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2018.02.15

杉山勝己と聖書(269)神は全ての喜びの、源である

 

 神は全ての喜びの、みなもとである、

 という言葉を思いついたのは、喜びの源泉を神においたからである。

 神を尋ねるということは、事実上できないと知った。13世紀のトマスアクィナスの哲学は、「神は存在するか」であるが。神の存在を理性で探求しようとする高い学問の、いたるところに、神は存在しない。ばかりか、逃げるばかりである。

 昨日、チャーチル(THE SECOND WARLD WAR/Winston S. Churchill)を読んだ。最近、国会図書館のネットフォームが更新され、「チャーチル」と引くと、見事な宝物が一覧できる。これが、チャーチルであったのか、と知ったのであるが、その中に、「描く楽しさ」(チャーチル著/1951年美術出版)があった。古書ネットで探して、それも買った。神田の超有名画材店文房堂の前の、馴染みの古書店にあった。在庫していれば、久しぶりに神田に行きたい。

 で、チャーチルと絵の関係は、少しは若い時から聞いていた。日本にも絵画のチャーチル会があって、何やら金持ちの趣味の世界かと、軽蔑した若い時がある。例えそうであっても、「第二次世界大戦1(全四巻)」(河出文庫/2012年第7刷/佐藤亮一訳)を読んでいて、ヒトラーの記述に至った時、チャーチルさんに対する若い時の偏見は吹き飛んだ。一生懸命読んでまだ58pにすぎないが、初めてヒトラーの実像(「我が闘争」の筆者で、本は持っているが、読めていない。)に至れた、と思った。ばかりでなく、ヨーロッパ戦争(世界戦に拡大した)の、人間闘争としては今の所最大の世界史の物語を、やっと理解できた。と、思った。

 それで、なじみの駅前のパン屋さんの、コーヒーを飲み終わり、家に帰った。で、神に至るのは無理であるが、神が人間に至るのは、いたって簡単である、と知った。今朝起きて、今日も神我に至るを、祈った。今日の人生は、最高に違いない。

 

 

 

 

 

 

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