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2018.07.01

杉山勝己と聖書(461)聖書はいかにして、信じられるのか(57)筒井友美展と天使論の展開(13)なんだか、よくわからないまま。本田俊平論にいたる、と。今朝の毎日新聞朝刊一面に、「ボスニア紛争の性暴力」が、出た。

 

 要するに、私の若い時代に、ボスニアヘルチェゴビナと言う呼び名で覚えた、時代紛争で。

 その発生は、複雑のようだが、1992年旧ユーゴスラヴィアからの、ボスニア独立宣言が発端のようだ。ボスニア人はイスラム教、クロアチア人はカトリック、セルビア人は正教、と言った宗教構造。らしい。それに火が着いたわけだ。

 今から思うと、これも皆、大ローマ帝国のキリスト教が、国教になってしまったことが、全ての悪の根源である。と、言って過言ではない。

 本間俊平の本「千古の響き」(協和書房/昭和18年刊行)などを読んでいると。日本のキリスト教は、本間俊平の思想の中で、言うまでもなく当時から国教ではない。ので、いたって高い精神性を発揮している。キリスト教が国家と決して結ばず、むしろ本質的に離反し、その内容を超えて。ただ単なる、高いイエスの精神性が強調されているに過ぎない、と思える。しかし、それは、太平洋戦争や大陸戦争、東南アジア戦争当時、日本国家という民族的高揚を刺激し、国家の方針に参画してはいないものの。イエスの救済論は、意外に多くの人の心を打ったようだ。

 当然イエスの愛は、すなわち神の愛は、戦争当事者たちの誰にも味方してはいない(哲学的結論として)。ので、本間の語りは、当時の国粋主義者の好戦的思想とは、いうまでもなく一線を画している。が、自体は、そんな簡単なものではない。国家は当事、大東亜共栄圏なるのを正面に掲げ、正義の戦争をしている、という思想と。本間のキリスト教的平和の思想とは、決して一致してはいない、ものの。その辺りの、本間の、敗戦後に受けた誤解は解けないまま。国家宗教ではもちろんなく、神学も当然存在しない、素朴な本間キリスト教は。明治学院大学の先輩である、三好明氏によって、書かれていたというわけである。

 本間俊平はむしろ、そのイエス的本音のところで、国家に離反しているが。本間の教説は、意外に国家的と受け取られ、特に国家から弾圧はされていない。つまり、ほっておかれたのであるが。それは、あくまでも本間の生真面目さを、戦時国家が容認していたからであろう。だから、東京帝大の講演が可能になったのであろう。これもキリスト教がらみの国家闘争の、一つの断面であるが。決してバルカン半島では、起こりえない現象なのであろう。

 ともあれ、キリスト教がイエス教として、決して国家とは結ばない時代の(イエス存命中の)。綺麗で素朴なイエス時代の、宗教的ノスタルジアを、十分に含んでいたに違いないないからであろう。と、思っている。が。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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