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2018.05.31

杉山勝己と聖書(416)聖書はいかにして、信じられるのか(16)なるほどザ、ワールド。神の普遍と神学と、キリスト教

 

 民族宗教と、普遍宗教と、いう

 切ない問題は、学問の領域であろう。世界人類の大問題である。

 が、簡単には結論が出ない。これが、ポストモダンと絡むから、誰にも回答がない。そこで、敗戦日本の占領政策の中で、エースとして登場したブルンナーの普遍神学を、ご紹介したいのだが。

 私は、明治学院高校の時、これに接して人生が狂った。と、過激に表現するのは、その時、バルトも読んだからである。どうして、そうませていたのであるか、わからない。ともかく、ブルンナーは教科書であったし、バルトは、そのついでに読んだ。ブルンナーはややわかったが、バルトはまるでわからなかった。最近になって、少しはわかる。が、まだまだ。あの、膨大な未完全集は、読むこともなく人生は終わるに違いない。

 で、今日はシドッチDNA本(岩波書店)をジュンク堂に買いに行く。茗荷谷の昔々の(300年前、ぐらい)骨を鑑定し、それをシドッチとした、ようだ。白石(はくせき)という日本英知、シドッチというイタリア英知の出会い。は、何度書いても胸踊る風景、になる。新宿御苑の裏手、千駄ヶ谷方面の、旧新井白石邸に、今面影はない。茗荷谷の、シドッチの死んだ牢獄も、今は碑があるのみ。丸ノ内線の操作場のあたりにあった。が、そこから三体の骨がでる。

 要するに、日本型の神と西洋型の神の出会い、があった場所。これは全て、東洋文庫平凡社「西洋紀聞」にある。で、ブルンナーの、普遍神学、その冒頭の問い。「神は存在するか」に、全てがかかっていると、思う。神は存在するか、なんとシンプルで美しい神学の問いか。日本の宗教がかつてこのような、根本疑問を発した、という記録は、ない。これからもない、のではないか、となると、知的社会に生きる人間の要請、に応えることは、できない。言うまでもなく、これが、ポストモダンの日本宗教の使命である。やれる人は、いないのか。      

 

 

 

 

 

 

 

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