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2009.07.10

8-155 「我らの信仰」 その6(最終回)

天下の誤訳「神」を、「天主」にすべきであると主張している。

その目的を果たすために、ブルンナーさんの古い本(1935年刊)、「我らの信仰」を利用した。キリスト教と言う信仰を成り立たせている根本の思想は、それが西洋思想であるということと、本来的にはなんの関係もない。キリスト教が欧米から来たと言われる技術「文明」とセットで解釈されるところに、日本のキリスト教の悲劇がある。その悲劇の根本的な理由が、その崇拝対象に「神」という言葉が当てられたことである。

今ではキリスト教関係のあらゆる本は「神」で満ちており、神があたかも普通名詞のように使われている。普通名詞であるということは、それが世界の人々の共通の「なにか」として「ある」という意味であるが、そんなものは「存在」しない、といっても過言ではない。

キリスト教は文明とは本質的に関係がない。ブルンナーさんは戦後に書いた「キリスト教と文明」
( Christianity and Civilization 白水社刊 2001年 新装復刊版 )の中で、それを端的に説明している。その一部を書いてみよう。ただし、神を天主と書き替えて書きます。

「いずれにしても、天主の国というのは文明の領域をまったく超越している現実なのです。その内実は〈終末のもの〉、つまり、究極的で絶対的なもの、完全なもの、真に天主的なもの、あらゆる人間的な相対性とは区別されるものなのです。

この天主の国の福音は、文化的な価値や社会制度などにいっさいふれることなく(注、聖書において)、そのもっとも深い秘義においてもたれる人間の天主との関係と、もっとも人格的で親密な意味での人間関係に関心をもっています。

しかし、この天主の国の教えは、イエスの教えのすべてであり、最後的なものであって、そこにはそれ以外のなにものも、芸術とか、教育とか、科学とか、社会的政治的な秩序とかいった大切ではあるが、一時的で世俗的ないっさいのものを入れる余地はまったくありません。

それでは、だれもこのイエスの福音から、キリスト教的な真理の基準をえようとするものにとって、何かキリスト教文明論のようなものを企てることなど、いったいどうしてできるのでしょうか。」

以上ですが、つまりこういった、いわばキリスト教の根本的な理念というものを説明するときに、あたかも日本で言われる「神」を、キリスト教の普通名詞として使うこと自体、非常に危険きわまりないことであるということが分かると思います。

ぜひ今からでも遅くないのわけですから、あらゆるキリスト教文章で「神」を「天主」に書き替えてもらいたいと思うのである。
(終わり)

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