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2017.04.24

杉山勝己の日活史/映画とホテルのある断面(4)

 

 このシリーズの、「祖父ネット」での二つあるカテゴリーを、

 「社会」にせず「キリスト教」にしたのも、日本のホテル史は宣教師と深く関わると、書きたかったからである。中公新書には、「日本のホテル小史」という本がある。昭和56年(1981年)に出たもので、その中に書かれている。

 そのカテゴリーの中に、「ドクトル・ヘボンと金谷善一郎の出会い」、「ヘボン博士の指導力」が書かれいる。金谷善一郎とは、有名な、日光金谷ホテルの創業者である。また、同書には、「戦中・戦後の日本のホテル」も書かれているが、同じホテル戦後史でも若干、日活ホテル史と異なると思われる。

 日活の歴史は、どうしても映画が中心の記述になる。

 その中で、比較的冷静なのは、1962年(昭和37年)に出版された「日活五十年史」である。当時の、日活の全てを語っていると思える。ただ、この本は、戦前からの、日本映画の全史が絡んでいるので読み解くのは容易ではない。その中で、堀社長(当時)がじかに書いたと思える、「日活国際会館の建設」というところが、日活ホテル部に就職した筆者にも関わる。

 それによれば、ともかく、日活本社のあった有楽町の土地は、もともと日本航空の土地だったとある。昭和22年に、買わないかと持ち込まれた土地であったという。日本航空が、今の日本航空かどうかは、定かではない。が、正式名称は日本航空会社。土地は1300坪もあり、その会社は進駐軍とか連合軍とか言われる占領軍(マッカーサー将軍)から、航空事業を禁止されていた。その上、そこは占領軍の駐車場で、言うまでもないが、近くの第一生命が接収されて、マッカーサー将軍の総司令部になっていた。

 その、総司令部の駐車場を、買ってくれというのは、底地の売買ではあるが大変な話である。それを堀氏は、日本航空会社からあっさりと買った。買ったとしても、それが、総司令部の車が出ていって、更地として返されるかどうか不安があったに違いない。が堀氏は、占領は長期に渡らないと予想したようだ。敗戦時の、あの混乱状態でたいした度胸というべきであろう。

 もちろんそういった土地である以上、価格は高いものではなかったようだ。が、それにしても、しかし。

 ところが、この土地。さらに、東京都で緑地帯にする計画で、また道路拡幅計画すらあったと云う。あれやこれやはともかく、その土地に堀氏は、国際会館という銘打つビル計画を行う。結局、駐留軍総司令部の近くに、国際的なビルを建て、ホテルまで作り、司令部の需要を取り込もうという考えであったようだ。元々、氏は当時は映画会社の社長であったが、ホテル事業の経験者でもあった。

 近くの、やはり接収されている帝国ホテルとの連携も、視野に入れていたのであろう。し、進駐軍利用に、十分勝算ありと予想したわけだ。買ってすぐ、竹中工務店設計部を動かし、基本プランを作成。その出来立ての基本プランをひっ抱えて、総司令部経済局に乗り込む。

 この辺りは、出来すぎた話であるが。この経過を読むと、すでにかなりの情報が堀氏にあり、映画会社が戦後復興の重要ポイントになる、と考えていたのであろう。壊滅した普通の生産会社とは違い、映画会社の持つ国際的平和的なイメージが作用したものであろう。もちろん、ハリウッド映画は、駐留軍兵士の最も大切なレジャーであり、アメリカ政府のプロパガンダを行う、最有力手段であったことは言を待たない。

 だが、そういった映画であるがしかし、日本では戦前、大きなダメージを受けていた。その映画抑圧の震源地は、もちろん大日本帝国政府である。国策映画の呪縛は、映画人の思想を混乱させた。言論の責任機関である、情報局が大きな重みを持っていた。で、この話に移る前に、帝国ホテルの当時の内情を書いておこう。「ホテル小史」には、若干の記述が引用されたのが、犬丸徹三氏である。

 戦前のホテル協会の諸先輩が引退する中で、戦後のホープとして出現した人である。が、筆者にその実態は、よくわからなかった。そこで、小史に書かれものの一部を引用したい。この引用は、もともと犬丸氏が書いた「ホテルと共に七十年」(国会図書館)で、1964年に展望社といいうところから出版されている。1964年は、筆者が研修ですでに、日活ホテルで働き始めた頃であり、前回の東京オリンピックの時である。

 この記述によれば、犬丸氏はすでにな何十年ものキャリアを持つ、大ホテルマンであった。が、ホテルマンの同僚先輩がホテル協会から追放される中、この大御所は生き残った。しかし米軍が日本に侵攻する時から、帝国ホテルそのものは、それを使うという深慮遠謀があった、と言われている。

 つまり、他のホテルを尻目に、帝国ホテルは決して爆撃されることはなかった、と云う事情が背景にある。その自叙伝の中で犬丸氏が書いたのは、日本のホテルの、戦前の非近代的体質である。それは、人事や、ホテル機能の全般に及び、ともかく非合理非衛生という、ことを痛感した、と書いた。それが分かったのは、接収されたおかげであるとも書いている。つまり、アメリカ的実物ホテル教育を期せずして受けた、といったわけだ。この辺りには、日本における戦後のホテル事業が、まだまだ大きな問題を抱えていた、と云うことを表している。今のルートインホテルの合理的な佇まいは、想像もできない時代なのである。

 が、ともあれ、新たに建設された日活国際ビルの日活ホテル計画は、曲がりなりにもそういった、明治以来の外来日本ホテルの欠点を、カバーしたものになったのであろうと、今では想像される。つまり、アメリカ文化の宣伝機関として、日活国際ビルは、映画やホテルが新生したのである。それが、進駐軍のモータープールを、あっさりと堀氏に明け渡された理由であろう。焼け跡空地など、実際どこにでもあった時代である。

 ところで、筆者が勤務した天城日活ホテルを、日活史から書いてみよう。「昭和36年5月伊豆の修善寺町の一角より天城湯ケ島町に連なる丘陵地帯65万坪を手に入れることができたので、ここにホテルとゴルフ場を建設する計画を立てたのである。ホテルとゴルフ場は同時に工事に着手し、時を同じくして昭和36年10月東海の名物とも云うべきデラックスな天城日活ホテルは竣工し、時を同じくして眺望絶景の天城ゴルフ・コースの完成をみたので、昭和36年11月共にオープンしたところ、日々に隆盛を極めつつある。」となっている。

 それにしても、ここに勤務した筆者が思い起こしたことは、鉄筋コンクリート造りの従業員宿舎である。外観とは別な、その劣悪な環境である。まず、ど真ん中に畳通路があり、その両脇がお蚕ベッド。幅一畳にも満たないその棚は、奥行でいえば三人が寝ることができるスペース。それが、三段で、とりあえず一段一人が暮らしている。だから、一部屋に六人が同居していた。棚ベットの畳側は、カーテンで仕切られているのみ。全ては、筒抜けであった。これなどは、旧軍隊の兵舎より少しマシか、程度の設計であろう。ここで、一年を暮らしたが、よく耐えたものだと、75歳の今、我ながら感心している。

 つまり、ホテルやゴルフ場の外観からは、全く想像もつかない悪条件で従業員は暮らしていた。のであるが、若かったせいで、それはあまり苦にならなかった。東京の実家では、曲がりなりにも一室が与えられて、明治学院に10年も通ったお坊っちゃま学生、であったわけだから。世間知らず、と云うところであろう。

 で、次回は日活史から、戦前の大日本帝国情報局と映画界を書いてみたい。

 

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