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2013.06.15

建築家杉山廣吉を書く

 
 
 

(校正中) 
 建築家杉山広吉の生涯 

 ——創元設計小史——  

 

 

 

 創元設計小史そのものを、「建築家杉山広吉の生涯」に改定するにあたり、言うまでもなく、いくつかの障害を乗り越えなければならないと覚悟はしている。私は、この他に「日本ブロックゲージ生誕史」も書いているから、どうしても、それと連動させたものとして、改訂版を作る必要に迫られた。その理由は、簡単で。は、ない。  

 


 最近、幸運にも「日本の近代建築を支えた建築家の系譜」と言う本を手に入れ、その関連で「工手学校・旧幕臣たちの技術者教育」と言う本にもたどり着いた。そこで、工手学校出身の杉山が、戦中の零戦工場を設計監理したと言う事実と。その零戦の製造に必要な、ブロックゲージとの関連にたどり着き、この二冊の冊子を結び付ける動機ができた。  

 

 全ては、過ぎ去った古い話のように見えて、その実態が深い部分で、隠された戦前の技術史に触れる、と言うことであるが。今の技術社会の行く末や、軍備憲法の制定という動きなどを占う意味でも、必要なことではないか、と思ったのである。  

 

 一般工作機械史はともかく、本当のブロックゲージの深刻さは軍事技術との関係にあり。それは日本史にも関わるのであるが、零戦を作る工場を設計監理した杉山広吉と。日本の軍需産業に重要な役割を果たし、特に零戦の戦闘機の制作に関わるブロックゲージが、如何に関わっていたかを書くのも、あながち無駄なこととは思えない。  

 

 普通、私などが深くなる文系的発想は、ともすれば観念的に流れやすいきらいがあるが。技術的問題は、思想としては矮小なりとして、大きな歴史主義では忘れられるのであるから。技術が果たした大きさに比べ、その事実の痕跡がおろそかになるのはやむを得ないことであると思っているが。その欠点は、もっぱら文系で、思想に興味をもったものが、たまたま家業の建築設計で働いたことによって。このような、テーマの書きに挑戦している訳となった。  

 

 このような、いささか面倒な作業をすることになり。多分これで、思想として不明だったものや、技術としても曖昧だったものが、急に明らかになると思われるので。上手くいくかどうかはわからないが、幸いにココログブログのテクノロジーが。今日のように発展を見たので、それを利用して異質な二つのテーマを、曲がりなりにも合体できるかなと、と思ったのである。蛮勇といえば、それまでであるが。  

 

 前置きが長くなって、読みにくいことであるが、まず日本の戦争史の一面だと思えば、きっと面白いに違いない。と、自信はある。まずプロローグを「渡辺福雄と言う人物と日露戦争」あたりから、書き加えて改訂版を起こしたい。

 

 

            目 次(敬称表現が一定せず混乱があります)  

 

 

              プロローグ  

 

            渡辺福雄と日露戦争

 


 

  

一、 創業時代の石川寛三

   その一、 松下幸之助の学生時代

   その二、 創業者石川の住友時代

   その三、 創業者石川の独立と石津栄一

   その四、 石川と冷蔵倉庫とのかかわり

二、 杉山廣吉の戦中前後

   その一、 零戦工場の設計監理と杉山廣吉

   その二、 日本の敗戦とツガミ

   その三、 旧中込学校の終戦

   その四 杉山、独立して東京事務所を開く

三、 高度成長と杉山と工手学校(工学院大学)

   その一、 冷蔵倉庫と日本の戦後

   その二、 コールドチェーンという高度成長

   その三、 カーテンウォール工法と杉山

四、 杉山廣吉のバブルと崩壊

   その一、 池袋時代の始まり

   その二、 漁業協同組合冷蔵施設の出発

   その三、 官公庁の仕事

 

五、 エピローグ、熱海城設計監理と杉山廣吉

六、 杉山勝己の若干の建築哲学について

 

          一、 創業時代の石川寛三

 

         その一 プロローグ・松下幸之助

 

 

 松下幸之助が書いた日経新聞の「私の履歴書」に、『私は会社の同僚の家に下宿していたが、このとき一緒にいた芦田君という男と仲良くなっていた。この男は中々勉強家で夜学へ行っていたが、あるとき頼まれて書いた字が見事だったので下宿の人達から大変ほめられた。これをみて自分も勉強せねばいかんと発奮、二十歳の年に夜学に通うことにした。6時半から9時半までの3時間の授業、これお一年間続けて予科を終わり、本科に入った。然し電気学をおさめようと張り切ったのも束の間、弱ったことには三角を除いてあと全部が口頭筆記であった。前にも述べたように尋常も途中でやめた自分にはいろいろ努力しても追いつけず、ついに途中で挫折した。今から考えると非常に残念だが、その頃はそれほど深く気にも止めなかった。』と、書いた。

 

 松下は大正2年(1913)18歳の時、大阪の関西商工学校夜間部予科に入学する。なぜ松下かというと、創元設計の創業者で義父の石川寛三が、松下より先の明治44年(1911)、同じ学校の建築科を卒業しているからである。

 石川はその縁で、昭和28年(1953)松下電器の建築顧問に就任した。学校を卒業したあと、住友臨時建築部建築営繕係(現、日建設計)に就職したという縁からである。石川はパナソニックの建築顧問となった翌年の昭和29年(1954)、東京ナショナルビルを設計する。が、このビルもすでに取り壊されている。

 

 まず石川の略歴を書くと、明治21年(1888)愛媛県川之江市に生まれ、住友に20年勤務した後、昭和7年(1932)大阪に建築事務所を創設、昭和52年(1977)88歳で死亡した。その事務所に、杉山は就職したのである。その石川の元に、零戦の秘密工場の注文がきたのは、太平洋戦争開戦前夜であった。

 

 

           その二 石川の住友時代

 

 

 さて明治維新以後、いつごろ建築設計事務所なるものが発祥したのだろうか。それについては、日建設計の歴史を書くと分かりやすい。日建設計の歴史は「日建設計の系譜——北浜五丁目十三番地まで」と「日建設計の100年——北浜五丁目十三番地から」という二冊の本が参考になる。まず出版順序として「まで」が平成三年(1991)に、「から」が平成十一年(1999)に出版されている。

 

 日建設計という建築設計業界最大手の社史が、平成三年(1991)の出版で、それを元に創元設計史をこうやって書き始めたのである。日建設計史の作者は小西隆夫氏である。本が刊行されたとき手紙を出し、詳しく分からなかった石川の経歴を教えてもらった。そこで、このつたない小史は、全て小西隆夫氏のお陰と言わなければならない。この本ではすべての敬称を略すると言っても、この小西氏だけは「氏」という敬称を振っておきたいのである。

 

 日建設計史は住友財閥史の重要な一部であり、徳川時代にさかのぼることが出来る。明治維新は徳川時代の豪商を近代化する。そのため様々な方法が試みられ、住友に建築部門が明治三十三年(1900)、「乙号第十号」という社内通達によって発祥した。銀行を始め各地の工場などを整備建設するという仕事であり、それが住友本店臨時建築部である。明治四十四年(一九一一年)営繕部となり、大正十年(1921)には住友合資会社工作部となった。ところが、順調だった事業も昭和八年(一九三三年)になると、人員整理が行われる。昭和五年(一九三〇年)は昭和恐慌の年である。

 

 営繕部の人員整理は、昭和八年(1933)株式会社長谷部竹越建築事務所を設立し、営繕部を収容する事から出発した。資本金は会社が出した。さらに昭和十二年(1937)長谷部竹越建築事務所の株式化まで解消、個人会社としたのである。しかしその後、日本の帝国主義的拡大によって、満州事変に続き、満州国が建国されるなど財閥には追い風になった。事業は進展し、つれて長谷部竹越事務所の業績も回復した。そこで、昭和十五年(1940)個人会社満州建築事務所を設立し、長谷部竹越建築事務所を吸収合併、住友土地工務株式会社建築事務所としたのである。その中、時局はただならぬものとなる翌昭和十六年(1941)太平洋戦争が勃発した。

 

 筆者はこの年に生まれた。場所は大阪天王寺茶臼山一一一番地、石川建築事務所発祥の場所である。それから戦争の四年が経過した昭和二十年(一九四五年)の敗戦は多くの人の命と資産を灰燼と化した。直ちに住友も財閥解体という問題を抱えた。住友財閥という巨体は小会社に分割され、社長連絡親睦会だけが過去の栄光をかろうじて保った。(左、私の住友昭和史に詳しい)財閥本社機能は完全に過去のものになったが、同時に日建設計が真の独立を果たす機縁ともなった。その後、住友土地工務株式会社建築事務所は日本建設産業株式会社と改称され、土木と商事部門が設立された。長年商事を御法度とした住友が商事を設立したのは、焼け野原にトタン板でも売ろうといった意識であったという。

 

 昭和二十五年(1950)土木部門を日建設計工務株式会社とし、商事部門を住友商事株式会社として独立させ、その後日建設計工務株式会社は「日建設計」と現在の名称に改称された。

 

この間の石川の住友における経歴を、住友職員録から見る事にする。

 

 資料の冒頭は明治四五年(1912)四月である。営繕係が二十名、建築係が十名記載されている。その最後に「内十」という肩書きと石川の名前がある。「内十」は職制を語るものであろう。この職制の建築係には「茶臼山建築事務所内」という記載がある。「茶臼山」は石川が開業した場所である。リストは大正二年(1913)から大正三年(1914)になると、営繕係が十二人となり、石川は二階級順位を上げている。大正四年(1915)では営繕係が会計課に属している。

 

 大正五年(一九一六年)株式会社住友鋳鋼所が加えられ、石川は内九となった。大正六年(一九一七年)、かなり書き込みや訂正が見られる。ただ順位が八番目となり、さらに「倉庫神戸支店建築場詰」という担当名が書いてある。大正七年(一九一八年)総本店という表記が見え、営繕課には主任がおかれるようになった。営繕係がその主任を含めて十名、順位七番目、内九という肩書きは変わっていない。大正八年(一九一九年)内八となり、大正九年(一九二〇年)のリストはない。大正十年(一九二一年)は名簿が「住友職員録」となり合資会社(工作)と言う表記が見える。肩書きの表記も変化し、「三等」ということになる。

 

 なお、見ているリストはすべて表紙が一枚、記載部分が一枚のもので、工作部がかなり大人数であることは推定できる。しかし、その総人数を数えることはできない。そして資料は最後のページに至るのであるが、年号が読み取れない。多分その前のページが大正十年(一九二一年)であるから大正十一年(一九二二年)と思われる。その建築係はそのページで三十八名、石川は三等、前からの順位は係長から数えて二十六番目であり、係長は別称「技師長」となっている。多分東京帝大か京都帝大の出身者であろう。面白いのは肩書きの中に「東京詰」と散見するから、住友の東京への足がかりが確立したのであろう。

 

 以上が職員録からの記載である。それではリストラの対象となった石川が独立せざるを得ない昭和不況がどんなものであったのか。あらためて日建設計史から拾ってみよう。先ず目次を紹介したい。

 

一、住友本店臨時建築部の創設と野口孫市

二、住友家須磨別邸物語 

三、大阪図書館物語 

四、住友ビルディング物語 

五、土木部門の始まり 

六、住友合資会社から長谷部・竹腰建築事務所へ 

七、太平洋戦争の下で 

八、終戦、戦後

 

 以上であるが、その六、の中に昭和初期の経済大不況の記載がある。石川は明治四四年(一九一一年)に住友に就職して、昭和六年(一九三一年)まで在職をするから、通算二十年の勤めであった。

 

 『この頃は(注、昭和五年《一九三〇年》頃)前にも述べたように、昭和があけるとともに金融大恐慌(注、世界大恐慌と区別)に直面した日本経済は、時の浜口雄幸内閣が緊縮財政と金輸出解禁の一連の政策によって不況を克服し、好景気を取り戻そうと努力していた。しかるに、米国におこった株式の大暴落をきっかけに世界的大恐慌の渕に落ちるのと重なって全く裏目となり、明治以来かつて経験したことのない深刻な不況の底に落ちた。そのため貿易は不振、物価は下落し、米、繭の値段が半値近くに暴落して農村も恐慌状態となり、事業の縮小倒産が続いて官・民を問わず人員整理、賃下げに追い込まれ、失業者が激増する惨憺たる社会状況であった。

 

 金融恐慌による大きな打撃を受けなかった住友の事業も、続いておこった世界大恐慌で、ほとんどの事業の業績が悪化した。そこで、住友ではこの不況を世界的に深刻かつ未曾有のことと受け止め、これに対処するために、当時まだ継続していた第一次世界大戦後の好況時の取り扱いを改め、給与、賞与を減額するなど緊縮節約の措置を講じた。昭和七年一月にはついに一律昇級を停止し、その前後に人員整理を行わざるを得なかった。』

 

その三 創業者の独立と石津栄一

 

  石川の長女杉山絹子によれば、石川が一人で製図板に向かうなか、朝晩の事務所の掃除を行っていたということである。その後、石川の住居は宝塚市の雲雀ヶ丘花屋敷に移った。その間を深く知る人はすでにいない。ただ、昭和十八年ごろ事務所に勤務していた石津栄一と連絡が取れ、この小史の為に執筆をお願いした。そこから当時の姿が浮かぶ。創業の場所は古い木造の事務所で、すでにそこを覚えている人もいなくなった。かつて住友の社宅であり、それを払い下げてもらい、家格的に住友家「末家」と称することを許されての独立であった。石津の文章を掲載する前に、石津の略歴を書いておく方がよいと思う。

 

    石津 栄一 略歴

 

大正十三年(一九二四年)生誕  愛媛県川之江市、父は大工 

昭和十四年(一九三九年)十五歳 川之江市尋常高等小学校卒業、石川 

建築事務所入所

昭和十六年(一九四一年)十七歳 大阪工大付属関西工業学校入学(夜

学)

昭和十九年(一九四四年)二十歳 同左卒業、石川建築事務所退所、洲

ノ崎海軍航空隊志願入隊 レイテ作戦始動するにおよび航空母艦「瑞鶴」乗船、被弾撃沈、友艦に救助され奇跡的に帰隊

昭和二十年(一九四五年)二一歳 終戦とともに帰郷一時教師、その後家業建設業に専念

昭和四九年(一九七四年)五十歳 川之江市市長、以後四期十六年、期中昭和五七年(一九八二年)川之江文化ンターを創元設計に発注

昭和六三年(一九八八年)六四歳 藍綬褒章授章

平成六 年(一九九四年)七十歳 勲四等旭日小授章授章

平成十三年(二〇〇一年)七七歳 川之江市名誉市民(現、四国中央市)

平成十八年(二○○六年)八二歳 現在

 

 

        書生奉公 石津栄一

 

 私が高等小学校を卒業したのは昭和十四年三月のこと。小学校を卒業して一週間だけ、父の仕事を手伝う。私の上阪を父は強く反対した。なぜなら私に姉が三人いた。父にすれば私を大工の棟梁に育てることが一番の願いである。もう一年も仕込めば一人前の大工になれると見込んでいる。小学校三年ごろから日曜ごと父の仕事を手伝ってきた。父にすれば私は金の卵のような存在であった。母は私を大学へやりたかった。口癖のようにお前は頭がいいんだから、ぜひ大学へ行かねばと、私を褒めて育てた。その母が小学校一年の九月、一夜の患いで病没した。

 

 母が生きていたら、父は大工の棟梁に、母は大学にやってと、あまりにも考え方が開いていた。いずれにしても昭和四年世界恐慌以来仕事がなくなり、家業も振るわなかった。両親の考え方もさることながら、六年生で旧制中学校への進学は棟梁にするため、許されなかった。

私には私の考え方があった。小学校三年の時、ある現場で、父が設計担当の監督から叱責を受けていた。父には父の言い分があっただろうけれど、気性の激しい父にして黙って聴いていた。子供ごころにやっぱり設計者の方が格が上なんだなあと思った。その頃から設計する立場になりたいと思った。

 

長じて寛三先生(注、石川)の姪にあたる高津契子さんから、先生が田舎で適当な少年を 探していると聴き、小学校を卒業したら石川建築事務所へ書生奉公をしたいと思っていた。小学校で席次を争った同級生は旧制中学へ進み頑張っている。内心負けてはならないと闘志を燃やしていた。父から上阪のゴーサインがなかなか出なかった。なかに父を説得する人がいて、やっと許可がおりる。昭和十四年四月十六日、寛三先生のご母堂が上阪する事になる。お伴に先生の妹さんら、さらに私もお伴に付け加えて戴く。城山の桜は満開。一同御代島丸(みよしまる)に乗船。翌朝、大阪川口港桟橋に着く。ご母堂の到着とあって一族郎党のお出迎えであった。その日はその足で花屋敷へ向かう。田舎者高級住宅街に目を廻す。先生のご母堂は立派なお人。

 

 二、三日して皆さんとお別れして天王寺の事務所に向かう。事務所の前は植物園、ガラス張りのドームの中はバナナを始め、熱帯植物。横は天王寺公園、遥か彼方に通天閣、ライオン歯磨のネオンは夜はくっきりと。その隣が天王寺動物園、朝はアシカの鳴き声がよく聞こえる。周辺は本当に恵まれた場所。梅田から天王寺駅迄地下鉄で十三分、交通の便利さも格別である。事務所の書棚に漱石全集がずらりと並ぶ。小学校の頃から一度は読んでみたいと思った本である。ところがそれもぬか喜びで、読んだのは「三四郎」の一部のみで、漱石全集を読む程、時間の余裕がなかった。読書は小学校の頃が一番時間的に恵まれている。

 

 翌日から朝は六時起床、表の道路の撒水に始まり、事務所の皆さんの出社迄、掃除に結構忙しい。来客にはお茶の接待、このお茶汲みも要領があり難しいものである。電話の応対も難しい。最初は田舎弁丸出しで、いろいろと忠告される。今考えると大阪弁も、四国弁も全く同じと思いがちである。私は上阪して、又、海軍に入隊して各地方の方言がわからなくて困る。市長退職後にして、方言探索に十五年の歳月をかけて勉強している。これも上阪当時の書生奉公に端を発している。一年間大阪になれる迄待ち、夜学への通学は許されなかった。

その頃の時間待ちは私に取って惜しい思いであった。

 

 昭和十四年上阪当時、百貨店は何でも揃った。お客さんもおいしいケーキ等よく届けて戴いた。戦雲厳しくなるに従い、食料事情も次第に悪くなってゆく。昭和十五年井川。昭和十六年新田。昭和十七年加地等、田舎の若者を育てるべく寛三先生のお考えなれど、食料事情が悪くなり、次々に兵役に取られ、先生の恩返しも出来ず誠に申し訳ない思いである。それでも事務所は結構忙しい。寛三先生の仁徳か、住友関連のバックのお陰か。寛三先生はことに松下幸之助さんとは意気投合されていた。林兼商店(注、大洋漁業、現マルハ)島津製作所等、先生の人柄が高く評価されての営業であったと思われる。住友本社を退職なされた部課長の懇親会を「住友末家」と称し、世間から高く評価されていた。

 

 先生はクリスチャンとしても敬虔な信者とお聴きしている。聞く所によると社交ダンスがとてもお達者であったとか。私は一度も先生の踊りぶりを拝見した事がない。又尺八も都山流の名手と拝聴するも、この尺八の音色を耳にした事はない。不思議な事に。私は四年半奉公して一度だけ先生からおしかりを受ける。私は朝六時起床、朝日課にとりかかる。それをよくご存知の杉山さん、事務所のアルバイトの人は十一時から終電ぎりぎり迄の仕事。杉山さん(注、杉山広吉)は責任上皆さんの帰る迄つきあう。夜十時がくると、「石津君朝早いんだから先にお休みなさい」と、やさしく声をかけて下さる。私も体力の限界を考えて先に休ませて戴く。寛三先生下関から梅田着はいつも十一時。普通はその足で花屋敷へお帰りになる。ところがその日に限り、よほど打ち合わせに緊急を要したのか、十一時半頃事務所にお寄りになる。もちろん事務所の皆さんは仕事をしていた。・・・寛三先生から、皆さんの仕事の終わる迄、起きていなさいのご注意を受ける。その事は鮮明に脳裏に残る。

 

 石津栄一失敗の巻。石川建築事務所は宏さん(注、石川宏、寛三長男)を中心にして、どちらかと云えば構造系、杉山さんのみが意匠系、として一人頑張っておいでだ。私も時々宏さんの強度計算書のお手伝いをする事があった。工業学校の学力では駄目だと思った。私はどうしても高専(旧制)へ進学したいと思った。

 

 昭和十八年十二月卒業をひかえて悩む事が沢山あった。国民総動員法の適用で就職は勝手に出来ない。進学の場合、成績は十%以内であること。これは建築事務所勤めのお陰で、卒業成績は抜群の点数を上げ成績は心配なし。学資は入所当時より心して倹約して貯金に勤めた。どのようにして貯めたかと云うと、大阪の生活四年半にして、見た映画は二本だけ、阪妻の「無法松の一生」。藤田進の「姿三四郎」のみ。郵便貯金は五百五十円。今の金にして五百五十万円である。高専は月二十円で三十ヶ月可能。不足分は設計のアルバイトでいける公算大と踏む。故に進学は可能の答えが出た。

 

 昭和十八年十一月学徒出陣式が雨の中、明治神宮外苑で、東条総理を迎えて行われた。これは文系学生の徴兵延期停止の故。私たち工業学校生徒には予備訓練の応募があった。私も時局が時局だけに試験のみは受けておいた。大阪人の風潮として志願で出てゆく者を馬鹿者扱い。時の流れ如何ともし難く、昭和十九年一月、洲ノ崎海軍航空隊へ入隊する。帝国海軍始まって以来と云われる猛訓練を九ヶ月受けて実施部隊へ配属。昭和二十年一月、寛三先生が態々大分航空隊へ面会にお出で戴く。本当に嬉しかった。六十一年前の話。昭和二十年八月六日、広島。九日、長崎へ原爆投下。十五日終戦となる。同期五百名中六八名戦没する。一命は取り留めたものの、よく助かったものである。 復員して十月頃、戦中学問を中断して従軍した者に学問の道が開かれる事になる。戦中大阪での食料事情を知る私は、大阪の摂南高専(大阪工大)への進学は怖い思いであった。四国内の徳島工専を受験した。「民主主義とは何ぞや」の作文のみであった。見事アウトになる。

 

 それ以後、家業の建築のみに精を出す事になる。縁あってよき妻に巡りあい、四人の子供に恵まれる。子供はそれぞれの能力に応じて大学は卒業させる。私は多忙の仕事をこなしたら社会奉仕にも精を出す。ボーイスカウト隊長。民生委員。中、高PTA会長。公民館長等。あれこれの社会奉仕が評価されて、昭和四九年十一月川之江市長に選ばれる。無事四期十六年勤める。其の間、昭和五七年、創元設計に川之江文化センターの設計を依頼完成する。あかぬけした設計であると市民の評価が高い。創元設計杉山社長に深く謝したい処。昭和六三年四月藍綬褒章受章。平成六年四月勲四等旭日小授章授章。平成十三年十一月川之江市名誉市民の称号拝受。今年八十二歳人生の晩年を迎えて反省する事ばかり。石川寛三建築事務所での修業は人生にとり色々と勉強の機会を与えて戴く。帝国海軍の二年のご奉公は果たして精神的に鍛えられた事はよしとして、学問を中断した事は長い・・・人生の事を考える時、疑義未だ消え去らない。

 

 悩み多き十代の思春期、石川寛三先生の人格に接し薫陶を受く。又杉山さんの人生の甘いも辛いも知り尽くした江戸情緒豊かな人格に触れる機会を与えて戴く。・・・私の書生奉公、ほんとうに人間形成にとって大きな糧となる。心より謝して筆を置く。

 

 以上が石津の書いたものの全文である。しかし、ここに書かれた一連の人生語りの奥にあるものを補足しておきたい。やはり一番劇的な事であるが、石津はあまり語りたくないようである。筆者が石津の原稿を読んでいて、どうもわかりにくいので質問をしているうちにわかった事である。書く事は誠に失礼にあたるかもしれないが、書いておきたい。

 

 昭和二十年石川が大分航空隊に石津を訪ねている。しかしこの時、石津は遭遇した悲劇的事件を石川に語っていない。それは現在、「レイテ沖海戦」として言われる大海戦に石津は参加し、九死に一生を得て帰還していたのである。昭和二十年八月十五日が終戦の日であるとすれば、石川が石津を訪ねたのが一月であり、戦局は終戦に向かって微妙な展開を見せる時期である。その中で、石津が自ら経験した事を、軽々に話せる時期ではない。彼は石川にいっさい語らず別れたようである。

 

 ではここに改めて「レイテ沖海戦」を、平凡社デジタル百科事典から引用してみよう。

 

  一九四四年(昭和十九年)十月二十三日から二十六日、フィリッピン周辺海域で行われた日米両艦隊による海戦で、参加兵力(日本側水上艦艇七七隻、飛行機約七百機、アメリカ側一五二隻、飛行機約千三百機)、戦闘距離、死傷者数などにおいて史上最大の海戦である。

(作戦系は中略)この海戦で日本側は戦闘艦艇二九隻と航空機多数および人員約一万人を失った。アメリカ側の損失は七隻に過ぎなかった。この海戦以後、戦闘艦艇としての日本の連合艦隊は存在しなくなった。石津はこの戦闘で航空母艦「瑞鶴」に乗船した。「瑞鶴」の戦闘は約二時間で終った。沈んだ船からかろうじて脱出した石津は、僚船の駆逐艦に救助され帰還した。その時戦艦「武蔵」は沈み、「大和」は生きのこった。

 

 

 石川の住居であった花屋敷は当時から一流の住宅地で、その事情を伝える本がある。平成十二年(二〇〇〇年)に発行され「宝塚雲雀丘・花屋敷物語」と題され、住民が委員会を作り発行した。本は当時の石川の生活面を知ることになるので、抜粋しておきたい。

 

 谷崎潤一郎の小説「細雪」の芦屋の地の描写は、雲雀丘の地にも奇妙なほどに一致する。(中略)谷崎が小説の舞台に雲雀丘を取り上げていたら宝塚モダニズムは宝塚市内で完結したのではないかと思える。モダニズムという言葉は、辞書には都会的感覚の重複であり、モダンなものを求めることを言うと書かれている。現代の私たちの日常生活に見られる洋式生活の基盤、提唱が大正時代半ばに登場しており、今日の私たちのライフスタイルは、戦前の宝塚モダニズムを含んだ阪神間モダニズム文化の延長線上にあり、云々となっており、ともあれ花屋敷の地域は一つの文化的先行性を持ち、建築家の住まいとしてふさわしい質の高い環境であった。

 

 

 

その四 冷蔵倉庫とのかかわり

 

 

 住友からの独立した石川の太平洋戦争に至るまでの仕事は、意外に順調に推移したようである。その間の事情を伝える本が、小説家大佛次郎を編者とした「中部幾次郎」伝である。

 

 本には伝という表示はない。しかしそれは旧大洋漁業株式会社、現在の株式会社マルハの創業者伝である。昭和三三年(一九五六年)に発行されたもので非売品であるが、国会図書館にはある。

 

 創元設計が池袋西口にあった頃、八勝堂という古書店で見つけ、石川が記載されているので購入した。石川が創業した昭和七年(一九三二年)は満州国が成立している。その辺りを書いてみよう。

 

 『昭和七年(注、一九三二年)三月一日を持って満州国成立、新国家として世界の舞台に登場するに及び、故会長(注、中部幾次郎)はこの地に重大なる関心を寄せ、たまたま昭和八年十月冷凍魚の関東軍納入(大陸渡し)がきっかけとなり、あくる九年八月、時の冷凍販売部長須が満州現地実情の視察調査に旅たち、帰国復命に及んで、満州進出の必要性を力説するや、正式に進出が決定され、満州国建国そうそうに実現を見るに至った。同年十月故竹村芳雄が総責任者として派遣せられ、新京三笠町に事務所を開設し、初めて満州進出の布石が敷かれ、現地舞台での活動が開始された。』

 

 『この新京本部の下に、全満枢要の地に、出張所、営業所、或は支店、事業場等が設けられ、関連事業である冷凍冷蔵庫の直営体制の整備もあわせ進められ、冷凍魚、海産物、果菜類の輸入の外、各種食料品の現地生産或は集荷をなし、軍需及び市販に、重要なる役割を演ずるに至り着々業界に重きを加え、日進月歩の言葉を裏書きするかの如く、進展の一途を辿るに至った。』『この満州国における事業中特筆すべきことは、国民生活の改善は水産、畜産、農産の三者の連携を扶植したことである。』

 

 と満州に於ける諸事業の記載がある。石川がいつ頃から大洋漁業と関係ができたかを知る資料は今のところない。しかし、以上の記述と関連し、同書の昭和十四年(一九三九年)中部幾次郎が七四歳の年譜の中に、石川寛三を見る。また、それで戦前の冷蔵倉庫事情も知ることができる。

 

 昭和十四年(一九三九年)(七十四歳)海南島への進出

 

 幾次郎は南シナ海の漁場に興味を持ち、母船手操漁業を断行して相当の成績を上げていたが、海南島に根拠が得られたら、南シナ海の底曳漁業は、何かと便宜を得ることになるので二月二十四日、軍の要請もあり、これが調査のために係員を特派した。その結果楡林を根拠として製氷冷蔵庫を建設し、機船底曳漁業の完全なる根拠地とすることになった。

  ▽満州各地に冷蔵庫の建設。満州に於ける魚の配給網を完成するにはどう 

しても適当なる地点に必要数の冷蔵庫を設くる要があるというので、六月二十一日建築技師石川寛三に渡満してもらい、各地に冷蔵庫を建設した。▽二月二十日、高松宮殿下には彦島各工場を視察された。

▽八月二十四日、妻こま 七十三歳で逝去。

下関第二冷蔵庫の建設。

 

 林兼(注、マルハの前身)の事業が暫時拡大するにつれ、彦島にある第一冷蔵庫だけでは間に合わなくなり、製氷の量も足りなくなったため、理想的な一大製氷冷蔵庫(収容量九千トン、製氷日産に百トン)の建設を目論んでいたがこれが建築には多大の鉄資材が入用なので当局からの建設許可がなかなか出ない。当局と折衝の末ようやく二階建ての冷蔵庫すなわち第一期工事だけが認められたので清水組に発注し、十二月九日地鎮祭の運びとなった。然るに所要の建築資材の配給がないので、工事は一時停止状態に陥ってしまったが、昭和十五年五月九日建築資財二百八十トンの許可が来たので、初めて本格工事にかかり、昭和十六年九月には、一階と二階とだけの冷凍室と冷蔵室とが使用できることになった。』

 

 以上から見ると、石川が満州で冷蔵倉庫を設計監理していたことと、また彦島第二冷蔵庫の建設に関わったことが明らかになった。この時期は太平洋戦争に後二年、石川が独立を果たしてから十年は経過していない。では石川の略歴を書いておきたい。

 

 石川 寛三 略歴

 

明治二一年(一八八八年)生誕  愛媛県川之江市、父は大工 

明治四二年(一九〇九年)二一歳 関西商工学校(現、関西大倉高等学校)建築科入学

明治四四年(一九一一年)二三歳 同校卒業、住友(旧財閥)臨時建築部建築課営繕係入社(現、日建設計)

昭和六年 (一九三一年)四三歳 同社退社

昭和七年 (一九三二年)四四歳 石川建築事務所開設(大阪天王寺)

昭和二五年(一九五〇年)六二歳 杉山広吉、木本守治等と共に石川建 

築事務所東京事務所(現、創元設計)開設  

昭和二八年(一九五三年)六五歳 松下電器産業株式会社建築顧問

昭和三三年(一九五八年)七十歳 日本建築学会終身正会員

昭和三四年(一九五九年)七一歳 東京事務所(東京駒込)を法人化し

杉山広吉とともに代表取締役(注、大阪事務所は個人経営)

昭和四一年(一九六六年)七八歳 勲五等双光旭日章受賞、日本建築家

協会終身正会員

昭和五二年(一九七七年)八八歳 帰天

 

        二 戦中前後期

 

     一 長野県「佐久市志」と津上製作所とブロックゲージ

 

 

  信州佐久に話が移るのは、杉山の家族が戦中そこに移動したからである。事務所では石津が出征し空母「瑞鶴」で九死に一生をえた。一方、杉山の移動は軍需工場の建設である。佐久市役所で作成した「佐久市志・歴史編第四編近代」から明らかになる。平成八年(一九九六年)に発行されたもので「石川建築事務所」の記載がある。

 

 長野新幹線「佐久平」で下車した経験のある人はあまり多くないであろう。下りで言えば佐久平は軽井沢の次である。その佐久平では高原列車小海線に乗り換えることができる。小海線を小淵沢方面に行くと中込(なかごみ)という駅があり、開戦後杉山の家族が移り住んだ場所である。杉山は大阪の事務所から、現場の設計監理者として送られた。その同時期、もうひと家族、東京からここに送られた人がいた。それが木本守治の家族である。木本は石川、杉山などとともに戦後の会社を再構築した人であるが、その移動は杉山と同様秘密であった。目的は杉山と同様であるが、木本は施主側の建設責任者であった。

 

 その経緯は「佐久市志」から書ける。東京に本社があり新潟県長岡市に工場をもつ津上安宅製作所は、航空機・兵器用の精密工作機械生産のための工場用地を物色していた。中込町では昭和十六年二月から工場招致委員会を設け、十一月には津上安宅製作所の工場招致に乗り出していた。これに野沢・臼田町も加わって三町合同協議会が開かれ、中込原に工場を設置することにきめた。津上製作所と三町が取り交わした覚書には、敷地は中込原常木用水南側約二十万坪。会社は土地提供者とその家族を優先雇用し、女子もなるべく多く雇用する、などの諸条件がもりこまれていた。昭和十七年十二月にかけて土地買収交渉が急ピッチですすんだ。耕地代表が提出した最終承諾書によれば、一坪当たりの土地代金一円五十銭、離作料一円、地毛補償料五〇銭、合計三円が二一六人に支払われることになった。翌年四月には小諸倉庫中込支店の建物が買収されて、津上製作所信州工場の仮事務所が開設され、七月から大阪の石川建築設計事務所と安藤組(現、安藤建設)の請負によって工場建設が始まった。

 

  以上の記述から、仮事務所が昭和十七年に作られたことがわかるから、現場を担当する杉山の移住は同年であったと推定できる。しかし、この移住の時期や意味は、後年になってもはっきりと示されることはなかった。この事情は木本も同じで、当時東京高等工学校(現、芝浦工業大学)の教授であった木本も実は強制的に選定されたからである。かつて木本は早大卒業後、内務省の技官でもあったからである。

  計画では鋳造工場・機械工場・熱処理工場・圧延工場などを配置し、小海線に沿って寄宿舎・社宅・東西に走る道路の南側に青年学校・プール・運動場などを建設する予定だった。昭和十八年十一月知事や軍関係者を招いて地鎮祭をおこない、社名を津上精密光学工業株式会社信州工場とあらためた。工場予定地の北側に貨物専用ホーム・貨車留置線、工場引込み線が敷設された(昭和十九年三月小海線北中込駅として発足)。昭和十九年四月以降東京の細川機械工場から、旋盤八台、研磨機四台、セーパー二台、ボール盤二台、フライス盤二台などを買収して据え付けた。七月には愛知県海軍工場の疎開内示とともに、軍需省からB29 爆撃機に対抗できる三十ミリ機関砲の生産命令をうけている。

 工場設置の主な目的は、B29用の機関砲を作るため、また地鎮祭が昭和十八年十一月の戦中に慌ただしくおこなわれた。

 

 二〇〇〇年三月頃(平成十二年)に、安藤建設社長室経営企画部広報室の井草弘隆の好意で集まった史料がある。その中に工事の経過を記載したものがあった。

 

一、 信州工場第一期建設工事、一九四三年(昭和十八年)十一月から一九四四年(昭和十九年)八月

二、 信州工場第二期建設工事、一九四三年(昭和十八年)十二月から一九四四年(昭和十九年)九月

三、 信州工場第三期建設工事、一九四四年(昭和十九年)三月から一九四四年(昭和十九年)

四、 信州工場道路及び塀その他工事、一九四四年(昭和十九年)四月から一九四五年(昭和二十年)十二月

五、 信州第十三号工場その他工事、一九四四年(昭和十九年)十月から一九四五年(昭和二十年)五月

六、 信州工場第四期建設工事、一九四四年(昭和十九年)から一九四六年(昭和二十一年)月不明

七、 信州工場改修工事、一九四五年(昭和二十年)十月から一九四六年(昭和二十一年)六月

八、 信州工場建設工事、一九四三年(昭和十八年)から一九四八年(昭和二十三年)九月

九、 津上製作所信州工場改修その他工事、一九五二年(昭和二十七年)十月から一九五三年(昭和二八年)三月(図面現存)

 

 右の工事経歴を詳細に見ると、そこには明らかに混乱があり逡巡がある。

それにしても安藤建設はよくこれだけの記録を保持したものである。一部図面もあるので載せておきたい。

 

 

(図面は安藤建設の保存したもの、封筒は杉山の遺品)

 以上の記述は主に工場建設方面から書かれたのであるが、それを鉄道路線の側から記載した記事もあるので書いておこう。

 

      北中込駅の設置

 

 昭和十七年(一九四二年)末、中込原に津上安宅製作所の工場建設がきまると、近くに停車場と鉄道引込線の設置が必要になった。昭和十八年四月製作所の津上退助社長、海軍航空本部の要望である航空機の生産増強に答えるため、新工場に工作機械中の重量機械などを運搬するには、新駅と引込み線がなくては不可能であるという理由で、鉄道大臣に北中込駅の新設を陳情した。

 中込町でも、大規模な軍需工場の進出によって、大量の貨物積み降ろしや人員乗降のできる施設が必要であるとして、久保停留場に代わる新駅の設置に賛成し、会社の希望する貨物専用ホーム、貨物引込線用地の買収に協力した。こうして、久保停留場から100メートルほど南の畑を整地してホームがつくられ、貨物留置線と津上工場専用線が施設された。 そして、駅舎前には佐久通運株式会社の事務所、北側には駅員宿舎が二棟建設された。昭和十九年三月一日北中込駅は、中込駅の管轄の下に助役以下九人(うち二人は女性)で営業をはじめ、同時に久保の停留場は廃止された。建設途上の津上工場関係者で一日の乗降客は一二〇〇人を数え、貨車七〜九両の出入りがあった。(小林 収)

 

 この記述から新設の軍需工場は、かなりの規模であり、その内容が秘密であったことがわかる。津上以外にも、昭和十七年には富士航空計器株式会社(注、戦後の社員滝口勝が在職している)が疎開してきた。東京から旋盤・プレス盤などの機械と、五十人ほどの技術者・行員を疎開させ、航空機用の自動操縦装置、爆弾投下器、燃料系メーター器、油圧計、自動消火装置などをつくった。行員の不足は元製糸工場従業員、高等女学校の勤労動員、女子勤労挺身隊などでおぎない、銅線の接合や絶縁版の製作などをおこなった。朝五時から夜十二時までの二交代勤務で、行員数が一時は五〇〇人にものぼった。撃墜されたB29 のノルデン爆撃標準器を模造した製品を、東京航空機や三菱航空機へ送ったが、成果を見ないまま敗戦となった。

 昭和二十年四月から川野器材工業株式会社が、航空機用無線機筐体(ケース)と同収容器の組み立てを開始した。中込木工青年学校(注、創元設計山下米之助出身校)の六教室に、東京から十六インチ自動鉋、十二インチ手押鉋、昇降盤、面取機を疎開し工場化したもので、同校生徒八十人も勤労動員で出勤した。

 

 といった記事である。それではその会社の創業者「津上退助」とはいかなる人であるか。パソコン百科から引くと「ブロックゲージ」が出る。ではブロックゲージとは何であるか。

 

 「ブロックゲージ gage  block

 

 ブロックゲージはスウェーデンのヨハンソン Carl  Edvord  Johanson(一八六四年〜一九四三年)によって発明された。ヨハンソンは互換性生産方式における工場の測定体系を機械化するため小さなゲージを数多く作り、これを多数組み合わせて兵器の生産に必要なすべてのゲージを作りたいと考えて、一八九四年(明治二七年にあたる)にブロックゲージを発明した。国産化は一九三一年(昭和六年)津上退助によって行われた。

 

 ブロックゲージは、近代精密工業にとってなくてはならないものであり、その国産化に成功した津上の起こした津上製作所が、軍需工場の重要な拠点になったのである。ただ津上製作所は戦後、平和産業化に失敗し倒産。再建者によって社名が「ツガミ」となり現在も一部上場会社として継続している。

 

 

 かくして昭和二十年(一九四五年)、いよいよ津上の軍需工場建設は終盤を迎える。

 

 昭和二十年(一九四五年)に津上精密工学工業信州工場へ、愛知県の豊川海軍工場から工作機械一七四台、技術者と行員一七九人が二次に分かれて疎開してきた。また、激化する空爆から工場を守るため、六月から地下工場の建設も開始された。鉄やセメントが不足し丸太で土砂の崩壊を防ごうとしたが、完成しないまま敗戦を迎えることになった。敗戦時の設備は建物一九棟に、機械三四〇台で、従業員は一六七〇人、ねじ転造盤試作品三台、仕掛品十七台、三〇ミリ機関砲試作品などが残っていた。

 

 

         二  日本の敗戦

 

 日本の敗戦は決まった。いくら都心部から遠いとはいえ、ここが軍需工場であるということはアメリカにも知られていたと思う。上空をB29が飛来した事もある。ここから木本守治のことを書きたい。木本は施主側の建設責任者であり、石川のお客様であった。しかし、終戦は木本にも過酷な運命を課した。

 

 今から十年ほど前、京王線調布駅で小学校の友人にあった。木本守治の長男隆である。 

 話しが、お父上はいくつのときになくなったのか、お墓はどこなのかと言った話になった。その後墓前に花を献じることができた。

 

 木本守治は明治二十五年(一八九二年)の生まれである。黎明期の早稲田大学理工学部建築学科を卒業、四回生であった。府立三中の同級生には文豪芥川龍之介がいる。「新潮日本文学アルバム」の中に、第七回東京府立第三中学校卒業写真がある。芥川の墓所は、駒込の慈眼寺で染井霊園の隣、いまは移転した外国語大学近くである。かつて木本の自宅も近いところにあった。芥川は三十六歳で自害するが、それは田端だ。石川建築事務所東京事務所は駒込、皆地縁がある。

 

 木本は早大を卒業して内務省に入り、全国の警察署などを設計していたという。然し大正十年(一九二一年)内務省を辞め、建築事務所を開設した。時に二十九歳であった。しかし、関東大震災に遭遇して事務所を解散、その後東京高等工学校(注、後の芝浦工業専門学校、現、芝浦工業大学)の教授をしていた。太平洋戦争開戦とともにかつての内務官僚であった木本は、津上製作所建設責任者として選定された。そこで設計者側の杉山と出会い終戦、語らって上京しまず品川に足場を築いた。ともに江戸っ子であった。

 

 品川の事務所は、駒込に杉山が事務所兼住宅を建てる間の仮事務所となった。駒込事務所が、東京における本格的な事務所活動のはじめとなった。木本も駒込三丁目に住宅を求めた。

 ところで戦後石川、杉山、木本の協力の下に、駒込に事務所を開くのであるが、もう少し津上退助の資料から戦中の事情を書いたほうが、現場中断のやむ得ない事情が理解できる。津上退助を国会図書館で調べると、二件の情報を得る。書誌の名前を記録しておきたい。

 

一、「過去と現在の対話/二十五周年に当って」津上製作所一九六二年(昭和三十七年)請求番号535067—Tu672K 

二、「Precision Tsugami 津上退助」一九七一年(昭和四十六年)津上退助編 請求番号 DH22—326である。

 

 津上製作所では海軍航空本部、艦政本部の要請によって、工作機械の量産工場を新設する計画を立て、当時事業への投資を希望していた安田財閥と共同して、長野県南佐久郡中込町に資本金二千万円の津上精密工学工業株式会社を設立する。野沢、中込、臼田の三町長が協力してようやく十七万坪(注、佐久市志では約二十万坪)の桑畑を買い集め、昭和十九年三月からその建設に(注、設計監理石川建築事務所。施行安藤組)着手し、寄宿舎、実習工場、付属工場などを建てたが、鉄筋コンクリートのセメントの入手が困難で、朝鮮の清津や四国から苦心して入手したセメントも、輸送の途中で爆撃された。

 

 時に木本守治は五十一歳、杉山広吉三十六歳ごろのことである。

 

 また、津上は「明日を目指して」の中で若き日を顧みている。

 

 四十年前(注、大正十一年、一九二二年)、私は一つの夢に取り付かれた。それ以来私は、その夢の実現に一生のすべてを打ち込んだ。精密機械工業というただ一筋の道を脇目も振らずに歩み続けてきた。当時、この道は未開の原野だった。開拓の途上には、数多くの困難が横たわっていた。しかし、私は、恐れを知らぬ闘志を持って、ただひたむきに前進してきた。この前進を支えたものは、いつも未来描く果てしない夢であった。

 

 ブロックゲージを国産化しようという自分一人の夢を抱いて、大正十一年(一九二二年)秋上京した二十九歳の青年津上退助は、設計の図面描きなどの内職をして苦しい生計を立てる傍ら大正十三年(一九二四年)三月、本所一丁目にあった友人の工場の一隅を借りて研究に着手した。その研究がやっと進みかけたころ、大正十二年(一九二三年)九月一日の関東大震災が襲い工場は焼かれ、努力は皆灰になった。その後大正十五年(一九二六年)春、東京の武蔵小山に個人営業の津上製作所を建設したが、しかし、昭和二年(一九二七年)の金融恐慌では、解散寸前の窮地まで追い込まれた。

 

 その後の昭和三年(一九二八年)精工舎の創立者服部金太郎氏の出資を得て法人とし、蒲田に五百坪の土地を求めて工場を移転した。当時精密な仕事は兵器が主だった。満州事変以来、戦雲が次第に濃くなってゆく時代だったので、兵器に関する注文が多くなった。兵器の仕事は本質的には好ましくなかったが、当時の事情はそんなことを言っておれなかった。海軍から、その頃困っていた魚雷やジャイロや深度計などの仕事が持ち込まれた。 

 

 

 それまで、魚雷を動かすには圧縮空気を使っていたので、飛行機から発見される欠点があったが、新しく酸素を使って海中に中和させ、魚雷の動きを発見されにくくする方法を考案し、射程をずっとのばして、その進路を自動制御できるように改良しようと苦心していた。このジャイロは精度の厳しい、難しい仕事だったが、津上製作所では海軍の期待通りに試作に成功し注文を取った。これが兵器に関係した最初だった。

 

 このような経過の後で、終戦を迎え津上製作所は一段と難しい局面に至る。これが石川を始め木本や杉山の戦後の新たな出発となった状況である。津上退助はさらに続ける。終戦当時、国内の大工場のほとんどすべては閉鎖し解散したが、精密機械工業を使命とする当社では、多年年期を入れて育てた熟練者が事業の生命だったので、これを分散させずに温存することが絶対に必要だった。その頃過激思想が全国を風靡し、赤旗宮城に入るという世相だった。工場の経営を「人民」の手に奪い取ろうとする、いわゆる生産管理が流行し始めた。

 

 この破壊理論が、まだ思想的に処女地だった当社の組合にも侵入し、少数指導者の先導に乗って瞬く間に左傾化し、過激な上部組合に加入して戦うとの気勢を示した。この間、信州工場の組合は長岡(注、主工場、石川建築事務所設計監理)の生産管理に同調せず、ミシンの生産に着手したが、冶工具が不備のために進捗せず、頭だけできて脚が揃わないので、幽霊ミシンだと冷やかされたこともあった。

 

 こういう状態では建築関係者の存在は無用で、混乱の津上製作所の推移を観察しながら、上京の機会をうかがっている木本と杉山の姿が浮かんでくる。さらに資料としては「津上製作所ミシン事件」が、昭和二七年(一九五二年)七月号「文芸春秋」に掲載された。興味のある方はぜひ読まれる事をお勧めする。

 これで戦中の経緯は終わり、いよいよ戦後となるが、杉山広吉と木本守治の略歴を書いておきたい。

    杉山 広吉 略歴

 

明治四一年(一九〇八年)生誕 東京神田豊島町(現、千代田区東神田)、父は左官業

大正十二年(一九二三年)十五歳 工手学校(現、工学院大学)建築科入学

大正十四年(一九二五年)十七歳 同校卒業、有馬組入社

大正十五年(一九二六年)十八歳 同社退社、宮内省内匠寮奉職

昭和二年 (一九二七年)十九歳 同省退官、前田健二郎建築事務所入所

昭和十二年(一九三七年)二八歳 同所退所、石川建築事務所大阪事務所入所

昭和十九年(一九四四年)三六歳 津上精機中込工場新築工事現場常駐監理

昭和二十年(一九四五年)三七歳 同現場終戦とともに整理

昭和二三年(一九四八年)四〇歳 中込町自治警察署設計監理

昭和二五年(一九五〇年)四二歳 石川建築事務所東京事務所開設(品川)

昭和三四年(一九五九年)五一歳 同所を法人とし代表取締役

平成六年 (一九九四年)八六歳 帰天 

 

 木本 守治 略歴 

 

明治二五年(一八九三年)生誕  東京本所(現、浅草)

明治四三年(一九一〇年)十八歳 東京府立第三中学校(現、都立両国

高校〉卒業

大正二年 (一九一三年)二一歳 早稲田大学理工学部建築学科入学

大正五年 (一九一六年)二四歳 同校卒業建築学科第四期生、内務

省土木局建築課奉職

大正十年 (一九二一年)二九歳 同省退官、三正社建築事務所開設

昭和十二年(一九三二年)四十歳 震災により三正社を閉鎖、東京高等

工学校(現、芝浦工業大学)教授

昭和十九年(一九四四年)五二歳 津上精機工業中込工場建設責任者

昭和二十年(一九四五年)五三歳 終戦により工事中断辞任

昭和二五年(一九五〇年)五八歳 石川寛三,杉山広吉とともに石川建

築事務所東京事務所開設

昭和三四年(一九五九年)六七歳 同所法人化役員

昭和三六年(一九六一年)六九歳 帰天

 

 

 

 「皇室建築」という本がある(写真)。その紹介には「明治期から昭和二十年にかけ、皇居、迎賓館赤坂離宮など、数々の皇室建築を手がけた宮内省(注、戦前は省)内匠寮(注、たくみりょう)。これまであまり知られることのなかった内匠寮の仕事と人物を、初公開の貴重な史料や図版と共に紹介する」と書かれている。

 

 こういった社史を書いているときに、タイムリーに出版された。杉山が一年という短い期間であるが、内匠寮に在職していた。かつて神田豊島町と呼ばれ、現在の日本エレベーター製造株式会社本社のある住所で、杉山の父庄三郎は左官業を営んでいた。大正十二年(一九二三年)は関東大震災の年である。この社史の中の人物で、直接この地震を経験したものは木本と杉山である。木本はその地震のために、建築家としての名声は途切れる。後に日本を代表する建築家になる村野藤吾は、木本の早稲田大学の少し後輩であるが、地震の影響が少ない関西で成功している。要は仕事に恵まれたのである。

 

 木本は相当の才能を持っていたと言われていたが、震災復興建築にエネルギーを取られよい仕事には恵まれなかった。地震で経営が行き詰まり設計事務所を閉鎖した。やはり、その大震災に遭遇したのが、十五歳で夜学の工手学校に入学したばかりの杉山であった。昼間は家業を手伝っていた。入学したのは今の築地本願寺の裏あたり、そこが工学院発祥の地である。

 

 大正十二年(一九二三年)九月一日、この日東京は前夜来の雨が断続的に降り続き、湿度も高く、真夏を思わせるような天気だった。(中略)午前十一時五十八分、ゴーという地鳴りとともに地面が大きく揺れだした。(中略)工手学校は倒壊を免れたものの、諸方から発生した火の手が午後七時ごろ校舎に燃え移り、本願寺とともに築地のランドマークとされていた三階建ての工手学校は、一物も残さず焼失し、三千五百名の生徒の学び舎は烏有に帰した。工学院史はそのように書いている。

 

 

 工学院大学の前身となる工手学校は、明治維新を契機とした日本の近代化とともに誕生した。産業革命によって発展を遂げていた西洋は、我が国の開国の引き金となった。西洋思想と技術は我が国を圧倒したが、幕末の有能な幕府官僚の海外経験等により、確実に日本の認識となり明治に引き継がれた。明治政府になって派遣された特命全権大使一行の細密な見聞は、たちまち日本に近代社会を生み出した。派遣は明治五年から一年をかけて行われた。それらの認識の下に、明治二十年(一八八七年)工手学校設立委員会が発足、その中には東京駅舎の設計者三十三歳の辰野金吾もいた。杉山が入学したのが大正十二年(一九二三年)であるから、三十六年後のことである。

 

 「皇室建築——内匠寮の人と作品」の第一部「内匠寮〜その始まりと変遷〜」の中に、出身校に見る内匠寮の人材、という項がある。

 

 出身校から内匠寮の人脈を見ると、技師、技手は明治前期では士族および大工出身者が主体となっていたが、中頃から各地の大学、専門学校出身者が主体になっていく。技師、技手の主な出身校を左記する。また逓信省も電気、通信部門に人材を派遣しサポートした。

 

 以上の記述から出身校を並べて見ると工部大学校(現、東京大学)及びその系統が並び、東京美術学校(現、東京芸術大学)、次に工手学校(現、工学院大学)となり、現代風に記載すれば名古屋工業大学、京都大学、京都工芸繊維大学、横浜国立大学、早稲田大学という順となっている。これらの記載から杉山の学んだ「工手学校」の評価はかなり高いものであった。なお、石川の長男である宏は記載されている名古屋高等工業学校(現、名古屋工業大学)の出身で、石川亡き後石川建築事務所大阪事務所の責任者であり、その責を全うし先年(平成十五年、二〇〇五年)帰天している。このようにして、いよいよ戦後に至るのであるが書きついでに、軍需工場建設地の中込にある、国の明治建築重要文化財「旧中込学校」について書いておきたい。

 

 

     三 旧中込学校

 

 この学校は中込小学校の隣にあった。現在小学校は移転しているが、旧中込学校は史跡として観光名所になっている。明治八年に建てたものであるというから、いかにも教育を重視する長野県らしいものである。史志は書いている。

 

 明治九年(一八七六年)の新築公有(注、公立)の一校は言うまでもなく中込学校である。明治八年(一八七五年)十二月落成した中込学校は長い風雪に耐え、昭和四十四年(一九六九年)三月、県内(注、長野県)最古の擬洋風学校建築の遺構として国の重要文化財に指定された。設計施工には、明治初年アメリカへ渡り建築を学んだと伝えられる地元下中込村出身の棟梁、市川代次郎であたった。妻入り木造二階建て、縦長の正面にポーチベランダがある形式は珍しく、同時代のアメリカ小学校建築の影響だろうと言われている。桟瓦葺き、寄棟造りの屋根に八角形下見板張りの塔(太鼓楼)がのり、外装は漆喰塗の大壁である。一階二階とも中廊下の両側に教室などが配置された。玄関ポーチの半円形窓や二階廊下背面の丸窓に色ガラス、鎧戸内にガラス戸がはめられて、「西洋作りのギヤマン学校」の呼び名が高かった。

 

 この中込学校の近くに杉山は居を構え、津上の工場建設現場に通っていた。村の名前は権現堂といい、歩いても現場に行けた。戦後女性運動家として名を挙げる丸岡秀子の出身村である。小説「ひとすじの道」全三巻 偕成社文庫 には、その村(権現堂)のことが詳しく書かれている。丸岡の実家は臼田にあり、木本はその臼田に居を構えていた。汽車ならば一駅か二駅である。

 

 

明治初年、一地方の大工の棟梁市川代次郎という人が渡米した訳であるが、いったいどのような人であったのか。確か今のお金で三百万ほどの渡航費がかかったと言われている。長野の一寒村の棟梁がいったいどのようにして金を工面したのだろうか。興味は尽きない。この中込時代を終わるにあたり、工場建設の請負業者だった安藤建設について書き加えたい。

 

 昭和五六年(一九八一年)、事務所は駒込から池袋に拠点を移すのであるが、そのとき杉山がこだわった机があった。日本の高度成長期の始めを一九六〇年(昭和三五年)代初期とすれば、戦後の混乱と再構築の時代が、二〇年近くあったと言っていいのだろうか。この移転こそ創元設計が個人経営形態から、世間並みの会社経営形態に移行する時期と捉えることができる。しかし、設計事務所という徒弟制度的色彩の濃い職業にあっては、それは容易にできることではなかったが、多くの人の努力によって実現された。池袋への移転については杉山は寂しそうでもあり、うれしそうでもあった。それは後で会社を引き受ける菊池一明の主導で行われた。杉山はそのとき一個の机にこだわった。それだけは置いていけ、と言う。ものにこだわる人ではないが、ものを大切にする明治人である。言われた通りに机は駒込の家に残った。その机は品川の事務所を開くとき、小原という人が送ってくれたものであることが後で分かった。小原は後の安藤建設の社長になった人で、小説「時雨の記」中里恒子著 文芸春秋刊一九七七年(昭和五二年)のモデルになった人である。

 

 

 

 ここまで来て今朝(平成十八年十二月二十六日火曜日/二○○六年)、食事中に突然「若月俊一」のレポートがNHKに出た。この社史を書いていてたびたび経験した事であるが、要するに「書け」という声に聞こえた。若月という人はかなり有名な人である。かつて十年ほど前、母校明治学院で講演を聴いた事もある。その時すでに若月なる人を知っていたのである。彼はたしか今年亡くなった。それもあってこの暮れになり報道が取り上げたのであろう。若月は東大出の医者である。その始めの赴任地が臼田でかなり複雑な事情があるが、そこはすなわち杉山や木本のいた場所である。それも昭和二十年(一九四五年)終戦のときである。彼は後に有名になった佐久総合病院を作り、全世界の農村医療に貢献する。彼が赴任した当時の医療的惨状は彼の本に明らかである。

 

 書くと長くなるので本だけを紹介をしておきたい。杉山と木本の移動した場所はともかくこのような場所であった。「村で病気とたたかう」若月俊一著 岩波新書 初出一九七一年(昭和四六年)、「信州に上医あり」南木佳士著 岩波新書 初出一九九四年(平成六年)、「若月俊一」日本図書センター人間記録五六番 一九九七年(平成九年)

 

 佐久病院を中心とした地図を「村で病気とたたかう」から転載しておきたい。

 

     その四 品川に東京事務所を開く

 

 戦後の石川建築事務所東京事務所の出発は港区芝田町六の四(現、港区三田三の十三)である。木本守治の長男隆(芝浦工業大学建築学科卒、一級建築士)のお陰でこの小史が書ける。彼と調布駅で偶然会ったことがそのはじまりであることはすでに書いた。その彼が品川の粗方の状況を記憶していた。それから推定すると、父木本がまず先行して品川に足場を固めた。ともかく事務所は普通の住宅であって、他にも同居人がいた。田町は木本が戦後、大学となった芝浦工業大学で戦前に教授をしていた関係で地縁であろう。ともあれここに創元設計の戦後は始まる。

 

 後に続く第一図および第二図は、木本 隆が書いた元図によっている。隆は筆者と駒込小学校で同級となるが、信州臼田からいち早くこの地に拠点を設定した父木本守治とともにこの地に来た。彼の記憶で描いたものを参考に筆者が清書した。敷地は京浜国道に面し、様々な生活の事情を持った人たちがいた。隣地は焼けた工場であり、反対側は墓地であった。事務所は一軒の家を山本という人と使うものであり、その玄関やトイレ、台所等が共同であった。なお、この見取り図は隆の姉、真左子と確認をとりながら作成したという。

 

 

 では大阪事務所であるが、どのような事情だったのか。ともかく終戦とともに、各自が生きる道を別々に模索せざるを言えない状況にあった。つまり杉山は石川建築事務所からいったん独立せざるを得なくなる。各自がその場でともかく生きる糧を探す事になった。その後、世の中が少し落ち着いてきて、石川を盟主として大阪と東京が再出発したのだと思う。石津の文章からも十分推定できるし、また大阪事務所そのものの事情を理解出来るものが存在する。

 

 一つは「川口基督教会百二十年のあゆみ」一九九三年(平成五年)刊であり、もう一つは石川の次男石川保が書いた戦中日記である。

 

 川口教会は日本聖公会というキリスト教の一派に属する。日本の近代におけるキリスト教の宣教活動は明治維新前にさかのぼる。幕末、聖公会は宣教師を送り、大阪の川口を拠点として宣教活動を始める。こういった拠点は横浜九州北海道にもあった。その中でも川口教会は日本の教会建設の草分けの一つであった。その教会で石川は大正九年(一九二〇年)に洗礼を受けた。石川三二歳の時である。百二十年史には石川の関連事項が六ヶ所あり、教会堂の建築に深く関わっている。その教会自体は昭和十二年の日中戦争開始時期から太平洋戦争を経て長い苦悩を経験している。それを教会史は次のように書いている。

 

 

 『これらの結果(戦時宗教制約諸法など)教職者・信徒の招集、徴用、日本聖公会組織の解体、教会合同問題、教会建物の徴用、聖職に対する特高、憲兵隊の監視拘束、聖公会神学校の廃校、空襲による教会建物の被災というような嫌な暗い出来事が相次ぎ、信徒、教職者、諸教会、諸教区、日本聖公会は夫々未曾有の苦難に遭遇した。』こういった状況のなか石川寛三は信仰を継続し、また石川建築事務所の仕事が行われた。

 

 次に石川の次男保の日記からも、苦労を見ることができる。保は後年社長を務めた菊池一明と同年である。菊池も保も同時代人として全く同様の苦汁をなめた。石川の独立は住友の社宅を譲ってもらい始まったのであるが、その部分の保の記述は、当社創業の地の直接的な記述でもある。そこから書いてみると、

 

 『大阪の天王寺公園といえばあまりにも有名である。動物園あり市民博物館美術館音楽堂劇場街のあるそこは、大阪第一の遊園地として繁栄を極めていた。植物園のガラス張りの丸い温室の前に、一本の道を隔てて四軒の家が建っている。その一軒の家で私は生まれた。』、長じて日本大学農学部予科に入学したのが昭和十八年(一九四三年)、場所は神奈川県の平塚であった。日記によると、学業は軍事教練と工場に働きにいくことが主であった。それでも昭和二十年(一九四五年)に大学農学部に進級した。在学中に兵隊検査を受けて合格、入隊を待っていたが、ついにその通知はこないまま終戦となった。遺書も書いていたと日記にはある。

 

 学校が閉鎖され一度帰阪したが、学校再開の通知を受けて上京。しかし、悪性インフレで食料がままならず、またかつての下宿が焼失したため住居を転々とするうち、生活ができず帰阪したのである。しかし、帰阪後の生活は一向に好転しないうちに学校をあきらめ、その後ダンスの教師として盛名を馳せた。戦後の大阪におけるダンス教師の草分けとなった。戦中日記の一部を書いてみよう。

 

 昭和二十年五月十七日木曜日快晴

 

 学校の昼休み、私は定期券申し込みのため庶務課に行かなければならなかった。そこは教室を出て、新築中の学部校舎を抜け「ケシ」の花咲く薬草園を通って五分ほど歩く。受付窓口で暫く待っていると防空情報を告げるラジオのブザーを耳にした。警戒警報は既に発令されていた。「ゲー」とも「ビー」とも文字で表せない様なブザーの音がぴたりと止まって、「東部防空情報——敵後続編隊は何れも相模湾に侵入北進しつつあり」「情報——————」くるぞと思った私は受取りをもらうと大急ぎで教室に戻った。私は入るなり大声で皆に知らせた。B29一機とばかり思っていた皆は「えーそんなに来てるのか」という顔つきである。

 

 それから五分と経たなかった。教室がざわめき始めた。それはP51の爆音が聞こえたからである。外にいた者が「わーすごい」といって空を見上げた。あまり急なので慌てた者が教室に出たり入ったりしている。外に出てみると、なるほど機首の長い戦闘機が青空をきって十数機旋回している。高度百五十メーターぐらい。何ら攻撃しそうもない。と、上空に気を取られた我々はすぐ近くに爆音がしたのではっと思ってそちらを見た。超低空とはまさにこのこと、屋根すれすれにPのやつが泳いでいる。盛んに機関砲がうなるがてんで当らない。教室には誰もいない。皆防空壕の中か近くに待機している。すぐ近くの林の上から一機がーーーまた予科校舎の上からーーー我々の頭上に来た時は反射的に壕内へ飛び込んだ。我々はこんな近くに敵機を見るのは始めてである。

 

 

 そうこうする内、品川から駒込に事務所を移し本格的な戦後が始まるのである。回り道ついでに杉山が修行した前田建築事務所「前田健二郎」のことを書いておきたい。前田は建築家として有名な人である。杉山は前田健二郎亡き後、前建会という会ができるとその会長を務めていた。前田健二郎については、はじめから経歴を書いておこう。

 

 

 前田 健二郎 略歴 

 

明治二五年(一八九二年)生誕  福島県出身、父は裁判官(注、加賀

 前田家姻戚)

大正二年 (一九一三年)二十歳 東京美術学校(現、東京芸術大学)

                美術建築科入学

大正五年 (一九一六年)二四歳 同校卒業

大正六年 (一九一七年)二五歳 逓信省経理局営繕課奉職

大正八年 (一九一九年)二七歳 同省辞職、第一銀行入社建築掛技師

大正十三年(一九二四年)三二歳 同行辞職、建築事務所を開く

昭和十一年(一九三六年)四四歳 パリ万博専門委員

昭和十八年(一九四三年)五一歳 事務所閉鎖、日産土木株式会社取締

                役設計部長

昭和二三年(一九四八年)五六歳 同会社辞任、建築事務所再開

昭和二八年(一九五三年)六一歳 日本自動車工業会顧問

昭和四十年(一九六五年)七三歳 日本芸術院賞受賞

昭和四一年(一九六六年)七四歳 勲三等瑞宝章授章

昭和五十年(一九七五年)八三歳 帰天

 

 しかし、前田建築事務所は先年(平成十五年、二〇〇五年)廃業したことを知った。少し気になって電話したのである。電話は通じない。これは廃業したなと思った。廃業する様なことを村田社長が言っていたのである。仕方がないので村田宅に電話し確認した。廃業は本当で、誠に残念。なんとかその経歴をこんな形でも、世間に残したいのである。「銀座モダンと都市意匠——銀座をめぐる過去と未来——大正から昭和にかけて」活躍した、資生堂ゆかりの建築家たちを紹介する展覧会が開催された。その中に前田の名前がある。資生堂パーラーや千疋屋を設計した銀座の演出家・前田健二郎と紹介されている。前田を有名にしたものはいろいろあるが、帝国ホテル新館、高島屋本店(日本橋)、池袋東京信用金庫本店、共立大学などがあり、杉山が修行した時期は、昭和二年(一九二七年)〜昭和十二年(一九三七年)である。前田がパリ万博専門委員であった時期とも重なっている。画家藤田嗣治などとも交流があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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