« 杉山勝己と聖書(216)明治学院大学教授工藤英一の、学問の芯にあるものと、明治維新のキリスト教 | トップページ | 杉山勝己と聖書(218)上記の様な問題は、結局「賀川豊彦」の検証になる、とは意外だった »

2018.01.08

 杉山勝己と聖書(217)神は存在するか。から恩恵(奴隷意思)と自由意志論争を通して

 このタイトルがわかる人は、キリスト教がわかる人であるが、

 まず、わからないはずだ。と、推定する。

 こう言った神学的なことは、実は教会に馴染まないからである。教会は信者を集め、教会を成立させなければ、成り立たない。から、このように、神学的に結論の出にくいことは、真正面からは受けず避けて通ると、思う。教会は、神学を勉強するところではない、信仰の場である、ということで済ますだろうが。信仰するところであるから、という理屈は立派で、間違ってはいない。のであるが、まさかそこにこそ、この大問題が横たわって内在しているということを、牧師は知っているが、信者には絶対言わない。のは、これを言うと教会が成り立たないからである。と、老人になって、やっとわかった。

 だが、明治学院に十年もいると。実は、この問題、頭をしょちゅうよぎる。が、明確な姿がみえない、まま普通の生活(普通社会)に入っていく。が、ではさらに、神学校に行こうなどという人がいて、こういう問題を解いてみたい、などという人がいたら、その人は神学校にはいけない、ないし行かないことになる。という、プロセスが、日本キリスト教にはある、ということは今までわからなかった。要するに、難しすぎる。この難しい問題が、ルターやエラスム時代に、討論されたということは、宗教業界に生きる人は知っている様だ。

 それも、初めから知っているわけではないが、色々業界付き合いをしていると、わかってくることなのであろう。であるにしても、結局それを読み解ける人など、キリスト教伝統の全くないと言って良い社会の日本人には、土台無理なのである。ときどき、日本にも神学者を名乗る人はいても、本当の意味の、この様な長い年月と練り込みの必要な、論理的構造物は、おいそれと。なにか、新規な意見を述べることなどできない。要は一千年以上の年月をかけても、無理であろう。少しづつ、前に進むしかない。

 話がややこしい様で、簡単な話なのであるが、簡単ではない。のである。

 明治期、高い西洋の文明を、分かり易い技術などと一緒に、日本人が受け入れたキリスト教は、文明的には高いものとして受け入れられている。が、これは(神学は)、初めっから全く無視されている。要するに、教会を作っていくときに、余計なヨーロッパキリスト教論争などを紹介しても、なにもうるものがないと言う理由で。避けたのであるが、余計ではない真髄である、こと、がわかった今は、そうも行かないだろう。あのとき(明治期)には、ルターエラスムス論争(宗教改革論争の重要問題)など無視したまま、教会やミッションスクールが作られ、キリスト教はせいぜい一般教養の域を出ないまま、今日を迎えたのである。と知った。

 これで、日本キリスト教の発展などは、とても望めるものではない。

 
 
 
 
 
 

|

« 杉山勝己と聖書(216)明治学院大学教授工藤英一の、学問の芯にあるものと、明治維新のキリスト教 | トップページ | 杉山勝己と聖書(218)上記の様な問題は、結局「賀川豊彦」の検証になる、とは意外だった »