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2009.07.04

8-151 「我らの信仰」 その2


ブルンナーさんのこの「我らの信仰」が書かれたのは、1935年である。

その年は言うまでもなく、昭和10年である。祖父ネットが生まれたのが昭和16年、1941年である。随分古い話である。この「未来」と名付けられた文章を読んでいると、当時の社会状況が彼をしてこのような文章を書かせたのであると、言えないこともない。

その年の前後、ヒットラーが総統に就任しているし、イタリアがエチオピアに侵入した。すでに満州事変が起こっており、日本の傀儡政権である満州国も成立している。太平洋戦争とネーミングされた戦争は、1941年である、などと言うこともないだろう。それを全体で言えば、第二次世界大戦と名付けられる戦争は、1939年ドイツがポーランドに侵入したことを始めとしている。

何と激しく世界は動いたことか。それが昭和の初めにアメリカで勃発した世界大不況の高らかなラッパの吹奏から、人類史未曾有の悲劇が始まったのである。だからブルンナーさんが聖書をこのように読んだとしても、決して不思議ではない。

ウィキペディアによれば、ブルンナーさんは1889年(明治22年)の生まれである。さすればこの「我らの信仰」が書かれた1935年は、彼が46歳の成熟期の働き盛りである。肉体的な衰えからマイナーな考え方に捉えられる年齢ではない。やはり世界のただならない情勢が、彼の思想に深く影響したことは間違いない。

しかし、ブルンナーさんのこの文章は、私には決して古く感じない。彼がこれを書いた時の背景はともかく、あまりに今にも通用すると思うので、自分としては不気味なのである。

戦後、あの惨禍を乗り越えて高度成長し、世界の経済大国に仲間入りした日本の今の状況は、むろん当時と逆である。いちいち言うまでもないが、日本人は天主の力を借りずに人間自身で英知を傾け、ここまでやってこられたのであると。これは人間性の勝利である、といっても過言でないような気がする。本来ならブルンナーさんの「我らの信仰」で言われた未来の姿など、「改善」を可能にした人間性の前で、敗退したというべきであろう。キリスト教のこのような非現実的な信仰は、あくまでもあのような深刻な事態であったからこそ、人々の共感を得たのであると、言い切る人もいておかしくはない。

確かに、今ではキリスト教は西洋でも後退していると言われている。日本でも信者の数は延びないままである。それに反し、厳しい政治的現実を背負っている韓国では、驚くほどのクリスチャンがいる。キリスト教は、本当に厳しい現実の中だけに通用する宗教なのであるか。これが祖父ネットのテーマである。

ブルンナーさんの文章が生きることは、すでに無いのであるか。私の受けたキリスト教教育は、もはや不必要な、打ち捨てられるべき無駄な教育であったのであるか。古い本を前に、古い人間が自問自答しているのである。
(続く)

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