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2018.05.29

杉山勝己と聖書(413)聖書はいかにして、信じられるのか(13)などと、言いながら。ユーチューブで、偶然カンボジア売春の現実を、観る

 

 多分、深く、もちろんわからないことであるが、

 このユーチューブは、現実である、と思える。このような現実を、観るということは、まさに今時のことであるが、文明の問題と、人間の問題とは。つまり、幸せの普遍と、罪の普遍ということは、キリスト教の神の、テーマなのであるが。観ることのできるカンボジアの少女売春は、現実であると、思える。これを悲惨と観ると、神は不在であって、それは、神を信じないことから起こる悲惨であると、誰が理性的に結論するのであろう。

 こういう画面(動画)は、ごく最近であるが。

 問題を解決すべく、人々は今も戦っている、とするのが、カンボジアに対する敬意であろう。で、あれともあれ、カンボジアの政治家に、その悲惨を解決する力、や意思が、あると考えてよいのだろうか。もちろんそれは、本物の貧困であるが。カンボジア貧困構造は、どうして、このようになってしまったのであろう。などと、考えながら、売春の少女たちが、片言とはいえ、日本語を理解するところを見ると。我が日本人も、少なからず、買春していると思える。

 で、人間の罪について、ここで語ることも、あながち意味のないことでないと、わかるので。やっとシドッチを、本格的に書くことができる、か。これも全く偶然であるが、ここのところシドッチを書いてはいる。それを、西洋の英知と、日本の英知との出会い、と捉えて。書いていたのである。

 が、毎日新聞5月27日日曜日、に、驚くべき記事が載った。まず目についたのは、スケッチである。ある頭のハゲた老人が、復元された、として描かれた絵が見える。のは、それが、シドッチなのであると、知るには時間がかからなかった(シドッチは死ぬ時、まだ壮年ではなかったか)。それが、本に載っているらしく。ある建設現場で、シドッチの骨らしきものを茗荷谷の、そこから掘り出した。のは、マンションを建設するためらしい。そこは、東京都の遺跡で、あるから、出土品は大切に扱う規定がある。それによって、鑑定された一体の骨が、結果シドッチと、なったようだ。という記事である。が、本は、岩波書店から出ていて「江戸の骨は語る/蘇った宣教師シドッチのDNA」で、ある。

 カンボジアの少女売春と、概ね300年前に来たキリスト教の宣教師が生き返る、事件は。激流の人間論として、私の頭の中を突き抜ける。が、どちらも、ポストモダンの問題としては、解きがいがあると、思う、のであるが。わたしには、無理だ。    

 

 

 

 

 

 

 

 

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