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2018.01.31

杉山勝己と聖書(246)一神教か、多神教か、という問いは日本人には切ない

 

 一神か、多神か、という問いが切ないのは、日本人であれば当然である。

 日本の文化が、多神によって成立しているということは、論を待たない。

 私のように、明確に一神キリスト教を信じるものは、日本ではマイナーな存在である。と、同時に、妙にメジャーな印象の下にもある。昔、単にネット社会ではないときに(今から少し前)、この問題は大した問題ではなかった。日本のキリスト教徒は、一種の知識人真面目人間ないしは、特殊な金持ちとして世間から見られ。それはそれで、明治以来の、日本文化の目指すべき一つの、隅にある理想の道、の一つに過ぎなかった。

 が、ネット社会が進んでくると、世界中から日本にお客様がおしかけ(有史以来)、日本の多神社会に国益を生み始めた。ここらあたりで、明治以来持ち続けた西洋に対する劣等感が、減少し始め。要するに、何事につけ、少し多神的自信ができて来ている。

 そこで、アジア全域に、太古からある大半の多神社会も、西洋の一神文明を受容して繁栄した日本文明、の評価を上げ。るのであるが、それはただし哲学でも神学でもなく、表面的直感的観光においてである。

 しかし、ヨーロッパ社会とて。キリスト教も一部のエリート宗教集団による、高い神学とギリシャ哲学の伝統のおかげで、早く大学設置が進み。その伝統を積み重ねてきたもので、庶民はその恩恵を受けたに過ぎない(当然被害にもあった)。さらに、近代ヨーロッパ植民地主義のおかげで、さらなる利益に預かった民衆が(市民社会)キリスト教化して。キリスト教は名実ともに、完全に庶民教となった(アメリカの建国)。初め聖書など、庶民が読むものではなく。学問(神学と哲学)という聖書解釈を軸に、エリート知識集団である教会が発信基地となって、庶民を宣撫していた社会だったに過ぎない。その間、政治権力が宗教権力と結びつき、大衆は蚊帳の外であった時代が、長く続いていた、というのが実態である。

 が、ここにきて高度ネット社会が出現。様々な情報が世界の大衆社会で錯綜するようになる。過去に有効であった人文学者は、ネット学問の高度な情報量で混乱を呼ぶことになり。という現象が、イスラムの自爆テロ戦略(原理主義)に、よく現れている。キリスト教は発祥当時から、エジプトギリシャの影響を受け、ローマという多神社会を席巻し、それを制圧したが。その制圧は、アリストテレスを真に保存したイスラムにも依拠して、ということも知る必要があるだろう。というようにいまや、この膨大な知識のネット情報交流は、我々の社会の神問題を複雑にする。

 そこで、無限抱擁的な仏教思想の出番があるにも関わらず、身近な仏教学問に、その高い志を感じることはできない。それは、地場の多神である神道との習合が深すぎ、今更腑分けをすることもならず。相当の天才の勇気と目的意識を持った学僧が出る以外、この問題の解は得ることができない。だが、世界のいずれかの場所でいづれ、日本的に言えば、空海に匹敵する天才が現れ。お得意の来世を含む、観光ではない本格的で(学問的で)近代的な救済仏教が生まれる、ような気がする。そこに、一神多神の、おおよそ解決できない問題の、解は与えられるかもしれない。

 が、一方その危険も大きく、伝統と破壊はつきものである以上、何が起きることやら。老人の出る幕ではないことは、確かである。

 
 
 
 
 
 

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