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2009.07.03

8-150 「我らの信仰」 その1


今から50年ほど前、明治学院の中学校のとき、エミール ブルンナーさんの「我らの信仰」が教科書だった。その経緯は8−149に書いた。原題は、
Emil Brunner / Unser Glaube/
Eine christiche Unterweisung / Gotthelf Vesiag/ Bern=Leipzig/ 、
新教出版社さんで刊行したものである。手元のものは1958年版で教科書版第6版となっている。
その一部を「神」から「天主」に書き替えてご紹介します。

「未来について」(210ページから) エミール ブルンナー

キリスト教信仰は「天主は来られます」ということを言う点で、ほかのあらゆる宗教と違っています。

旧約聖書でもそれは同じです。また新約聖書で「悔い改めなさい、天主は近づいておられます」とマルコによる福音書第一章が書き、聖書の最後の文章も「アーメン、主イエスよ、来てください」です。未来の天主の支配の告知が、福音です。そして、それは来るに違いない、それが永遠の完成である、というのがキリスト教の信仰です。

今日一番多く失われているものは、希望です。

この希望の喪失は、人々が、天主がやってこられると言うことを信じない、あらゆるところで起きています。天主が来られるということを知らない場合、人々は次のように考えます。世の中は結局、こうしたものだ、我々は現在のままの状態を続けるだけで、ほかに方法がない、と。人々も確かに希望を持っています。しかし、進歩や発展によってもたらされる「改善」を望んでいるに過ぎません。人々は、人間の「健全な心」、またそれと同様の「人類の核心にある善なる力」に希望をかけています。

しかしそれは、本来何も望んでいないのと同じです。

もし私たちが、人間固有の蓄積だけを頼みとし、また能力だけを頼みとするだけであるなら、私たちは滅亡するでしょう。私たちの進歩発展また進化発達は、死および罪と呼ばれている腐敗と堕落から、私たちを救い出すことはできません。私たちが私たちのうちにあるもの、また世界の中にあるもののみを頼りにしていますと、一切は結局破滅するほかはないでしょう。

聖書は私たちに語ります。

「それは違う、われわれはそのようなものに望をつないでいない」と語ります。この世界は「閉ざされた」ものではなく、それは天主に向かって開かれているものです。あなたは閉ざされていない、天主に向かって開かれている、天主があなた自身を開かれるのです。

あたかも解放者が、捕囚の憂き目に遭って憔悴し切っている人々を、再び光明の世界に連れ出すために、城塞の奥深くにある牢獄を打ち破り、その扉を開くように、天主があなたの心の扉を開かれるのです。天主がこの世界に、その扉を打ち破って入ってこられるのです。腐敗堕落し破滅の淵にある被造物のところへ、天主がそれを再び善美な状態に回復するために、またそれを完成するために来られるのです。

天主があなたを救うために、あなたのもとに来られるのです。

私たちがこのことを聞く時、二つの疑問が残ります。
(続く)

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