8-148 人間の罪について その三
「ある日の村野藤吾/建築家の日記と知人への手紙」村野敦子編 六燿社刊(Rikuyoh-sya)の最終回としたい。
建築というものが、いかに人間と深く関係しているか、このごろよく理解できる。本にはジュンク堂トークに出席する、駒見宗信さんのコメントがある。彼が「新建築」と言う建築雑誌の記者のとき、村野先生に質問をしたことが書いてある。先生は建築家なのだから、そこらの建築家と違い自由に設計できるのではありませんか、と問う。それに答えた先生の解答は意外。いや99%、お客様の意向にそって設計しています。自由なのは1%です、と。駒見さんはそのとき赤面したとあるが、確かに意表をついている。
文字通りではないにしても、超一流の建築家の答えとして一流だ。建築は勿論社会に必要なものである。それゆえ、どこかそれに関わる人は一種の不遜がある。そういう建築家をよく見る立場にあったから、建築家でない自分には多いに不満があった。日本が高度成長時代、謙虚でない建築家がいかに多かったことか。いやというほど見た。
そんなところから、建物は人間の罪を顕してしまう。街はその建築で溢れているが、どれもこれも少なくとも傲慢の臭いを免れない。制作の内部事情を知らない人にはこれが分からない。が、内部にいるものにはそれが当然分かる。どんなことにも内輪の話はある。しかし、建築の話はスケールが大きいから、あきれることが山ほどある。それをここで「人間の罪」と言った。
人間の罪とは利己主義であり、それ以外ではない。その利己主義が表面に現れるものとして、建築ほどストレートなものは他にない。よく自分はその辺りのことを、建築家に向かっていったものである。飛行機なら落ちますね、と。しかし、いささかの失敗ぐらいなら、建築は落ちないで傲然と建つ。これが怖い。
クリスチャンでもあった村野先生の作品にはそれが少ない。世間はよく知っていた。その先生に文化勲章が当然のように贈られたのである。村野藤吾は寡黙な建築家と言われていた。その内面の披瀝が今回の本の内容である。ぜひ一読をお勧めする。
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