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2018.02.03

杉山勝己と聖書(252)今朝の寒さに、ニーチェの心も凍る

 

 で、ニーチェに、至るのであるが、

 果たしてどうか。ニーチェは「偶像の黄昏」で、次のように書き始める。

 「はなはだしく責任の重い暗澹たる問題の只中で己の快活さを保持するということは、けっしてささやかな芸当ではない」(ちくま学芸文庫/2013年第十刷)。であるが、この本をまともに読んだのは、持っている本の記録によれば、2014年読了とあるから、そんな昔ではない。明治学院大学の時に、いうまでもなくニーチェに触れ、虫食いで読んで、いただけなので読了してみたのである。

 偶像とはキリスト教の、神(イエスのことかも)のことである。その時、ニーチェがそれを書いた時、アクィナスの質問「神は存在するか」を読んでいたのである、か。わからないが、自分がアクィナスを読んだのが、最近であるから。明治学院大学の時に、トマスアクィナスを読んでからニーチェを読んで、いたわけではない。

 明治学院高校のとき使用した、ブルンナーの教科書「我らの信仰」にも同じ、神は存在するか、があって。その反対概念に近代西洋で挑戦したニーチェを知って、読んだに過ぎない。ブルンナーの教科書にある、内容の簡単な神肯定は、今から読めば当然西洋哲学の厚みを持っていることが、わかる。のであるが、初学の高校生では、それが全くわからないまま、哲学が上級に進んで行ったのである。

 ただ、アクィナスはカトリック、明治学院はプロテスタントで、あるがゆえにその乖離は甚だしいという、印象のもとに形成され実行されたものである。で、私の信仰生活は悲劇的に、西洋キリスト教史を後年で勉強せざるを得ないことになる。どだい、西洋史その中で生きる西洋人と、我々東洋人を同じにできないことなど当然であるが、文化的土壌もないままに無理な勉強をする(日本の明治時代的キリスト教の過去時間など、キリスト教全史からみれば0.1%にもならない)のは、現実生活を、はなはだしく歪めてしまう。

 まして、生まれたときが、米英は鬼畜である時代なのだから。

 子供にとって、これはなんだということになるのは、当然で。いくら子供であっても、その不思議さには、甚だ戸惑ったのである。で、アメリカ軍の占領で、本格的に西洋文化とのすり合わせ(昭和憲法成立)が行われた時代でもあったから、これまたおかしなことになり。そのおかしなことになった子供の世代が、私たちが育てた、いろいろある今の時代の、今の壮年期の人たちなのである。ということを、考えると、思想史をもっと、真剣に研究してもらわねば、ならない、ということを、言いたいにすぎない。し、ユーチューブで、毎日見てしまう津波の映像は、まさに、その時に私が経験した思想津波の、あの時の現象の再現であると、ふと、思うのであるが。

 で、今朝の寒さかな立春で。節分である朝に書いた。

 

 

 

 

 

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