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2018.05.26

杉山勝己と聖書(406)聖書はいかにして、信じられるのか(6)作家高村薫さんの時代の伝言(毎日新聞)には、教えられた

 

 高村さんが、どのような作品を書くのか、は全く知らない。

 が、5月25日の毎日新聞で、平成の記憶が特集される中、その一つに「平成の事件」があった。

 今日のコメンテイターが、高村さんだ。見事な分析である。まず平成期の事件の基本を、日本経済の成長終了と、その成長によって生み出されていた平均とバランスが、完全にくづれ。その上、インターネット(ウィドウズ95)で仮想空間が生じ、現実との境が喪失。その主な被害者は若年層である、といった論理である。その隙間に、猟奇な事件が発生する、と。

 私から言わせると、ニーチェが喝破したもの。すなはち2000年間のキリスト教の歴史は、結局。キリストの父なる神を頭に掲げながら、実体は人間が、人間支配を続けたヨーロッパの無作為の虚偽(ローマ帝国の国教になって)。と、まず、言っておこう。人間は、人間によって支配される、という問題は当然の大問題であるが。その無作為の虚偽は、もちろん虚偽だと思わない信仰から、生じている。から、事態は厄介。そこで、近代ルネサンスは、人文という現実的な人間主義を生み。その哲学的理論家が、ニーチェなのであろう。キリスト教の長い虚偽を、根こそぎ掘り起こし、あらたな人間観が生まれた。と、基本的には考えられている。

 その結果が、現代社会。と、まず基本構造を確認してから。さらなるイエスに進んでみよう。

 要するにキリストに対する、いえば神に対する信仰を、再確立したいのである。もっとも、人間世界は、全て虚偽と仮想(仮定)であるという考え方もある。ただ、身体的な問題だけが、実感として実在している、という考え方である。高村さんは、それをそれを表題に使い、「失われた『身体性』」と、言った。

 「アニメや漫画」が、無限仮想に実現する世界に、人を巻き込みながら。人間観念の表現法として現実世界を席巻し、経済も支える。一方、先輩の神という仮想現実は、後退に後退を重ね。その失われつつある、神の実在のわずかな空間から。神は愛であるという、キリスト教の基本に立てば。再度宗教的な人間復興はさなれる、と主張したい。

 が、テクノロジーは、ますます神を描かない。しかし、神は、太古から。人間による、神の実在証明があいまいな、まま。「私」のなかに、信仰として確実におられる。

 で、明治人内村鑑三という天才(日本の高い精神財)を、転載している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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