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2018.05.26

杉山勝己と聖書(407)聖書はいかにして、信じられるのか(7)内村鑑三全集31(全40巻/岩波書店)、2001年第二刷。285ページから。

 

 多分、読みにくいと思う。が、原文は、もっとずらずら繋がっている。

 岩波書店編集者も、文字は適度の現代語にしているとは、思う。が、それでも読みにくいであろう。この読みにくさこそ、コトの真相に至るため。ともかく、内容は、大変なことを言っている、と思う。  

 

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 イエスはいかなる意味において神の子であるか。  

 

 彼が奇跡的に生まれたからであるか。彼が奇跡を行いたもうたからであるか。あるいは、彼が復活昇天したもうたからであるか。      

 

  以上いずれもその理由とみなす事が出来る。   

 

  しかしながら、いずれも過去にあった事であって、今これを繰り返すことは出来ない。我らは今だ、他人の証明によってこれを信ずるにすぎない。そしてこれを信ずるは容易ではない。     

 

 ある人は信じ、ある人は信じない。ここにおいてか信者不信者、また信者の間にも種々なる教派が在るのである。    

 

  我らはイエスが神の子たる確証を要求する。何人も否認するあたわざる証拠を要求する。       

 

  かくのごとき証拠が果たしてあるであろうか。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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