8-149 ブルンナーさんを書く
明治学院の中学校のとき、ブルナーさんの書いた「我らの信仰」が教科書だった。
勿論、当時よく分かる訳ではないが読んだ。ブルンナーさんについては、ウィキペディアを見てから読まれるとよいと思うので、どのような人であるかは書かない。その本を今でももっている。そして、時々読む。最近、「神」を「天主」に読み替える運動を始めたばかりなので、その線にそって書いてみたい。
ドイツ語は分からないが、ローマ字日記を十年ほどつけているから、読むのにそれほど苦にならない。本では表題の次のページに出典が書いてある。Emil Brunner / Unser Glaube/
Eine christiche Unterweisung / Gotthelf Vesiag/ Bern=Leipzig/
となっていて、次のページにブルンナーさんの文章が英文で書いてある。英文タイプをそのままを印刷してある。
出版したのは新教出版社さん。 現在手元にあるのは1958年版で、古書で購入した。教科書版第6版とあるから、かなりの数が出版されたようだ。あらためて読んでみると、内容はキリスト教を理解する上で、今だ有効である。中学校の教科書だからブルンナーさんも、余りこむつかしい表現をしない。平明で分かりやすい。祖父ネットが日本語の神を、天主に書き替えた方がいい、と主張している例として使うには絶好である。
古い本だから言葉を当時より読みやすくすし、一部をご紹介したい。本は絶版である。国会図書館には保存されているので、気になる方はそこで確認されたい。翻訳の翻訳である。ごく一部しかできないが、キリスト教とはこれ、と分かる文章にしたい。「神」を「天主」に書き替えるので、とてもよく理解できるはずである。
ついでに言うと、祖父ネットは「神学」という言葉が嫌いである。英語でセオロジーであるが、セオスというギリシャ語が、新約聖書の今翻訳されている言葉「神」にあたり、そこから派生したのがセオロジーなのであろう。セオスが日本語で神と訳され、そのまま「神学」などと言われてしまったが、悪い訳である。明治初期の聖書翻訳時、中国語聖書の神をそのまま採用したのである。セオスには他に「天帝」「天主」などの訳があったのにも関わらず。
もし天主と訳されていれば「天主学」なのであるが、これでもしっくりしない。あくまでもロジック(論理)として、信仰を論理的に言い表そうと努めたものだ。学問的近代的な科学とは、まったく違うものである。それが教義学とされずに、「神学」と訳されたために、キリスト教の汗の結晶が台無しになった。
神の学とは、大げさに表現されすぎた感がある。信仰とは心の問題で、科学を連想させる近代客観主義とは相容れるものではない。つれて神学校などというのもやめるべきである。教義学校であろう。宗教なのであるから教義に過ぎない。信じる信じないは、各自の問題で、客観的真理などというものとは別である。それを分かりやすくするために、祖父ネットは聖書の神を、天主に読み替えて読んでいる。
祖父ネットの「神、天主書換運動」の主眼点を述べた。
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