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2009.06.14

8-135 キリスト教の神は天主と直すべし その14

前回はかなり難しいことを書いたと思う。

自分では分かるのであるが、それでも「か」「も」などの言葉をさっき追加した。この二つの言葉で文章の全体はガラリと様相を変えるほどである。時間をおいて読み、推敲することがいかに大切であるかがわかる。少し書くピッチに時間をおいたのは、他でもない映画「天使と悪魔」を観に行ったからである。近くの映画館で上映日があと数日しか残っておらず、小説「天使と悪魔」はやっと下巻に至たり、どうしてもパンテオンを大画面で見たくなった。

ローマに行った時パンテオンを見る機会がなかった。ローマ帝国がまだキリスト教化していない時、パンテオンが帝国治下の多神教の神殿であると小説で知り、いても立ってもいられなくなって映画館に行った。まえにこの映画は見ない、小説で済ますと書いた。多分この映画は評判にはならない、と推定していた。あにはからんや観客は10人ほど、もっとも平日の昼頃のことで客層は限られる。しかし映画を見終わって観てよかったと思っている。小説の方がはるかによいと思うが、大画面で観る現場の雰囲気は棄てがたい。

先ほども言ったことであるが、パンテオンがローマ多神教の神殿であるということは知らなかった。なるほどと思いウィキペヂィアで調べてみて、ますますここで書くことの意味を感じた。小説は下巻冒頭であるが、ゆっくりと思索を深めている。映画と小説、おなじ作品を別な表現方法でみられるとは有り難いことである。それも科学と宗教という最も先端的なことを考えるには、むしろ必要なことであったと今さらながら感謝している。

感謝しているがゆえだろうか思索が深まる。その分思索は苦しいことこの上ない。科学も大変であるが、人間そのものを全体で扱う宗教もそれに増して苦しいということがよくわかる。まして「神」「天主」翻訳論に関わってここまで深く書くと。自分としては読む時に、小説「天使と悪魔」の「神」の部分を「天主」と自由に読み替えるのである。

もし翻訳者越前敏弥さんと話せたら、「天主」と書くのはいかにも正鵠を射るようであるが、今の日本人には無理ではないだろうかという解答であろう。誠に英文原書と照らしてみても、名訳であるだけに残念であると言わざるをえない。

ところでこれを機会に改めてガリレオの「新科学対話」岩波文庫を読んでみたが、まったく歯が立たない。世界を変えたと言われる本であり1638年に書かれたのであるが、この本を読めないことにより、ガリレオは現代人の私をはるかにしのぐ数学的天才であると感じる。科学はここから驚くべき発展を遂げたのは言うまでもないが、文学的に見れば「人間問題」はそれをはるかに越えて、ますます理解の難易度を上げているように思う。

人間存在は想像以上に難問である。宇宙の大を理解する以上であると感じている。
(続く)

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