8-156 天主と書く「一日一生」 17
内村鑑三「一日一生」から
(教文館版です。聖書は日本聖書協会の「聖書」新共同訳が使われています。その中の『神』を『天主』に読み替えてご紹介します。)
1月17日(本文23頁)
☆ 聖書の引用箇所/エレミヤ書15章10節、11節
ああ、わたしは災いだ。
わが母よ、どうしてわたしを生んだのか、国中でわたしは争いの絶えぬ男、いさかいの絶えぬ男とされている。わたしはだれの債権者になったことも、だれの債務者になったこともないのに、だれもがわたしを呪う。
主よ、わたしは敵対する者のためにも、幸いを願い、彼らに災いや苦しみの襲うとき、あなたに執り成しをしたではありませんか。
☆ 内村鑑三の解説
私はかつてエレミヤと共に嘆いて言った、ああ私は禍いである、人は皆私と争い、私を攻め、皆私を詛(のろ)うと。けれども今になって私は感謝して言う、ああ私は福(さいわ)いである、人は皆私と争い、私を攻め、私の詛ったので私は天主に結ばれてその救済にあずかることができたと。
人に捨てられるのは天主に拾われることであった。
人に憎まれるのは天主に愛されることであった。
人に絶たれるのは天主に結ばれることであった。
今に至って思う。私の生涯にあったことで最も幸福であったことは世に侮られ、嫌われ、辱められ、斥けられることであったということを。
☆祖父ネットの解題
この箇所は内村鑑三の一生涯を、ある意味で徹底的に表現している。
内村の全著作を読んでみると、その生涯を追体験できるが、普通全部は読めない。その著作は膨大である。しかし、彼の著作のすべてを読まなくても、この箇所だけで十分である、と言ってしまうのは心配であるが、ある意味で当たっている。
彼は幕末に一人のサムライの子として生まれ、その後キリスト教信仰を受け入れた。その生涯はまさにサムライの子らしく、闘いの一生であった。もし彼が16世紀の切支丹であったとしたら、当然のごとく鼻をそがれ、耳をきられ、逆さにつり下げられ、最後には火あぶりにあって死んでいた人物である。
彼は近代の迫害を経験したクリスチャンであった。その信仰のエッセンスがここにあり、すべての人は実は、天主の下で生きることができるというメッセージなのである。あまりにもそれは、現代社会が造り上げる幸福観と異なるので、とても信じることができないだろう。
しかし、真に人間を生かすものは、創造者天主の愛であることがここに書かれている。苦しむときにこそ人は、天主の下で真の人間となる。
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