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2018.05.19

杉山勝己と聖書(394)ローマ帝国の国教になったことが、キリスト教の失敗である(22)聖書から、それもマタイ伝、で。

  この呼称、いまでは、マタイによる福音書、である。

 昔は、マタイ伝。またいでん、と打つと、また遺伝、と出る。から傑作だ。

 だから、マタイと打って、伝と分けて打たないと、まともなマタイ伝に、ならない。ほど、このマタイ伝(出たな)は、古い。2000年前のものだ。このように、話をガラリと変えたのは、今朝起きた時に思いついたのである。たまには、他(ほか)の本ばかり読んでいないで、聖書そのものも必要であると、思ったのである。それも「福音書」を、と思い、偶然出たのが。ここ、マタイによる福音書21章23節。「権威についての問答」である。

 この箇所を読むと、実に頭がさがる。確かに、考古学的な観点に立てば、聖書などは、実在すら危ぶまれるが(原本がない)。その内容は、写本伝達で、何とかしのいできて(概ね2000年)、現代聖書に至っている。その聖書の中身は、特に福音書などはたぶんに、「おとぎ話」なのであるが。この歳になって、いつもわからなかったこの箇所は、わかる気になる。それも、実に内容が現実的で正確である。

 つまり、イエスの権威を、問う箇所である。それも英語で読むと、単語が独立するから、特にわかりやすい。例えば、what right do you なのである。つまり、何の権威で、であろう。このように、主語目的語単語がブツブツ切れる英語は、わかりやすい。特に、こう言った問題を問う時に、は抜群の力を発揮する。日本語では、何の権威でこのようなとづらづら続くので、何の権威なのか、何を問うているのか、いまいちはっきりしなくなる。がもちろん、英語だろうと、日本語だろうと、カタルニア語、だろうと。言っていることには、変わりがない。

 が、目的ははっきりしていて、イエスが、何かに覚醒し神殿の境内で、ズズーしく説教を始めるのである。で、権威ある宗教家が、こまってソウ質問したのであろう。子供の時これを読んで、権威の在りどころなどは、全くわからなかった。おやじとか、おふくろとか、せんせいとか、しかしらないから。もっともな話であるが、76歳にもなると、うっとうしいことを知る年齢だから、もちろん知っている。

 で、つくづく、うまい書き方だ、と知るのである。この辺りが、イエス論理の初めの出発で、イエスの高い能力を示唆している。当時(約2000年前)、宗教的権威なくして、伝統的なユダヤ教の宗教施設で、一介の青年が説教をし始める、などということは、実際あったのだろうか。たぶん現実的に想像すれば、頭のおかしな人は昔からいるのだから、それは、あったのであろう。だが、大抵は、あっさりその境内から、官憲によって排除されていたのであろう。と、想像できる。ただ、イエスには、手こずったようだ。その問答、なのだ。

 ここから、キリスト教は発祥する。で、それを英語で、今日は仕上げてみよう。the questions about jesus' authority と、なる。

 
 
 
 
 
 
 
 
 

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