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2009.07.07

8-154 「我らの信仰」 その5

8−150にあるブルンナーさんの「未来」の続きです。

○ エミールブルンナー「我らの信仰」/32編「未来」(213ページ)から

しかしなお、それにもかわらず、この新しいと表現される救いは、古い罪を引きずっています。それは古い罪の中から非常に激しい闘いを経て、やっと現れてくるものです。キリスト者の新しい生活は「罪に覆われた古い人」を通じて発現します。

私たちは確かに天主と交わりをなすものですが、それは罪の古い人を通してでしかありません。私たちは自分たちの不完全を嘆きます。私どもはいつも古い人をまといながら生き、新しい人生を支配している腐敗に悩まされ続けます。私たちは完全を渇望しながら、自分たちが死ななければならないことを知っています。この死こそまさしく古い人に対する、すなわち私どもが今なお引きずり歩いている、古い本質すなわち罪である、と言っていいでしょう。

天主の国は今だ実現しません。故に、私たちは将来を待ち望みます。天主の到来を待ち望みます。もし未来への眺望がないとすれば、ただ二つのことが残るだけです。すなわち、将来とは単なる幻想、もしくは絶望です。

しかし、信仰は未来に向かって開かれている窓です。その「窓」こそ聖書に記録された、現在も生きているとされる天主の姿、イエス キリストなのです。キリストにおいて、私どもに約束された悦ばしい内容であります。それが聖書が福音書と名付けられた理由です。

○ 祖父ネットの解説

読み返してみるとかなり書き替えている。人間の言葉は時代の影響を受ける。聖書もそれを免れないが、時代が変わっても聖書が言わんとしていることは、はっきりしている。とくに「神」を「天主」に書き替えると、ますますはっきりする。それを信じるのがキリスト教徒である。この言葉の採用によって、日本の宗教で「神」「仏」「天主」とを分けることができる。

どれが「正しい」などということは今さら言うべきことではない。人間を救うという目的の宗教は、これで十分そろったと言えるであろう。宗教は人類史の大きな柱である。
(続く)

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