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2018.01.14

杉山勝己と聖書(224)日本宗教は、世界化した日本人を救済できるか、という命題は意味があるか

 

 この上記の超真面目な命題は、近くの、土曜の午後のマックハンバーガーで、

 思いついて書いた。えらく混んでいて、一時危なかった会社とは思えない。

 要するに、とことん世界化した日本人の、胃袋を満たす世界的企業文化として生き残ったマックである。そこで、池袋のマックWi-Fiは使用許可一時間での制限時間で、もっと混んでいて。とても、「ネット画廊設営気分」の打ち合わせには向かない環境である。

 それが、我が家の田舎マックなら、と。Wi-Fiはokか、制限時間はないか、などと確認して、今ここに実際に来て繋げてみた。が、Wi-Fiは繋がらない。パソコンは、Wi-Fiを認識しokマークも鮮明なのに、沈黙したまま。一向につながらない。で、面倒になって、この文章を書き出した、ところである。係りの人に聞くのは、あまりにも混んでいて、憚られる。

 まさに。キリストの救いという普遍を(キリスト教はそう思っている)、文字通り庶民のものにしたはずのキリスト教の、さらなる普遍化を。などと、思うおかしな日本人である自分であるが、まさに今通用するものではない。と、思いながらも。一人コーヒーで書きながら。いうまでもなく、こうまで、こだわらなくても。こんなことは所詮選民(昔のユダヤ人的)の遊び事、と見なされるのだ。と、思うものの。社会の目から見れば、人間の嘆きは日々増進し、ているし、孤独な大衆はあいも変わらない戦争準備の政府のもとに、ある。自分も所詮生贄にされる、運命というのも、シャクに触ることであるが。

 一発の原爆をも受けないための、政治的世論操作という、悲しい戦法から逃れる大衆など、いないのであると知る。核兵器などやめるべき、という常識を振りかざしながら、相手を納得させられない現代社会の戦争史を、また繰り返す、ような気がする。要するに、権力が腹の底で目指しているものは、生き残り率、すなはち生存歩留まり、に過ぎない。

 もともと、二次戦の時も、日清でも日露でも、庶民はロシアに勝って。狂喜して日露戦争を支持し、最後に二次戦の大敗北の焼け野原を、死ぬほどの思いで復興させた、死んでいった先輩たちの功績など、一個のハンバークより、軽いのであろう。つまり、目先の楽しみにふけっていれば(それしかないが)、いつかまた遠からず。とは言いながら、結局核戦争に巻き込まれるのでは、ないか。それは、もはや遠い昔の敗戦の惨劇を覚えている人間の減少とともに、恐怖が日本人の中から消えて、普遍史と言う人間史的視点から考えれば、戦争再発なのである。なので、キリストの救いを言うのである。

 老人になって、いささか焦る気持ちであるが、神に祈って。もはや自分では、どうしようもないこの現実は、マックのこの店の凄まじい食文化エネルギーの中に、溶け出し。て、腹の中に消えていく平和は、また。華やかな現実の事象に消えて、再び焼け野原と、なる運命なのであろう。かと、想像も、したくないことである。が、ネットは、つながらないので、マックの前にある、静かなコーヒー代の少々高い方の、喫茶店に席を移動した。そこは、もともとWi-Fiのつながらない、中級パン屋さんである。が、そこで、手塚さんのマンスフィールドを読むことにした。

 

 

 

 

 

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