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2017.12.18

杉山勝己と聖書(189)世界堂さんで買った、ミロのビーナスの石膏のショックについて

 (私の画廊には、右サイドから行けます)

 梱包されたビーナスは、かなり前に到着していた。

 が、あまりにも有名なものなので、しばらくは開けなかった。

 ここにきて、人生の終末絵画プランを実行し、自分のネット画廊もでき。飾り付けの基本は終了して、なんとか構造ができた。で、本格的な出発ができる段階に入った。これを機会に、ビーナスの梱包を解き、画室に置いた。そこで、「西洋美術史概説」(吉川弘文館/嘉門安雄編)で、ミロのビーナスを調べると。それは時間が経過したせいか、あるいは、自分が西洋宗教史に明るくなったせいか、本の記述表現不備が目につく。

 日本人の書いた、この西洋美術史で一番いけないことは、紀元前と紀元後の、表記の甘さである。これを、宗教史(キリスト教史)などで探ると、この結節点(BC/AD)は非常に重大である。が、美術史は、この点を曖昧にするようだ。戦前から、紀元を西暦と和歴とに分離表記して、和暦を偏重し(当然ながら)、どうも世界史的表現(これを西洋史として嫌ったが)を曖昧にしたのではないか。だから、西洋史は一層、難しくなる。要するに、緯度経度は平然と使って物理学を実行し、人文の世界史のそれは無視するという、ご都合主義である。

 その欠点が、今でも継続している。もちろんそれは、相対的なものである。が、西洋はこの紀元区分が実に厳密である。当然のこと、紀元後の西洋世紀は、まさにキリスト教の世紀である。キリスト教ではない日本は、ハラの中を言えば、あまり関係がなく、当然当たり前のように曖昧な表現になる。

 日本が、その点を曖昧にするのは、やむを得ないが。この分岐点を、日本は重大視しない慣習が今でもあるのは、勉強する上でまことに不幸である。ラテン語のA.Dはキリスト誕生後、という意味であるし、英語のB.Cとはキリスト以前という意味である、ということは一切強調されない。強調されない割には、だれかれとなく、ADとかBC、とかを平気で使用しては。なんのことやら、単なる記号だと普通の人は思ってしまうのである。これは、世界史にとって、洋の東西を問わず、大切な表記なのである。地球を旅するとき、緯度経度がなければ、旅はできない。

 これでは、内容もよくわからない西洋史をいくらやっても(勉強しても)身につかない。ミッションスクールの、明治学院の十年間教育でも、似たようなものであった気がする。キリスト教が、流行ったと言われる戦後教育でも、このようなことなので。キリスト教が後退に後退を続ける今では、その惨状はと、心配するのは、私ばかりではないと思う。

 ところで、ミロのビーナスを改めて観ると、その芸術的な高さに言葉を失う。その時、アジアは、日本は、どんな文化を創っていたか。ミロはヘレニステイック期の美術である、と書かれている。と、当時の東洋の、かつ日本の幼稚な文化に辟易するのである。宗教においても同じ、で。いつまでたって今でも、単なる、非哲学的な原始宗教の引きづりであって良いのだろうか。ヘレニステイックとはB.C300~B.C146、とあるから、本当にびっくりする、のである。その時、ミロが創られたというが、本当とはとても思えない。一体何であるか。で、聖書も同じような時期ではあるが、本当だろうか。と、思いたくなる。

 それは、悲しくもある。老人になって、嘆かずにはおれない。こんなことが、こんな風に認識されるとは、なんと情けないことであろう。下の写真のビーナスは、ウィキペディアから。   

 

 

 

 

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