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2018.01.06

杉山勝己と聖書(210)軽井沢の霧は、人間の死を予感できるのであるが、五里霧中というのも本当である

 

 トマスアクィナスが50歳で死んだ(13世紀)、ということは、

 76歳の自分としては、驚きである。だいたい、そのぐらいで亡くなったということは、伝記を読んでいたからわかっていた。が、改めて、神学大全を読みかかってみると、改めて、人間は所詮、死こそテーマなのであるということを、知る。

 早くから死をテーマにできる人と、晩節にそれと対面せざるを得ない人とに別れるのが、人間なのではないか。一般に、知識人は早く死を問題とし、死などを問題にしない人は、知識より実務をもっぱらとする、のであろう。これが、昔からいう知識と実務との分かれ目であって、どっちが正しいのかは、問題ではない。正確には、実務を成立させながら、時々死のことも考えるというのが、普通の人の生き方であろう。

 昔から、頭がいいと若い時に自殺するなどと言われ、それはやはり一般論から行って、正確であるような気がする。

 自分の人生でも自殺した人も多く、マスコミの中で知る人の中でも、多くの人が自殺するから、その数はかなりのものである。で、自殺せずに今まで来たのであるが、どうも老人になってますます頭が良くなるので(トマスなどを読むから)、自殺する可能性がある、などと書くと心配する人もいよう。だが、それは、心配することではない。心配をするよりなにより、自然死をする時期に来ているから、その死をまともに引き受けている時期の自分は、トマスを読みながら、「神は存在するか」を、読んでかつ問うているのである。

 神は人間にとって永遠を意味する、自己転化の理想論化であるが、命ばかりか存在の全ての根源としての神として、命を考えるときの、昔からの素晴らしい人間の着想である。その着想が、正しいのか、どうかということは、神を証明できないので、証明のしようがないのである。が、それは、実はギリシャの、もっぱら哲学をする有名な人たちもわかっていたようだ。というよりも、人間は昔からそれを、問うていたようだ。

 当然に、人間は生まれ死ぬのであるから、その現象は太古から明らかであり、何の疑いも持てない。で、ある以上、前にも進まず後にも引けず、ただただ親の死に目に会う日まで親を頼りとし、さらに自分の子供を育て養い、人生をさらに生きて行こうとするのであろう。そこに、生死の問題は完結するのであるが、自分のように明治学院高校で、ブルンナーの「我等の信仰」を読んでしまったために、神は存在するかといった、問うて分かるものを(正確には、分からないものを)問うことになり。実務を放り出して(上位校の受験を)、神は存在するかの、世界をさまよった、ということになる。稀に見る、生徒だったといって良いかもしれない。

 だが、もちろん実務無くしては飯が食えないから、実務を放り出したわけではない。嫌々でもない職業と、好きな女性と結婚もできたから、一方で死との問題を離さずに、内村鑑三の再臨論(イエスキリストが再び来る)に至っていたのである。再臨論は、軽井沢のあの辺りの夏の日の、清明な朝に、内村が発想したものであろう。あの頃の軽井沢は、今より一層霧が深く、沢山の宗教人や文学者、政治家を養成したのであるが、今も昔ほどではないにしても、霧の深い清明ないい場所である。

 今年の春先、同じ年の晩節の友人(明治学院高校の同級生)夫婦と同じ宿に泊まり、キリスト教の話をする予定にしている。ただ、その同級生はいくらブルンナーを教科書で読んだとしても、特に神は存在するかと問うた高校生ではなく、優秀な理工学部的勉強で、学期末試験にも関係のないことなので、AプラスB、などといった馬鹿げた数学に明け暮れて、社会に出てからやっとクリスチャンになったのである。から、およそトマスアクィナスなどという、西欧社会では超有名は神学者などを、読む人ではない。のは、ブルンナーの、神は存在するかの教科書の問いも、当時は馬耳東風で、過ごしたの人なのである。彼は、技術者であるから実務派の代表であって、そんな難しいこと(超易しいことを)を考える人ではない。から、全ての明治学院高校の生徒が、それを、真面目に読んだ兆候などなく、こんな面倒なことを考えないのであるが。頭の隅に、あの若い時に読んだ、本の一節が、蘇って、しまい。晩節の哀愁を軽井沢の霧の中に感じるであろうと、予想はしている。

 
 
 
 
 

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