« 杉山勝己と聖書(190)そして、スターリン粛清について | トップページ | 杉山勝己と聖書(192)キャサリン・マンスフィールド、来たる »

2017.12.20

杉山勝己と聖書(191)宗教書は、誤写だらけ、という現実の切実問題について、書く

 

(私のネット画廊は、右サイドから入れます)

 楽しき我が散策は、勝鬨橋の渡と、みかんの収穫である。

 書くことは、読むことにしかず。か。なぜなら、書くことは、自分のわずかな経験に過ぎず。読むことは、我が経験、ではない。のに、勝鬨橋を渡れる、ではないか。

 歩いたのは晴海から、銀座まで。歩いていると。途中物売りの人が、声をかけてくれた。働き人(びと)として、真面目そうな女性である。その人は、売りもののダンボールを開け、収穫物を見せる。なるほど、中央市場に近いわけだ。和歌山産の、爆弾みかんを買った。ゴルフボールより小さいが、ほっこりとしたミカンをビニール袋いっぱいで千円。それを、銀座の惣ギャラリーのお歳暮にした。

 そこに集う画家と雑談し、神田の古書店友愛書房に行った。ネットで予約した、「新約聖書の本文研究」を受け取り、水道橋まで歩き。帰ってきた。電車で、その本を読んで、やっと出会えたねと、本に声を掛けた。その本は、ギリシャ語の聖書が、実は1500年の間、写本であるために、様々な問題を抱えているという、翻訳上の問題を書いている。活版ができて500年、その問題を解決しないまま、聖書は活版化したのである。と、知った。以来、誤写はもちろんないが、誤写はそのままに、近代となった。と、知った。

 で、今も、その誤写問題は、重大問題としてある。それが、聖書の問題である。と、知るのは嬉しいことである。写経も同じだ。それに加え、様々な翻訳上の問題もある、のに、その問題は学問的な疑問にさらされない、のはなぜか。神道は、テキストがない。当然誤写は、ないのである。

 この宗教の、切実な誤解された理解は、解かねばならない。だろう。実に、深刻な問題である。

 下は聖書写本の一例。今では、ネット上に無数にある。もの。

Photo

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 

|

« 杉山勝己と聖書(190)そして、スターリン粛清について | トップページ | 杉山勝己と聖書(192)キャサリン・マンスフィールド、来たる »