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2018.08.10

杉山勝己と聖書(518)聖書はいかにして、信じられるのか(80)永遠の生命論の研究(二十一)絶望と希望

 

 それも大絶望と大希望とは、歳を取りたくないものである。

 この歳で、この大問題にぶつかったのは、なんなのであるか。

 読まれている方も、少しはいるだろう祖父ネットも、いよいよ危なくなってきたか、とか、すげーさすが、というのか。ここにきたのである。その中で永遠という問題は、比較すると意外と簡単で。それは、ともあれ哲学的ではなく宗教的であるからである。若い時は、宗教的というのはなかなか理解ができないもので、ある。が、人生も終わりに近づくとメリットとして、宗教的にならざるを得ない。これは人類の弊であって、本当は若い時に宗教的であることが望ましいのであるが、それは実体としての壮年期には無理な話である。要は絶望を乗り越えていく青春や壮年期には、わからなかったことが、老年期にわかるというのは、よくできた人生論である。

 簡単にいえば、それしか残っていない。壮年期には、様々な様態が眼前を彩るから、あっちにほいこっちにほい、で目が回るほど絶望的である。だから、それを乗り越えようと必死に生きているうちに、老年が現れるのである。ここからの宗教は簡単で、要するにやるしか仕方がないのである。それが、普通絶望を乗り切った後の、悟りの心境なのであろうかと思っていると、本当の絶望が顔を出した、仕方がない。それを大絶望と私は命名した。

 なんと、一人の精神病者が地球を破壊するという趣味レーッションは、穏やかではない。

 が、普通このような話は与太話なのであるが、科学技術の発達が、ますますスマホとなると、バカも膨大になってどこに精神の毀損した人間がいるのやらも、読んでもわからない時代、となった。どうみても、我々が若い時にやった色々失敗は、今はほとんど通用しないようだ。個人名の秘匿などはほとんどやらなかったが(名を名乗れ、おぬし卑怯、が常識時代)、その冴えたるもので、一体今は誰が誰やら。親しいのやら疎遠やら、生きているのかさえ定かならない。時代であるが、老人になると、過去の顔など、それが本当のものであるか、嘘話なのか。何しろプライバシーが隠されてしまうので、早々わかるものではない、つまり誰も信じられない。老人になってみるとわかるのであるが、老人ヅラで、昔は総理大臣だったなどといえば、今は一発でそっぽを向かれてしまう。要は冗談であるが、プライバシーの価値は不真実(確かめようもなく)として凋落している。

 個人の大切な属性は不平等発言となって、しまうこともあり。うっかりできない。で、東大出身者は黙りこくってしまう。レスリングのコーチが、自分の功績を誇って、国民栄誉賞をとった自分が成長させた(と、思っている)人物に少し生意気をいえば、もはやクビになる時代である。コーチはコーチ、金をもらっているサラリーマンにすぎないのか。昔のように、「コーチのおかげで国民栄誉賞をいただけました」などと、一生言ってもらえるものではない。が、多分、このコーチ生徒の肉体を要求したのではないか。と、勘ぐっている。

 それほど、人情が薄くなったわけではなく、昔だったら我慢した女性たちも、もはや黙ってはいない時代なのである。要は、人間として凛として屹立するしか方法はない。という、くどくど話の他に、絶望を書くのは辛い。のであるが、たった一人のボタン掌握者(国の権力者)の精神病が地球を一瞬に破壊するという話の方が、セクハラ問題の真の実態より深刻なことは、いうまでもない。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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