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2018.07.14

杉山勝己と聖書(480)聖書はいかにして、信じられるのか(57)天使論は、如何に展開するのであるか(十六)広域豪雨に、神や天使は介在したか、

 

 という問いは、広域と報道の精緻によって、一層増幅される。

 とても、天使論など読んではいられない状況である。書く方も、しらけて来るが、宗教がますます遺棄される次第、現象に直結している。のは、いうまでもない。そんな中、宗教というものが曲がりなりにも、人類に発祥したと思われるのがインドであろう。と感じる。太古では、自然力は神力なのであって、その中に短い人間生命が怯えていたのであろう。これが、地球上のどの地域でもあり得る、一般論であることは間違いがない。の、ではないか。

 その中から、この自然界のあり方を見て神を感じ、神にお願いするという、当たり前の作法が宗教なのであろう。それは世界各地で、人間に今も変わるわけではない。が、今は神を感じるというより、神を感じないという方向を取れるのは、唯物論という無神論の成果であろう。それは、治山治水の政治的油断に過ぎない。と、いう解釈をして、国土省昔の建設省の仕事とした方が、正確かもしれない。

 神は、この広域災害に関わったのであるか。という、設問は、意地悪ではない。この災害神意説、そう簡単に答えができるわけはないし、当然不可能であるが、ついそう問いたくなるのは、神を信じているからであろう。毎回、こういう設問に悩まされるが、今回も全く同じ性格の問いが頭をよぎるのは、私ばかりではないであろう。神を信じるものの、泣き所である。

 で、神を信じない人が、多くなる一方で、神を信じるものは、ヨーガに頼り、とりもなおさずまずヨーガ的静寂を実行して、神と合一したいできる、としたのがオームの基本的信仰なのでろう。それが、自分はともかく、個人的にはあまりにもうまくいく(と思えたので)ので、それを無視する人々を軽蔑的に扱い、ついに馬鹿どもを殺戮するという確信に至ったのであろう。余計をしたわけであるから、当然当人が死刑になるわけであるが、建設省の治山治水の破綻も、人間的ヨーガの作法も、所詮人を恨んでは、元も子もないのである。

 ダメな時は、さらに努力をして、素直に再構築するのは、自然界が我々に教える、人間論の基本と言って良いであろう。もちろん、災害地の生活再興の当事者は、こんな御託を並べられても読む暇もなく、当然今日も汗を流して、不衛生と熱中症にやられるのであるが。注意して、体力の限界をよく見極めて、ゆっくりと急いで、自然災害と向き合っていただいて。心から災害地に対し、相変わらず再び起こさないなどと、ご託宣をのたもう政治家の言葉など、あてにしないで。いうまでもなく自分で後片付けをしなければ、ならないのは、言われなくてもそうするに違いない。

 だから、神が介在したかどうかは、問わずに黙々と神を信じて、再構築する方が、力が出るというものであろう。ゆめゆめ疑うなかれとは、よく言ったものである。それだけが、人間のいささかの力量なのであろう。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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