7−20 キリスト教の新しい旅 その11
「もしわれわれが、現代のキリスト教徒として今ある場所から出発するならば、我々は紀元1世紀はじめの30数年をガリラヤに生きたあの歴史上の人物、イエスについて語ろうとするとき襲ってくる混乱と不確実のただ中で始めることになる。なぜなら新約聖書学は、19世紀半も振り返って手に入る資料がいかに断片的で不明確なものであるか、またわれわれのイエスの「像」がいかに多大・多様な想像に頼ってできたものであるかを示しているからである。」
以上の言葉はヒックさんのことばで、1986年岩波書店から出版された「神は多くの名前をもつ」の一節である。北京オリンピック観戦で忙しいさなか、面白くもない祖父ネットを読む人もいないであろうが、暑い夏だけに、よけい暑くなる内容である。
2006年「ユダの福音書」が、一般のわれわれの眼にも触れるようになることを、ヒックさんが予言しているようである。ユダの福音書が発見されて眼に触れるまで、幾多の変遷を経たことか。
結局のところ「現代科学」がなかったら、解明は不可能であった。写本がおおむね崩れていたからである。それを最先端の技術で再生したところ、ユダが裏切ったのはイエスの指示であった、という驚くべきことが書いてあった。この例はまさにヒックさんが言ったこと、すなはち新約聖書学なのであって、1ないし3世紀の「イエスの像」が、いかに多大・多様な想像に頼ってできたものであるかを示している。
ところで、ヒックさんの言葉はさらに続く。それは宗教多元という事態に対する、彼独自のキリスト教神学である。が、実はヒックさんもかなり手こずっている。主に原論的なことが整理されているが、さらにがんばってもらいたい。
21世紀のグローバル化は、宗教においても避けることはできない。
(写真は和歌山県新宮市王子が浜。現在、毎日新聞で連載されている小説「許されざるもの」の舞台になった。太平洋に面して激しい波が押し寄せる海岸。凄まじいエネルギーを感じる場所)
(写真を適切に大きくする方法は、7−8に書いてあります)
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