8-134 キリスト教の神は天主と直すべし その13
これを奇禍として聖書翻訳事業をもう一度「原点」に戻してやり直すいいチャンスである、と前回書いた。
しかし、ここまでこの問題を突き詰めるとかなり専門的である。前回ある大学の倒産に関してトマス アクィナスを書いた。キリスト教では最も専門的な中世の人物であるが、学校倒産と関わったために書きやすくなった。
書き続けるために以下の二冊を参考にしたい。一冊は「神は多くの名前をもつ」ジョン ヒック著 岩波書店 1986年、もう一冊はカール バルト著 「教会教義学『神論』1/1」 新教出版社 1978年 である。ヒックさんは以前にも書いた。バルト(さん、と呼べない)はあまりにも難解で本音で言えば専門家でも読めない。祖父ネットは学生時代から挑戦しているが、完全読破は一度もなくすべて氷山の一角読み、である。
しかしこの難解本も神を天主として読めば読みやすい。神と書かれるとどうしても一般的な、世界のどこにでもおられる自然的「神」かと思ってしまう。しかし、神を天主として読めば、それが単にキリスト教の信仰対象に過ぎないから、特に難しい読み物ではない。キリスト教の信仰対象は先ず創造者であり、それはイエスの父である。そう分って読みさえすれば、本の内容が分からないということはない。
それを一般的に自然的「神」で読むと大間違いを起こす。天主を論理化する西洋人にとって天主はいつも単一絶対の存在である。それに比べ我々の精神風土はいつも自然的複数神である世界。それが日本語の正しい意味の「神」である。だから日本の「神」は日本のそれにのみ通用するのであって、それ以外に神を使うべきではない。「りんご」という物であれば世界は同一のものを指せる。だが観念に過ぎないもので特に宗教対象は、どうしても同一の何者かを作ることはできない。概念というのがそれである。その概念がいつの間にか、翻訳語だけで同一と言う錯覚を創りだした。翻訳語一つでこれほど悪影響を与えたものはない。
西洋人は東洋人に複数神を示される立場にある。あたかもそれは自分の信じるゴッド(デウス)が、「あそこにもある」といった観念を創りだす。しかし東洋人の私たちからすれば、西洋のそれも始めから複数神の一つである以上、それはあそこに「いる、ある」に過ぎない。その意味でヒックさんという西洋人(彼はイギリス人)の視点からすると、「神は多くの名前をもつ」という観念を生み出す。「神」は彼にとって同じものなのである。そこに彼らの悩みがあったようだ。私たちにはそれは始めから別なものであって、神は神である。天主は天主である。
キリスト教の視点とはキリスト教信仰の視点である。では、複数神が常識の土壌でキリスト教信仰を受領したものはどのような結果になるか。あるいは受容にはどのような苦労が伴うか。であるが、祖父ネットのように「くどく」なるのは避けがたい仕儀。なかなか、むつかしそうな、ことを考えざるをえない。内村鑑三はそれがいいと言ったのであるが。
そこを説明してから進まねばならない。が、ヘボンさんがキリスト教のそれを「神」にしたために、混乱は深まるばかりであった。もうつかれはてて、宗教はご、め、ん、というのが現状である。始めから神を「天主」としていれば極端に信者が少数で篤い人が多いか、極端に多い信者という現象を生み出した可能性がある。どちらにしても「天主」という言葉には、1549年以来のザビエル切支丹の伝統が生きているのである。
キリスト教の神が近代日本語でも「天主」であれば、いくつもの名前などはない。キリスト教の神はヘブライ語から各国語に訳され訳され、今日の日本語の「神」に至ったのである。ユダヤ教と言う一神教であるキリスト天主教は、多神教のローマ帝国の神々ギリシャの神々などと遭遇し、どのような言語的変遷をたどったのであろうか。
これを天主創造絶対唯一論という視点を使って厳密にたどった場合、はたして日本語で訳されている「神」と似た現象がたくさんあるのではないか。ぜひこの問題に関し、英才の出現を待ち望む。それを生きている間に読んでみたいものであるが。ヘブライ語の我が師加藤先生か、わが友人のスペイン語の浅香先生にでもぜひお願いしたいものである。
相当の言語的研究者でなければ、この問題の学問的な解明は不可能であろう。祖父ネットはすべて雑談である。(続く)
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