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2018.01.07

杉山勝己と聖書(212)個人の宗教経費の膨大化とキリスト教信仰は、別ものであるはず、であるが

 

 トマスアクィナスが13世紀、神は存在するか、を説いたのに続き。

 20世紀エミールブルンナーが、同じ問いを、書いた。ものを、明治学院高校で私は読んだ(教科書)。

 この問いが、人類のすべての存在の根源の問い、だとは知らず、その後この問題に悩んだ。が、一生かかっても、とても哲学的に到達することはできなかった。が、信仰的にはやや、前に進むことはできたのであろう。その程度は、定かならない。が、それは他人から見ての話である。

 これが、一生涯をかけて一つの教会を守り、教会人としておとなしく生涯を終えるとなれば、多少とも、真面目な本当のクリスチャンであった、などと言われるに違いない。が、一生涯を見渡してみると、小学校3年から教会(日曜学校)に行きその後、約半分は教会に居た。もっとも、一つの教会というわけではなく。サラリーマンで生活を支え、絵から自分を離さずであったから、その時々の経済状態に合わせた転居を繰り返し。その都度、近くの教会を選んだ。その後、内村鑑三によって無教会となり、今はそれも卒業して、無集会キリスト教徒と自称せざるを得ない、所にいる。いまさら、経費の膨大にかかる教会生活に戻るほど、の経済状態ではないし、お人好しでもない。いわんやヨーロッパ人であれば、死に際に生涯に貯め込んだわずかばかりの自己資産の一割程度を教会に寄付するような、真面目な信者であったであろう。が、それはすでに、欧米でも過去の話なのではないか。

 

 都度、選んだ教会は全部、日本基督教団の教会で、それは自分が洗礼を受けた白金教会が、おおむね出発点であり。明治学院はその昔、アメリカ長老派の学校であったことも含め、プロテスタントは絶対的な教会という位置付けにあった。それは、明確な筋論で、対カトリックであり、はっきりとした線引きであった。正教などは、その時、視界に入ってはない。要するに、まさか御茶ノ水のニコライ堂が、それであるとは、思っても見ないことであるし、この三者の複雑奇妙な歴史など、いくら西洋史を勉強しても、自分がプロテスタント的位置を確保するのが精一杯で、他のポジッションとの深い関係など、皆目分からないまま人生はすぎたのである。

 この隔絶した分離は、世界史などを教えられる明治学院の歴史教育では、宗教改革が強調され、その影響は絶大なものがあったのであろう。それは、長い人生の後半部にも及び、ここまで明らかに。カトリックのトマスアクィナスと、プロテスタントのスイスの神学者ブルンナーの問いを、同一に論じるよな状況は長い間生まれなかった。が、結局それは、幸いに極を結び神は存在するか、に帰結してみると。別段イエスキリストを神の子と信じるキリスト教徒が、たとえ何派であろうと、結局神は存在するかと、問うたのであるから。錯雑の世界史とは別に、やはり人間の理性を信じられるのは、有難いことである。

 で、日本の正月の、お宮参りのお賽銭の金額が問題になっている番組に出っくわして、笑ってしまった。日本人は利口で、だいたい平均で100円強、であると報じられたから、自分の経験からもそれは正確であろう。と、思うと同時に。教会の経費は、なんと膨大なものであろうと、つくづく感心している。教会は週に一度、献金を行う。ばかりか、クリスマスイースター誕生日死亡記念日など、呆れるばかりであるが、それに教会員は月定献金などが義務付けられていて、ましてや交通費、昼食代などから始まる交際費の膨大な経費を考えると。明らかに、これではヨーロッパ人は教会に搾取されている、とする無神論者が出現するのも、近代社会ではおかしな現象でないことがわかる。

 これが、神学や哲学に加え、哲学でも無神論の共産主義を生み出し、世界を席巻して消滅した国家もあるぐらいであるから、人間社会は、ただならないものであると、知る。が、では、日本の精神状態は如何なるものか、といえば、実に庶民は巧妙にして合理的、自己経済との整合を図っているのだと、知る年末は、なんとも嬉しい限りであると、表明しておこう。

 これほど、簡便に神に幸福を祈れる国民は、世界広しといえどないのではないか。あるいは、イスラムが、結局何派であろうと、そういった簡便な方法として神と付き合うのかもしれないが、キリスト教から500年後のイスラム教には、キリスト教の過大経費宗教を批判したところが、あるのかもしれないと、思いながら深いことはわからないのである。

 
 
 
 
 

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