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2018.03.26

杉山勝己と聖書(331)いよいよ、キェルケゴールに、至る。「死に至る病」を書くことになった。

 

 やはり、インドネシアの300万虐殺は、戦後の世界の、

 新たな悲劇の幕開けとしては、興味を引くことであるが、キェルケゴールの哲学には及ばないことである。

 人は、所詮死ぬのであり、その現代的意味を解明した、キェルケゴール実存主義の幕開けは未だに読者が、絶えない。いかなることがあろうとも、要するに「神の死も」。結局、神の死を語るアメリカの神学も、実存主義の高い考察を必要とする。この辺りの、現代的な考察は、未だ。人間の死という問題と不即不離であり、ますます。世界で技術的高さが、達成される分、ますます人間の、世界中の普遍的な死の問題は、深刻さを増しているように感じる。

 昨日会食した、長く付き合っている盛時には健康で金持ちの、年上の老人も。もはや、金や健康ではない歳で、この問題しかないのに、この死の問題から目をそらして、見ないようにしながら、なぜかひたすら飯を食っている姿を、見ていると。無性に腹が立ってくるし、人間には「餓鬼道」しか、最後は残らないのかという、悲劇を目の当たりにして。つくづくその老人と今後話すことはないと、腹に決めた。

 キリスト教の場合、神は死んだりして、ややこしい神学をなどを創って行くにしても。もっと、ましな永遠性のキリスト(受肉した神)の生命感を持っているから、神は死んでも、なんとかなるのである。が、日本人の宗教では、どうにもならない。

 神とキリスト、という弁証法的な、もちろん矛盾の、整合は容易ではないが。この本を、初めて読んだのは、明治学院高校の時である。

 読んで見たが、てんで歯が立たず、何を読んだのやらさっぱりであったが。今、76歳で再読してみると、これがしびれることこの上ない。今まで、神の死のショックを、やはり、明治学院の時に存在したアメリカの神学を、知らなかった故のショックであるが。それを超える、キェルケゴールを今読んで見て、やはり西洋のキリスト教はなかなか高いものがると、知るのである。

 それを受けながら、現代アジア戦後悲劇を読んで、その後の世界の、特にアメリカの戦争の悲劇の様々な報道実体験から。神は死んだのであるが、ただ、実存の高い位置から見れば、何せ、キェルケゴールも当然のようにいう、人間は皆死ぬ式のキリスト教的解説は、ホッともし当然視できるので、さらなる様々の社会問題にも挑戦できる。

 で、「日本の戦中の原爆製造」は、私が育った駒込の六義園のそばの、理化学研究所(現在は移転)の中の、四十九号館で行われていた。と、保阪正康さんが書いている。子供の頃、その構内をうろうろ、遊び場にしていた。で、その本は、「日本の原爆開発秘録」(新潮社/平成27年文庫版)であって。さらに最近新たに刷新されて、新潮社から出版されている。ということも、読んでいると。

 生と死の、人間の問題は、やはり面白い展開になる、のであるが。下は、刷新された保坂さんの原爆本。下の表紙の写真に写っている、「もの」が、私の実家のすぐ、そばの、駒込にあったわけだ。この写真の科学者が覗き込んでいる筒が何かは、本を買ってお読みください。

 
 
 
       

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