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2018.06.15

杉山勝己と聖書(436)聖書はいかにして、信じられるのか(36)満州国を書く、武藤富男さんの論旨は明快で。さすが戦前の秀才は、格が違っている。が、さらに遡ってけさ、日本橋のお嬢様の夢を見た

 

 これなどは、満州映画の物語を、佐伯泰英さんに書いてもらい。宝田明さんが映画製作と監督をする、と言う夢の構想を、抱いたゆえんである。

 

  意外なのは、佐伯さんは日本大学芸術学部映画学科撮影コース(フイルム時代)の出身で、大学は江古田だから、親近感もある。し、佐伯さんが大学を卒業し、いざ就職、と言う時こそ映画黄金時代終焉の幕開けとなると言う、シナリオと。私が、明治学院大学を卒業し、その凋落の業界の中心とも言う位置にいた(映画史上)日活(ホテル部)に、就職したと言う。全くのアクシデントは、自分の中で長い間くすぶったこと、でもあったからでもある。

 別段深い意味は全くないが、TBSを受験して、その本番の筆記試験が東大の階段教室だったので。これは落ちると思ったら、その通りになっただけの話である。その上、佐伯さんは初めてのエッセイ(惜櫟荘だより、岩波書店)で、日本建築学会文化賞を得て。その本で、自分の小説の発端が、あのキリシタン大名大友宗麟である、とも書いているから。当然、クリスチャンの私は知っていて(建築設計業界にいたが)、心が動くのである。

 で、日本橋のおじょ様(むかしの)の夢を見た。

 のは、私の祖父が神田豊島町で、左官業を営んでいた、と言うことと。日本橋の鰹節屋のお嬢様との会話に、自然にそのあたりの話が出るので、いつも立ち話になるのである。豊島町というのは、今はそう呼ばれていない。佐伯さんの「居眠り磐音 江戸双紙」は、NHKドラマで知っていて、特段の思いを込めて観ていた。のは、言うまでもない。

 そのときは、佐伯さんという小説家を知らなかったが。今ではなにかと、氏のお住みになっている熱海の、佐伯邸(惜櫟荘、せきれきそう)の石垣の下までは、拝みにいったことは、すでに経験済みである。まさか、石畳が、あれほどのものとは、思わなかったし。熱海史を自然と知ることにもなり、うちの爺さんの左官屋の女房たる私の祖母は。熱海の鈴木という家からでたひとであると、知っているし。私の両親の新婚旅行が、お宮の松の熱海であるとも、知っているから。そこが玄玄たる、楽しい新婚の夜だとすれば、私の受胎は「そこ」だと、あたりをつけている話は、往来座の瀬戸さんと笑い話になっていた。で、瀬戸さんにすれば、私は熱海の人、なのである。し進んで、瀬戸さんの祖父こそ。明治学院のヘボン像を彫んだ、芸術家なのである、と。言う話になる。のである。

 その瀬戸さんの、のむみちさん、こそ、宝田明本を、編纂したひとなのである。が。はたして、この構想が、生きるか死ぬか、言うまでもわからないことであるが、武藤富男書く甘粕正彦は、圧巻で。その圧巻こそ、日本の戦争史の引き締め役であると、思うのは私ばかりではないと、思う。そこが、佐伯さんにご登場願いたい、私の構想の中心になっていて。きっと、明治学院大学にも在籍したことのある、東條英機氏のお孫さんも、喜ぶことであろうと、密かに思ってもいる。    

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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