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2018.04.10

杉山勝己と聖書(354)日本キリシタン宗門史(岩波文庫)の初版は、1940年、昭和15年である。

 

 昨日は、盛んにそれを読んだ。

 読んで、あまりの悲惨に、胸を打たれた。

 読み続ける気がしない。いったい、本当だろうか。あの様な悲惨があり、残虐があるとは、いったいどうしたことか、などというのは。現代人の目で見るからに過ぎない、のであろう。いまや、キリスト教の神は、死に、神の存在はまず、仮説から出発しなければ、神の学も構築できないところまで来ている。そうだ。

 それは、バネンベルクと言う人が書いた「学問論と神学」(教文館/2014年)に、書かれている。併読しながら、日本人が。イエスキリストに触れ始める江戸時代始めの、その熱心な、殺されても離さない信仰を見ていると、この隔絶した状況の意味を問いたくなる。

 が、伝えられたその信仰は、すでに毀損されていたものである、と言うことを当時の日本人は知らない。ヨーロッパの中世社会は、神が絶対のキリスト教支配世界である。古代社会から成長したキリスト教は、ローマ大帝国を巻き込んで、権力化する。その権力が、ヨーロッパ中世を創った、のである。

 そこに、改革が現れる。神の絶対に疑問を持ったのは、近代初期の人間自由論である。神は絶対ではない。なぜなら、それなら我々は神の奴隷に過ぎない、ではないか。エデンの園を追われた人間は、神から追放されている。のに、自由を奪われているとは、信じられないと言うわけである。人間に自由はないのか、神の支配は絶対ではない。とする、宗教改革、である。1517年のことだ。これを、「いご いいな」と、覚えると、記憶に残る。

 人間主義に目覚めた新キリスト教は、神主義のカトリックと激突する。その激突の中で、カトリック(旧守派)に、フランシスコザビエルが生じ、て日本に来る。いご陸続と続いた宣教師の数は、数え切れない。ほど、多い。要するに、日本文化にとって、の敵。日本の、鎖国する前の状況である。パジェスの宗門史は、その激突の様を記録している。伝える方のキリスト教は、守旧派の神学、神の絶対性を伝えてやまない。その方法は、儀式。神秘的で高度な、魅惑する賛美歌とローマ字も加えて念が入っている。

 たちまち、日本人の魂を奪っていく。動揺する武家社会。自分たちの権力、その意義の危機である。徳川幕府に変わる、第三の権力、キリシタン。日本の伝統では、第一の権力は天皇、第二は武家、それを討ち払って、第三権力が外国勢力として、侵入してきた。それも、ローマ帝国を乗っ取り、国教化した絶対主義的神学を持つキリスト教。ローマ帝国も手こずった、政権である。並ではない。

 それを信じる日本人の、凄惨な結末が「日本吉利支丹宗門史」(岩波文庫/1991年版)だ。それを討ち払って、やっと獲得した非世界的政策、鎖国は、300年弱継続した、とされる。そして、江戸末期。日本に再度到来したキリスト教は、新たな構造を持っていたが、これも実は毀損していた。ヨーロッパでは、共産党宣言が宣告され、キリスト教全体が動揺していた。マルクスエンゲルスは、それを。宣言の中で、「ヨーロッパに幽霊が出る」と表現する。幕末嘉永年間の、日本にペリーが来た時、と同じ時期である。

 しかし、日本はそれを知らず、新しいキリスト教として、平然とアメリカから上陸してくる。のは、幽霊話が 、しばらくは、隠されたまま、だからである。日本人はそれを知らず、受容してしまう。またもや、キリスト教は正確には伝えられない。二度目の、キリスト教日本宣教の失敗である。

 そして、もはや神を信じられないほど、科学は発展している。実証主義の勝利、唯物論の勝利である。さて、ここで、日本思想は、今後どうするのか。で、あるが。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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