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2018.05.27

杉山勝己と聖書(408)聖書はいかにして、信じられるのか(8)かくのごとき証拠が果たしてあるであろうか。と、内村鑑三は書く

 

 かくのごとき証拠が果たしてあるであろうか。

 全く。この古代から継続する近現代の疑問は、今も続く。

 だが、この疑問。初めから(2000年前から)継続している。古代でも中世でも、ヨーロッパキリスト教世界は、「神は存在するのであるか」を問う。近代でも、現代でも同じだ。現代人が、「我は宇宙と繋がっている」と、いう時それは、平凡な発言である。死んでいる非生物の宇宙と、連続しているということは、自分の生命の微弱な存在の宇宙観であり、当然のあり方に過ぎない。人間の主我意識の、当然の帰結だ。人間たる、所以でもある。

 宇宙あっての話であるが、宇宙は、我々など問題にしていない。死んでいるとも言える物理的宇宙に、目的意識など、ない。はずであるが。

 だが、神は違う。宇宙を自分と同じく、人間が生命的に理解する時、初めて神なのである。だが、「宇宙観」は今では簡単である。と、いうのもばかばしい当たり前の話だ。膨大な宇宙を物理学的、天文学的、数学的に探求することは、いたって(超高度な学問がいるのは、いうまでもない)簡単である。結局、宇宙が不動であるからであろう。事柄が、不動である。だから、月に行ける。

 我々は、その中の超微細な存在に過ぎない、ということは明らかである。だから、結局我々も、広くいえば不動である。が一度、神を考えると、途端に問題が難しくなる。難しくなるが、生命的である。

 人間は、生命的である。

 この生命的である人間において、初めて神を考える事が出来る。高等生物の、特権であろう。のうえで、イエスは神の子で、その証明をするために、神の存在を、まず、問うことになる。となる。これが、ヨーロッパ哲学で、キリスト教である。アジアに、この疑問は、無い。存在の教えはある。がこれが人類史に、主に技術的西高東低を生み出した根本の相違する問いだ。

 だから、東西がフラットになった今。さらなる探求が、継続する。哲学は不滅。神は、存在するのであるか。これなくして、イエスの存在は問えない。なぜなら、キリスト教は神が父であるからである。

 私程度では、堂々巡り。果たして、内村はどう答えるか。ただし、内村も「神は存在するか」は問わなかった、と思う。今の所、全部読んだわけではないのでわからない。   

 

10万件達成ブロガー記念講演も、大変だね。あと、100アクセスで、10万件だ。10年かかった。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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