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2018.04.06

杉山勝己と聖書(347)パソコンによる差別化は、当初から言われていたことである。と、失われる市民社会。

 

 パソコンの出始めのころ、ビルゲイツさんやジョブスさんが、

 マイクロやマックの、基礎を築いたころ、を知っている。二人とも、私より若いひとだ。あの時、ある秀才と接触する機会があって、何もわからなかったパソコンやコンピューターをしらべてみた。ところ、少しわかったので、実物を買った。それがFMNEW7(東芝)というパソコンである。

 私のパソコン事始めは、その機械から始まった。まだ、中身は空っぽであるが、すでにマイクロが乗り込んでいて、そのパテントが鎮座していた。日本のパソコンのすべてに、このマイクロパテントは鎮座していたから驚きである。その結果、それが、今では世界基準になって、しまった。

 で、パソコンもここまで来たのは、キリスト教のおかげである。キリスト教では、世界基準や普遍という考え方が昔からある。神は実は、いうまでもなく普遍であるのが、キリスト教の神学の基礎、になっている。そのキリスト教が、世界の思想の大半の主役である、という事実を日本の教科書から学んだ、のは最近である。とすれば、市民社会もそこから生まれた。高い技術も普遍を通さなければ、意味を持たない。と、いうところまで、理解できたのも、最近である。

 普遍とは要するに、近代の結論で言えば、市民社会の平等と自由であるが、高度技術社会は、それを許さない。要するに、持つものと、持たざるものを中世のように再分離する。そして新たな支配する社会、と擬似封建的人間関係論は目前である。誰が、何を、どう支配するのであるか。この未経験の、新たな支配の出現こそ、新たな哲学と、その神学を必要とする現実である、ということも知った。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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