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2018.05.08

杉山勝己と聖書(378)ローマ帝国の国教になったことが、キリスト教の失敗である(6)

 

 こんな面倒な、テーマに、日本人が興味を持つわけはない。

 と、知ってはいる。

 もはや、キリスト教は日本において、どんどん忘れられていく、宗教、にすぎない。

 と、言うところまで来たのは、やはり、西高東低の時代が終わった、からであろう。大変慶賀すべきこと、ではある。こんな中、古書で岩波文庫が着いた。「神の国」アウグスティヌス著、1998年第二刷、其の五/全5。である。そこで、神の国、は地上なのか、天国なのか。とまず、問える今朝なのである。その問いは古く、約1400年ぐらい前の人、アウグスティウスも、(第3章で)こう問うている。ことから、わかる。

 初めの書き出しは、ただし。身体の苦痛は必然的に肉の滅亡を伴うのであるか、である。言うまでもなく、私は今の所、伴う派であるが、そこがクリスチャン。のくせに、いささか、わからない。1500年前の人も今の人も、人の死を見ながら(自分の死ではない)、死ぬとき、苦痛を伴うのであると知るのであるが、言うことは同じであるようだ。あの当時、人の死などはしょっちゅうであり、至る所で死があるのも、いま以上である。ので、あろう。

 人は常に生まれもするが、死にもする。この歳になると、死は必然、にすぎないから、特に人は死ぬのであると、より確かに知るのである。この感覚は、若い時にはない。若い時も、人が死ぬことはもちろんわかる。かなりの人が、周りから死んでいく。自殺する人も何人か出る。病死、老死は、もちろん事故死は、毎日の新聞に載る。のは今も変わらず。まして、WW2(第二次世界大戦)のあった、世界は死ぬべき時。だが、そんな死でも、若い時は、今から思うと人ごと。であるが、今は違う。いわば、より強い自分事、なのである。

 76にもなって、それが他人事であるとは、とても思えない。見事な自己の問題である。で、アウグスティヌスの問い。「身体の苦痛は必然的に肉の滅亡を伴うのであるか。」と、問う、とはさすが世界の歴史に残る大神学者である、と思う。

 この問い、どう解釈されるのであるか。今から読んで、楽しみたい。これで、いい一日になるに、決まっている。なんだか、元気がでるよ。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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