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2018.01.23

杉山勝己と聖書(235)毎日新聞(22日)の記事に、西部邁の死亡記事が出、ネットで自殺と知って、

 

 気の重い話になった。

 しかし、書かずにはおれない自分は、哀悼の意などを書くつもりなど毛頭ない。

 若い時に左翼を張り、翻って右翼となり、自殺とは、いい気なものである。有名な人であるが、右翼的論陣には組しない自分は、いうまでもなく共産主義者ではない。が、別に毒にも薬にもならない、穏やかな崩壊した穏健左翼である。と、いうに過ぎない。氏の生まれは1939年で昭和14年、私が1941年昭和16年、であるから。あの時代、ともに安保闘争をした大学生だったのである。

 ウィキペディアを読むと、知らなかった氏の経歴が見える。が、主義を変えた理由は定かではない。あの時、要するに、有名大学(東大)の優秀な生徒ではない、私(明治学院大学)は、明らかに穏健左派に過ぎない。高校の時に、ブルンナーに接し、洗礼を受けた自分を待っていたものは、有名校にはない、重苦しい神学の判断という人生問題である。それが、今も継続していて、一層深刻である。

 世界は、様々な思想の変遷を経て、今まさに日本は、西洋の近代思想の呪縛を解こうという時、に。氏は、自殺した。とは、なんとも思想のスタミナがない人だと、もともと関心はないが、同じ安保闘争という時間を共有したものとして、苦情を申し立てておく。死にたいなどと言っていたようであるが、自然死もまじかな年齢で、いかにもダンディに死んで見せたのであるが。いい気なものである。

 先輩の、三島由紀夫の自刃とは、およそ質が違っていることが、気の重くなった理由で。我々の世代の思想は、戦後70年後の今も、まだ成熟していないとは、なんともなさけない。

 
 
 
 
 

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