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2018.06.06

杉山勝己と聖書(428)聖書はいかにして、信じられるのか(28)書く、と描く。と、読む、と。観る、とコーヒーと

 

 一息入れて。

 昨日は友人の画家が、赤羽で、グループ展を開催した初日。なので、行った。

 友人は、示現会の元会員、私は準会員だった。結婚する前、4、5年駒込美術学園の夜学の油絵科で、学んだ。日活を辞めて、父の経営する建築設計事務所に拾ってもらった。あまりにも自分のやることが見えないので、すぐ転職を考えたが、上手くゆかず。仕事を続けながら夜学で、夢中で絵を描いているうちに、好きな人ができて結婚することになり、千葉の北小金に家を借りて、新婚生活を始めた。

 その、すぐそばで、孤高の画家で、有名ではないが全く変わり者の、高島野十郎が、日夜孤独な画業に苦しんでいるとも知らず、新婚生活はいうまでもなく至って甘いものだった。枕元で、明け方ダンプが何台も大きな唸りを上げ、疾駆し通り過ぎる。という、経験はそこに住んで初めてわかったことである。普段、いたって静かで閑静な其の付近は、アジサイ寺と言われる本土寺に近く、其の頃は完全な田園地帯である。し、超有名な、マツモトキヨシはそこで発祥した、普通の薬屋だった。

 が、其のダンプのすぐ先に悲劇があった。野十郎と呼ばれるようになる人は、東京帝国大学水産学科の出身。まさに、内村鑑三と同じ学科の人で、示現会に一度出品し、大内田茂士さんが面倒を見ていた。大内田は当時、示現会の重鎮で大先輩。いい絵を描く人で、具象モダン系だ。要するに、野十郎のアトリエは、崩壊の危機に瀕していたのである。周辺が、ある大手の不動産会社に地上げされ、一心不乱に描いていた彼の自然の天国は、消えなんとしていた。それに、一人で。必死に抵抗する、一人の画家が生きていたとは、全く知らなかった。

 近所の銭湯に二人で行って、帰ってきてからキスなどをして、となるが、これ以上は、書けない。言うまでもないことである。「野十郎の炎」(多田茂治著/弦書房/2008年第三版)には、人はなぜ描くのか、とある。学歴を捨て、世におもねらず、一生独身を通し、清貧無欲、廃屋(注、これが私の借りた、新婚アパートの近くにあったもの)でひたすら描き続けた、孤高の画家の謎の生涯。が、本の表紙帯の文章になっている。

 今日は、これを読んで、哲学は少しお休みしよう。二度読みである。下は、高島野十郎自画像、ネットから。  

 

 

 

 

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