「昭和を閉じる」/執筆中
写真は呉天華ギャラリーの看板
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(すべての敬称を略します)
ある日のことである。
近所の「呉天華ギャラリー」に、「安土忠久ガラス展」を観に行った。
そのギャラリーに行くのははじめて。閑静な住宅街の一角にギャラリーはある。ときどき、散歩の時に見かけていた。しかし、いままで開いていたことが無く、何となく気になっていたのである。内部に入ると、ガラス器のほかに、絵が何枚もかかっていた。
自分も絵を描く。
三十歳まで絵に放蕩した。サラリーマンをしながら、示現会という絵画の団体が主宰する夜学に通っていた。現在の示現会絵画研究所は当時、駒込美術学園といってJR駒込駅前にあった(今は北口に移っている)。小さいが曲がりなりにも学校であった。学生証なども出る学校で、芸大や、ほかの美大の受験生が多く勉強していた。
私はすでに24、5歳で、結婚なども真面目に考えなければいけなかったのであろう、が。絵の勉強を始めてしまった。もともと計画性などとは、およそ縁のない人間で。そんな事をしながら、結局30歳まで、せっかく稼いだお金を、絵と遊びに使い果たした。マー、絵が好きなのである。その後、人の世話になって今の家内と結婚し、生活と必死に戦いながらも、絵だけは、一人孤独に細々と続けた。65歳、サラリーマンを卒業する頃、示現会展に出品し続けた、学校時代の友人の勧めで、再び示現会に出すようになった。今は会友という、示現会では一番低い地位にいる。だから、自然と絵に眼がいく。
絵を見ていると、係の人がギャラリーのいわれを話してくれた。それは自分の父で、芸大を出ていて、台湾の出身で、すでに亡くなった、などである。聞いていても、始めはよくわからない。しかし、絵だけはよくわかる、すばらしい具象絵画だ。
その人の言うには、今でも作品が700点強、保存されているという。あるいは、1000点とも。その上、画家は一点の絵も売らなかった、と。サプライズ、ぐーっと興味が湧いた。で、パンフレットを頂いて、読んだ。それによると、略歴は次のようなものである。自画像も印刷されている。その自画像は1978年に描かれた、とある。ご紹介しよう。
1911 台湾省彰化市に生まれる。
1927 台北市台湾商工学校入学。
1928 3月、無断で基隆港より勉学の為、来日。
東京市私立城西学園中学校3年編入。
1931 同校卒業。美校入試の為、川端図学校入学。
1933 美校入試失敗と生活困難の為、帰国。
1934 再び来日、川端画学校に学ぶ。
1936 東京美術学校本科油絵科入学(現・東京芸術大学)。
1941 同校卒業。
1946 東京芸術大学研究科入学、安井曾太郎に師事。
同年結婚の為、学業を離れる。生活不安の為、
5年間実業に就き、長女の死に会い画道にもどる。
1969 東京医大で血圧検査中に倒れ、半身不随で半年間入院。
その後、練馬病院に緊急入院するなど、1973年まで空白の4年間を過す。
1974 再起し、画筆を取り今日に至る。
願わくば、地平線上にかかる深紅の夕陽である様に−—−−−。(原文のまま)
パンフレットの作成日は記載されていない。
そのパンフレットでは、台湾から無断で来日、芸大に入学、大学院まで進んだ、という事までは分かる。しかし、絵は一枚も売らず、とは書いていない。繰り返すが、サプライズ、だ。
あのサプライズから、すでに二三年が、たちまち過ぎた。
その後、そのギャラリーによく寄るようになった。絵もよく観せてもらっている。大量の絵も整理された。その結果、パンフレットの行間に潜む、画家の深い人生が少し見えるようになった。書かれ(描かれた)たものから溢れ出る、パンフレットには書かれなかった微妙な問題。それを書き始めることによって、「昭和を閉じる」などという、大げさな題名に相応しいものが、書ける、か、どうか。いや、書いてみたい。何かと資料を溜め込んだので、「昭和を閉じる」を本格的に書いてみたい、のだ。
少し、脇道にそれる事を、書く。
最近の「祖父ネット」の書き方は、以前と違っている。文章は何度も推敲しているが、その度に、公開している。以前だと、書く度に新たに頁を更新し、その更新が、右側のカレンダーに表示された。しかし、一種の「電子書籍」として完成させたいので、項目を祖父ネット上でも絞り込み、その中で、徹底的に推敲し、その項目を完成させる、という方法に替えた。そのために、カレンダーには「更新」のマークが出ない。また、推敲を重ねるから、日々文章が変化する。
その理由は、いわばブログの一項目の中の「電子容量(原稿用紙に相当する)」が、意外に大量で、未だその限界すら分からないほどである。しかし、あるとき、何やら書きなぐり的に毎日更新するより、じっくりやってみようという意識が出て、実験してみた。それが、私なりに成功した。読む側からすれば、まことに厄介で、日々変化、または都度変化するので、何が何やら、分からないかも知れない。
この書き方は、またはブログの利用方法は、まったく新しいものである。だからといって「昭和を閉じる」に、全体構想がないという事はない。むしろ、今までかなりの資料を蒐集し、その読みを、今でも継続中である。私は、読み応えのあるものが「電子書籍」として完成すると、確信している。
では、本題に戻りたい。
二三年の間に、画家の作品も「呉天華ギャラリー」の責任者によって、だいぶ整理された。画家は1911年生まれであるから、有名な辛亥革命の年に生まれている。今の近現代中国を創るきっかけになった革命が辛亥革命で、100年が経過している。最近、芸大時代のノートを見せてもらった。それは戦前における、東京芸術大学(当時は東京美術学校)の授業の高さが分かるもので、実に見事だ。さらに、立派な同窓会名簿もあった。そこには当然、世間に知られる有名画家が並んでいる。そんな事で興味が高じる。いったい、「画家呉天華」とは何ものであるのか。
この鍵を握る初めのものは、城西学園であるに違いない。その学校を尋ねて見る事にした。幸い、家からは歩いていける距離にある。
学校は何度か偶然、前にその脇を通っていたので記憶があった。しかし、まさか自分が、その学校を尋ねるとは、思っても見なかった。幸運にも事情を話したところ、こころよく一人の理事とお会いできるという。そのさい理事は、二冊の参考図書と、最新の同窓会名簿を見せてくれた。これが、意外な展開にいたる。昭和を閉じる、つまり自分なりに昭和を整理するという営為を完成させてくれた。
その一冊は「資料城西学園六十年史」で、もう一冊は「政界財界五十年」という本である。著者は「中島久万吉」という見知らぬ人で。今まで、聞いた事のない人、であった、が。学校そのものも、失礼ながら存じ上げなかったぐらいだから、二冊とも馴染みのないことで。とりあえず、本の題名をメモし、学校の最新名簿をまずみせていただいた。いうまでもなく、目的である「呉天華」を調べるためである。
名簿を調べながら、理事が学校の歴史を話して下さる。しかしまずは、「呉天華」を探してくれる、が、「ない」。「呉天華」という名前が、出ているだろうと推定される年代には、朝鮮、台湾、満州から、多くの人が来ている。しかし、肝心の「呉天華」が「ない」。そんなわけはない、と、フト、理事が、「ご」ではなく「くれ」ではないか、と言い出された。
なるほど、もちろん「くれ」と、よめる。
理事は一生懸命さがしておられる。しばらくして、たしかに、あった。そこに「くれ」と読まれた「呉」という名前が、ずらー、と並んでいる。そこに、「呉天華」もあった。
見つけにくかったのは、初めに見た卒業年度別記載に、やや似た名前があって、「呉天華」は見当たらなかったからである。多分、それが「呉天華」である。つまり、誤植が二カ所あったわけである。卒年時の氏名の記載ミス、さらに読みのミスである。なぜ、「くれ」と読んだのか、理事の説明はなかったが、深いものがあるのか、単純ミスなのか、分かるものではない。先ず単純ミスであろうが、いったい「くれ」と読むのだろうか。余り深く追求する事は、はばかられる。それだけ、時間が遠くに過ぎ去ったのか。私には「ご」としか読めない、が。そんな過去が、計らうづも堀起こされた。もっとも私とて、70歳、新しいとは言えない、ことであるが。
それでやっと、確認ができた。
確かに「呉天華」は、この学校を卒業している。あの時代、何と多くの人が、アジア全域から東京を目ざしたことか。魯迅などは、有名である。仙台の医学校で日清戦争の幻灯を見て驚愕し、文学に進路を変えた人だ。それはこれらの後で、少しずつ頭の中で整理されていったことであるが。清国からは「留学」であり、満州、朝鮮、台湾からは「上京」である、という、ややこしい話が私の頭の中で展開した。
理事のお話が、深くなっていく。
すなわち城西学園の歴史である。当時、城西学園に学びに来た、ここからが表現が難しい、「外地」の方々は、多かった、と。だんだん私も引き込まれた。そして、分かってきたことは、台湾も、朝鮮も、満州も、当時は、、、どの地域も日本であった、ということ。つまり、画家呉天華は当時、「日本人であった」のか、という、かすかな響きが、わずかに頭のどこかに生まれ始めた。
呉天華の経歴には、明らかに「来日」「帰国」と書かれている。その上、最後の謎めいた文章、「願は(わ)くば、地平線上にかかる真紅の夕陽である様に――」。西の空は、ヨーロッパか、台湾は南の空、か、とか、いろいろ考える。いや、これは望郷の深い思い、ではないか。画家だから、やはりヨーロッパへの憧れをあらわすのか、など。
切ないものが、こみ上げて来る。このパンフが作られたのは、1974年以降である。その時の画家の立ち位置はすでに戦後の日本である。だから、呉天華はもはや日本人、ではない。台湾人呉天華である。だから、来日当時は「上京」であり、現在で考えれば、、、、。どうもむつかしい歴史、なのではないか。実際の歴史の流れに「画家呉天華」を置くとなれば。当時、それは明らかに「上京」である。どこからか「外地」から、であろう。だから、帰国は帰郷ではないか、など、どうもうまく表現できない。
帰宅して早速、参考に見せていただいた二冊の本を、古書ネットで購入した。しかし一方、ギャラリーには、同窓会名簿が保存されていたことが分かった。昭和40年度のもので、私が理事にお会いして後、ギャラリーから提示された。その昭和40年、すなわち1965年の名簿によれば、呉は昭和6年、城西学園中学第三回卒業生である。そしてそこには、卒業生各自の、さらに進学した学校名が記載されていた。
列挙してみよう。
(ダブりは一校表示とする。)
立教大、法政大、巣鴨高商、明治大、東京農大、
秋田鉱専、中央大、青山学院、早稲田大、東京薬専、
専修大、東京商大、物理学校、東京工大、岩手医専、
水産講習所(水産大)、専大、日大、川端画学校、
戦死3名、
など52名。
残念ながら、私の卒業した明治学院大は、この時点では出ない。が、後でかなり出現する。この中で呉は、川端画学校である。そして後で芸大に入学している。勿論、戦後の学校制度の変更で、学校表現には統一性がない。断っておくが、呉の卒年した昭和6年は、「戦前」である。
ただ驚いたのは城西学園という、今まで知らなかった学校が、当時これらの高度難関校への大量入学を可能にした学校であった、ということである。卒業生はたったの52名、ではないか。この高い進学率を可能にしたのは、何か。学校は当時、5年制である。そして、この学校の創業者は「中島久万吉」という人。いったい、なにものであるか。それは彼の著書「政界財界五十年」を読まなければ、分からない事である。こんな立派な学校を創立した人物とは、一体何ものであるか。興味は尽きないのであるが、その前にやる事が一つある。
ともあれ、まず「台湾史」が必読であると思うようになった。ジュンク堂へ、いつもの様にすっ飛んでいった。読んだことのない台湾史、触れたことのない国、南国の小島の歴史。そして発見した本(写真)。そこには驚くべきことが書いてあった。その未知の歴史は、大陸中国史がぎっしり並んだ隅の、ごく一部に、ひっそりと私を待っていた。
私は戦後派である。多少は、蒋介石総統を覚えている。あるとき、いつだったかは忘れたが、彼の像が、今や破壊される時代を迎えた、と報道された。深い意味は一切分からずに、中国語を勉強していたときではないか。読むと、台湾史は悲しすぎ、複雑すぎて書けるものではない。どう書けば、いいのやら。本を読んでもらうより仕方がない。が、この本がもはや、売り切れ絶版。平凡社に聞いたところ、再版の予定はあるようだ。要するに蒋介石は、大陸で毛沢東に敗れ、後退して台湾を拠点としようと考える。その際、台湾に共産党のアジトがあったら大変と、台湾を粛清する。これが白色テロである。
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まず50年間にもわたり統治された結果の、日本化台湾人を標的にし、戒厳令が敷かれた。それは、以後50年間も続いたという。縛りの合計は日本統治も含めると、100年。手始めに、かつての日本化された台湾人を圧迫する。それだけでも複雑怪奇ではないか。その上、共産主義思想の撲滅も行わねばならない、とか。蒋介石は共産党に敗北し、共産思想を極度に恐れたのであろう。だが一体、かつての日本人で、今は台湾人である共産主義者を、あぶり出すことができるのか。
あのとき、呉天華氏は戦後の日本から、独立した台湾に帰ろうと思ったかもしれない。しかし台湾の情勢は、このようにいたって複雑であった。もちろん、氏は知っていたのであろう。台湾に白色テロが横行し、密告がはびこったことを、しかしこれ以上は書けない。当時、共産中国はまだまだ、台湾など問題にする余裕はなかったはずだ。にもかかわらず、蒋介石は明確に、敵を中国共産党(中華人民共和国)であるとし、台湾の戒厳令は一段と厳しさを増したようだ。本には白色テロに加え、さらなる事件が書かれている。「二・二八事件」である。そこに呉天華氏の先輩が書かれている。陳澄波氏、明治28年(1895)に生まれ、昭和22年(1947)年に、二・二八事件によって処刑された。事件については書けない。
陳氏は日本統治下の台湾人で生まれ、日本人となり、処刑された時は、中華民国の台湾人である。氏は東京美術学校(東京芸大)を卒業後、研究科に進んだ。呉氏と同じ経歴を持つ、呉氏の先輩である。第7回帝国美術展覧会で入選。帝国とは、言うまでもなく、「大日本帝国」のこと。さらに帝展、その他の展覧会に入選している。呉天華氏が大切に持っていた、「東京芸大同窓会名簿」に、その名前がある。当時の住所、「台湾嘉義市西門町2−125」と記載されている。本にある、氏の嬉々とした若々しい写真。それは第7回帝国美術展覧会入選インタビューの時に撮影された、とある。なんと、悲しい写真であるか。なんと、悲しい若者で、あるか。
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(2012/1/8 日曜日、加筆)
悲しい台湾史に触れてしまった。
台湾が特に激しく動いた近現代史の中でも、深く日本と関わる部分を書くことになった。しかし、これ以上は書けない。読者が自習していただきたい。実はこの辺りから、城西学園理事が教えてくれた、もう一冊の本に移りたいと思っていた。それが私の学んだ「明治学院」と深く関わったので、実際、びっくりした。なぜ「明治学院」であるか。で、もちろんすぐにでも書きたいが。持っている資料だけで、実は書ける。予定では、その、はずであった。しかし、それが少し事情が変わった。
それは、台湾から満州というプロセスを、意識し、よく知らなかった台湾史が、世界近現代史の縮図と思うようになった。そこで、昭和を閉じるための本、がある事に気付いた。それも「明治学院」と関わる。そのほうが、「中島久万吉」を、いきなり紹介するより効果的ではないか。
本は、「満州国の断面/甘粕正彦の生涯」武藤富男著 昭和31年 近代社、である。
著者の武藤富男氏は、明治学院院長を歴任した人で、祖父ネットも直接知っている。武藤氏はWikipediaにも出るが、余り詳しく書かれていない。氏は、祖父ネットが明治学院の学生の頃の院長で、就任は1962年(昭和37年)である。しかし、院長就任以前にもたびたび、授業礼拝で説教をしていたと思うので、十年間在学したものにとっては、おなじみの人である。なお、その本の「序」を書いたのは社会事業家として有名な賀川豊彦氏であり、この人はWikipediaではかなり書かれている。本は250頁以上ある。「序」を転載してみよう。
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序
古代ロマのタシタスは、その時代の八十数年間に渡る現代史を書いた。そして、史学に新生面を開いた。「満州史」は、生きた国家の興亡史である。満洲史は小説以上のロマンスでもある。個人心理と民族心理、経済機構と侵略主義、智謀と野心、情慾と聖浄が織りまじり、日本の滅亡の大事な中幕と成った。私は、この生きた歴史の側面をよく知っている友人武藤富男氏に促して、彼の記憶のまだ生々しい間に、善いいことも悪いこと悉く気の附くままに書き残しておいて欲しいと要求した。そして彼は多忙な、時間の無いその中を、彼の劇的な観察眼で、満洲史の断面を描き出してくれた。彼は正直に、世界史的視野に立ち、日本の敗北史の一断面を描き出す意味に於て、満洲史の一側面を描いてくれた。
この生きた歴史を喜ぶ人もあろうが彼と共に悲しむ人もあろう。だが、既に下った神の審判の前に、私は襟を正してこの書を再読静思するものである。私は旧約聖書の歴代史略の続編と、新約聖書黙示録の現代版を一緒に読む気持ちで、この書を恭しくおし頂くものである。
1956.7.28
賀川豊彦
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つづく
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