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2017.12.26

杉山勝己と聖書(197)慣習の変化とネット社会のなかで、読書と画廊

(杉山勝己画廊は、右サイドから)

 慣習の劇的な変化、というものを言葉通りを信じられるのは、老人だからであろう。

 慣習というものは、歴史的にいえば、「昔」に過ぎない。昔を知らない人には、慣習の何ものであるか、は、わからないわけである。勝手に、過ぎ去った「もの人時」(ものひととき)を指して、年寄りが慣習と呼ぶものは、実在しないあるいは実在する過去である。のでは、ないか。

 自分の眼に浮かぶ、非ネット社会を、懐かしいとは思わないが、だからと言って何も愛惜を感じないかといえば、それは違う。大いに、愛惜を感じるのであるが、それは、「私の」愛惜に他ならない。他人にはわからないことで、人間はすべて現在形で生きている以上、過去をどう説明するかは、その人の力量である。説明こそ、慣習であり、過去なのである。し、現在形にとってその意味は、深いものでなければ、意味をなさない。で、今日はある本の売り出し日である。

 昨日も、ネット社会に生きるべく、ネット画廊を構築するため、PC病院(デポ)に行っていた。

 若い先生が、いて(技術者)、その先生に病状を訴え、診察券の待合番号を受け取り、近くの喫茶店でコーヒーを飲みながら昼食をとり、読書をしながらそこで待った。ITというのは、今や本格的な病院を必要とする時代に入った、と思う。要するに、素人では、どうにもならない。と、腹を決めた。30年のパソコン生活で、あらかたのことはわかるにしても、もはや手に負えない。歳をとったのは、こちらで、あちらは壮年のバリバリで上昇の一途、それが先生、を必要とするという意味で、先生と言ったのである。要するに、医者だ。

 もはや時代は、自動車自動運転家庭内ロボット、など。言えばきりのない方向は、明確である。が、だからこそ、普通の人には、パソコン病院が必要なのである。

 PC(パソコン、スマホ)問題は、人間問題であり。で、あるがゆえに、その病気病人の種類も、人間病院と全く同じだと言えるだろう。精神科、婦人科、内科、神経外科、老人科など、思いつくままに書いても、そんなことであるが。どのパソコン病も、全く人間病と同じ次元に入った、時代となった。今に、保険料を事前に払っておいて、国民パソコン皆(かい)保険、などという政治的現象を産むであろうと、若い先生に言って、諦めて喫茶店に行った。

 そこで、ネットが繋がるという情報を得。治ったパソコンを受け取って、池袋に行った。パルコの世界堂のといめん、は喫茶店で、そこでワイファイが効くと今度は、世界堂の絵の先生が言う。そこで、悪戦苦闘をした挙句、そこの若いマスターに、私のこのマックのパソコンを解放し、そこでコーヒネット(ワイファイ)の見つけ方を教えてもらい、問題は解決した。

 だがパソコンによる画廊の飾り付けには、最後の一つの大問題が残ったのは。高いコーヒ代で、ある。が、ふと、それも解決した。近くのマクドナルドのコーヒーは百円。と、気がついて、パソコンを中心に据えて、複数で行うネット画廊の飾り付け問題は、これで解決したのである。

 で、池袋ジュンク堂では今日、キャサリンマンスフィールドの本(手塚裕子著)の売り出しが、今日から始まる。ネット社会では、その集計は一気に行われるから、手塚さんは、やはり作家として、気になる1日となるであろう。が、私がその成功を信じるのは、その内容の高さに感心するからである。で、その本、実は、学術書、なのである。一気に人気が出る、という性質ものもではない。本によれば、後半のマンスフィールドの人生の(34歳で死ぬ)、その文学性は、後半人生で格段に昇華する。のは、驚くべき作家の文学内容の高さを、表さざるを得ない。で、100年保った作家であると、納得できる年末と、なった。素晴らしいクリスマスプレゼント(12月25日)であった、とクリスチャンらしく、言っておこう。

 さらに言っておけば、手塚裕子さんは、私の個展を行った銀座画廊(惣ギャラリー)での絵を、買ってくださった人だ。が、私が彼女に媚びて本を褒めているわけではない、と付け加えておきたい。本当に、素晴らしい本である。書いた人も、書かれた人も、ワンダフルだ。

 
 
     

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