを養っていたのである。


 にも関わらず、Fは。母一人子一人の母親を置いてまでアメリカに行く、などと言いだしたのには。その時、教会青年を混乱させた、アメリカの。困った過激神学「神は死んだ」が、あったからだ、と今ならわかる。彼のような、僕より四、五歳上の人は(僕はまだ明治学院の高校生だった)、どうもおかしな経験をする。僕は、昭和十六年生まれだが、彼らはその前の、戦前の生まれで。それもまずいことに、戦争中に少しだけ物心がついている、年齢なのだ。戦争は、世界中を刺激していたから、彼らの受けたものは、強大な不安というエネルギーだったのだ。


 その物心とは、「撃ちてし止まん」式の、軍人精神教育が最も盛んな時期で。日本が大敗北に追い込まれる時の、純真な幼児心理に、深い傷を与えた、と僕は解釈している。


 それにしても、Fは。


 そればかりでなく、深く濃い血の中に。さらなる宿命を負っているということは、その時僕は理解していなかった。彼の、優秀な脳髄の中に流れている血は、そう簡単には傍目には理解できなかった。


 その血とは。明治の大事件「大逆事件」、なのである。

    

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2019.03.20

永遠の生命とバルトの神学へ

(ココログニフティが更新されて初めて書く記事)

 下手な小説を書いたのは。

 キリスト教の宣教を無教会者として、さらに進めるためである。

 無教会の人間で、世界に通用する神学者などいないと思う。西洋社会に代表されるキリスト教は、今でも西洋のものである。だが、言うまでもないことは、深刻で。昔から、クリスチャンを悩ませ通しだ。もちろんイスラム教徒にとっても、それは同じで、厄介極まりない問題である。

「神」を人類通有のものとする難易度は。世界最大で。これ以上難しい問題は、人類には存在しない。あとは、無神論あるのみ。ではないか。

 日本の伝統宗教である神道は、このテーマに会うと、我関せずである。神道には、言葉がない。昔から、日本人は、それは。日本を代表する宗教である、と主張しているが、間違っているわけはない。日本人には率直で、当然の主張である。もともと、世界に通有するなどとは、言っていないだろうし(戦争中は無理をしているが)。もともと、世界など相手にしていない。日本人、完結型である。要するに、民族宗教である。


 一方、キリスト教でいう世界創造神と言う、果てしない疑問。は、問題であって、人間が絶対に到達不可能な彼岸と此岸との深刻な問題となる。その回答はあるか。バルトは、それを。我々人間の限界として神学する、神学者である。弁証法神学と名付けられたが。要するに、わかりやすくいえば、矛盾の神学である。


 僕がここで、まずい小説を書いたのは。論理で表すキリスト教でも、人間像という、およそ深い存在を書くことは不可能だと思ったからである。キリスト教でいう神という人格的な存在も、所詮論だけでは表現できないのはいうまでもない。それが、信仰次元であり、教会なのであろう。

 明治学院の島崎藤村は、初めは詩人である。詩では物足りなくなり小説(破戒)を書いて、世に出る。それは、自分という個の説明をするためには、避けて通れない近代の道(小説的説明)、だったのであろう。

 が、それすら、まだ誰も完全には成功していないのが、実情であろう。

 で、僕は(私は)、小説も、書いてみた。上手く書けたと、もちろんいう理由もないが。エロスとアガペーという、愛の二重性格をキリスト教神学(古代神学者オリゲネス)の、僕という若者に与える影響は。当時の僕にとって非常に大きな考え方だった、と思っている。


 で、西洋神学の高みである、バルト神学(平凡社刊行・ローマ書講解・上下)に戻りたくなる。要するに、読むに過ぎないにしても、ほっとするのである。小説は、涯しない旅になる。僕の小説では、どう考えても、まだまだダメなのは。西洋のキリスト教は二千年のキャリアがあり、日本のキリスト教は、その20分の一ほどの伝統にも達していないから。それを伝えようとすると、ある意味で絶望的だ。

 その上、文章上の信仰の高さは、古代社会から年季がはいっている。これなどもキリスト教は、優れていると言えるだろう。と、考え、その解説をいまだするバルトが、誠にありがたいのである。

 このバルトのローマ書の講解を初めに読んだのが、僕の明治学院高校時代だった、と小説には書くつもりだった。

 もちろん当時、読んでも何もわからなかったが。今は、バルトを頼りにしている。それは内村鑑三を頼ったよりも、さらなる大きさを持っている。のは、西洋崇拝者に見えるだろうが、止むを得ない。僕は、いわゆる洋画も、描く画家で、今更どうにもならない。な。


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 筒井友美作品。

 「帰る場所」、 https://m.youtube.com/watch?v=uhejKeFZBGc

     

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2019.03.18

永遠の生命と僕のエロス(小説8)杉山かつみ

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