« 杉山勝己と聖書(239)神は、存在するのであるか。 | トップページ | 杉山勝己と聖書(241)トマス・アクィナスは、神の存在を、どう書いたのか »

2018.01.26

杉山勝己と聖書(240)再び、神は存在するか、を問う

 

 昨日は、近所のいつも行くアンデンドゥというパン屋さんで、コーヒーを飲みなら本を読んだ。

 今朝は、239を読みなおして、なかなか、いいことを書くなと、我ながら感心し、ている。

 それでも推敲箇所は三箇所も出る。細かい「てにおは」に過ぎないが、推敲は20回はするから、結構潰せないのが、てにおは、なのである。読んだ本は「トマス・アクゥイナス神学大全1」で、著者は言うまでもないが、訳者は山田晶さん、で1922年生まれ、大正で言えば11年生まれである。すでに亡くなっていて、平成20年(2008年)、残念である。心細くなる。

 京都帝国大学文学部哲学科を卒業しているが、読者の私は明治学院大学文学部卒業で、今76歳。こういうのを、「有り難い」というのである。有り難い、という言葉をわざわざ私に教えたのは、母で。ありがたい、とはあることが、難い(がたい)ことである、と。まことにいい日本語で、いい得て、「妙」だと感謝している。要するに、母より少し若い山田さんなくしては、この平凡社の本も、出版されていない。創文社が終わるので、平凡社が後を引き受けたのは、平凡社の高さなのであるが。こういうことが文化、この国や、その本の出典国の文化の高さを表している。明治以降150年が経過した。日本の先人賢者のおかげで日本語訳が出たのであるが、神学大全は13世紀の書物なのである。

 それは、神は存在するか、と問うたの人が著者であるが、頭がさがる。洋の東西のことで、いわば地球の丸さが、この問いを一周させたのであろう。さらに、一段とぐるぐると、回るはずだ。涯しなく。

 
 
 
 
 
 

|

« 杉山勝己と聖書(239)神は、存在するのであるか。 | トップページ | 杉山勝己と聖書(241)トマス・アクィナスは、神の存在を、どう書いたのか »