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2018.01.29

杉山勝己と聖書(244)この話は、ジークムント・フロイト(有名な世界的な心理学者)に、なって行くのが悲しい

 

 明治学院高校の生徒の頃、

 ブルンナーの「我等の信仰」という教科書によって、「神は存在するか」と問われた。

 公立学校では、決して起こらない出来事。であるが、それにしても。今(76歳で)思えば。教師も教えることが不可能なことを、どのように誰が、いったい教えたのか。確かに、専門の聖書教師がいて、きっとその人が説いたのであるが。教師は、教会が同じだったので覚えているが、まことに不愉快な、自分の思考の上昇期の、くらい青春の思い出である。その教師の顔を、まともに見る気もしなかった。が、二人の息子とも縁があり、年上年下の、生意気な青年であった。これで、普通の教科の勉強はダメになった。のであるが、実に素晴らしいいい経験だったと、今は心から、感謝している。

 いうまでもないが、その時に、ブルンナーの本を全部読んだ覚えはない。ごく最初の部分を読んだだけと、記憶しているが。この最初の部分が「神は存在するか」であるから、どう解釈したか。は、定かではない。にしても、何らかの大きな影響は受けた、と言わねばならないだろう。で、意外に真剣に読んだのだと、その後の自分を考えて納得している。実際同時に、教会にも行っていたから、当時フェイリス女学院の院長でもあった、牧師の山永武雄さんから洗礼も受け、たので、学校の教育効果は十分にあったのであろう。それから当然のように、普通科目の試験でしかない明治学院大学の入学試験を受けて、やっとお情けで文学部に入学できたのである。

 このブルンナー教説が、何人の若者をクリスチャンとしたのか、統計がないのでわからない。が、かなり教会に行く生徒が増えたという報告が、学校であったことは記憶している。が、その後、洗礼を受けたもので。いったい、何人が、自分の誠実な若く硬直した告白を、現在までも持ち続けているのであろう、と思うと。日本の教会人口の減少から考え、ほとんど効果はなかった、という方が現実的である。

 が日本で、この減少して行く欧米の信仰を継続したとして。しかし、その人生効果は絶大というべきであろう。今の老残の自分の、私の人生に残っているものは、このキリスト教信仰でしかない。すべてのものを置いて、さって冥界に行くのであるが。その推定される事態はいかなるものか、まだ明快には認識できない。

 ブルンナーが教示した、あの時の、「神は存在するか」という問いが。本当に自分の中で、つくづくありがたいものであると、思えるのも。特に回答を得たから、というものではない。要するに、生命が終わらんとする時の、その意味を考えざるを得ない年齢としては。実にこのブルンナーの妙案を、再考するという幸せは、言葉でつくすことはできない。と、言っておこう。

 高校生の頭の中で、再三再四繰り返されながら、忘れられたきた、この問いは、今。なにを、もたらすのであろう。だからこそ、フロイトという有名な心理学者の「モーセと一神教」(ちくま学芸文庫/渡辺哲男訳/2013年第九版)を、棚から出して、読まざるを得ない事態がおき。エキサイトして読み始めて。改めて、ユダヤ人フロイトの、最晩年の高い到達点を読むことが。それは、豊島園の映画館で、映画「クレオパトラ(バレーによる)」を鑑賞したことが原因であるが。そこに出演する、管弦楽団シアターオーケストラトーキョーの一員の知り人の、おかげだと書いておきたい。で、最後にフロイトの言葉を書く。

 (17ページ)「われわれは、エジプト語の名前の持ち主はエジプト人(モーセ)であるという結論をためらいもなく承認する」という、超深刻な言葉がわかる自分。に、なっているという驚異を、改めてここに書いておこう。モーセが、イスラエル人(ユダヤ人)ではない、ということを論証するユダヤ人フロイトは、命を賭けていた、と本には書いてある。モーセはユダヤ人の、文字通りの民族の父、なのである。

 その意味が、了解できる。実に世界は、すべてを失うという意味で、実に深刻である。すべてを、失う。という、ユダヤキリスト教信仰を消滅させる

かもしれない破壊的論理は、元に戻せるのであるか。誰も、それを、見たくないほど、世界史の深い淵を、見るのであるが。

 

 

下はジュンク堂検索から転載したフロイト本

 

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