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2017.12.11

 杉山勝己と聖書(182)旅に出るときは何も持つな、が世界宗教キリスト教の初めの宣教法、である

 (私の画廊は右サイドから入れます) 

エウセビオスという古代人が書いた教会史は、

 秦剛平と言う人が訳した。が、本としては今はなき、山本七平氏の残したものである。

 その三巻目が、銀座教文館の売り場の棚に残っていたのは、私にとって僥倖と言うべきであろう。早速買って読んでいるが、多分もはや教文館在庫も、これで最後ではないか。そんな本が入手できるとは、思ってもいなかったことであるが、少し読んで、真偽はともかく、聖書の使徒行伝とはまた別な、深刻な世界宣教の実態が書いてあって、面白いのである。

 その揃いは全部で三巻なのであるが、そのナンバー3が、最後の一冊だったようなので、さらなるあと二冊と思い、いろいろネットで調べた。当然古書であって、調べて見て、あまりの高さにびっくりした。のである。まさに講談社さんも、それを出したようで、それは二冊上下の揃いである。が、これも高い。マー国会図書館にある、とはいえ、うかうかしているとデジタル化するから、読みにくいので、欲しいとは思うけれど、後の楽しみにしたい。

 などと、書くと。聖書のあの言葉、「旅に出るときは、何も持つな」(マルコ6)とイエス言った、あの言葉。であるが、その言葉を思い出した。その言葉は、明治学院の学生の頃の、聖書の数ある印象語の、一つである。イエスの言葉は、若い者が聞くと、一種独特の感覚、おや、とかドキッとか、どこかグッとくるものである。そのグッとくる印象語が、キリスト教信仰の基礎になって、今の私の信仰がある。

 要は、それが、キリスト教信仰の初めであって、多分その強い瞬間的な印象をもとに、色々と。その後で知るのであるが、その知識は膨大で、簡単にはいかない。から、大抵の人は(特に聖書に対して外国人である我々は)挫折するのは当然である。だが、私の場合、印象が強烈だったのは、それが、戦争という時代を持ってしまった幼児期の、戦争の印象と人間性の印象とが、強烈にならざるを得なかったから、なのかもしれない。

 が、ともあれ、数ある印象語の中から、教会史(使徒行伝としても)として書かれる「初めの」一歩が、かようなイエスの命令によって、始まったということは(聖書に依るが)、いかに、イエスと言う人が(信仰では神)優れた人であったかと。老人になって、「つくづく」思うようになった、ということを書いて、寒い本格的な冬になったと、知るのである。が、キリスト教の世界宣教は、世界史の分野となる、のであるが、このような認識を持ったとしても、もはや人生の時間は、わずかに残っているに、過ぎない。ということである。といっておこう。

 明治学院で習った漢(中国)の思想、少年老い易く学なりがたし、とあるのも真理なのである。

 
 
 
 
 
 
 

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