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2018.06.04

杉山勝己と聖書(426)聖書はいかにして、信じられるのか(26)キリスト教が今日の隆盛を見たのは、また失敗は。ローマ帝国の国教になったことが原因である、と書いてきた。が、その現実は、渡辺崋山によって、記録された。

 

 と、書くと、信じられないかもしれない。

 しかし、崋山が書いた「再稿西洋事情」には、明確にキリスト教の政教分離が伝えられている。から、国教になって1300年ほど経過し、今から200年ほど前には、キリスト教は国権(例としては、キリスト教以前のローマ帝国)と並ぶ地位を持っていた、ということがわかる。その、強大な宗教権は、今更ながらうっとおしい限りであるが、イエスの救済者としての高さを、阻害してやまない。と、私は思っている。神は、このような地上の権力など、いささかも必要がないのに、人間がそれをあたかも自分のもののように利用する、世界史の主要部分(歴史哲学)は。まさに、キリスト教の失敗である、と言わなければ、すまないものである。が、日本神道も、この度の戦争で国教化して(国家神道)、失敗している現実がある。

 国権における人間主義は、人間がこの世に存在する限り必要な制度であって、明治期アナキスト(無政府主義者)という思想(アナーキズム)があって、その向かう方向を理解できないが。ともあれ、それを代表する日本人は、大逆事件の幸徳秋水である、ということは日本史の事実なのであろう。何かと、興味ある問題が、多い事件である。

 ともあれ、崋山の書いたものを、現代語に訳した人はなく、情けない日本現代出版事情であるので。自分がここで、コツコツ少し短い文章を、現代文に直して、政教分離のヨーロッパ事情をご紹介して見たい。崋山のそれは、1815年(文化12年)に書かれたものであるし、新井白石の西洋紀聞は1709年あたりのシドッチ宣教師の尋問調書から、書かれているから。そこに、すでに、イエスの誕生は、シドッチが1709年前と供述しているので、新井と崋山の間には、100年ほどの時間の経過があることになる。

 が、シドッチ供述には、政教分離の現実は書かれていないから。そのあたりのヨーロッパ政治事情も、さぐれば、デリケートなキリスト教史、ならびに政治史になることは間違いのないことである。要するに、シドッチもザビエルも、批判された直後のキリスト教保守派(カトリック)の宣教師、だったということである。多分、ヨーロッパ政治は当時、宗教権であるカトリック優位権が、揺るがされていたのであろう。と、推定できる。

 そういった、いわばデリケートなことであるが、現代社会ではこの政教分離が確立されているはずが。妙に現代でも日本では、神道の政治的動きが目立っているのが、安倍政権の問題の本質にある。が、トランプ政権でも、これが福音主義などという団体によって、実は牛耳られている様子が見られ、政教分離は、必ずしも上手くいってはいないのが、現実ではないか。

 ともあれ、崋山は、しかし。この政教分離を、報告書に書くのである。それは、次回。    

 

 

 

 

 

 

 

 

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