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2018.05.20

杉山勝己と聖書(397)ローマ帝国の国教になったことが、キリスト教の失敗である(25)とは言え。果たしてマタイ伝の記述は理解できるのか。

 

 11章。を読んでいる。イエスが12弟子を創り終わったようだ。

 そこで、指図を与えた、とある。ここから、ヨハネの存在が、イエス伝の要であることがわかる。この時、ヨハネは牢にいる。なぜか。

 私はそれを、未だ理解して居ないが、子供の時(教会学校)も理解できなかった。この書き方ならヨハネは、イエスの師である、と言えるであろう。この二人の、掛け合いが微妙で。要するに、世界の救い主を創り上げる、あるいは造形して行く時の、決定的なドラマなのである。なぜか。これは、意図的に造形されたものか。どうか、と考えると。意図的ではない、とも思える。

 要するに、このような2000年前の、世界の救世主を創る、作り方がここに、書かれているのである。

 この辺りの節、ないし章を逆に遡ると、要するに聖書をないしはマタイ伝を、ないしはマタイによる福音書を、逆に時系列を逆に、読んで行くと。「平和でなく剣を」が、すぐ前にある。なぜか。平和より、剣とは、何を意味するのか。英語では、not peace , but a sword である。立派な言葉だ。凛として、後退しない。このタイトルは、本文でなく副題であるが、聖書の本当の見出しなのだろうか。それとも、現代聖書の理解のためにつけられた現代人のつけた、副題なのか。わからない。

 あまりにも、要領が良すぎないか。これも、子供の時には、気にならなかった。が、いまは、大いに気になる。ここまで、聖書は、整理された編集技術を、当時から持っていたのだろうか。要するに、2000年前に。であるが。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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