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2018.07.17

杉山勝己と聖書(483)聖書はいかにして、信じられるのか(57)天使論は、如何に展開するのであるか(十九)天使論は、いよいよ永遠の生命問題に至り、それはわが師山永武雄に至った

 

 祖父ネットの最近の文脈から「永遠の生命」という、

 キリスト教の救済理論(神学)にいたったのは。昔、ある印象的な出来事に出会っていたからである。

 教会に通っていた若いある日(二十代)。それは1965年(昭和40年)9月5日なのであるが。当日は快晴で、要するに残暑の頃で。蝉の声が降る雨のごとく、という記憶がある。だいぶ薄れているが、よく考えてみると1965年はおかしな年月日で。明治学院大学を卒業し、映画会社日活に就職して一年が経過したのか。そこをやめて次の会社創元設計(そこで定年になった)に入社した頃か、はっきりしない。ほど、昔になった。

 その頃、白金教会に出席していたことは、確かだ。その辺りの出席は、かなり密度が上がっていた感じが残っている。から、多分勤務先の天城日活ホテル(映画部でなくホテル部にいた)を辞めて、東京にいた時ではないかと思える。そのころ、白金教会の山永牧師の説教を真面目にメモっていた。メモは、週報というごく粗末な礼拝案内書を使っていた。

 それが、元になって小冊子になるとは、メモっている当時思ってもみないことであった。

 その日牧師は、長途の旅(死)に出たのである。もちろん突然で、誰も予期や予知をしていない。説教壇から降段して、しばらくして突然師は心臓麻痺で亡くなられた。で、その日の説教も私がメモっていた、ので。それを中心に、四編の説教と教会員の感想文などが集められて出版の運びとなった。小冊子は私が発行委員長になり、青年会の名の下に出版された。発行日は昭和42年(1967年)3月12日。で、山永牧師の突然の死から、約二年が経過していた。

 その最後の説教が、「御子を信ずるものは永遠の生命をもつ」である。

 全く不思議なことであるが、師は今はウィキにある。実に驚くべきこと。昨日、ふとネットで調べてわかった。でお陰様で、そこからコピーを取りかつ、「山永武雄説教研究」を行いたいと思う。小冊子は今も、私の手元にある。

 

 (現在のウィキペディアから)

 山永 武雄(やまなが たけお、1903年〈明治35年〉7月25日 - 1965年〈昭和40年〉9月5日)は、日本基督教団の牧師。フェリス女学院院長。東京神学大学、明治学院などで教鞭をとる。日本基督教団の外にあって改革派教会を名乗る教会は、分派的少数派であると主張して日本キリスト改革派教会の離脱を非難した。日本キリスト教協議会(NCC)の『キリスト教大事典』(1963年)の「異端」等を執筆。異端の項目ではローマ教会が教皇制度によって一分派となり、彼らがプロテスタントを異端視することによって、ローマ教会が異端的になってしまったのであり、他を異端視することこそ異端的な精神であるとしている。

参考文献

1、小野静雄著『日本プロテスタント教会史』聖恵授産所出版部

2、『キリスト信仰の真理性/基督教的神信仰の特質』シュタンゲ著 長崎書店、1937年(昭和12年)

3、青年会誌「白金」日本基督教団白金教会青年会発行

 つまり、書く時期が来たのではないか、と思った。ウィキペディア執筆の人は、もちろん見ず知らずの人であるが、敬意を表する。次回からは、山永武雄説教研究を書くことにしたい。やがて、天使論にも達するのではないか。わからない。狭い狭い教会界を脱し、広い広い人間界の救済論になることを、心から願って。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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