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2018.08.08

杉山勝己と聖書(512)聖書はいかにして、信じられるのか(68)永遠の生命論の研究(十五)バルトとブルンナーの生命の永遠記述について

 

 自分の絵画を、人生最後の額縁に設置する準備は、終わった(前回書いた)。

 その間、嬉しいことがあって。意外にも明治の大事件大逆事件にも至った、のは僥倖(偶然の幸運)である。

 言うまでもないが、永遠の生命というような。実に万人に興味ある問題を書きながら、明治の大事件「思想の永遠」、の社会問題を掘り起こせたのは、すばらしい。いうまでもなく、社会問題以上に、個人生命は貴重極まる。もので、自分以外に自分の命を持っているものは、いない。生命バンク技術というものは、今の所ない。それぞれに自己生命があって、それぞれに生命が保たれている。その生命は、「個性という永遠の可能性」の中に、これ以上の貴重なものはこの世に存在しないのである。

 で、あるがゆえに。永遠の生命問題に興味のない人は一人もいない。この問題を取り上げる祖父ネットは、要するに高齢ブロガーにすぎない。故に、バルトとブルンナーという神学者に依拠している。と、明確にしておきたい。がそれが、私がこの二人を明確に理解しているという意味ではない。キリスト教的にも特殊化が起こるものの、一般出版社も扱う神学者で社会にも十分理解されている。

 とは言え、それはキリスト教神学でしかない。が、その神学が様々な検証にさらされる必要は当然ある。大いに、それは批判的に検証されるべきことで、その検証すら最終的には個人が実行することである。何しろ、永遠の生命を諦めてしまっては、人生に本当の生きがいはない。「幸福」を考える宗教もあるようであるが、それはあくまでもこの世のこと。「永遠」に関しては各自の努力で、厄介な勉強をして、一歩一歩人生を送ると良いと思う。日本の教会は、たかが150年ほどの伝統しか持たず、所詮そこから「永遠」などというものを汲み取るのは無理であろう。現在的ブロガーという記述方法が、このようなテーマ意識を醸成しうるのであるが、私も大した記述ができるとは思っていない。ただ、普遍万人、のためであると大見得を切っておく。ブログという、テクノロジーのなせる技である。が、言うまでもなくスマホでも簡単に読めるし。ね。

 生命が永遠であることは、キリスト教では当然である。が、それを論理化できる人は、そんなにいるものではない。永遠であるから、実証の方法は皆無、要するに無い。それにもかかわらず、現代人にも過ぎ去った古代人にも、人間には最も大切なものは永遠の生命でる、と言って良いと思う。私などもわざわざ、ここまで書けるのは偶然で。がそれも、贅沢な戦後の明治学院教育で、図らずもブルンナーとバルトという「永遠」に関わる神学者に恵まれたからでる。まことに申し訳ない、もったいないことである。が、仕方がないお許しいただきたいので、少しおすそ分けをしたいのである。

 で、あるが、この永遠の生命問題は、ブルンナーとバルトとではかなり違っている。バルトは、永遠を真正面から扱っていない。氏は、神との関係性を分析し、「永遠の神」の中に存在する人間の永遠、を考えている。し、ブルンナーは真正面からその問題を、人間の中にも取り上げた。のは、「永遠」(1957年昭和32年/新教出版社刊行)と言うタイトルの本を出版したことからも理解できる。バルトには、そういったタイトルの本はないと思う。なお、興味のある方は、二人のことはウィキにある。ので、読まれるといいと思う。が、わからないと、予想している。二人は、違う道から登ったのであるが、到達点は同じものである。

 これでは話がややこしいので、永遠を普遍に説明するにはほど遠いのであるが。神学とは、このように人を引き離す性格があり、普通の人には馴染まないことは明らかである、が。人は皆結局のところ各自の「永遠」問題に、本当は興味があるのである。それが、スマホで少しは簡便になっている。いつでも、どこでも「永遠」を、「読める」。それこそブロガーとしては、これほど嬉しいことは他にないのである。いつでも、どこでも、どうぞお読みください。少しはわかるかもしれません。わかるように、書いて見たいものであるが、無理でしょう。ね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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