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2018.01.05

杉山勝己と聖書(209)哲学の時代、となると、知るとは

 

 前日(4日)トマスアクィナスを買って、ベローチェに行き、

 持って行ったブルンナーの「我らの信仰」(明治学院高校の教科書)と参照した。

 その第一項目として確認することは、「神は存在するか」である。この二つの本を並べて、今朝(5日)これを書いているが、並べて見ると、壮観である。人類で、神の存在を問うことほど素晴らしいことは他にあるだろうか。トマスの訳者は山田晶さんだ。本によれば、大正11年生まれだから、1922年以降を生きた人だ。生きた時間は2008年まで。だから平成は20年までご存命であったひとだ。

 氏は書いている。トマスを読むことは深い森に入るがごとく、広い清明な湖にいるが如しと。700年前の、トマスアクィナスの著作は膨大で、それを深い森と広い湖に例えたのであろう。が、そう書いたのは、実は川添信介さんという人で、「神学大全」は西洋哲学への最良の入門書だと、解説をまず冒頭に書いた人だ。

 その本(中公クラッシックスW75/中央公論新社/2018年再版/初版2014年)を、手元に置き読み始めて、その二、も必要だと知った。で、その二巻目を、ジュンク堂さんに申し込みベローチェでコーヒーとなった。一方ブルンナーの「我等の信仰」は、初出は戦前である。ただしこの本は、戦後の私の明治学院高校時代のもので、初めのものはとっくにないが、かなり前に古書で購入したこの本は、昭和33年/出訳新版6版発行(教科書版)、と丁寧に記録されている。から、教科書であったという、ことは間違いがない。

 要するに、「教科書」である。では、これが、教科書とあるのであるが、もちろん文部省推奨教科書ではない。戦後、戦前から増加した、ミッションスクールが息を吹き返し、続々とこの本を印刷して、堂々と教科書にしたのである。今では、考えられない。教科書版、定価は百五十円となっている。出版した、今もある新教出版社の戦後の責任者に聞いたことがあるが、ともかく売れた、と話してくれた。

 で、ブルンナーの本の内容であるが、目次(全35項目)のはじめの第一項目が、「神は存在するか」である。13世紀のトマスアクィナスの膨大な本の、初めの提題と同じ、なのである。で、ブルンナーを読んだ人は、膨大な数になるのであろう。が、この提題を独自に取り上げた人を、いまだ日本人の中に聞いたことがない(翻訳とは別に)のは、どうしたことであろう。

 で、いよいよ、哲学(ここでは神学的)の時代となったか、と嘆いたのである。日本の神道は神を言いながら、このような問いを愚として発しない。し、仏徒は、仏の実在を疑っていない。仏は、人であったのであり、日本の神は存在を問うほど、不明解なものではない自然的なもの、であるからであろう。さすれば、キリスト教の神は人工的なものであると、知るのであるが、人工的であろうと自然的であろうと、もはや神を、問わずには済まされない時代、となった、のではないか。

 で、哲学が時代の前面に出たのではないか、と書いたのである。えらく大変なことに、なったと、言わねばならないだろう。これが、必ずしも人間の幸せに通じるとは、思えないが。弱小国家が核兵器を保有して、世界の大勢に影響するとすれば、普遍的な人間論は避けて通ることはできなであろう。これが、中央公論新社の発刊の意図であると、私には思える。ジュンク堂の本棚で、この本が意外と欠本となるのは、適当に売れるからであろうと、推察してベローチェでコーヒーを飲んで、二冊とも同項目の発題であると確認し、作業を終えて家に帰った。

 
 
 
 
 
 

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