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2018.02.02

杉山勝己と聖書(248)月が変わって、読み手も変わり、こんな文章は読み続けられるべきではない、と考える

 

 祖父ネットの先月の読者は、かなりの数に上っていたが、

 こう言った宗教文章は、また、他の文章も、どんな文章も。同じ作家の文章は、毎日読んではいけない。と思う。

 書き手に回ってみて、自分の文章が。一定の読者を得ているという、このネットブログの効用とは、一体何か。人間は、自分の頭で考えるのが当然で、考えるための参考にするためになら、誰の文章とて、毎日読むなどと言う愚を、実行して良いわけはない。(幸いに、読めるものではないが)

 日日の平凡な生活こそ、貴重な人生の宝なのであり、その中で少しは、文章なるものを読むと言う現代生活の、文章生活の基本は、せいぜいが新聞であろう。江戸時代で言えば、瓦版である。最後は、資源ごみになる新聞は、そういう意味を持っている。に、過ぎないが。昔、便所が汲み取り式であった時は、排便後の糞を拭く、落とし紙になるのがその運命と決まって居た、時期もあった。

 ただ、このような電気ブログは、全く無料のものであるから、変に面白がって毎日読むと。自分の頭が、いつの間にかその書き手(私)に乗っ取られて、自分を見失う危険がある。人とは、自分のことであり、自分とはかけがえのない自分なのであるから、自分で居たいものである。が、理想に過ぎないのかな。(読者データー数をみて、書いている)

 新聞という、面白い存在は、人間社会の一種の連帯で、あって。自分が決して孤立して生きているのではない、という基本的な証に使える。テレビとて同じで、その他読み物が成立する基本の条件は、「平凡」に過ぎない。テレビなどは、最近特に、その最もくだらないものであるが、時事刻々と電気の流れの中に消えていく他人の私事まで、売り物の狂態で演じ暴露されている。こういう時間売りの、稼ぎ方なのである。やることが、なくなって来ているのか。それにしても、毎日観る越路吹雪物語は、最高である。こういう努力には、だから頭がさがる。が、だれもどれも、というわけには、いかないだろう。当然。玉石混交であるのは、至極あたりまえのことである。

 昔、226事件などという、緊張した事件の映画で、緊張した青年将校などを演じていた今の老俳優が、自己の家庭の平凡な様を、さらけ出すと。昔の226事件は吹っ飛んで、それが臭い日常性の中に溶け込んで一気に飲み込まれるという、時代のバカバカしさは。昔の、あの緊張が、吹っ飛んでしまうよさは、人の日常性こそ平和の証なのであると知ると、それはそれで、貴重なのである。

 そのなかで、日常性ではない、トマスアクィナスを読む快楽は。池袋の喫茶店の、奥まった穴蔵が好きな人種のたまり場で、そこで読むトマスアクィナスは、13世紀の人で。13世紀のイタリアの神学であるから、まだ、宗教改革まえ200年、ごろのことか。その喫茶店が、イタリアの雰囲気を売り物にするから、余計痺れる。それにしても、現代人のいつも変わらぬ迷いに、答えて尚、高い純度と奥深さを持っている神学を知るということは、なんと幸せなことであろう。これを、折に触れ、読んでいる。が、これも毎日のように読むと、まずいかな。

 気をつけないと、自分を見失う。まー老人だから、それでもいいか。な。すべてが、失われるのであるから。

 

 

 

 

 

 

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