8-136 キリスト教の神は天主と直すべし その15
小説と映画「天使と悪魔」はこの程度にしたい。
「天使と悪魔」は表題の翻訳問題と大きく関わった。自分としてはゴッドの訳を神よりも天主としてくれたなら、一段と素晴らしいと思っている。小説の内容となっている教会と社会との問題は、祖父ネットの場合個人信仰的傾向が強いので、教会の社会的公式的見解はあまり気にならない。
先日もアメリカの同性結婚が問題になっていた。州は比較的それを認可するが、連邦政府は反対であるという報道である。同性結婚が法律上も認められる土壌として、キリスト教の信者の数が減少しているからであるとも報道された。
確かに結婚は法律上の問題であるが、好きな者同士が一緒に生活をすることに何ら問題を感じない。わざわざ結婚と言う手続きを要求する人たちの気持ちが理解できない。法律は法律で、自由な恋愛は恋愛である。キリスト教で結婚は男女一対でなければならないと聖書に書いてあるから、同性結婚には反対であるというキリスト教信者も多いらしい。結婚は社会的な活動である。古い時代の結婚観として、常識的に聖書にも書かれたに過ぎないと思うのであるが。
キリスト教の聖書にそう書いてあるから、同性結婚には反対であるというのであれば、その手の禁止話は聖書には山ほどある。とても今の法律がそれに合致しているとは思えない。同性同志が性的関係を結ぶのは忌むべきことである、とも書いてある。それは聖書的には罪であるというが、これなども聖書に山ほどある古代社会倫理問題の一部に過ぎない。2000年も前にさかのぼる書物が、どうして超保守的でないことがあろう。
人間の罪など数え上げれば切りのないほどある。神経症になるほどの罪的状況に、現在も過去も未来もあることは言うまでもない。それよりも何よりも、非文明的であると考えられる古代社会で、人間の「罪と救い愛」などの優れた教えを説いたイエスを大切にしたい。それを大切に思い、教会は歴史上教権を確立した。近代に至ってさらに個人的レベルまで発展させたのである。
しかし完成した教会教権はもはや下降し始めた。それは個人の信仰が本格的に上昇してきた証拠である。慶賀すべきことであり悲しむべきことではない。いわばキリスト教の社会性の後退と個人的発展の相克である。キリスト教信仰が後退したのではない。さらに進んだという言い方は好きではないが、変容するのはやむを得ない。
究極の信仰とは個人の決断に関わることである。教会に関わる数の信者などというものではない。教会が崩壊すると言っているのではない。教会と言う社会的歴史的機関は、個人化する信仰の傾向と向き合うことになる。
結婚も同じで古い結婚観も、社会的という意味で言えば廃れるとは思えない。そこに同性性交と言う通常の性的関係のダブーを打ち破る結婚観も、あるいは法律的な認知を受ける可能性はある。同性性行為の社会的認知であろうが、私にはそのような性の傾向はない。
もはや老人の枯れた体には関係のない問題である。元気な体の人たちの性的嗜好問題と割り切っている。肉欲ばかりではなく愛である、という主張は無視できない。
小説「天使と悪魔」からとんでもない問題に言及したのであるが、そろそろ本題に戻ることとしたい。昨日は本題にさらなる参考図書を入手するために、神田古書街のキリスト教老舗古書店「友愛書房」を訪ねた。
入手した参考図書のお陰で、問題は一段と深まったと言える。
(続く)
| 固定リンク
「キリスト教」カテゴリの記事
- 8-206 老人神学を考える 1(2009.11.08)
- 8-205 キリスト教の神は天主と直すべし その62(2009.11.07)
- 8-204 キリスト教の神は天主と直すべし その61(2009.10.06)
- 8-203 キリスト教の神は天主と直すべし その60(2009.10.05)
- 8-202 キリスト教の神は天主と直すべし その59(2009.10.04)

コメント